11 連行され説教部屋へ
「――――」
シャーロットは眩暈を覚えた。
イタチをぶら下げた彼女の悪魔は、目を覆うような惨状を背後にして、疲れた様子ながらも誇らしげに目を細めている。
「お……お前……」
――いい知らせと悪い知らせがある、と、耳許で誰かが囁くのが聞こえた気がした。
きっと本の読みすぎだろう。
まず、いい知らせ。
――マルコシアスは命令どおり、見事にシャーロットを守ってのけた。
しかもこの様子からして、かなりの無理を押したことに間違いはない。
主人として、シャーロットは目いっぱいにかれを犒い、褒め称え、感謝しなければならない。
そして、悪い知らせ。
シャーロットは覚えずふらつきながら、現状を認識した。
――許可を得ずに魔神を召喚したということは、もはや隠しようがない。
学院に対しては、魔神を召喚したことについてはいくらでも申し開きのしようもあるが、この破壊行為までシャーロットの責任を問われてしまうと、下手をすると退学になりかねない。
そして何より、この騒ぎを起こした張本人、おそらくはシャーロットの身柄が目当てであろう誰か――その人物にしても、この騒ぎを見ていれば(間違いなく見ていただろうが)、シャーロットが自衛のために魔神を召喚したことは察しただろう。
(下手したら、お互いの悪魔どうしで全面戦争になりそう……ああ、でも、マルコシアスがぶら下げてるあれが、あちらにとっても切り札で、召喚している最後の悪魔だった可能性もあるかしら……どうかそうあってほしい……)
もはや気が遠くなろうとしたシャーロットだったが、あきらかに普段に比べて精彩を欠いた顔色のマルコシアスが、期待が外れたように眉を寄せるのを見て、あわてて前へ駆け出した。
駆け出してしまってから、今まさに自分が、白を切れたはずの最後の一線を勢いよく突破したことに気づいたが、身体が動いたことはもう仕方がない。
ざっ、と、視線に音がともなうほどの勢いで、その場の、そして本棟の四階以上(三階までの高さにいた学生や教授たちは、この近くの区画からは避難していたようだった)の窓から顔を突き出す人々の目が、駆け出したシャーロットに集まった。
視線に熱が籠もっていれば、シャーロットはその場で黒焦げになっているところだった。
さしものシャーロットも心が折れそうになったが、ひしゃげかけたその心を、反対側からさらにどつくようにして、その場の惨状がいよいよはっきりと視界いっぱいに広がった。
そこにいたってシャーロットは、心を折ってはいられないと、むしろしゃんとしてしまった。
地面が割れ、窓が砕け、壁に亀裂が走ったこの本棟の一画。
辺りには砕けた硝子や壁の破片が散乱している。
シャーロットは目を疑ってぽかんと口を開けたが、なんとか根性をもって表情を改めた。
「よくやったわ」
マルコシアスのそばで足を止めて、シャーロットはひそめた声で褒め称えた。
マルコシアスは表情を変えなかったが、金色の瞳が光源によらずにきらりときらめいた。
シャーロットは、かれがぶら下げるイタチから心持ち距離を置くようにしつつも、さらに力を籠めて断言した。
「本当によくやってくれたわ。ありがとう――守ってくれたのね」
マルコシアスがぶら下げるイタチが、きらっと光って見えた。
シャーロットは飛び上がったが、なんということはなかった――イタチの周りを、かすかにきらめいて見える青白い光の網が覆い始めているのだ。
〈身代わりの契約〉がないにも関わらず、主人であるシャーロットを守ろうというその心配りにシャーロットは感じ入った――もちろん、マルコシアスが、このイタチがふたたび暴れ出せば面倒だと判断しただけであるという方が、よほど蓋然性のある話だ分かってはいたが。
「私の少ない報酬で、よくやってくれたわ」
マルコシアスは堪えかねた様子で、得意そうににやっと笑った。
まさに十四歳の少年のような幼さで。
「だろう?
