10 二十五番と三十五番
ずぶずぶ、と身体が沈む。
その巨躯は、たとえるならば深紅と白の混じり合った、奇妙な毛色の大きな犬だ。
軍用犬よりも牧羊犬に近い見た目。
ただし、明確に違うのはその顔面だった。
きらきらと薄青い大きな真円の双眸が開く顔面は、犬というには不自然だった。
そしてその背中から、一対の巨大な黒い翼が生えており、明確にかれを悪魔であると知らしめている。
その首に、赤銅色の枷がしっかりとかかっていた。
――七十二の魔神うち、序列二十五番目に数えられる悪魔、グラシャ=ラボラス。
魔術師たちが最もかれの力を必要としたのは、まだ魔術を法が縛っていない時代の、決まって国家の混迷期だった。
混迷期にある国家の魔術師たちは夜陰に乗じてかれを召喚し、報酬を差し出して彼らの敵を殺戮するよう命じたものである。
一時期にはあまりにも召喚が重なったために、かれの好む報酬が知れ渡ったほどだった――いわく、新鮮な心臓と肝臓と脳。
次点で腸だが、これは途中でちぎれているとかれは頷かない。
石造りの床の中に身体が沈み、粘性のある液体をゆっくりと通り抜けるようにして、階下へ。
重力を感じさせない動きで、かれは石造りの廊下に落ちるように立つ。
落ちるその速度も、まるでかれだけが水の中にいるかのように緩やかだ。
四肢の先端の爪が、かちッ、と硬質な音を立てるが、見向きする者は誰もいない。
異様な姿で闊歩していても、かれほどの悪魔であれば、人間のにぶい眼差しを躱すことはそう難しくはない。
精霊が行く先を囁く。
かれは億劫そうに頷いて、気怠げに廊下を進む。
大きな翼は気のない様子で垂れ下がって、ずるずると床の上を引きずられている。
埃ひとつ立てず、まるでかれだけは澄んで透き通った硝子の上を歩いているかのよう。
かれが歩くところで、ふっと松明やガス灯が消え、そしてかれが通り過ぎると、またごうごうと火が点る。
朝にあっても夜を閉じ込めたような冷たい石の城の中、踊る松明やガス灯の火が、頼りなく揺れる影を石の床に打ち延ばしている。
かれが落とす影だけが異様に濃い。
翼を引きずって歩くかれが、ようやっとその翼を持ち上げた――目的の人物を見つけたのだ。
それは、今しも階段を上がってこようとしている少女だった。
背中の半ばまでの金髪がバックパックに挟み込まれて、半端に揺れている。
急いでいるのか、壁を手で辿るようにして階段を駆け上がってくる。
彼女がこの階に達して、そしてくるりとターンする。
さらにもう一階分を駆け上がろうとして、行く先に注がれている橄欖石の色の瞳――
グラシャ=ラボラスは足を止めた。
薄青い真円の瞳が、一瞬のあいだ、しかしこれ以上なく慎重に、少女の姿を点検した。
――精霊がついている。
だが、ものの数ではない。
あれは、かれよりも序列において劣る悪魔に仕える精霊だ――
障害がないことを確認して、かれは首を傾げた。
一瞬後には、少女の首が宙を飛んでいておかしくはなかった。
かれが得意とするのは殺戮であって、殺しの許可があってなお相手を捕虜にすることにこだわるほどには、今回の仕事に熱を上げているわけではなかったのだ。
かぱ、と、かれは口を開いた。
犬のものにしてはあまりにも巨大な、どちらかといえば虎や豹といった生き物にみられるような牙が覗いた。
そして、
「――おい」
好戦的な声がした。
かれは振り返りすらしなかったが、精霊が見たその姿を、共有するようにして見ていた。
人間の、少年の形をした悪魔だ。
序列まで分かる。
それは会ったことがあるからだ。
かれは今まさに、この場に飛んで来たところであるらしい。
グラシャ=ラボラスをまっすぐに見据えて、
「その下品な口を閉じてこっちを見ろ、グラシャ=ラボラス。
以前はどうも。ちょうどよかった、仕返しがしたいと思ってたんだ」
かれはうっそりと口を閉じて、少年の方を見た。
あの少女が悪魔を召喚しているならば、少女を傷つけたところで無意味だ。
〈身代わりの契約〉がある限り、魔術師がしもべの悪魔より先に死ぬことはない。
ならば、序列において劣ると分かり切っているこの悪魔を、まずは片づけてからの方がいい。
