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07 真っ暗な道の上

「は? ()()()()?」



 リクニスといえば、学校だ。

 そのはずだ。


 そして――()()の希望が叶っていれば――彼女がいるはずだ。



 心臓が一気に忙しく打ちはじめたが、アーノルドはしいてそれを隠した。

 そのかいあって、猫の魔精はアーノルドの心境には気づかなかったらしい。



 かれは気の毒そうに続けた。


「はい。主人からの伝言を続けます――『どこかに隠れて、成就を見守ってほしい仕事がある。詳細はおって知らせるが、()()()()()()()()()が召喚する魔神を特定して、それが二年前と同じ悪魔かどうかを突き止めてほしい。あるいは、可能性は低いが、()()()()()()がベイリーのお嬢さんを捕まえることが出来たなら、それを自分へ報告すること。どちらも、ベイリーのお嬢さんを見知っているきみにしか頼めない』――だそうです。

 なにかおっしゃりたいこと――ありそうですね?」


 猫は優雅に首を傾げた。


 この猫は、左目は紫水晶の色、右眼は氷のような透明な色合いと、きわめて美しい双眸を持っている。

 かれは、なめらかで笛のように澄んだ、高い女性の声で話す。

 その首に、澄んだ黄金色の華奢な枷がかかっているのが見えている。


 アーノルドはまじまじとその猫の魔精を眺めて、溜息を吐いて耳のそばでくるくると指を動かした。


「きみのご主人、いつもどおり、まだ聞いてる?」


「はい、聞いてますよ」


 猫は上品に笑った。


「私の精霊が主人のそばにいます――主人の言葉を、精霊と私があなたに伝えることが出来ます。あなたの言葉を、主人に伝えることが出来ます――とはいえ、主人には精霊の声は聞こえませんから、通訳にはいつもの、別の悪魔がそばにいますけれど」


「よしよし」


 アーノルドは咳払いして、意味はないと分かっていながらも愛想笑いした。

 何しろ、この悪魔の主人――そして今となっては、アーノルド自身の主人――は恐ろしい。


「たいへんお言葉ながら、ご主人。おれはシャーロット・ベイリーに顔を見られていますよ。そばに寄ったら気づかれますよ。――って伝えて」


 猫の魔精は、気の毒そうに彼を見た。


 かれは伝言役として、アーノルドに接する機会も多いから、彼の愚痴は聞き飽きているところである。

 とはいえそれを口に出せないのは、アーノルドから少し離れたところの窓際に、うたた寝をしている風情の白いオウムがいるからだった。


「はい、はい。――ああ、主人からのお返事です。

『ベイリーのお嬢さんがきみの存在を覚えていたとして、きみの顔までは覚えていないと思うから、安心しなさい』だそうです。

 ご安心なさいました?」


 アーノルドは仏頂面で自分の頬を触った。



 ――この二年と少しで、アーノルドの背丈はぐんと伸びた。

 とはいえ、栄養がそれに追いついておらず、彼は痩せたままだった。


 金褐色の猫っ毛は子供のころのままだったが、顔立ちはそれなりに成長した――彼は無関心だったが。

 十四歳のとき、シャーロットから「女の子といっても通りそうなほどに整った顔」と評された彼の面差しは、二年の成長を経て、その中性的な部分をさっぱりと削ぎ落していた。

 薄幸そうな印象もあいまって、彼はたとえば、名画の中にひっそりと描かれている青年のような、そういう雰囲気の美しさを獲得していた。


 あるとき彼は道端でがらの悪い男に呼び止められ、かなり下品な言葉でその容姿を褒められたが、その男を叩きのめしながらも、彼の主人が彼のこの容貌に目をつけたのではなくて良かった、と胸を撫で下ろす心地を味わったものである。



