06 私を地面につれてって
マルコシアスはまず、かれの間抜けな主人が落としたトランクを、主人が元いた屋敷の玄関先に持ち帰るところから、事態の収拾を始めた。
〈マルコシアス〉の〝真髄〟は極めて真面目である――それをこういうときに感じる。
それからかれは、その屋敷の玄関先の階に腰を下ろし、立てた膝に頬杖をついた。
すぐに、かれの意図を察した精霊たちが、無数に寄り集まってさやさやと囁き声を投げ掛け始めた。
かれは溜息を吐き、ぞんざいに手を振った。
「さっきの馬車を追って、どこに行くか確かめてきて。僕は〈身代わりの契約〉であの間抜けなレディに首根っこを押さえられているからね。彼女に何かありそうだったら可能な限りで守ってやってよ」
そう言いつつも、マルコシアスは今のところ、何らの痛みも自分には転嫁されていないことを認識し、どうやらあの誘拐犯たちは礼儀を弁えた連中らしいぞ、と、安堵を濃くしているところだった。
精霊が数体、ふわふわと遊離して風になった。
意思持つ風がひゅうっと空を渡り、マルコシアスの新しい主人を誘拐した馬車の後を追い始める。
マルコシアスは空を仰いで、うんざりと眉を顰めた。
――精霊はかれに忠実だが、一つ一つは力弱い。
シャーロットを助けてやるには、かれ自身がシャーロットの傍まで行かねばならない。
「面倒だな……」
つぶやいて、マルコシアスは自分の両手をまじまじと眺めた。
――この交叉点において、姿を変えることは悪魔にとって決して難しいことではない。
だが、生き物の姿で連続して形を変えることは、かなりの消耗と痛みを伴うことだった。
それは避けたかったが、だがさりとて、この人間を象った二本足であの馬車に追い着けるかというと、それも疑わしい。
そのへんの石ころに姿を変えて、しばしのんびり過ごしてから、改めて足の速い生き物に姿を変えるという妙案が頭を掠めたが、マルコシアスは諦めて息を吐き、億劫そうに立ち上がった。
〈身代わりの契約〉がいつ発動するかと思うと気が気ではない。
自分の精神衛生上、さっさと行動を起こすことこそ吉と判断して、マルコシアスは伸びをした。
ややあって、その屋敷の庭園から、大きな黒い毛並みの狼が駆け去っていった。
ごくごく普通の見た目をした狼は、くんくんと空気の匂いを嗅ぎながら、石畳の道の上を、一路北へ向かって走り出していった。
▷○◁
どのくらいの時間が経ったのかは分からなかった。
シャーロットは息苦しくなって、自分を押し包んでいた布を顎で懸命に押し退け、顔を出していた。
手を使わなかった理由は一つ、彼女をぐるぐる巻きにした大判の布が、上手いこと彼女を後ろ手に縛り上げていたからだ。
これでは身動きも満足に出来ない。
幌馬車の中は薄暗く、うだつの上がらない、背広の上から外套を着込んだ男が一人、シャーロットが何かをすれば頭を踏み潰してくれよう、というような気迫で彼女を眺めていた。
馬車は揺れ続け、進み続けていた。
シャーロットは再び、今度はじめっぽく泣き出したが、そうしてめそめそしながらも、今の自分の身辺を、監視の男に気づかれないように確かめることは忘れなかった。
布を引き被せられていたことが幸いして、彼女の格好は殆ど監視の目を免れていた。
彼女はこそこそと身動きし、両脚を縮こめて膝をドレスのかくしの辺りに当て、『神の瞳』を落としてはいないことを確認した。
それから、辛うじてポシェットだけは肩から斜めに掛けていたこともあって、今も自分にくっ付いていることを発見した。
中には現金と、汽車の路線を描いた地図が入っている。
シャーロットはそろそろと顔を上げた。
幌馬車の中の空気は籠もっていた。
曇天の明かりは幌を突破するに能わず、幌馬車の中には薄暗い。
荷台のささくれがドレス越しにも痛かった。
シャーロットを監視する男は、幌の支柱を握って身体を支え、冷酷に彼女を観察し続けていた。
薄暗さもあって、その顔がよく見えないために、まるでのっそりとした影の塊そのものにも見える。
(――馬車が走ってるってことは、あと一人、御者台に誰かいるってことね)
当然極まることを考えて、シャーロットは鼻をすすった。
眉を顰めて目を閉じて、彼女は思い出そうとした――この馬車が走ってきたとき、御者台にはどんな人が座っていたかしら?