しかし、振り向いた先にいた悪魔は、彼我の序列をわきまえているだろうに、それでも微塵も怯んだところがなかった。
その昔、かれはこの悪魔を歯牙にもかけずにいたぶり、領域に逃亡することすら許さず、やめてくれと懇願する声を笑い飛ばして致命の一撃を与えたことがある。
そのときと、わずかにも変わらぬ淡い黄金の瞳。
「――やあ、マルコシアス。元気になったようで何よりだ」
唸るような低い声を受けて、魔神マルコシアスはとびきり大きな微笑を浮かべた。
「致命の一撃が、どれだけ不愉快なものか教えてあげよう。
たかだか五百年で、僕の気が収まるとは思ってないだろうね」
好戦的な仕草でかれを挑発し、指先で「かかってこい」と招きつつ、マルコシアスが首を傾げて言い放つ。
「――僕のロッテに何の用かな」
▷○◁
シャーロットは仰天して振り返った。
彼女の目にかろうじて見えたのは、翼のある大きな何か(細かい造形までを見て取ることは出来なかった)に、かれ自身が砲弾であるかのように突っ込む、彼女の悪魔の姿だった。
「エム――」
シャーロットの目には、翼のある大きな何か――間違いなく悪魔だろうか――に、マルコシアスが数ヤードの助走をつけたうえで突っ込んだように見えた。
それほどの勢いだった。
廊下が――いや、建物自体が揺れた。
シャーロットは咄嗟に手摺壁に縋りつく。
マルコシアスを受け止めた、翼のある悪魔が身をよじる。
ののしりの言葉が、雷鳴のように轟き渡った。
驚いた様子で、近くの教室から学生や教授が顔を出し始める気配――訝しげな話し声――
めこ、としか言い表しようのない、軋むような轟音が響いて、二人の悪魔の足許の、石の床に亀裂が入った。
その亀裂があっというまに蜘蛛の巣状に広がり、壁に伝播し天井に達し、ぱらぱらと石の欠片が降る――
はぜるような音が聞こえた。
もみ合う、としか言いようのない争い方を見せる二人の悪魔の周囲に、小さな雷光が閃きはじめているのだ。
白に近い金のきらめきが、ぱっ、ぱっ、とせわしく散り、そして気づけば周囲の空気は、身動きのたびに静電気が肌の上で弾けるほどに帯電している。
建物が、今度こそ大きく揺れた。
二人の悪魔の頭上に達した亀裂から、こぶし大の石材の欠片が落ち始める――
「エム!?」
シャーロットが叫んだまさにその瞬間、翼のある悪魔の足が、踏ん張りそこねたかのように宙に浮いた。
とたん、二人の悪魔が縺れ合いながら、一個の砲弾のように宙を飛ぶ。
シャーロットは思わず悲鳴を上げた。
二人が突っ込んでくるのが、まさにシャーロットが立っている方向だったからだ。
防衛本能から覚えず身を屈めたシャーロットだったが、結論からいえばそれは不要だった――とはいえ踏ん張っていることは必要だった。
シャーロットは、廊下から見れば昇りの階段の途中に立っていたわけだが、二人の悪魔はきわどいところでそこをかすめつつも、下りの階段の方へ突っ込んだのだ。
硝子が割れるかん高い音、石の壁が粉砕される衝撃音。
凄まじい轟音とともに足許が揺れ、シャーロットは階段から転落しそうになった。
もうもうと噴き上がり、風を受けて建物の中に吹き込んでくる粉塵の薄雲が見える。
壁に大穴の開いた建物の中に、ひゅうひゅうと音を立てて風が吹き込む――
「エム!」
叫んで、シャーロットは一足飛びに階段を駆け下りた。
そして、かれらが突っ込んだ下りの階段を覗き込み、息を呑む。
大きな嵌め殺しの窓はもちろん粉々に砕かれ、その窓枠を抉るようにして、壁に大穴が開いている。
ぱらぱらと石くずが降っており、砕かれた硝子も瓦礫も、悪魔たちが外に向かって飛び出した以上は、それに引きずられて外側に落下したようだった。
とはいえ踊り場にも、少なくない小さな石壁の欠片やきらきら光る硝子の破片が落ちている。
学生や教授たちが、わらわらと集まって来つつあった。
「何が起こった?」と互いに言い合っており、いち早くここに立っていたシャーロットに、自然と注目が集まろうとする。
だが、シャーロットとしては、ここで捕まって時間を浪費する気はなかった。
息を吸い込んで、彼女は階段を駆け下りた。
躍り場を踏むと、靴の下で微細な硝子の欠片が軋んだ。