「安心しなさい、ね――」


 アーノルドはつぶやいた。

 魔精は空気を読み、彼の気持ちを汲んで、その言葉を馬鹿正直に、離れた場所にいる主人に伝えたりはしなかった。


「断ったらまた、裸にひん剥かせて鞭で打たせたあげくに、わりと普通じゃない感じの貴族の屋敷に送り込むぞって言えよ、まったく」


 腹立たしげにそうつぶやいてから、アーノルドは猫の魔精に感謝の眼差しを送った。

 猫の魔精はゆったりと()()()しっぽを振って、猫の顔面でありながら微笑むような表情を浮かべた。


 アーノルドは息を吸い込み、テーブルに片肘をついた。


「はい、承知しました、――って伝えてくれ」


「はいはい」


 猫の魔精は彼に頭をこすりつけながらそう応じて、ややあって、ひょい、と、彼を気の毒そうに見上げた。


「アーニー、主人は明日にでも馬車を寄越すそうです」


「心躍るお知らせだ」


 アーノルドの皮肉っぽい言葉に、猫の魔精は心からの憐憫を籠めてつぶやいた。


「大変ですね、私たちのように、報酬は要らないからとそっぽを向いて帰ってしまうことが出来ないのは。人間が人間に仕えるというのは、仕える側の人間にとって、非常に不平等なことですね」


 アーノルドはうめいた。


「同情をありがとう、アットイ。それをきみの主人に言ってくれない?」


「まあ、アーニー。それは駄目です。

 主人はためらいなく、〈身代わりの契約〉を盾にしてご自分の頸を自刎()るかたですよ。私も、同じ痛みを分け合う同胞たちに恨まれるのは嫌ですもの」


 アーノルドは目をこすった。


「……そうだったな。あんたたちも大変だよ、お互いさまだ」


「そうでしょうか。――ともかく、私は出来るだけあなたに関心を寄せないようにしますよ」


 アーノルドは微笑んだ。

 悪魔の“関心”と“無関心”の意味を、彼は以前に別の魔精から教えられていた。


「ああ、ありがとう、アットイ」


 魔精は優雅に伸びをした。


「礼にはおよびません。

 ――私は少し休みますが、外に出たいときは必ず私に声をかけるようにと、主人の要望です」


「分かってるよ。

 あと、それは要望じゃなくて命令だよ」


 アットイはほんものの猫そっくりに耳を回した。


「そうですね。

 ではおやすみなさい、アーニー」


「ああ、おやすみ、アットイ」


 アーノルドは微笑んで頷き、それから両手で顔を覆った。



 しばらくそのままじっとしていて――そして、いっそう小さな声でつぶやいた。

 誰にあてた言葉でもなかったが、それでも芯から案じる様子で。


「……今度はなにがあった?」



 二本のしっぽを持つ猫は欠伸を漏らし、優雅に前脚の上に頭を置いて、うたた寝の姿勢に入っている。



 アーノルドは鼻をすすって、ゆっくりと懐から小さな本を取り出した――それは旅行者用の小さな辞書だった。

 隅がこすれて古びたその辞書をぱたりと開く。


 黄ばんだページの間に、折り畳まれた紙が入っていた。

 この紙も古びて、何度も開いたり畳まれたりを繰り返した結果、折り目のところが破れそうになっていた。


 アーノルドは慎重な手つきでその紙を取り上げて、ゆっくりと開いた。


 ――手書きの、アルファベットの一覧が書かれている。

 その一覧の下に、通貨の単位や、「約束する」「支払う」といった文言が記されている。


 ――読めはしないが知っている。



 この文言を指差しながら、生真面目な口調でそう読み上げていた声を覚えている。



 アーノルドが仕事をするようになれば、それには契約書が交わされるはずだと思い込んで、彼の不利にならないようにと教えてくれた、彼女の小さな親切――



 もう顔も覚えていない母に、繰り返し繰り返し言い聞かされたことを、もう何度目になるのか、鋭い胸の痛みとともに思い出した。


 ――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()



 あの母の言葉――どれだけ世の中が変わろうとも正しいはずだと胸を張って言えるはずの正義、それを教えてくれた言葉――それが及ばないほど真っ暗な場所に、アーノルドは立っている。