――レディ、たぶんあんたに伝えた方がいいことがもう一つあるんだけど……」
「マルコシアス?」
そのとき、聞き覚えのある可愛らしい声がした。
マルコシアスがそちらを振り返ったので、かれの言葉は半端に途切れたままになった。
「――ストラス」
薄いヴェールを重ねたようなふわふわしたドレスをなびかせて、シャーロットも見覚えのある薄桃色の髪のストラスが、群れ成す数十人の学生のあいだをかろやかに抜けて――そう、文字通り突き抜けて――、こちらへ走ってきた。
ストラスに突き抜けられた学生たちが、一様に嫌そうに顔をしかめ、その後ろから、召喚主であるオリヴァーが、学生たちに謝りながら小走りで続いてくる。
自分が召喚した悪魔がまずいことをするのが怖いだけだというのは表情から分かった。
彼は人前に出るのを好む性分ではないのだ。
「ストラス、戻れ――戻れってば。〈退去〉を唱えてほしいのか、まったく」
ストラスの方は、背後の主の苦労も知らぬげに、人混みを抜けてひょいひょいとマルコシアスの目の前まで走ってくると、ぱちぱちとラズベリー色の大きな瞳を瞬かせて、わざとらしく辺りをぐるりと見渡した。
「あらぁ、派手にやったわねぇ」
「まあね」
マルコシアスは、イタチを捉まえていない方の手で眉間を押さえた。
かなり疲れているようで、シャーロットははらはらした。
マルコシアスが疲労をにじませているところを、彼女ははじめて目の当たりにしたのだ。
「エム――」
ぴくっ、と、光の網の中でイタチが動いた。
すかさず、マルコシアスがその首に回した指に力を籠めたようだった。
ストラスは興味深そうに光の網越しのイタチを覗き込み、そして一転して不安そうな顔を見せた。
「……あら? だあれ、これ?」
マルコシアスが、軽い手つきで光の網ごとイタチを持ち上げる。
イタチがキィキィと小さな声を出したのが聞こえた。
「ああ、あんたは会ったことなかったのか。良かったね、こいつ、弱い者いじめが大好きだから、会ったらあんたもいじめられてたに違いないよ。
――こいつはグラシャ=ラボラス」
ストラスが、ただでさえ大きな瞳をよりいっそう、こぼれんばかりに大きく見開いた。
「はあ?」
シャーロットも驚いた。
まさか、マルコシアスとそうまで序列の開きがある相手だとは思っていなかったのだ。
そのとき、ようよう人垣を抜け、オリヴァーが彼らのそばに辿り着いた。
時代遅れにもほどがある毛羽立ったマントが肩からずれてしまっており、それを直しながら、オリヴァーはうんざりした様子でストラスの肩を掴む。
「おい、ストラス、戻るぞ。――俺は嫌だからな、こんなところに突っ立って、この事態の責任があるなんて濡れ衣を着せられるのは」
彼がちらっとシャーロットを見て、あわれむように溜息を吐いた。
「――ベイリー。気をつけろと言っただろう。調子に乗るからこんなことになるんだ。
悪魔を野放しにしてこの騒ぎとは、さすがに軽い処分では済まないぞ」
シャーロットはむかっとした。
自分でも驚いたことに、魔術師としての技量をうんぬんされて腹が立ったのではなかった。
「お言葉ですけど、オリヴァーさん。マルコシアスは命令に対してはいつも誠実ですよ。これだって正当防衛です。――ね?」
シャーロットはマルコシアスを振り返った。
マルコシアスはまさに、光の網越しにイタチを観察しながら、かれを上へ下へと振り回しているところだった。
シャーロットの気のせいでなければ、イタチの口から洩れるキィキィという声が、徐々に大きくなっている。
「マルコシアス――エム?」
マルコシアスは、はっとした様子でシャーロットに視線を移した。
そんなかれと囚われのイタチを見比べて、ストラスが納得できないという様子で腕を組んでいる。
「聞いてなかった。なにかな、レディ?」
「これ、正当防衛よね?」
繰り返して訊きながら、シャーロットはふと、自分の考えがくるりと変わっていこうとするのを感じ取った。
――この事態を隠蔽せねばならないと、彼女も咄嗟に考えたが、――その必要はないのでは?