砕けた壁におそるおそる近づき(背後から、彼女を制止する声が複数飛んできた)、地面を見下ろす。
――はるか眼下にある地面で、翼のある深紅の毛並みの犬を相手に、マルコシアスが猛然と噛みついていた。
かれはもう少年の姿をしていない――巨大な狼、大蛇の尾の黒い狼の姿になっていた。
凄惨なまでに容赦なく、翼のある犬の首に牙を突き立てるマルコシアスの狼の口から、紅蓮の炎が噴き出している。
翼のある犬が身を捩り、四肢でマルコシアスを蹴り立て、激しく翼をはためかせてかれを引き離そうとしている。
二人のあいだで雷光がきらめく。
地面に亀裂が走っていく。
息を止めたシャーロットは、即座に踵を返して、さらに階段を駆け下り始めた。
階下でも、轟音に驚いた学生たちが廊下に飛び出して来ようとしている。
困惑と驚きの声が、あちこちでぶつかり、集まってどよめきになっている。
階下で、誰かが叫んだ。
その大声が、こだましながら階段を昇ってきた。
「――誰かの悪魔が喧嘩してるぞ!」
激しい破裂音が響き渡り、建物が揺れて硝子が震える。
閃いた雷光が、砕けた硝子の一階分下にある同じ嵌め殺し窓を、不透明に白く照らし出した。
「魔精じゃない――魔神だ!」
▷○◁
本棟の中庭側に落下した二人の魔神が激しくのたうち回っている。
黒い狼が、深紅の巨大な犬の翼を踏みつけてその首許に牙を立てる――深紅の毛並みの巨大な犬が猛然と抵抗し、文字どおり、その口から怒りを吐き出した。
人の目には何も見えなかったが、精霊が大急ぎで二人の魔神から遠ざかった。
何か重いもので下から打ち据えられたかのように、黒い狼の頭が跳ね上がった。
その隙に、深紅と白の毛並みを持つ犬が体勢を立て直そうとする。
地面に力なく打ち広がっていた巨大な翼が持ち上げられようとした。
そのとき、翼がこすった地面が摩訶不思議な変化を遂げた――まるで一面が硝子細工に変じたかのように、地面が透明に変じたのだ。
透き通った地面の中に、氷に白い筋が入るようにして、草の根が複雑に絡まり合っている様が不透明に見えている。
突然のその変化はごく限られた範囲でのみ起こったが、それでも、窓から顔を突き出して、突如として勃発したこの魔神どうしの競り合いを、怖いもの見たさで見物する学生と教授陣が、大きな驚きの声を上げた。
黒い狼が、追い縋って深紅の犬の翼を前脚で強く押さえた。
深紅の巨大な犬が、激昂するというよりは叱りつけるような態度で、それを振り払おうとする。
だが黒い狼は逆に、ほとんど執念さえ感じさせる動きで、その巨大な翼に噛みついた。
その牙のあいだから炎がほとばしる。
はじめて、明確な苦痛の悲鳴が上がった。
深紅の犬が、喉から痛みに怒り狂う罵声を絞り出している。
翼を激しく振って狼を撥ね飛ばし、深紅の巨躯が透明に変じていない地面を踏んだ――その瞬間、つかのま硝子の美しさを見せた地面が、すみやかに元の姿を取り戻す。
狼は、はた目から見ても嬉しそうだった。
大蛇の尾をちぎれんばかりに振りながら、軽やかというには威厳をもって、重々しくというには身軽な動きで、深紅の犬に向かって突進していく。
その尾の大蛇も、大きく口を開けて、蛇が笑うならばこんな顔だろうという顔で哄笑している。
二人の魔神を囲むようにして、球状に青い雷光がひらめき、そばの窓硝子がまぶしいほどにその光を反射して震えた。
地面が無惨に焦げついていく。
丁寧に植えられていた芝生が、あっというまに抉られ、炙られ、蜘蛛の巣状に広がる黒い焦土の一部となった。
悪魔の身悶えに合わせて地面が揺れる。
衝撃音が立て続けに響き渡り、本棟の窓硝子が凄まじい勢いで砕けていく。
かれらから最も近い位置にある石の壁に、またたく間に深い亀裂が走っていく。
悲鳴と怒声が上がる。
「誰の悪魔だ!!」
黒い狼が、ふたたび深紅の犬の首に噛みついた。
腹に響く爆音が轟き、窓から事態を見下ろしていた学生、あるいは実際に外に走り出て中庭に立った学生たち、それらが思わず悲鳴を上げる。
深紅の犬が身を捩る。
黒い狼が容赦なく、真上からその喉笛に牙を突き立てる。
ふたたび轟音――地面が陥没する。