 少しでも内省の窓を覗けば、自己嫌悪で首を吊りたくなるような真っ暗な道の上に。



 この生活が始まって三箇月あまりで、彼は一度、汽車の軌道で立ち竦んだことがある。

 動けなくなったのではなくて、動こうと思えなくなったのだ――ここで突っ立っていれば、突っ込んでくる鋼鉄の塊が自分の人生を終わらせてくれる、と、胸が熱くなるほどの希望がせり上がってきて。


 今でも、うだるような暑さの中で、切望するような気持ちで軌道上に立ち、汽車が来るのを今か今かと待ち望んでいた気持ちを覚えている。


 しかし、それも無駄だった――汽笛を鳴らして汽車が迫ってきたそのとき、彼の主人の悪魔はあっさりと彼を軌道上から追い出した。



「――――」


 彼は丁寧に、折り目にそって手にした紙をもう一度折り畳んだ。

 それを辞書の間に挟み込んで、小さな辞書を懐にしまう。



 ――海辺の町で彼女から向けられた、裏表のない親切の証左。



 たぶん、彼女はもう自分のことを忘れているだろう――とアーノルドは思った。

 それでもいっこうに構わなかったが、自分が彼女を忘れることはまずあるまい、とも思っていた。


 なんとなく、彼女は――というよりも彼女にまつわる記憶は、アーノルドにとって、まだ引き返せるところにいた時期の象徴めいて、ひとつの道標のように記憶に根を張っていたのだ。



 どうか無事であってくれ、と祈る気持ちは本能じみていた。


 それはもしかしたら、二年前のあの日、彼女の事情を利用して、なんとか元の生活に戻る手立てを探っていた、あの日から続いている悪あがきの延長なのかもしれない。



 ただ――、彼女のあの明るさ、彼に頭をかかえさせたあの無鉄砲さ、迷うことなく突き進んでいくあのまっすぐさ――それらが無事であるうちは、あるいは無事であると思っていられるうちは、彼のこの真っ暗な道の上にも、遠くにぽつんと明かりが見えるような気がしていたのだ。



