05 銀と馬車
翌朝、夜明け前にシャーロットは目を覚ました。
ぱち、と目を開けてすぐ、むくりと身を起こし、そして当然のようにベッドに腰かけて彼女を眺めているマルコシアスを発見する。
かれは息遣いの気配さえなく、目でのみ見えるまぼろしのように、非現実的な存在感をもってそこに腰かけていた。
部屋の中に、おだやかなノーマの寝息が聞こえている。
シャーロットはがっくりとうなだれ、長々と溜息を吐いた。
それを見て、マルコシアスがわざとらしくも淡い黄金色の目を見開く。
「ちょっと、なんなのさ。ひとの顔を見るなり溜息を吐くなんて。
僕のかわいい精霊たちは、あんたのために夜通しあちこちを見て回っていたんだぞ」
「ひとじゃないでしょ、お前。
――ああ、昨日のことが全部悪い夢だったんじゃないかと期待してたのに、――ああ」
大仰に二度目の溜息を吐いてうなだれるシャーロットは、手を伸ばして窓のカーテンを開けた。
夜明け前の、藍色に透き通った空が見える。
星々はまだ淡く輝いていたが、夜明けは刻一刻と近づきつつあった。
「あら――私、カーテンを閉めてた?」
「いや、僕が閉めた」
シャーロットは頷き、すばやくベッドから足を下ろした。
足で探って靴を見つけ、立ち上がって寝間着の襟に手をかけ――マルコシアスを睨む。
「エム?」
「そうだ、レディ」
シャーロットの態度には頓着せず、マルコシアスが嬉しそうにそう言った。
そして、仰天するシャーロットの前で、左手で首許のストールを押し上げ、反対に――かれ自身が作り出しているものに過ぎない――黒いシャツの襟を右手で開いて、ぐい、と、それを引っ張って、人で言えば右の鎖骨に当たるだろう箇所を彼女に見せた。
「見て見て。あんたからもらった報酬だよ」
「――――」
シャーロットはまさに、両手で口許を覆って、悲鳴を堪えた自分を褒めているところだった。
――二年と少し前に、シャーロットが破格の報酬としてマルコシアスに与えたのは、秘宝『神の瞳』。
こぶし大の、深緑色のその宝玉が、半ばマルコシアスの鎖骨の辺りに埋まっていた。
正確にいえば、宝玉は半ばほどがかれの中にめり込み、そして露出した部分に、まさに人間の筋組織のような筋が這い、それが血管のように脈打っているのだ。
シャーロットの表情が賞賛とはほど遠いものであることは理解できたのか、マルコシアスは期待が外れたような顔をする。
「あれ? いまいちな反応だ」
「グロテスク……」
シャーロットはつぶやき、ぎゅっと目をつむった。
「それを仕舞って、エム。それから後ろを向いていなさい」
マルコシアスは軽い膨れっ面を見せたものの、「はあい」と応じて、かれの主人の要求に従った。
シャーロットはすばやく寝間着を脱ぎ、白いブラウスと濃紺のスカートを身に着けて、手櫛で金色の髪を梳き――その髪が短くなっていたことを、あらためて思い出した様子でぎょっとした顔を見せた。
慌ててつげの櫛で髪を整え、シャーロットはデスクの上に放り出されていた髪留めを拾い上げて、髪が短くなったことが目立たないよう、手早く髪を結い上げて留めた。
流れるように身支度を整える彼女を、許しもなく振り返って眺めながら、マルコシアスがつぶやいた。
「――あんた、変わったねぇ」
「は?」
と、ノーマを起こしてはならないと、声をひそめながらシャーロットが訊き返す。
「なにが?」
マルコシアスは顎を撫でた。
「大叔父さん――だっけ。あの老いぼれの家にいるときは、あんたは起きて着替えるだけで、髪なんて寝癖がついてるままだった」
シャーロットは顔を顰めた。
「忘れなさい」
「気が向いたらね。――でも、変わるのはいいことだ。不変は罪だ」
シャーロットはあいまいに肩を竦めて、バックパックを床から拾い上げて、中身を入れ替えた。
そして黒い上着を羽織ると、バックパックを背負い、デスクの上の封筒をしっかりと握り締めて、マルコシアスを振り返った。
「エム――」
「元気になった?」
マルコシアスが首を傾げて、そう尋ねた。
シャーロットは一瞬、虚を突かれた顔をしたが、すぐに気まずそうに目を逸らした。
昨夜の醜態が、彼女としても本意ではなかったことがよく分かる態度である。
マルコシアスは思わずにんまりと笑ったが、目を逸らしたがためにシャーロットはそれには気づかなかった。
「いえ――」
シャーロットは口ごもったが、すぐに胸を張ってみせた。
「考えたのよ。その、悪いのは私じゃなくて、襲ってくる方じゃない?
