09 一言、断りを
アーノルドからすれば、“彼”は今なお十分に恵まれているように見えていたが、“彼”本人からすればそうではないらしい。
“彼”はアーノルドのことを、“彼”のパトロンからの使者であり、この一件における“彼”の協力者と見なした――間違いなく、アーノルドの主人がそのように根回ししたのだろう。
アーノルドが唯一、縋るように考えたことといえば、主人の計画はまだシャーロットに至る段にないということだった。
アーノルドはそう伝えられていたし、この点において、主人がアーノルドに嘘をつく利点は全くなかった。
「血はあとだ」
そう、主人はよくつぶやいていた。
そんなわけで、目の前にいるこの“彼”が、万が一この一件においてシャーロットに手を届かせることがあったにせよ、それは主人の望むところではなく、結局のところ主人が手ずから、最後にはシャーロットを助けるのではないか、とアーノルドは考えたわけである。
――ローディスバーグから馬車ではるばると移動し、夜陰にもぐって滑り込んできたリクニス学院だが、アーノルドからすればこの学院は、議事堂と同じくらい広いように思われた。
ここのどこかにシャーロットがいるのか、と思うとなんだか不思議な気分にもなったが、のんびりと感傷に浸る間も彼にはなかった。
ぴんと二本のしっぽを立てて彼を案内するアットイに従い、うろうろと建物の中を歩く。
そうしてようやくたどり着いた屋上で人目を忍んで朝を迎え、初めてアーノルドはこの“彼”と顔を合わせた。
そしてこの“彼”は、アーノルドと顔を合わせるなり盛大に眉を寄せた。
とはいえ、その失礼な態度に目くじらを立てても何にもならない。
アーノルドは出来るかぎり神妙そうな表情を浮かべて、「必要なことがあったらお手伝いしますよ」とだけ言っておいた。
“彼”は仏頂面で頷いて、パトロンがそう助言したから仕方なくアーノルドと会うために屋上へやって来たのであって、本当ならばその必要はなかったのだ、ということがアーノルドにもよく分かるようにという配慮を籠めた溜息を、これみよがしにこぼしてみせた。
“彼”がアーノルドに用がないならば、アーノルドは喜んで暇を享受するまでだ。
アーノルドの仕事は、シャーロットが召喚した悪魔が、二年前と同じ悪魔かどうかを確認すること――それを、主人は自分で確認できないか、あるいは可及的すみやかに確認したかったのだろう、何しろ主人は、すぐには動けない。
そしてアーノルド個人としては、“彼”の手がシャーロットには届かないことを祈っておく。
その朝は水晶のように澄み切っていた。
朝陽を迎えて澄み渡った空が、薄い青色に透き通っている。
曙光が鋭利に降り注ぎ、リクニス学院の複雑に入り組んだ天蓋のところどころが、朝陽を弾いてブロンズ色にきらめき、その色の水滴のように見えていた。
また屋上から広く見渡してみれば、エデュクスベリーの町並みの細い煙突から、白くかすかに煙が立ち昇り始めているのも見て取ることが出来た。
静かだった――沁み入るほどに。
アーノルドは屋上の隅にあぐらをかいて座り込み、“彼”の近くにいる悪魔を眺めていた。
いかにも悪魔といった格好の連中だったので、人目につけば騒ぎになるのではないかとふと思った。
ここまでアーノルドとともに行動してきたアットイは、屋上にあぐらをかいたアーノルドの膝に頭を押しつけ、二本のしっぽをくねくねと揺らしながら、猫そのものの仕草で彼にじゃれている。
アーノルドも、よしよしとかれの頭や背中を撫でてやっていた。
白いオウムは屋上の欄干に優雅に止まって、ゆったりと顔をこすったり翼を広げて伸びをしたり、これもまた暢気に過ごしている。
かれの左脚に、細い華奢な金色の枷がかかっているのが、朝陽に鋭利にきらめいて見えていた。
暢気にしているようではあっても、アットイは少し怯えているようだった。
時折、落ち着かない様子でぴくぴくと耳を動かして、“彼”の近くにいる悪魔を警戒する様子を見せている。
「――きみより格上なの、あいつら?」
声をひそめて尋ねてみれば、アットイは紫水晶の方の目で彼を見上げた。