「――リクニス」


 つぶやく。

 ほとんど祈るように。



「元気でいてくれよ、――シャーロット」





▷○◁





「午後、いなかったから心配したのよ、ロッテ」


 キャロラインがおずおずと言った。

 夕食の席でのことだった。


「どうしたの……体調も悪そうではないし」


「悪かったのよ」


 シャーロットは、皿の上のステーキ・キドニーパイを、親の仇のごとくにナイフでずたずたにしながら答えた。


「本当に具合が悪かったの。もう倒れちゃいそうなくらい。でももう治ったわ。心配かけてごめんね。

 キャリー、今日の『召喚基礎』の講義のノート、あとで見せてくれない?」


「それは構わないけれど……」


「ありがとう」


 ずたずたにしたパイを口いっぱいに入れ、シャーロットはもぐもぐと口を動かした。

 そのとき、キャロラインのルーム・メイトが彼女に声をかけた。

 イヤリングを失くしたから捜すのを手伝ってほしい――キャロラインは目を見開き、人の好さを溢れさせながら立ち上がった。


「まあっ、たいへん、もちろんよ……」


 キャロラインと入れ替わるようにして、シャーロットの隣にロベルタが滑り込んできた。


 彼女は連れ立ってきた友人二人と、ぺちゃくちゃとおしゃべりに花を咲かせていたが、ちらっとシャーロットを見遣ると、こそっと囁いてきた。


「お昼からいなかったわね。ゴドウィンさんが、あなたが真っ青になって大広間から出て行ったって言ってたから、気にしてたのよ」


 シャーロットはもぐもぐと動かす口の動きを速めた。

 何しろ、「心配かけてごめんね」と言おうにも、口の中がパイでいっぱいなのである。


 ところが、シャーロットが口の中をなんとかする前に、ロベルタは瞬きして言っていた。


「――あら? ロッテ、腕輪を失くしちゃったの?」


 シャーロットはごくんと口の中のものを飲み込んだ。

 そしてぐいっと水を飲んでから、にこっと笑った。


「心配かけてごめんね、もう大丈夫よ。

 ――ああ、あの腕輪? 今ごろ、たぶんどこかを転がってるんじゃないかしら」


 ロベルタは戸惑ったように大きな目を瞬かせたが、すぐに肩を竦めて「そう」とだけ応じると、また友人たちとのおしゃべりに戻っていった。









 悪魔からの暴言を許してはならないし、出過ぎたまねは一歩下がってたしなめるべきである。


 とはいえ、まだ十七歳であり――しかも、()()のことを持ち出されたとあっては――頭に血が昇ったシャーロットとしては、言われた分だけ言い返さねば気が済まなかった。


「ご高説どうも! 悪魔(おまえ)人間(わたし)の何が分かるっていうのよ、だいたい、お前が私に何を期待しようが知ったことじゃないわ」


 マルコシアスは見事なさげすみの表情を浮かべていた。


「へえ、じゃあ僕を解放すれば? 二度と助けてやらないからね」


 その言いようがあまりにも悪魔らしかったので、むしろシャーロットはかちんときた。


「けっこうよ。――第一お前、悪魔なんだから――あれもこれもすぐに忘れちゃうんだから、私のことも、ベン(かれ)のことも、早く忘れちゃいなさい」


「言ったはずだ――あんたのことは忘れない」


 シャーロットはほとんど激昂していた。

 逆恨みに近い気持ちで、彼女は叫んでいた。


「あれもこれも忘れるくせに、私に都合の悪いことばっかり覚えてるのね。“トンプソンって誰?” ときたものね。

 お前がトンプソンのことを証言しなければ、私はお前を選んだりしなかったのよ。それこそ、お前が以前言ったように、バエルかだれかを召喚してたわ」


「だから――」


 苛立ちの表情で言い差して、しかしマルコシアスはふと口をつぐんだ。

 少し考える様子でうつむいて、口許に手を当てたあと、かれは顔を上げた。


 そして、訝しそうにつぶやいた。


「――待てよ。それって、僕に鼻唄を教えた主人のことかな? あれこれ紙に字を書くのが好きだったみたいなんだけど――そういえば最近、あいつの近所に住んでいた子供について、あれこれ話すようにせがまれた気がするぞ」


「――――」


 シャーロットは絶句した。

 マルコシアスは首を傾げた。


「……あいつのことが、あんたになんの関係がある」


「――――」


 シャーロットはしばらく声が出なかった。



 ――ジョージ・トンプソンは、百年ほど前の詩人である。

 彼の遺した詩のうち一つに、『トレイシーによせて』という傑作がある。


 これについて、専門家たちは頭を悩ませていた――なにしろ、ジョージ・トンプソンに親しい人に、「トレイシー」の名で呼ばれる人はいなかったからである。


 このトレイシーなる人物は誰なのか、長らく物議を醸すこととなったが、しかし三十年前、その論争に転機が訪れる。


 ――別件で召喚された魔神マルコシアスが、偶然にも、過去にトンプソンに仕えたことがあり、そして「トレイシー」なる少女を見知っていたのである。

 かれは事も無げに、「トレイシーとは、通りすがりにトンプソンが出会った、足が悪い子供の名前だ」と証言した。



 この証言こそが、シャーロットに魔術師を志す、決定的なきっかけを与えたものだった。


 最初に召喚する悪魔として、マルコシアスを選んだ最たる理由だった。



「ひどい……」


 シャーロットはつぶやいた。

 衝動的に、ぼろぼろと彼女の目から涙が溢れた。


「……喧嘩しているときに思い出すなんて、ひどい」


 マルコシアスは不意をつかれた様子で目を見開き、頭を掻いて、ぐるぐるとその場で回り始めた。


 そのあと、シャーロットがハンカチを捜してトランクを開け、ベッドに座り込み、鼻をすすりながらトランクの中をごそごそとひっかき回し始めると、おずおずとそばに寄ってきて、彼女の頭を撫でた。