(だって、この事態が表沙汰になって、困るのは私じゃない……というか、私も困るけど、それ以上に――)
マルコシアスはぱちくりと瞬きしている。
かれもシャーロットの事情は知っているから、どこまで話していいものか迷っているのかもしれない――などと思い、シャーロットは胸を打たれるような心地を覚えた。
「本当にありがとう、守ってくれたのよね?」
マルコシアスはイタチを見下ろし、それからシャーロットを見て、あいまいに頷いた。
「あんたを。――えーっと、うん、そうだね、半分は」
「半分?」
シャーロットは思わず声を大きくした。
教授たちが駆けつけてきて、学生たちを本棟の中へ避難させようとし始めた。
離れて、離れて、と、複数人の声が聞こえてくる。
鈴なりになった数十人の学生たちが、一種の非日常が終わったことに不平の声を上げているが、教授たちの声はうんざりしていた。
「中に戻って!」
オリヴァーが、ちらちらとそちらを気にする風情を見せる。
犯行現場である破壊の痕跡のど真ん中に立っていることで、どうやら生きた心地もしないらしい。
とはいえ、講義の記録を当たれば、ストラスの召喚主が彼であることはものの数分で判明することであり、ストラスがここにいる限り、オリヴァーだけが退避しても何の意味もなかった。
彼はいわば、自分のものであるとあきらかに印がついたボールがころころと犯行現場に転がっていってしまったがために、やむなく犯行現場に足を踏み入れた第三者だった。
今やその全身が、この場から立ち去りたくてうずうずしている。
「ストラス、おい、戻るぞ」
けなげな主人の呼びかけにも、ストラスはつんとしたまま応じなかった。
どうやらご機嫌斜めらしい。
一方のシャーロットは、猛然たる勢いで彼女の悪魔の腕を掴んでいた。
「半分ってどういうこと?」
「言ったことなかったっけ。こいつ、ちょっと前に僕をひどい目に遭わせてるんだよね。仕返しがしたいと思ってたところだったんだ。
だから、半分くらいは個人的な恨みだった」
シャーロットは軽蔑の眼差しでマルコシアスを睨んだ。
「今あげた、お前への感謝を返してくれる?」
マルコシアスは悪びれず、疲れた様子ながらも愛想よく微笑んだ。
「もうもらっちゃった。――それに、半分はあんたのためだったよ。
ほら、僕はあんたのことが好きだから」
オリヴァーが振り返って、下品なことを聞いたように顔を顰めた。
「ベイリー」
たしなめるように呼ばれて、シャーロットも溜息を吐いた。
そして、徐々に人が減っていく周囲の様子を察知して、マルコシアスの腕を引いた――
「ねえ、とにかく、ここからちょっと離れましょう」
――そして、ぎょっとした。
腕を引かれるがままに、マルコシアスがよろめいたからだ。
咄嗟に身体を使ってかれを支えつつ、シャーロットはほとんど恐怖に近いものを覚えた。
「エム? どうしたの?」
「疲れた……」
マルコシアスがつぶやいて、空いている手で顔をぬぐった。
「あんなに色んな姿を取ったのは久しぶりなんだよ。――なんだよ、ロッテ。僕の頑張りを見てくれてなかったの?」
「お前の頑張りを見られる位置に到着するまでに、私も頑張ったのよ。結果を受け取りました。たいへんよくやってくれました。――これでいいでしょ?」
マルコシアスは笑い声を立てた。
オリヴァーがあきらかに苛立っている。
「ベイリー」
シャーロットも慌てはじめた。
「早いところここから離れて、エムを休ませなきゃ。本当に頑張ってくれたのね。
――それで、さっき言いかけてたこと、なに?」
マルコシアスは口を開いたが、そのとき、鞭のように飛んできた声があった。
「ベイリー! ゴドウィン!!