深紅の犬を中心にして、地面に盛大な悲鳴を上げさせながら、地面が徐々に徐々に没していく。
対してその周囲が盛り上がる。
さながら小さな火山が、大慌てで造形されていくかのよう。
狼の口から炎がこぼれる。
紅蓮を呈した炎の色が変わる。
紅蓮から黄色へ、そして色が失せて白く、そして蒼褪めていく――
深紅の毛並みの巨大な犬が、耐えかねた様子で絶叫した。
なりふり構わず黒い狼の牙を逃れようとして、ぱっ、とその姿が変わる。
奇妙に赤い毛並みを持った猫が、するりと狼の牙から抜け出した。
陥没した地面を這い出したその猫に向かって、黒い狼が苛立たしげに跳躍する。
猫の判断はすばやかった。一秒たりとも待たず、小さなコマドリに姿を変じた。
そしてまた、狼の方もそれを見逃さなかった。
瞬きする間にかれの姿も見事に変じて、かれは鷹になっていた。
鷹が無造作に飛び立って、逃げを打ったコマドリを、まさに得物を捕らえるようにして地面に叩き落とす。
コマドリが、慌てた様子で巨大な象に姿を変えた。
薄赤い異様な皮膚を持つ巨体がそそり立ち、これには鷹も、長い鼻の暴力的な一振りで撥ね飛ばされた。
象が、混乱した様子で激しく頭を振り、あの独特に高い声を張り上げながらよろめく。
本棟の壁に、錯乱した象が突っ込んだ――元より砕けていた窓が、今度はその枠からひしゃげ、本物の象にも有り得ないだろう膂力で、薄赤い象が壁を粉砕する。
もうもうと粉塵が上がり、砕けて舞い散る瓦礫が、象のかん高い絶叫に震えた。
悲鳴が上がる。
宙を吹っ飛んでいた鷹が、ようやく翼の安定を取り戻したようだった――大きく一度はばたくと、弾丸の勢いで象へ向かって突っ込んでいく。
鷹は象の背中を目がけて飛び、そして目的の場所に達するや、またも滑らかに姿を変えた。
――本物よりもずっと大きい、見上げるばかりの高さにまで鎌首をもたげるコブラ。
そのコブラが、とぐろの中に象を巻き込んで、ぎゅうぎゅうとその巨体を締め上げていく――
「お前――これはどういうことだ!」
そのとき象が叫んだが、直後にその姿は掻き消えた。
絞首刑を脱するべく、巨大な象はあっという間にスナネコへと姿を変えていたのだ。
それを追いかけるように、鎌首をもたげた巨大なコブラも姿を変える。
鮮やかな灰色の毛並みをしたキツネへ。
キツネがスナネコに噛みつき、スナネコは悲鳴を上げた。
しかしその悲鳴に、明瞭な怒声が混じっていた。
「有り得ない――お前、これはなんの手妻だ!」
スナネコが狼へ。
それを追って、キツネが虎へ。
狼が鷲へ。
虎がハヤブサへ。
千変万化の勢いで、二人の魔神がめまぐるしく姿を変えていく。
鷲がネズミへ、ハヤブサが猫へ。
いつの間にか、熾烈な魔法は影をひそめていた。
もはや互いの仮初の身体のみで競り合う二人の悪魔に、じりじりと近づいたのは聴衆の好奇心のなせるわざ。
「誰の悪魔だ……」
つぶやいたのは、この騒ぎに中庭へ飛び出し、遠目にその姿を見た教授の一人だった。
「……あれほど、苦痛を呑んで姿を変えるほどの忠誠を買ったのは」
追い詰められた側の悪魔は、あきらかにこの場を脱するための手段として、次々に姿を切り替えている。
それに対し、追い詰めている側の悪魔は――あの執念は。
シャーロットが中庭に走り出たのは、まさにこのときだった。
建物が揺れ、壁がひび割れていく中で、中庭への勝手口を探すのに手間取ったのだ。
そしてその勝手口には、唐突に勃発した悪魔どうしの競り合いに目を奪われる、数十人からの学生が壁を成しているときた。
「ああ、もう……!」
苛立ちながら、身を捻り身を屈め、シャーロットはやっとのことで、息をあえがせながらその最前列に飛び出して――
「――ああ、レディ。
ちょうどよかった」
億劫そうに足を引きずり、よろめきながらその場で立ち上がった灰色の髪の少年が、ぐったりしたイタチを片手で持ち上げる、まさにその瞬間を見た。
「いい知らせを用意できて嬉しいよ。
――頑張ったんだ、褒めてくれ」
惨憺たる有様を呈するリクニス学院の一画で、魔神マルコシアスは十も格上の魔神を片手にぶら下げて、淡い黄金の目を細めた。