だが思い出せなかった。
なぜ自分が目をつけられたのかも、よく分からなかった。
とはいえ、あの田舎道をふらふらしていた手ごろな子供が自分だけだったと言われれば、仰る通りですとしか言えないが。
「……あのぅ」
葛藤の末、彼女は声を押し出した。
監視の男がびくりと反応した。
シャーロットは精一杯しおらしく言い出した。
この状況に対する、彼女の精一杯の抵抗であった。
「ご存知ないのかも知れませんが、私、最近家を放り出されたばっかりで、父も母も、あんまり私のためにお金は払わないと思いますが……」
声は震えて、語尾が消えた。
男は一瞬押し黙り、それから端的に言った。
「黙れ」
シャーロットは従った。
ここで話し続けて自由の身になれるわけではないのだ。
馬車は走り続けた。
馬車の揺れに煽られて、シャーロットはころんと横向きに倒れたが、後ろ手に縛られている以上は自ら体勢を立て直すことは不可能だったし、もちろんのこと監視の男も、彼女を手ずから助け起こしたりはしなかった。
やがて、分厚い幌を通しても、ほぼ真上からの陽光が分かるようになった。
昼になり、空が晴れたらしい。
走り続けてかれこれ六時間以上。
シャーロットは自分でも信じられないことだが、途中でうたた寝していた。
後ろ手に縛られた腕はすっかり痺れて感覚はなかったが、外の風景も見えない以上、暢気にもシャーロットの頭蓋の中には退屈を認識する機能が残っていたようだった。
細切れに目を覚ましながらのうたた寝から、はたとわれに返ったときには、幌の中で彼女を監視していたはずの男はいなくなっていた。
車輪の音に紛れて、御者台の方から、低い声が微かに聞こえてくる。
シャーロットは、ささくれた荷台の床に頬を押し当てるような姿勢になりつつ、ほぞを噛んだ。
いったんであっても馬車が停まって、あの男がここから御者台の方へ移動したならば、その間に逃げることも出来たというのに、私ときたら。
(――何か叫ぼうかしら)
シャーロットはふとそう考えた。
これまで物語を読んできた経験からいえば、こういうときには猿轡を噛まされるのが定石だが、なぜだかそこまではされていない。
ということは、叫んで助けを求めることは出来る。
シャーロットは口を開けた。
が、すんでのところで踏み留まった。
――もし仮に、御者台の二人、ないしは三人、ないしはそれ以上、とにかく誘拐犯たちにとって、この誘拐が小遣い稼ぎ程度のものであって、是が非でも成功させねばならないものではなかったとしたら?
もしそうであれば、彼らは躊躇いなく自分を殺すのではないだろうか?
いや、むしろそれゆえに、彼女の口を塞ぐことまではしていないのでは?
(駄目だ、助けを呼ぶのは、ここから逃げたあとじゃないと)
ぐぅ、と、シャーロットの胃袋が空腹を訴えた。
惨めな気分になったが、シャーロットは唇を噛んでその気分をやり過ごした。
――少なくとも、シャーロットを荷台で一人にしたということは、誘拐犯どもはすっかり気が抜けているということだ。
そこに逆転の目がないものか、と、彼女が好む冒険譚の主人公のように考えるよう自分を鼓舞しつつ、シャーロットは空っぽの荷台を見渡して、慣性ですっかり倒れてしまった体勢を戻そうと、しばしばたばたともがいていた。
▷○◁
「リンキーズ、お前、どうして私を助けに来ないんだね?」
魔術師は這う這うの体で御者台に戻って来て、まずはそこにいた犬の姿の魔精を咎めた。
「あの子、すっかり怯えているよ。蒼褪めて――かわいそうに――身代金目的の誘拐だと思っているよ」
「あんたの態度が、なんかドスが利いてたんじゃない」
アーノルドはぼそっとつぶやいたが、魔術師は聞いていなかった。
彼は両手でリンキーズの顔を掴み、それを揺さぶっていた。
「リンキーズ、助けに来てくれるのが役目だろう」
「やだよ」
魔精はにべもなく言って、魔術師の手を逃れた。
「どうしてかは分からないけど手間取ってるみたいだけど、そのうちあの子の魔神が追い掛けてくるよ。そうなったら僕では手に負えないからね。それに、あの子が他にも隠し玉の悪魔を従えていたら嫌じゃないか」