「当たり前ですよ。私は魔精、かれらは魔神」
アーノルドは肩を竦める。
「悪いね、見ただけじゃ分かんないもんで」
アットイは猫の分際で溜息を吐いた。
「人間は盲目です」
アーノルドは肩を竦め、光を見ることしか出来ない目を閉じて、瞼の裏の薄明るく赤い影を見ながら、しばらくうとうとと意識を休ませた。
ややあってアーノルドがふと目を開けたのは、“彼”が行動を起こす気配を感じたからだった。
“彼”の方は、ちょうど行動を起こそうとしたときにアーノルドが身じろぎしたので、少しばかり驚いたようだった。
警戒するようにじっと見られたので、アーノルドはうっすらと愛想笑いを浮かべておく。
いつのまにか、学院は活気づいていた。
下からざわめきが伝ってくるような、静謐な空気で蓋をされた下に、活発な熱気が動き始めたような、そんな感覚があった。
学生たちが活動を開始したのだろう。
“彼”はアーノルドから顔をそむけて、屋上の端へと歩いていった。
欄干に手をかけて、“彼”はしばらくじっとしていた。
それから振り返って、悪魔の一人――アーノルドの語彙力をもって表現するならば、それは巨大な犬に翼が生えているような姿だった――を顧みた。
そして、およそ年齢不相応なほどに低い――歯軋りに潰されたような声で――命じた。
「――魔神グラシャ=ラボラス。命令だ――シャーロット・ベイリーを僕の前に引きずり出して来い」
アーノルドはふと、この“彼”はシャーロットとどういう因縁があるのだろう――と不思議に思った。
この口調、この声音は、とてもではないが“彼”とシャーロットのあいだに個人的な確執がないとは信じられない。
(まあ、あの子……無意識に敵を量産しそうな性格はしてたしな……)
やきもきしつつも、アーノルドはそう述懐せざるをえない。
魔神は唸るような、石臼がこすれるような声で応じた。
了承の返答だったのだろうが、アーノルドにはその声から意味を汲み取ることは出来なかった。
朝の清々しい陽光の中で、魔神が落とす影だけが不穏に暗いように見えた――まるで異界の夜のように。
アーノルドは覚えず、これが魔精と魔神の格の違いなのかもしれないと納得した。
アットイがいかに怒っていようが、彼はその影に異界の夜を見たことはなかったのだ。
魔神の主は、少しのあいだ黙り込んだ。
命令が終わっていないことを察して、翼のある犬の姿の魔神はそこに留まっていた。
まだ年若い魔神の主は、ゆっくりと息を吸い込むと、押し殺した声で囁いた。
「難しいようなら、ベイリーをその場で殺してかまわない」
「――えっ?」
あぐらをかいたままのアーノルドは、思わず頭のてっぺんから出たような声を上げた。
とたん、“彼”の刺すような視線が突き刺さってきたので、あわてて「なんでもありません」とつぶやきながらも、彼は嫌な予感とともに、事態が主人の手を離れたのではないかという考えはじめる。
――彼の主人は少なくとも、シャーロットの死を望んではいない。
これは絶対に。
ちらりと、白いオウムの姿の魔神を見遣る。
魔神はわざとらしい欠伸を漏らし、われ関せずといった様子だ。
まるで、かれの主人の意向に背くことは起こり得ないのだと知っているかのような。
(シャーロットが悪魔を召喚してるから――だから殺す気だったとして、シャーロット自身は無事だろうって、そういうことか?)
しかし、悪魔にも限界はある。
召喚した悪魔が限界を迎えて消え去ってしまえば、残るはシャーロット自身への暴力だ。
ちりちりと頭が痛くなってきた。
アーノルドは落ち着くために、あえて大きく呼吸を繰り返した。
彼がそうしているあいだに、命令を受けたあの魔神は姿を消そうとしている――アーノルドが目を疑ったことに、ずぶずぶとその身体が屋上に沈んでいこうとしていた。
まるで、かれの足許でだけ、屋上の硬い石のタイルが、粘性のある液体に変わったかのように。
(シャーロットは本当に悪魔を召喚してるのか? 召喚してるなら、あの人、わざわざシャーロットを殺す命令は出さないんじゃないか? 仮に召喚してたとしても――その悪魔は、あの悪魔にも対抗できるやつなのか?)