 ――ややあって、トランクの中から発掘したハンカチで涙をぬぐい、鼻をかみ、シャーロットは落ち着きを取り戻した。


 マルコシアスはポケットに手を突っ込んで、部屋の中を歩き回ったり窓の外を眺めたり、トランクの中を許可なく探って本を引っ張り出してはそれを開いてみたりと落ち着きがなかったが、シャーロットが落ち着いたのを見て取って、ぱたんと本を閉じて、それをぽい、と放り出した。


「――よし、レディ・ロッテ。話せるようになったかな。

 さて、僕にどうしてほしい?」


 シャーロットは赤くなった鼻をハンカチで押さえた。


「――まず、ベンのことを持ち出すのをやめなさい」


 マルコシアスは肩を竦める。


「お望みとあらば」


「それから――」


 シャーロットは鼻をすすった。


「――よく考えたら、そうね。私を襲った人は、少なくとも私の行動は把握できるんだから、もし私がここから逃げ出したら、まず間違いなくこれ幸いと私を捕まえにかかるでしょうね。そうなったら、お前が頼りになるか分からないし――」


「おい」


 マルコシアスは不満げに突っ込んだが、シャーロットは頓着しなかった。


「それに、確かに悪いのは私じゃないんだから、私がすごすごと退散する理由もないわ。もっといえば、私が逆の立場だったら、目的の人がここを逃げ出したとたんにここの人を人質にとって、言うことを聞かないと一人ずつ殺していくぞって脅すことだって考えるでしょうし――」


「うわぁ」


 マルコシアスは無表情に言った。


「えげつないこと考えるね、あんた」


「悪魔にだけは言われたくない」


 シャーロットは辟易した声を出したが、マルコシアスは真顔のままで言った。


「いや、褒めてるんだよ」


「命令よ、褒めないで」


 マルコシアスは肩を竦める。


「はいはい、お望みとあらば」


 シャーロットはまた鼻をすすり、くしゃくしゃになったハンカチで、いっそう強く鼻を押さえた。

 そのために、彼女の声はくぐもった。


「逆にいえば、確実なのは、私の行動を把握できる範囲に、今回の犯人か――あるいはその手先の誰か――まあ、悪魔かもしれないけれど――が、いるってことなの。

 しっぽを掴むことが出来たら、そいつをネイサンさんに突き出せるわ。()()()()()()()


「二年前みたいに」


 マルコシアスは嬉しそうに復唱して、シャーロットの顔を覗き込んだ。


「それでこそだ。

 ――で、レディ。ご命令は?」


 シャーロットは不機嫌にマルコシアスを見遣った。

 彼女は指を一本立てた。


「その一、私を守ること」


「言われるまでもない」


 頷くマルコシアスに、シャーロットは二本目の指を立てた手を突きつける。


「その二、精霊でもなんでも使って、この学院中を見回ること」


「……ん?」


 マルコシアスは眉を寄せた。

 シャーロットは高飛車に続ける。


「怪しいやつがいたらとっ捕まえて、私の倫理の範囲で問い詰めなさい。場合によっては、私を呼びなさい。

 とにかく、これ以上は、私のせいで何も起こらないようにすること」


「えーっと」


 マルコシアスは頬を掻いた。


 あきらかに命令の内容を面倒に思っている表情だったが、シャーロットは知っている。

 〈()()()()()()()()()〟は、誠実で命令に忠実だと。



「その三」



 シャーロットは力を籠めて断言した。



「何かの成果が上がるまで、あるいはどうしても必要になるまでは、私に顔を見せないこと」


「…………」



 そんなわけで、小さな灰色の猫の格好を選んだマルコシアスは、面倒そうかつ恨めしそうな顔をしながらも、リクニス学院の平穏を守るため、女子寮から出ていった――あるいは、シャーロットに蹴り出された。