「リクニスへの入学許可が下りるんだから、それは召喚のひとつやふたつはこなすだろうけれどね」
魔術師は困り切った様子でそう言って、しかし気になるのか、御者台から後ろを振り返る仕草を見せた。
幌の上では、相変わらず暢気にオウムが遊んでいる。
魔術師は首を振り、それから外套の懐から、ナプキンに包まれた――少し潰れた、すっかりパンが乾いてしまっているサンドウィッチを二つ取り出した。
片方をアーノルドに差し出してくれる。
アーノルドは手綱を取り落とす勢いでそれに飛びついた。
彼にとって、まともな食事はそれだけで貴重だった。
魔術師はアーノルドから手綱を受け取り、彼がサンドウィッチにかぶりつくのを見守りながら、ぼそぼそとつぶやいた。
「彼女が召喚を心得ている可能性は、ミスター・スミスも考慮していたんだ……私に入れ知恵をくれた……」
アーノルドはものの十数秒でサンドウィッチを食べ終え、口の中の水分を持っていかれて咳き込んだ。
魔術師は無言で、自分の分のサンドウィッチもアーノルドに差し出した。
アーノルドはきょとんと目を瞠ったあと、怖々とそのサンドウィッチを受け取り、五秒の逡巡ののちにそれにもかぶりついた。
それを、一つ目よりは落ち着いて食べ切ってから、アーノルドは小声でつぶやいた。
「――なんであの子を誘拐しなきゃならないのかは知らないけど、ってことは、あのスミスさんって人は、あの子には自分が誘拐される心当たりがあると思ってたんだな」
魔術師は瞬きした。
「なぜだね?」
「だって、」
アーノルドは睫毛を上下させた。
金茶の睫毛の奥で、青灰色の瞳が瞬いた。
「悪魔って、そんなに気軽に呼び出すものじゃないんだろう。あの子が悪魔を呼んでるかも知れないって、あんたに何かを入れ知恵したんなら、スミスさんからすりゃ、あの子に悪魔を呼んでおくだけの理由があったと思ったってことだろ」
魔術師はもう一度瞬きして、まじまじとアーノルドを眺めた。
そして頷いた。
「――そうだね。そう、尤もだ。けれど、考えても仕方ないね。
理由がなんであれ、私たちは彼女を連れて行かないといけないんだからね」
▷○◁
時刻は夜になった。
辺りが暗くなったことで、シャーロットにもそれと分かった。
いよいよ空腹で、それはもはや腹痛に近かった。
喉もからからに乾いており、頭が痛かった。
腕には感覚がなく、背中が引き攣れて痛んでいた。
車輪の音はもはや音というよりも、脳に直接響く振動のようだった。
もうどのくらい進んだのか――どちらの方角進んだのかさえ、彼女には分からなかった。
分かっているのは、もはや自分の足では帰れないほどに遠くまで運ばれただろうという、その一点だけだった。
彼女はなんとか自由になろうともがいていたが、結果は七転八倒に終わっていた。
そのうちに、また彼女はうとうとと意識を彷徨わせていた。
――夢の中はほんの二箇月前の光景だった。
十月の終わりごろ、その月のはじめに行われた試験の結果が届いた日だ。
郵便馬車がやって来て、ケルウィックの家の呼び鈴を鳴らす。
外に飛び出した彼女に、気の無い風情の配達員が封蝋の押された封蝋を手渡し、帽子をちょっと持ち上げて挨拶してから去っていく。
彼女は慌てて家の中に駆け戻り、大声で母を呼んでから、震える手にペーパーナイフを握り、ゆっくりとその封筒を開く。
中の手紙を引っ張り出しながら、結果が怖くて、彼女はぎゅっと目を瞑る――傍で母が歓声を上げる。
ぱっと目を開くと、入学許可の文字が目に映る。
彼女は手紙を抱き締めて泣き出す。
父が「よくやった」と背中を叩いてくれる。
――そしてその半月後、父が硬い表情で言い出す。
「悪いんだけれど、チャーリー。きみのことは、しばらく大叔父さま――ほら、スプルーストンにいらっしゃるだろう――あちらで住まわしてもらうことになったから」。
突然のことに驚き、でも学校が、と口籠ってから、彼女は確認する。いつまでですか?