――他の二人は悪魔だな。話を聞くからついて来なさい!」
老教授の声は怒りにわなないている。
「――見つかったか」
シャーロットは顔を顰め、マルコシアスの腕を引いた。
「とりあえず、逆らわずについて行きましょう。もちろん退学になるのは困るけれど、そこはもう、なんとか言い訳を考えるわ。
それに、考えたんだけど、この事態が表沙汰になって困るのって、私だけじゃないでしょ? 私を襲ってきた方だって、お前なら分かると思うけど、私にはなんの注目も集まってない方が都合がいいわけじゃない?」
ずんずん近づいて来る老教授をちらりと見て、マルコシアスは肩を竦めた。
「仰せのとおりに」
「もちろん――」
シャーロットは声をひそめて、心もちマルコシアスの方に身を寄せた。
オリヴァーは完全に老教授に向き直って言い訳をまくし立てる準備に入っているので、シャーロットの言葉を聞かれるおそれはないだろうが、用心に越したことはない。
「私が教授に騒ぎ立てて、この騒動が議事堂にまで伝わっちゃうんじゃないかって、かれの主人――」
シャーロットが「かれ」と示したのは、むろんのことグラシャ=ラボラスだった。
「――かれの主人がそう思って、ワルターさんにしたような乱暴なことをすると困るけれど、さすがに学院中の人間にそんなことをしてしまえば、私が騒ぐよりも確実に議事堂に知らせがいくでしょ。
だから、よっぽどの馬鹿じゃない限り、そんなことはしないでしょう」
マルコシアスは微笑に似た表情を唇に昇らせた。
「気をつけてね、レディ。
僕は馬鹿には仕えない主義だけど、グラシャ=ラボラスは違うから」
シャーロットは胸にしこりのように不安が固まるのを感じたが、それを察知したらしいマルコシアスが、なだめるように低い声で続けた。
「もちろん、レディ、ご命令があれば、ぴんぴんしている僕の精霊たちに、あんたがご執心のこの場所を見守らせてもいい――」
「お願い」
シャーロットは囁いた。
マルコシアスが頷いて、周囲を見渡すような仕草をする。
シャーロットはゆっくりと息を吐き、いよいよ烈火のごとくに怒りながら突っ込んでくる老教授を、持て余すような気持ちで眺めた。
「呪文基礎」のウィクリフ教授だ。
オリヴァーは言い訳の言葉の無駄を悟って、がっくりとうなだれたところだった。
――魔神の召喚に成功した学生は多くはない。
ここにいる時点で、問答無用でオリヴァーが容疑者に仕立て上げられることは、火を見るよりもあきらかなことだった。
状況を出来るかぎりで俯瞰して、シャーロットは身勝手にもひとつ頷いた。
「ちゃんと考えてみると、別に騒ぎになっても良かったんだわ――」
「俺はぜんぜん良くない」
オリヴァーがおのれの髪を鷲掴んで、悲痛な声を上げた。
「なんでこうなるんだ。俺は何の関係もないぞ。
くそ、親切にしてやったと思ったらこれだ――」
「まあまあ」
シャーロットは半笑いで彼を宥めた。
「オリヴァーさんは何の関係もなかったって、私がちゃんと証言しますよ」
「――ねえ、もう、どうでもいいんだけど」
ストラスが腕を組んだまま、不機嫌に言った。
「とりあえず、そのかれがグラシャ=ラボラスだっていうとんでもない嘘を、いつになったら撤回してくれるの、マルコシアス?」
▷○◁
「だって、有り得ないじゃない」
と、ストラスは不機嫌に言いつのった。
処は、二人の人間と二人の悪魔が連行された、本棟内にある管理人の事務室――そのそばにある、もとは掃除用具置き場だったのではないかと疑われる、狭い部屋だった。
小さな丸テーブルとがたつく椅子が三脚置いてあり、ぱっと見には応接のための部屋にも見えなくはないが、小さな丸い明かり取りの他には窓もなく、全体的に薄汚れているために、ここが説教のための部屋だということはよく分かる。
老教授は二人の学生とその学生が召喚した悪魔をここに放り込むと、「しばらくここで待つように」と言い置いて、憤然と去っていった。
そのうちに学院長がお出ましになるだろうことを察知して、オリヴァーは深くうなだれた。
シャーロットは、まず椅子をマルコシアスに勧め、かれが遠慮なくそれに座って、丸テーブルの上に光の網に覆われたイタチを投げ出すのを見ていた。
イタチはキィキィと鳴いたものの、目に見えて暴れる様子はない。
老教授であってもイタチの正体に気づいた様子はなく、それはすなわち、イタチの正体が高位の魔神であることの証左だった。
そうしているあいだに、残り二脚の椅子を、怒り心頭に発した(まあ、当然である)オリヴァーと、不機嫌に腕と脚を組むストラスに占領されてしまった。