それに、このお手紙、」
と、彼女は手にした封筒をひらひらと振った。
「これが届きさえすれば、ネイサンさんが何かの指示を下さるわ。そう思えば、十四歳のときのあの一件よりも、気分としてはずいぶんマシよ」
「ほう」
マルコシアスは顎を撫でて、悪魔らしい意地の悪さで尋ねた。
「その、ネイサンってやつが、あんたにこの学院を辞めるように言うかもしれないね?」
シャーロットは痛いところを突かれた顔をした。
それを、マルコシアスははた目からはうかがい知れない満足をもって眺めた。
「そのときは――なんとか考えるわ」
マルコシアスはなおも尋ねた。
シャーロットは、まるで尋問を受けているような気分になってきた。
かれの声は極めて静かだったが、輪郭明瞭に彼女の耳に届いた。
「手紙はどのくらいで向こうに届くの?」
「……三、四日かしら。お天気しだいだけど」
「へえ」
マルコシアスは微笑んだ。
「じゃあ、そのあいだにまた何かあるかもしれないね。そのあいだくらいは、あんたはここを出ていかなくていいの?」
「もう」
シャーロットは控えめに地団駄を踏んだ。
控えめとした理由はもちろん、平和に眠るノーマを起こさないためである。
「なんなの、お前。いいこと、まず第一に、お前にどうこう言われる筋はないわ。お前は悪魔なんだから、命令に従うことだけ考えてちょうだい。
それに、一丁前に責めないで――お前は悪魔なんだから、倫理なんて欠片もないでしょ」
「あんたといるときは、そうでもない」
マルコシアスはおだやかに応じて、きょとんとした様子のシャーロットに苦笑し、芝居がかって両手を広げた。
「レディ・ロッテ、忘れたの? あんたに仕えるときには僕は、あんたの倫理に従って命令を果たすんだ。
そう約束した」
「――――」
シャーロットは今度こそ、あきらかに驚いた顔を見せた。
橄欖石の瞳を見開いて、まじまじとマルコシアスを眺めて、彼女は茫然としている。
「どうして覚えて……」
マルコシアスは肩を竦めた。
「言ったろ、ロッテ。僕はあんたのことは忘れない」
シャーロットがあまりに驚いているので、マルコシアスはおかしみを感じたらしい。
ふっと笑みをこぼして、かれは片目をつむってみせた。
「それに、おっしゃるとおり、僕自身には倫理だの良心だの愛情だの、あんたたちが美徳にするものなんて一切備わっちゃいない。
僕はあんたの命令に従うよ――なんなら、あんたのしたいことを応援するよ。あんたがあまりに大人しいようだと、きっと僕は退屈するだろうね。
あんたこそが、あんたに従う僕の倫理だ。さあ、ご命令を」
シャーロットは、芝居の一幕のようにその言葉を聞いていた。
くるくると手にした封筒をもてあそびながら、彼女はつぶやく。
「とりあえずは、このお手紙を郵便馬車に出しにいくわ。お前は、私についてきて……」
そこまで言って、彼女は鼻をすすって、うつむいた。
唐突に、何か言い訳をしなければならないという衝動に駆られた。
「――お手紙の返事がくるまでのあいだ、私がよそに行っていても無駄だと思うの。
だって――私を襲ってきた人が誰か分からないんだもの。どこにいて、どこから私を見ているのかも分からないんだもの。もしかしたらその人はずっと離れたところにいて、悪魔に、『リクニス学院を襲え』とだけ命令しているのかもしれないわけでしょう? だったら、私がどこにいようと変わらないわ。
それに、よく考えてみてよ。襲ってくる方だって、人死にが出て大騒ぎになれば、警察がここに押し寄せてくるもの――そう大袈裟なことは出来ないに違いないわ」
「分かった、分かった。意地悪を言って悪かったね」
マルコシアスが宥めるようにそう言った。
気遣いゆえではなく、単純に面倒になったからだと分かった。
シャーロットははっとして、息を吸い込んだ。
目の前にいるのは悪魔である。
つい昨日、かれを召喚した直後には、しっかりと互いのあいだに一線を引かなければならないと決意したというのに、なんという体たらく。