父はうつむく。「分からなくてね」。
彼女はいっそうおののき、確認する。リクニスには入学させていただけるんですよね。
父は顔を上げ、眉を寄せて、言った。「――また今度な」。
彼女の視界は真っ暗になり、心臓が床に落下したかのようにさえ感じ、裏切りの大きさに眩暈に襲われる――
――つんつん、と、なまあたたかいものが頬に触れた。
彼女はそれを振り払おうとし、腕が動かない痛みに呻いた。
首を振る。
今度は額になまあたたかく湿ったものが当たる。
彼女はぱっと目を見開いた。
そして、そこに大きな黒い狼の鼻面を見て、危うく悲鳴を上げそうになった。
狼が鼻面を彼女の口に押し当てるようにして、彼女を黙らせた。
彼女はくぐもった咳を漏らした。
ややあって、狼は鼻面をシャーロットの口許から離した。
シャーロットは目を見開き、驚きに息を詰めながら、囁く小声で尋ねた。
「――マルコシアス?」
召喚主であるシャーロットには、マルコシアスが何に姿を変えようが、すぐにそれと分かる勘が働くようになっている。
狼は、頷くような仕草で頭を上下させた。
鉄の色合いの首環が見える。
何も知らない人がかれを見れば、身体つきの大きな猟犬と思うかも知れない。
シャーロットは身をもがき、擦り剥いた膝をマルコシアスの目から隠そうとした。
何があっても、〈身代わりの契約〉を結び漏れたなどということを知られてはならない。
「暢気なものだね」
狼が言った。
とはいえ、その狼の口が動いたわけではなかった。
「こういうの、誘拐って言うんだろう? 誘拐の最中でもすやすや寝るのが最近の流行りなの?」
「違うわよ」
シャーロットはじたばたともがいた。
「誘拐犯たちはどこ? ねえ、私の手が縛られてるのを何とかしてちょうだい」
小声で叫ぶと、マルコシアスは溜息を吐いた。
その狼の口からだらんと薄桃色の舌が垂れた。
「誘拐犯たちは前の、ああ、御者台だっけ、そこだよ。眠そうにしてるね。彼らに見つからないように僕がこっそり入ってきたことに、あんたは礼を言っていいよ」
シャーロットの手首の辺りに、温かい独特な空気が触れた。
ややあって、手首の拘束が緩んで解けたらしい。
――精霊の働きだろう。
シャーロットは礼を言おうとして、しかし急に血液が巡り始めた手首の感覚に悶絶する余りにそれどころではなく、しばらくは手を前に回すことも出来なかった。
彼女の悶絶をしばし見守ってから、マルコシアスは、くあ、と欠伸を漏らした。
ふさり、と、荷台に伏せた狼がその尾を振った。
「まあ、大丈夫さ。連中が何をしようと、僕がちゃんと守ってあげるよ。それが契約だからね。上にちょっと手強いのがいるみたいだけど、今のところ手を出すつもりはないみたいだし。他には雑魚の魔精が一匹いるだけだ」
「お前を使って、暴力に訴えることは避けたいの」
ようやく腕を前に回し、感覚が戻ってきた、しかしすっかり握力の失せてしまった指を開いたり握ったりしながら、シャーロットは掠れた声で言った。
空腹と乾きに頭が回っておらず、マルコシアスの言葉の大部分を聞き逃していた。
「ここはどこかしら。とにかく戻らないと。電話を貸してもらえれば、交換手に家と繋いでもらえるわ」
馬車が揺れ、シャーロットは覚えずマルコシアスに抱き着くような格好になった。
マルコシアスは低く唸り、やがて諦めた様子で、その四本の脚でしっかりと立ち上がった。
そして、無造作に告げた。
「とにかく戻らないと」というシャーロットの言葉を、命令――つまり、彼女を家に帰すこと――の遂行のためには、この場からの離脱が必要であるという意味に、きっちり解釈した様子だった。
「幌を上げて、飛び降りて。気づかれたくないなら後ろから飛び降りることをお勧めするね」
シャーロットは戸惑ってマルコシアスの瞳を見つめた。
狼の姿であっても、その目は淡い金色をしている。
「え――」
「早くしなよ。どのみちあんた、今は怪我もしないんだろう。例の無粋な契約のおかげでさ」
シャーロットは言葉を呑み、ついでに唾を呑み込んだ。
ぎくしゃくと頷き、彼女は殆ど四つん這いになって這うようにして、荷台をずるずると後ろへ移動した。
また膝にささくれが突き刺さった。
シャーロットは痛みも違和感も態度に出さないように努めた。
そしてマルコシアスが、これほどささくれの目立つ荷台にあって、彼女が擦り傷のひとつもなく移動できるわけがないということに気づくほど、鋭い悪魔ではないことを祈った。
幌を持ち上げようとして、またも馬車の揺れに振り回され、ついでに予想以上に幌が重く、手間取ってしまう。