アーノルドは思わず立ち上がった。
その拍子にアットイがくつろぐ姿勢を邪魔されて、怒った様子で背中の毛を立てる。
「アーニー、一言断ってから立つのが礼儀ですよ」
しかし、アーノルドはそれを聞いていなかった。
悪魔に死というものはない。
だが、人間にはある。
シャーロットにはある。
――死んでしまうと、取り返しがつかない。
彼に文字を教えてくれようとした、あの無垢な親切が消えてしまう。
(落ち着け――シャーロットがこっそり悪魔を召喚してて、あの人がそれを知らなかったから――だから殺していいなんて命令したって、その可能性だってじゅうぶんある)
逆に、アーノルドの主人はシャーロットが悪魔を召喚したと確信しているのだ。
オウムの姿の魔神が落ち着き払っているのがその証左だ。
だが、そう――その悪魔が、不意打ちを受けてなお、たった今シャーロットを殺しに向かった悪魔に対処できるのかどうかは分からない。
立ち上がりはしたものの、アーノルドとしても、人間が悪魔に対処できるとは思わない。だから――
(――シャーロットが、本当に二年前と同じ悪魔を召喚したなら――)
覚えているのは、かれの灰色の髪だった。
その髪が風になびく様と、首許のストール。
ポケットに手を突っ込んで気怠そうに立っている様子と、カラスの姿の魔精をものの数にも入れずにあしらっていた態度。
首を傾げる仕草と、中性的でさえある幼い声で、「僕のレディ」とシャーロットを呼ぶ言葉の響き。
――かれが魔神としてどの序列にいるのか、アーノルドは覚えていなかった。
さらにいえば、かれが人間の少年の姿をしていないのであれば、かれを直視したところで気づく自信もなかった。
人間は盲目だ、アットイの言うとおり。
だが、何もせずにここでぼんやりと座っているよりは、いくぶんか気分もましだろうと思われた。
それに、かれを捜す努力をしようが、それを咎められるはずもない――アーノルドが起こそうとしている行動は、主人の命令を果たそうとすることにもなる行動なのだ。
なんにせよ、この努力があの悪魔にとって迷惑になるということはないだろう――何しろ、今のアーノルドは知っている。
主人の傷は悪魔の傷として転嫁されることを。
つまり、シャーロットの無事を確保することは、延いてはかれの無事を確保することになるのだから。
――そう、ただ不意打ちを喰らうよりは、一言の断りはあった方が、まだいいだろう。
▷○◁
シャーロットが心から安堵したことに、ワルター氏は順調に回復しつつあるらしい。
「目は開けたんだが、丸一日絶食してたらしくて、身体に力が入らんらしい。医師も、まだ起きない方がいいだろうとおっしゃって、安静にしている。あとは順調だ。
お前のことをやたらと気にしていたが、本当にただの門番と学生か?」
と、オリヴァーが朝方に彼女を捉まえて伝えた。
場所はちょうど、女子寮から伸びる外廊下が本棟に接する位置だった。
オリヴァーはわざわざ早起きして、彼女を待っていたことになる。
シャーロットはそのことへの感謝もひとしおながら、伝えられたことに膝が折れるほど安堵した。
「良かった……」
ちなみに、シャーロットは一人で出てきたのではなく、朝いちばんの講義が一緒になっているアリスという女子学生と一緒に出てきたのだが、アリスはオリヴァーの姿を見るなり、意味深な視線をシャーロットに送って、小走りになって一人で先に行ってしまった。
シャーロットとしては、オリヴァーの用件が用件だから、アリスのからかいじみた勘違いを訂正する気にもなれないし、オリヴァーに至っては気づいてすらいなかった。
外廊下からは、続々と女子学生たちが本棟に入っている。
中には、かつてシャーロットの衣服にスープをぶっかけ、その対価として五十シレルを請求された女子学生もおり、あからさまに胡乱そうにちらりとシャーロットを見ていった。