吸い込んだ息を一瞬止めて、シャーロットはなんとか――心の上で――体勢を立て直そうとした。
「エム、いいかしら――」
声をひそめながらも、出来る限りきっぱりと、彼女は言った。
「私が必要としているのは、お前の悪魔の力なの。それで助けてもらうことなの。
助言も甘言も励ましも要らない」
マルコシアスは無造作に肩を竦めた。
「はいはい、承知、承知」
シャーロットはつんと顎を上げた。
「じゃあ、朝食の前にお手紙を出しにいきますから、ついて来て」
「はいはい」
「もちろん、」
シャーロットは言葉を強調した。
「授業外で悪魔を――それも魔神を――召喚したなんてことが知れたら、あれこれと詮索を受けることになっちゃうと思うけれど、そんなのごめんだわ。
出来るだけ隠れていてちょうだい、エム。
――さあ、手をつないで」
リクニス学院に毎朝立ち寄る郵便馬車は、学生や教授あての手紙をその胎から下ろし、学院の管理人に託し、代わって学生や教授がしたためた手紙を受け取った。
どちらも、それほどの数があるわけではなかった。
シャーロットは封緘した手紙を郵便馬車の御者に託し、御者が眠そうな目でその宛先を確認して、馬車の中にそれを放り込むのを見守った。
そしてついでに、自分に宛てられた手紙が届いていないかを、管理人の許可を得て確認したが、あいにくと今日、シャーロット・ベイリーに宛てられた手紙は一通もなかった。
「――少なくとも、これでネイサンさんに事態は届くわ」
シャーロットは自分を励ますためにそうつぶやいた。
その頃には、太陽が遠慮がちに昇りはじめていた。
透明な青い空が覗いていたが、頭上から西にかけては、分厚い雲に覆われており、そのうちに雨になりそうな空模様だった。
シャーロットは急ぎ足で女子寮へ戻った。
早くも朝食に活気づく食堂に滑り込み、並べられた大きなテーブルのベンチをまたいで腰かける。
そのときになって、いつもとは様子が違うことに気づいた。
食堂の奥で、寮母と料理人が何やら深刻そうに話し合い、三々五々に朝食に下りてきた学生たちが、そちらをちらちらと窺っている。
「――どうしたんですか……何かあったんですか?」
シャーロットは身を乗り出し、斜向かいでぴんと背筋を伸ばして紅茶を飲む、三年分先輩に当たる学生に尋ねた。
彼女はうるさそうに眉を寄せ、少々嫌味ったらしく応じた。
「お気づきにならない? ――銀食器が盗まれてしまったんですって」
「はあ」
シャーロットはつぶやき、覚えず手許を見下ろした。
確かに、いつもは整然と銀食器が並んでいるはずのテーブルには、錫や陶磁器の食器が並べられていた。
「えっ、リクニスで盗難ですか」
シャーロットは思わず低く叫んだが、斜向かいの学生は、ふんと鼻を鳴らしてよそを向いていた。
朝食の席には、果実水が満たされたデカンタや、焼き上げられたばかりのパンが詰められた籠、かりかりに焼かれたベーコンやソーセージ、スクランブルエッグ、ベイクドビーンズが山と盛られた皿が置かれ、各人がそこから自身の皿によそって朝食を済ませることとなっていた。
成長期にある少女たちの食欲を舐めてはならないというのが、女子寮の料理番が代々受け継ぐ至言であるという噂があるほど、量は充実していた。
シャーロットは首を傾げ、それからはっとして、思わず左腕に収まったマルコシアスを、強くテーブルに押しつけるようにした。
痛い! と抗議するように、腕輪がかすかに震える。
彼女は周囲を見渡してから、こっそりと囁いた。
「お前――銀が嫌だからって、隠してしまったりはしていないわよね?」
「してるわけないだろ」
マルコシアスの小さな囁きが耳許で聞こえた。
「よく考えてものを言ってくれ、レディ」
シャーロットは不承不承口をつぐんだ。
「違うならいいんだけど……」
そう独り言ちながら、彼女はデカンタから自分の前の陶器のコップに果実水を注ぐ――
と、それが横から伸びてきた手にかっさらわれた。
「あっ」
「おはよー、ロッテ」
そこで微笑んでいたのはロベルタである。