何しろ、まだ手が上手く動かなかった。
苛立たしげに小さく唸り、マルコシアスが重さを感じさせない足取りでシャーロットの横から首を突き出し、獣の口で幌を噛み、器用に幌を持ち上げた。
冷たい夜気がどっと押し寄せてきた。
頬に触れ、髪をなぶる清々しい風――少し、なんだろう、匂いがある。
これは、少し――生臭い? 初めての匂いに、しかし困惑している暇はない。
夜陰であっても、馬車の下を地面が次々に捲れるように過ぎていっているのが見えている。
いや、これは馬車が地面の上を走っているということだけれど。
「――無理」
シャーロットはあえいだ。
これまでの人生で、走っている馬車の上から飛び降りたことなどない。
身が竦む。
「早く」
マルコシアスが唸った。
しきりに馬車の上を気にしている。
「上にいる魔神はもう勘付いてるよ。なぜかは分からないけど黙ってるけれどね」
マルコシアスの声は、車輪が回転する音に紛れている。
シャーロットは助けを求めて外を見渡した。
風が吹いて、ざわざわと木の梢が揺れる音がしている。
民家の灯りが、悲しくなるほどに数少なく、ぼんやりと遠くに点っている。
ここは町、あるいは集落のようだが、どうやらかなりの田舎らしい。
住民の一日はもう終わっているようだ。
辺りは静まり返り、なんだろう――遠くで何かがざわめくような、不思議な音がしている。
地面に目を向ける。
地面はどんどん後ろへ後ろへと下がっていっている――
「早く」
マルコシアスの語気が荒らいだ。
「心配しなくても、僕の精霊があんたに怪我をさせやしないよ。何しろ痛いのは僕だからね」
シャーロットは息を吸い込んだ。
足先と腹の底が冷えるような気分だった。
――マルコシアスは、少なくとも今は、〈身代わりの契約〉が結ばれていると信じ込んでいる。
だから、ここから飛び降りようとも、シャーロットに怪我をさせまいと精霊に守らせる。
つまりは、まず大丈夫だろうが――
「理屈じゃないのよ!」
限界まで声を潜めて、彼女はかたわらの狼に囁いた。
ちょうど耳の辺りに囁いたからか、狼は迷惑そうにぺたんと耳を伏せた。
苛立ちのためか、その首のうしろの毛がふわっと逆立ち――
シャーロットはきつく目を瞑った。
そして、決心して囁いた。
「――突き落として」
マルコシアスも面喰らった。
かれが淡い金色の目を見開いた。
「なんだって?」
シャーロットは目を閉じたまま、口早な小声で続けた。
「自分じゃとても飛び降りられないの! いいから突き落として!」
マルコシアスは瞬きした。
シャーロットが目を開けていれば、そこに愉快そうな色を見たはずだった。
ふさ、と尻尾を振って、マルコシアスは立ち上がった。
この巨体の狼が唐突に動けば馬車が傾きそうなところ、しかしマルコシアスの動きには一切の重みがなかった。
「――なるほど、面白いことを言うね、レディ・ロッテ」
そして、無造作に、何でもないことのように、その大きな頭でシャーロットの背中を押した。
「――――!」
悲鳴を上げなかったのは意地のゆえである。
シャーロットは歯を喰いしばり、しかしとうとう、目の前が見えない恐怖に負けて両目をかっと開き――
ものの見事に馬車から転がり落ちた。
視界などあってないようなものだった。
ぐるん、と回転する真夜中の道と空、馬車の車輪が見えただけ。
スカートが捲れ上がり、顔に被り、危うく窒息するところだった。
堪りかねて上げた悲鳴は精霊が大急ぎで吸い込んで、他所へは漏らさなかった。
精霊が忠実にシャーロットの身体を受け止めて、丁寧に地面に下ろした。
マルコシアスはそれを見届けてから、優雅な身ごなしで馬車から地面へ飛び降りた。
乗客が失せたことにも気づかず、馬車はがらがらと進み続けている。
シャーロットは茫然としている。
無事に地面に座り込んでいることの実感がなかなか湧かないのか、何か言おうとしては言葉を見失っている様子で、道の真ん中にぺたんと座り込んだまま、無意味に握った拳を上下させている。
それを無視して、マルコシアスは、馬車の幌の上に陣取る白いオウムをちらりと振り仰いだ。
かれはこちらに気づいている。
遠ざかる馬車の上で、オウムは少しばかり肩を竦めるような、そんな仕草をして見せた。
――マルコシアスの知り合いではない。
あの魔神に下されている命令はどんなものなのか、それを少しばかり不思議に思い、――そしてまた、ただの誘拐犯があれほど高位の魔神を従えている理由も分からず、マルコシアスは首を捻った。
――あの魔神は、マルコシアスよりも高位の悪魔だ。