脇によけた場所でそれを横目にしつつ、シャーロットは喰いつくように尋ねていた。
「ワルターさん、ちゃんと休んでくださる感じでした? 無理して動こうとしたり――」
シャーロットの問いかけに、オリヴァーは片手をひらひらと振る。
「いや、さすがにそこまで職務熱心な感じはなかったよ」
ほっとしつつも、シャーロットはわずかな違和感を覚えた。
ワルターからすれば、今の状況はすぐさま議事堂に使いに走らねばと奮起するに足るもののはず――
(あ、違うか)
シャーロットは思わず、自分の額を叩いた。
――ワルターが、自分が突き落とされたと認識しているのかは分からない。
犯人が上手くやったとすれば、自分の不注意で階段から落ちたのだと思い込んでいてもおかしくはない。
そして彼は、ヴィンセントが音信不通になっていることをまだ知らないのだ。
だから、心安らかに医務室で横になっていることだろう。
シャーロットはきゅっと唇を引き結んだ。
つい先ほど、門番の扉を叩いて尋ねたところによれば、ヴィンセントはまだ戻らず、どこにいるのかも分からないらしい。
マルコシアスに彼の無事を確かめさせようにも、マルコシアスはヴィンセントの顔を知らず、ゆえに彼を探しようがない。
「――良かった。ありがとうございます」
ぺこり、と頭を下げると、オリヴァーは気遣うような心配するような、そんな微妙な色の表情で、ぽん、とシャーロットの肩を叩いた。
「わざわざ、内緒で、って念押すくらいだから、お前自身が見舞いに行ったらまずいことでもあるんだろう? なにか、伝言でもあるなら伝えてやってもいいが――」
シャーロットは少し考えた。
が、どう考えても、今は病床にあるワルターにゆっくり休んでもらう方がいい気がした。
シャーロットは一人ではない――マルコシアスが精霊を彼女につけて、つねに彼女を見守っている。
顔を上げて、シャーロットは微笑んだ。
「大丈夫です。――どうもありがとう。
〈ピーリードット〉へは、次のお休みにどうでしょう?」
「え?」
オリヴァーは面喰らった様子で瞬きし、それから声を上げて笑うと、頬を掻いた。
明るい緑色の目が優しそうに細められた。
「ああ、コーヒーをおごれって言ったの、本気にしてたのか。冗談だよ。こっちだって、ストラスに上手いこと病人を治療させたっていうんで、教授からの評判もよくなった――お互いさまだ」
「えっ、いいんですか――」
シャーロットは声を上げ、それからきょろきょろと周囲を見渡した。
「あれ、そういえば、ストラスは」
オリヴァーは肩を竦めた。
「契約は明後日の日没までってことにしてるからな。
けど、あんまり大した命令をするような契約内容じゃなかったんだ。いきなり怪我人の治療を命令したから、すっかりへそを曲げちまって――」
「帰っちゃいました?」
「ばか。そんなわけあるか。その辺を散歩してくるって言って聞かなくなったから、人間に手出しをしないことを条件にして許したんだ」
シャーロットは顎に手を遣った。
「なるほど……」
ストラスは、かなり契約の内容と命令の内容の相違に敏感なようだ。
いや、考えてみれば、大抵の悪魔はそうであってしかるべきだ。
「私を助けて」というざっくりとした命令で、通例よりも相当に安い報酬で、序列三十五番の魔神が召し出されることに同意したことの方が驚異的なことなのだ。
しかもシャーロットは今日も、かれを容赦なくこき使って、学院中を見回らせている。
マルコシアスは面倒そうにしながらも従順に、その命令に従っている。
(〈ストラス〉の〝真髄〟は――かなり傍若無人な態度が許される性質なのかもしれない)
機会があればマルコシアスに、〝真髄〟はどういう経緯で割り振られたのか訊いてみよう――と、ぼんやりと思った。
「そっちの悪魔は?」
オリヴァーが首を傾げたので、シャーロットはあいまいに微笑んだ。
「同じくです。その辺にいます」
「そうか。――気をつけろよ」
シャーロットは頷く。