綺麗に化粧を済ませ、誇らしそうに微笑んでいる。
こくこく、と当然のように果実水を飲んでからコップをシャーロットに返し、彼女はにっこりと笑った。
「元気になったのね。良かった良かった」
「おかげさまで」
憮然としてそう言って、シャーロットはもう一度果実水をコップに注ぎ、それを呷った。
「それより、ねえ、気づいた? 銀食器が盗まれたんですって」
「あらま」
ロベルタの反応はあっさりしたものだった。
「見つかるといいわねぇ」
彼女はいそいそとシャーロットの隣に腰かけると、深刻そうにつぶやいた。
「ねえ、それより、今日の『呪文理論』だけど、課題は終わらせてる?」
「あたりまえ」
「もう、なんであなたって、呪文にそんなに強いのかしら。
――私だって終わらせてるのよ。でも本当に、自分で分かるくらいに出来がぐちゃぐちゃなの。昨日、夜中の三時頃にぽっかり目が覚めたのよ――それで、課題がぐちゃぐちゃだって思い出したの。あんなひどい気分ってないわ。私、それからぜんぜん眠れなくて――」
ロベルタはしばらく話し続けた。
シャーロットはスクランブルエッグとソーセージを自分の皿によそい、籠からパンを二つ取った。
ロベルタも食事を始めたが、不思議と話が途切れない。
そのあいだに、シャーロットのルーム・メイトであるノーマが物静かに食堂に下りてきて、シャーロットのもう一方の隣に腰かけ、小声で朝の挨拶を済ませると、黙々と食事を始めた。
それからしばらくして、やっとロベルタは話すのをやめた。
シャーロットはほっとしたが、一息入れた直後のロベルタの言葉に、あやうく口の中のものを吹き出しそうになった。
「――あら? ロッテ、それ、新しい腕輪?」
シャーロットは根性でむせることを堪え、口の中のものを飲み込んでから、にこっと笑った。
「ドレスと一緒にいただいたのよ。言わなかったっけ?」
「ああ、あの、あなたの謎のパトロン」
ロベルタは無表情につぶやき、ようやく言葉を切った。
ノーマはゆったりとマルコシアスに目を移し、もちろんのこと、それが悪魔であると見抜いた様子はなく微笑んだ。
「素敵ね、似合ってるわ」
シャーロットは微笑んで礼を言い、どうかマルコシアスが気紛れを起こして、身動きしたりはしませんよう、と神に祈った。
マルコシアスはご満悦の様子だったが、にわかに腕輪の表面を温かくしたのみで、有害ないたずら心は起こさなかったらしい。
シャーロットはひどく安堵した。
▷○◁
シャーロットにとっては不気味なほどにいつもどおりに、時間が流れた。
本棟には、昨夜の襲撃をほのめかすものは何も残っていなかった。
入り組んだ本棟を半ば走るほどに速足で歩き回り、講義室から講義室へと渡り歩く日常は変わりなく、講義は上の空で聞いていられるほどには簡単ではなかった。
とはいえシャーロットは、『呪文理論』で、普段なら絶対に誤らない呪文の書き取りを間違え、教授に軽蔑の言葉を掛けられた。
これには、最年少の入学者を快くは思わない一部の学生から、嘲笑の声が上がった。
昼食のとき、既にシャーロットは疲れ切っていた。
彼女は大広間の隅でかろうじて席を確保し、朝食とおよそ同じような形で提供される昼食を、自分の皿によそうだけよそって無関心につついた。
が、大広間は興奮ぎみだった。
どうやら本棟からも、あらかたの銀食器が盗み出されていたらしい。
「怪盗が現れた」と学生たちは面白がっていたが、全く面白くはないのが管理人や教授たちである。
彼らは厳粛な面持ちで監督生を呼び集め、念のため、学生たちを口頭で検めるようにと指示を出した。
監督生たちは陰気な面持ちで(それはそうである、貴重な昼食の時間を削られているのだ)テーブルのあいだを徘徊し、学生たちを「銀食器について知らないか」と問い詰め、彼らから渋面を引き出していた。
シャーロットは、自分に声を掛けるならば、以前から親交のあるミズ・ヘイワードだろうと思ってぼんやりしており、唐突に声がかかって飛び上がるほど驚いた。
「――おい」
シャーロットは振り返った。