そのためシャーロットだけが立ちぼうけである。
マルコシアスが冗談めかした態度で、彼女に自分の膝を示して、「座る?」と尋ねてきたが、さすがの彼女も遠慮した。
そして冒頭の一言である。
ストラスは、つくりものの美しい指先で、丸テーブルの上のイタチを腹立たしげに示している。
「有り得ないわ。本当にグラシャ=ラボラスなら、私たちより十以上も序列が上なのよ。さすがに十も序列が開いた相手、一人で負かせるもんですか」
マルコシアスはおだやかに笑って、手を伸ばしてシャーロットの手を握った。
まるで、気に入りのおもちゃを手に取るような仕草だった。
「そうだね。雪辱の執念ってのはすごいらしいね」
「とぼけないでよ」
ストラスが椅子に座ったままで、床を靴裏でどんと叩いた。
それに反応して、かの女に仕える精霊たちが、せっせと主人の不機嫌を伝えるべく、狭い部屋に不穏な風を吹かせていく。
「やめろ、ストラス」
オリヴァーがつぶやいた。
ストラスは「べぇっ」と彼に向かって舌を出したが、不穏な風は収まった。
ストラスはラズベリー色の瞳で、まじまじとマルコシアスを観察した。
いらいらと爪を弾くたびに、その指先で色とりどりの火花が散っている。赤、緑、金。
「有り得ないわ……どんな手品を使ったのよ。モラクスに手伝ってもらったの?」
モラクスは序列二十一番の魔神である。
なぜその名前が出てきたのか分からず、シャーロットは思わず首を傾げた。
そんな彼女をちらりと見て、マルコシアスが苦笑する。
「グラシャ=ラボラスに対しては、モラクスは足手まといだろうね。
――レディ・ロッテ、あんたにはあとで説明してあげるよ」
「説明しないでよ、お馬鹿さんね」
ストラスが神経質に怒鳴って、眉間にしわを寄せた。
イタチはぐったりと伸びたままだ。
光の網はちらちらときらめいている。
「本当に有り得ないわ。――もし、そのかれが本当にグラシャ=ラボラスだっていうなら、マルコシアスあなた、私の知らないうちにどんな報酬を受け取ったっていうのよ。
そこまで力をつけさせるものなんて限られてるわ、それこそ、いつぞやアガレスが食べちゃった二千人の人間の軍勢とか、『神の瞳』とか――」
「――――」
意地にかけて、シャーロットは表情を変えなかった。
マルコシアスは肩を竦めて、シャーロットがかれの忠誠に篤く感動したことに、あっさりととぼけてみせた。
「そんなものをくれる魔術師がいるなら、僕はこのレディを売ってもいいけどね」
「本当に?」
ストラスは疑い深く尋ねて、マルコシアスの全身を、すばやく点検するように眺め渡した。
「ねえ――最近、どんなお仕事を受けてたのか教えてくれてないわね?」
マルコシアスは声を上げて笑って、ふいにシャーロットをひっぱり寄せた。
「僕の仕事? この子のお守りだ。
人間の軍勢には久しくお目にかかっていないね」
「はいはい」
シャーロットはなんとか気のない様子を保ちつつ、話題を逸らせねばならないと決意した。
ちらりとオリヴァーを見たが、彼は自分のこの先の運命を想像するのに忙しい様子で、椅子に腰かけ、膝の上で両手の指を組み合わせ、それをじっと観察している。
どうやら、悪魔たちのやりとりには微塵も興味がないようだった。
彼が神経を集中させているのは、今にも聞こえてくるかもしれない、学院長がこの部屋の外の廊下を踏む靴音に対してだけだ。
シャーロットはマルコシアスを横目で見て、無邪気な風をよそおって首を傾げた。
「エム、かりにお前が、人間二千人を食べちゃったり、その『神の瞳』をもらったとして――」
マルコシアスはウインクした。
「『神の瞳』を知ってるの? よく勉強してるね」
「どんな基礎的な本にも書いてある、すっごく有名な遺物です。
――ねえ、で、それをもらったとして、お前は強くなるんでしょ?」
マルコシアスは謎めいた微笑を浮かべた。
「そうだね」
「それでも序列って変わらないの?」
マルコシアスは少し考えたようだった。
「レディ、機会があれば、少し面白い話をしてあげよう――序列なんてものは所詮、あんたたち人間の側が、僕たちそれぞれの名前に振ったものだよ。でも、実力順だったことに違いはない。
それで、そうだねぇ、かりに僕が『神の瞳』をいただく光栄に浴したとするじゃないか? そうすると――」
「――あら不思議、私たち悪魔だって仲間内で仲良くなっちゃう」
ストラスが不機嫌な表情のまま、口調だけはおどけて言った。
「それこそ目の色を変えて、徒党を組んでマルコシアスを追いかけ回すわ。