また、二年と少し前に、グレイに言われた言葉が頭の中に甦ってきた。
同時に、マルコシアスの淡い金色の瞳の表情、シャーロットの手を握るときの指の力、悪魔らしい意地の悪い好奇心や、およそ悪魔らしからぬ、親しみを籠めたウインクまで。
シャーロットは息を吸い込んだ。
「もちろん、分かってます」
オリヴァーは気遣わしげな様子ながら、こちらも頷いた。
「なら、いい。まあ、自分で大丈夫だと思う基準以上に、ちゃんと気をつけた方がいいけどな。
――お前、朝の講義は?」
「『歴史学』です」
「ヴァリオ塔の上じゃないか。近くまで一緒だよ。――走ろうぜ、のんびりしてたら間に合わない。
俺たちみたいな若い学生は、遅刻したときの軽蔑のされようが、他の方々とは段違いだからな」
▷○◁
アーノルドは、人目につかないよう最低限の注意を払うだけで良かった。
アーノルドがリクニス学院のど真ん中で騒ぎを起こすこと、もっと悪くすれば身柄を押さえられることを、彼の主人は望んでいない。
いや、より正確に言うならば、そうやってアーノルドが逃げ出すことを看過しない。
ゆえに、屋上から駆け下りたアーノルドには、当然のごとく二本のしっぽを持つ猫の姿の魔精、アットイが付き従った。
アットイに仕える精霊たちが、さして鋭くもない人間の眼差しから、アーノルドを守ってくれる。
これまでにも、いく度かそうやって、アーノルドは仕事をやり遂げた――
――仕事。
汚れ仕事。
手が汚れる。目が汚れる。
記憶が汚れる。心が汚れる。
不特定多数の他人の人生が汚れる。
そういう仕事を。
「アーニー、急にどうしました」
足早に歩くアーノルドに歩調を合わせようとすれば、普通の猫ならば軽やかに駆けるだろう。
しかしアットイの歩調は、不思議と悠然としたもののままだ。語調も落ち着き払っている。
「シャーロット・ベイリーが召喚してるっていう悪魔を捜しにいく。
あの人も、あんまりおれにそばをうろつかれたくなさそうだったしね」
きっぱりと答えるアーノルドに、アットイは二本のしっぽを振る。
片方はゆったりと、もう片方は小刻みに。
「主人の命令のためでしょうね?」
「それ以外になにがあるんだよ」
アーノルドは応じる。
悪魔に良心はないから、アーノルドも良心の呵責なく嘘をつくことが出来る。
「ならば構いません」
そう言うアットイに、アーノルドは、「おれが行き止まりに向かって突っ込んでいきそうだったら止めてくれよ」とだけ頼む。
アーノルドが一つだけ確信をもって言えることは、シャーロットが本当に二年前と同じ悪魔を召喚したならば、それは魔神だということだ。
つまり、アットイの隠蔽工作などものともせず、あの悪魔はアーノルドを見つけるはずだということ。
そして、事実としてシャーロットが、身の危険を感じたがゆえに悪魔を召喚したならば、いくら彼女であっても――自分を囮にしようとした過去があるとはいえ――、「シャーロットを守ること」という命令を悪魔に下しているはずだ。
ならば、いかにも怪しい魔精を従えたアーノルドは、彼女の悪魔の目に留まるはず。
アットイは前になり後ろになり、精霊にアーノルドを守らせながら、薄暗い石の廊下をアーノルドとともに歩く。
堅牢な石の城は、巨大さゆえに窓も限られ、場所によっては壁に松明が掲げられている。
アーノルドはアットイには聞こえないほどの声で、とはいえかれは悪魔だから恐らく聞こえているのだろうが、それでも無邪気な独り言に聞こえるような口調に偽装して、つぶやく。
二年と少し前の冬、シャーロット・ベイリーが元気よく呼ばわっていた彼女の悪魔の名前を。
「――エム、エム、エム」
足を進めていくうちに、辺りを学生が行き交うようになる。
全員が揃いのバックパックを背負っている他は、ばらばらの格好をしており、年齢層もかなり幅広いように見えた。
十代後半とみえる者もいれば、二十代に入っているだろうとみえる者もいる。