そしてそこに、彼女の嫌いな顔を見た。
――一度しか間近に見たことはないが、忘れようもない不愉快な顔である。
プラチナブロンドの髪を丁寧に撫でつけ、冷ややかな青い目で彼女を見下ろす、仮面にぴっちりと皮膚を張ったような冷徹な表情の男性。
学生に違いないというのに、あつらえの良い背広を着こなしている――
――リクニスに入学し、初めての試験に恐れおののいていたシャーロットに、手酷い侮蔑の言葉を投げつけた、「ショーン」なる人物である。
監督生だったのか! と、そこに驚き、シャーロットは仰天の表情を見せた。
そんな彼女を軽侮の眼差しで見下ろして、彼は低い声で言った。
「銀食器について知っているか」
シャーロットは瞬きし、憤然と彼を睨んだ。
ミズ・ヘイワードから尋ねられれば、笑顔で「存じません」と応じていただろうが、質問者というものは重要である。
「知りません」
彼は瞬きもしなかった。
ただ、わずかに唇を歪めた。
「どうだか――」
そう言われて、シャーロットは危うくその場で立ち上がりそうになった。
それを堪えた理由は一つ、彼が、疑わしげにシャーロットの左手首の腕輪を見たからである。
シャーロットはなんとか愛想笑いを絞り出した。
「……早く見つかるといいですね」
彼はシャーロットの顔に目を戻した。
無表情だったが、少し怒っているようでもあった。
「何か疑わしいものを見かけたら、監督生に申し出るように」
「かしこまりました」
シャーロットはぺこりと頭を下げ、彼が背を向けると同時に顔を上げ、舌を出した。
そしてあいにくと、その表情を見たのはショーンなる人物ではなく、向こうから足早に大広間に入ってきたオリヴァー・ゴドウィンだった。
彼は伸びてしまった黒髪を後頭部で一つに束ねており、明るい緑の目をしている。
全くといっていいほど身形にこだわりがなく、今も毛羽立ったマントを羽織っていた。
そんな時代遅れの格好をしているのは大広間広しといえど彼だけである。
「なんだ、ベイリー」
彼は眉を上げた。
シャーロットはうめいた。
「俺に何かあるのか」
「なんにもありません。そんなことよりオリヴァーさん、銀食器が盗まれたらしいですよ」
オリヴァーは鼻を鳴らし、ちょうどシャーロットの隣に座っていた学生が立ったのを、好機とばかりにそこに座った。
ばさ、とマントをひるがえしてそこに座ったものだから、シャーロットは鼻にしわを寄せてしまった。
「ああ、そのようだな。俺の第二寮でも話題になっていた――」
シャーロットは、心ならずも驚いた。
顔を上げて、オリヴァーの横顔を見上げる。
「えっ、男子寮の方でも盗みがあったんですか?」
「女子寮の方でもあったらしいな。ダイアが言っていた」
オリヴァーはそう言って、目の前のパンを適当につかんだ。
そして、横目でシャーロットを見た。
「俺としては、どこかの悪魔の仕業じゃないかと思うんだが。銀だけ盗むなんて、いかにも悪魔だ」
「悪魔なら、銀には触れられないんじゃないですかね」
シャーロットはつぶやき、つついていたコテージパイをひときれ口に入れた。
オリヴァーは首を竦める。
「魔神ならその限りでもないだろう。
――このあと『召喚応用』の講義なんだが、おすすめの魔神はいるか?」
「いません」
シャーロットがそう答えたとたん、左手首の腕輪がぎゅっと縮んだ。
シャーロットは真剣に腹を立てたが、オリヴァーはさいわいにも、それには気づかなかったらしい。
もとより食事に夢中の様子ではあった。
オリヴァーはごくごくとミルクを飲んでから、はッと笑った。
「そうだったな。魔精蒐集家に、これは失礼を」
シャーロットはカトラリーを置いた。
「ねえ、ノリーくん。人のこだわりをあげつらうのは良くないわ」
「その呼び方はよせ」
オリヴァーが顔を顰めたタイミングで、「ミズ・ベイリー!」と、大広間前方で声が上がった。
シャーロットはぎょっとした。
「はっ?」
「ミズ・ベイリー! ――ミスター・デンゼル! ――ミズ・ミルトン!