――いいこと、お嬢さん。『神の瞳』を得て強くなった魔神はいるけれど、それがあなたたち人間の側に知れ渡って序列が書き換えられる前にね――大抵の場合――『神の瞳』を持っているそいつは叩きのめされて、しばらく人間の前に顔を出せなくなるのよ。それが通例なの」
シャーロットは思わず、「大丈夫なの?」とマルコシアスを振り返りそうになった。
とはいえむろん、それを堪えて無邪気な顔で、「へえ、そうなんだ」と言ってのけたわけだが。
内心で彼女は冷や汗をびっしょりとかいている。
「じゃあ、『神の瞳』なんて無い方がいいじゃない」
「持ってることをひけらかさなきゃいいだけの話だよ。僕なら欲しいね」
マルコシアスがあっさりと言って、ちらっとストラスを見た。
「僕は、最後にウヴァルが『神の瞳』にありついたってところまでしか知らないんだが。あいつからぶんどったあと、だれに渡った?」
「だれにも渡ってないわ。だれかがへまして、人間の手に渡ったって話。
――ウヴァル、ああ、かわいそうに。私、かれのことけっこう好きだったのよ。かれ、そろそろ起きてくるかしら」
「まあ、百年くらい経つしね。そろそろじゃない? ――えーっと、まあ、目を覚まして自分の領域が様変わりしているのを見て、深く悲しむことになるとは思うけどね」
「起きてきたら、そのときのことをちゃんと訊かなきゃ。起き抜けはいい好機よ」
シャーロットはしばらく唇を引き結んでいた。
そしてやがて、断固として両手を打ち合わせた。
この話題は心臓に悪い――そして、やるべきこともある。
「――分かったわ。私のささやかな好奇心は満足しました。それで、本題よ」
オリヴァーが、ちらりと不思議そうにシャーロットを見た。
彼にとっての本題は、いつやって来るとも分からない学院長からの叱責と、そのあとの処罰であるのだからさもありなん。
シャーロットはきっぱりと言った。
「学院長がお出ましになる前に、この悪魔に、かれの召喚主について訊きなさい。エム、命令よ」
これにはオリヴァーも、やや前のめりになった。
何はともあれ騒動を起こした魔神の主人、正体が知れれば自分の身の潔白も主張しやすくなると思ったのだろう。
マルコシアスは溜息を吐いた。
「疲れてるっていうのに、人遣いが荒いな、レディ」
とはいえ、マルコシアスは立ち上がった。
そして、丸テーブルの上でぐったりと伸びたイタチに向かって、右手の人差し指をまっすぐに向けた。
「――休憩はそこまでだ。起きろ」
ちらちらときらめく青白い光の網の中で、ぐったりしていたイタチが身動きした。
ぱち、と、真円を描く薄青い瞳が開く。
ややあって、低い声が悪態をついた。
「――なんの手妻だ、マルコシアス」
「失礼なことを言うね」
マルコシアスは疲れた様子ながらもそう言って、丸テーブルの、イタチが横たわっているすぐそばをこつこつと叩いた。
そうしているあいだに楽しくなってきたらしく、マルコシアスは加害の楽しみがいっぱいに詰まった微笑に口許をほころばせた。
「正直に、僕が格下だから油断してたらしっぺ返しを喰らって、今とてもつらいです、って言えよ。
そうしたら僕も加減してやるよ」
イタチが全身に力を籠めたが、光の網はしなったものの持ち堪えた。
やがてイタチは諦めたように目を閉じて、ふたたびぐったりと身体を投げ出した。
イタチはさらなる悪態をついたが、かなり古い言い回しだったので、シャーロットにはその意味が分からなかった。
マルコシアスは椅子に座り直して、脚を組んだ。
「なあ、あんた、あんたの口から名乗ってくれない?
そこにいる僕の妹分が、僕に負けたあんたのことを、とても序列二十五番とは思えないって駄々をこねるんだ」
「だれが妹分よ」
ストラスが痛烈に舌打ちした。
グラシャ=ラボラスの方も、熱心な様子ではなかった。
「あまり不名誉な噂の種を撒いた上で、この場から去りたくはないな」
「大丈夫、あんたの目が覚めるとすれば、それはみんながあんたに関する噂のことを忘れたあとさ」
マルコシアスは請け合って、指を鳴らした。
「おやすみの前に、二つだけ言っておこう。
まず一つめ、致命の一撃ってのは気持ちのいいものじゃないよ。喰らった瞬間はとても痛いし、目が覚めるまで気持ちが悪いままだ、保証しよう。
――で、二つめ」
マルコシアスは行儀よく微笑んでみせた。
「あんたの主人が誰かってことを、僕のご主人様がいたく気にされていてね。
――さあ、グラシャ=ラボラス。僕のレディにお答えしろ」