 今ごろはどこかで、精霊に命令を下しながら、怪しい動きをしている者がいないかどうか、文字通りに目を光らせていることだろう。



 シャーロットも、悪魔については多少学んだ――生き物の姿で連続して形を変えることが、かれらにとって負担になることは知っている。

 とはいえ、マルコシアスほどの序列の魔神であれば、一度や二度はどうということもないと分かっていた。



 ――さんざんな言われようをした後とあって、シャーロットとしては溜飲が下がる思いである。





▷○◁





 とはいえ、マルコシアスは悪魔である。

 狡猾で利己的、嫌がらせには余念がない。



 ――そんなわけでシャーロットは翌日、いつものとおりに講義から講義へ、古く広い石造りの学舎を足早に移動している際に、にゃあ、という無邪気な猫の鳴き声で振り返った。


 そして廊下の隅に、まったく無害な様子で可愛らしく座っているマルコシアスを見て、思わずバックパックを投げつけそうになった。


「なん……っ!」


 しかし、シャーロットが一目でマルコシアスをかれとして認識できるのは、彼女がマルコシアスの召喚主だからに他ならない。


 魔神の擬態を見抜くことのできる魔術師はそうはいない――ましてや、修行中の学生たちとなればなおのこと。


「まああ、かわいい!」


 と声を出したのは、連れ立って歩いていたロベルタだった。

 彼女は、細長く開いた窓から射し込む陽だまりの中で行儀よく座っているマルコシアスに歩み寄り、ものおじしない目で彼女を見上げる小猫に、機嫌よく笑い声を上げた。


「まあ! まあ! かわいい、おりこうさんねぇ、迷子になったのかしら。

 それにしてもどうしてこんなところまで来ちゃったのかしら」


 なにしろ、ここは入り組んだ学舎の四階である。


(お、り、こ、う、さ、ん?)


 シャーロットが口の形でそれをなぞってみせると、マルコシアスはぷいと顔を背けた。


 彼女はつかのま、マルコシアスが何か報告するべき事柄を携えて会いに来たのかと勘繰ったものの、どうにもそうではないらしかった――かれの態度はあまりにも、シャーロットをからかう気概とやる気に満ちていた。


 ロベルタが猫を撫でようと屈み込むと、マルコシアスは気のない様子で立ち上がって、いかにも猫らしい気まぐれな仕草で彼女の脚をしっぽで軽く叩き、とたとたと歩き始めた。


 それに、シャーロットたちの後ろを歩いていた学生たちも気づいた。


「……猫?」


 男子学生が眉を寄せてつぶやき、すたすたとマルコシアスに歩み寄って、かれの首の後ろを掴み上げようとした。

 おそらく、窓から放り投げるつもりだったのだろう。


「なんでこんなところに――」


 ところが、マルコシアスはするりとそれを避けた。


 かれが批難するように鳴くのと、その男子学生と連れ立っていた女学生が、「かわいそうだよ」と彼の袖を引くのが同時だった。


「だって、病気でも持っていたらどうする」


 男子学生が不愉快そうに言って、思わずシャーロットはそれに対して、激しく同意を示して頷いてしまった。


「そうですよ、なんかちょっと汚いですし」


 マルコシアスが、信じられないという目でシャーロットを見た。


 かれが足早にとっとっとっ、と駆け寄ってきて、にゃあにゃあとわざとらしくもあわれを誘うような声で鳴きながら足にすり寄ってこようとするので、シャーロットは覚えずそれを蹴りそうになった。


「あらあ、大丈夫ですよ」


 と、ロベルタがのんびりと言った。


「私、家に猫がいるんです――あの子、特にノミもいなさそうですわ……エデュクスベリーのどこかのおうちから逃げ出してきちゃったのかもしれません……」


 シャーロットはじゃっかん顔を引きつらせたものの、「そうかもね」と相槌を打って、ロベルタの腕を引っ張った。


「行こう。帰巣本能があればおうちに帰るわよ、あの猫ちゃん」


「帰巣本能って、あなた、ハトじゃないんだから……」


 ロベルタの腕を引っ張るシャーロットの後ろ姿に、マルコシアスがにゃあと鳴いた。

























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