口々に何かを言い合いながら、あるいは一人で黙々と、三々五々に廊下を歩く学生たち。
「課題がさ――」
「昨日、気づいたら晩餐の時間終わってて――」
「今朝寝坊しちゃって――」
「ねえ、フォスター先生が今度のパーティにいらっしゃるって本当だと思う?」
アーノルドは彼らの目に留まることもなく、広い廊下を歩いていく。
もしかしたらシャーロットとすれ違うこともあるかも知れないと思ったが、彼女の姿は見当たらなかった。
見渡すばかりの学生の群れ、文字を読むことができ、数字を扱うことができ、温かい家でこれまで過ごしてきただろう学生の群れ、アーノルドとは住む世界が違う子供たちの群れ、それらと足早にすれ違う。
「エム、エム――」
つぶやく。
なんとなく、自分が馬鹿げたことをしているのではないかと思えてくる。
馬鹿げた可能性への賭けだろうが、この行動自体は馬鹿なものではないと信じたい。
視界の端で、ネズミが駆けていくのが見えた。
あれは悪魔だろうか、と思ったが、確証はない。
アットイが、「そっちは行き止まりですよ」と警告する。
アーノルドは進もうとしていた方向を変えて、階段を昇る。
ぱっと視界が明るくなり、見上げると踊り場の高い天井にステンドグラスが輝いている。
モザイク模様の青と黄色と赤の硝子。
アーノルドは半ばは呆れて首を振った。
本当にここはお城だな、と心中でつぶやく。
そしてなんとなく、このお城に二年近くもいたら、シャーロットもずいぶん変わっただろうな、と思った。
アーノルドの記憶の中のシャーロットは、当然ながら十四歳の、寝癖がついた髪をしているままだったから。
階段を駆け上がる。
アットイも、猫そのものの軽やかな仕草でそれに続く。
踊り場を折れ、また別の廊下へ。
こちらの廊下には学生があまりいない。
今にも転びそうな足取りで走っていく女子学生が、遠くに一人見えただけだった。
「エム、エム――」
独り言のようにつぶやく。
アットイの二本のしっぽが、視界の端でちらちらと揺れる。
どこかに猫やネズミはいないかと目を凝らす。
それが悪魔かもしれないから。
高い石の天井を見上げて、どことなくそれに洞窟を連想し、コウモリを探して目を細める。
コウモリは大量に見たことがある――炭鉱で働いていたころに。
ジョンが死んでしまったときに。
もういなくなって五年ほどが経つ、幼い日の友人の、前歯の欠けた顔を、なんとなく思い出した。
彼も自分も、つねに粉塵と煤にまみれて真っ黒だった。
身体中を探しても、白く保たれていたのは白眼だけだったというのに、あいつの白眼はよく充血していた。
(あいつならなんて言うかな――)
今の仕事が、生きていることが苦痛になるほど嫌なんだ、と言ったら。
仕事があるだけいいじゃん、食えてるんならそれでいいじゃん、おれだってちゃんと屋根のあるところで寝たいよ、と、餓えをしのぐためによく咥えていた草の根をいじくりまわしながら言うだろうか。
自己憐憫と自己嫌悪があまって感傷的な回想へと突っ込みそうになったアーノルドの肩を、そのときだれかが、ぱし、と掴んだ。
アーノルドは飛び上がった。
アットイは気づいていない。
アットイの精霊たちが沈黙している。
アットイは猫らしく、足音もなく石の廊下を歩いていく――
アーノルドは振り返った。
視線が一瞬空振ったのは、相手の方がアーノルドよりも背が低かったからだ。
視線をわずかに下ろして、それで目が合う。
淡い黄金の双眸。
不機嫌そうに顰められた眉。
それらの半ばを覆い隠す、伸びすぎた風情の灰色の髪。
首許のストール。
外見は完璧な――十四歳程度の少年。
「――あんた、」
その少年が言った。
記憶にあるとおりの声で。
「僕に愛称をつけた人間は多々あれど、僕をそう呼ぶのは、僕のレディ一人だけのはずだ。
あんた、僕のレディの知り合いかな。
――それと、僕に何か用?」