いらっしゃい!」
声を上げているのは、小柄な中年の女性教師だった。
シャーロットは、彼女から教わる講義を取ってはいない。
「えっ、なんだろう……」
慌てて腰を浮かせるシャーロットに、オリヴァーが軽く笑い声を上げた。
「行ってこい、退学なら墓標は立ててやる」
シャーロットはばたばたとベンチから抜け出し、テーブルを回り込んで走り出した。
座る席が見つからなかったらしい学生が、足早にシャーロットが元いた席に滑り込んで、まだ食べ掛けのパイが残っていた彼女の残した皿を、ぐい、と向こう側へ押し遣った。
シャーロットが女性教師に駆け寄るのとほぼ同時に、呼ばれた他の二人も走り寄ってきていた。
シャーロットはそのどちらの学生とも面識はなかったが、今この瞬間、不安によって三人の心は一つになっていた。
女性教師は、三人の不安に駆られた表情に笑い声を上げた。
「あらあら、そんなに不安そうにしなくて大丈夫ですよ。
――あのね、申し上げたいのはね、郵便馬車のことなんです」
ほっとした表情が他の二人の顔に浮かんだ。
対照的に、シャーロットは胃袋の中に氷が詰まったような心地を味わった。
まるで、足許の床にぽっかりと穴が開いたかのように、身体が落ち込む感覚すらあった。
「郵便馬車……?」
「そうなの、そうなの」
強張ったシャーロットの顔を不思議そうに見ながら、女性教師はぽん、と両てのひらを合わせた。
「あなたたちだけなの――今朝の郵便馬車にお手紙を預けたのは。
それでね、ちょっと申し上げにくいんだけれどね、今朝の郵便馬車が事故に遭ってね――」
シャーロットの膝が震え始めた。
他の二人の学生が、むしろ怪訝そうにシャーロットを見ている。
蒼白になった彼女の顔を。
「まあ、その、不幸な事故です。お手紙も駄目になったようでね。
だから――今朝のお手紙が重要なものじゃなければいいんだけど――また明日、改めてお手紙を出してくださいね、と、それをお願いするためにお呼びしたんです」
他の二人の学生は、拍子抜けしたようだった。
「そうですか……」
男子学生がつぶやいて、鼻の下をこすった。
「自分は、全然かまいません――」
「あたしも大丈夫ですよ」
女子学生もそう言って、ちらっとシャーロットを見た。怪訝そうだった。
「大丈夫です? そんなに大事なお手紙だったんです?」
「事故って、どんな事故ですか」
シャーロットは縋るように尋ねていた。
「ロッテ」と、耳許で、叱りつけるような小さな声がした。
それでも確認せずにはいられなかった。
「御者のかたはどうなったんですか」
「まあ」
女性教師は困った様子を見せた。
両てのひらで頬を包むようにして、彼女はまなじりを下げる。
「まあ、まあ――ミズ・ベイリー、落ち着いてちょうだいな。
どうにも――途中で、何か不幸があって馬が暴れてしまったようなの……御者のかたは……ねぇ……」
女性教師は言いよどんだ。
他の二人の学生が、意図せずして悪い知らせを耳に入れることになり、顔を顰める。
シャーロットは顔をおおった。
大広間のざわめきが、唐突に油膜を隔てたように遠くに聞こえ始めた。
――これを偶然と考えるほど、彼女の頭はおめでたくはない。
シャーロットを襲ってきた人物は、では、彼女が外と連絡をとろうとしたことを知っていた。
そして、それを妨げたのだ。
ただ一人しかいない、とある男性の命を奪うことによって。
――慄然として、シャーロットは悟った。
手紙をしたため、彼に預けた彼女のその行為こそが、彼を殺したのだ。
彼女の軽率さ、彼女の思慮の甘さこそが、あの男性という個人を、永遠にこの世界から奪い去ったのだ。




