04 悪魔の誘惑
「ねえ、ロッテ。とりあえず、僕は何をすればいいの?」
「…………」
「あんたにずっとくっ付いていればいいの?
それとも、あんたが僕にどこそこを見張れって命令してくれるの?」
「…………」
「おーい、おーい。
――これはまいった」
マルコシアスは、うろうろと歩き回っていた足を止め、ベッドの上でうなだれたシャーロットを見て、見せかけの困り顔を浮かべた。
処は、リクニス学院の女子寮、シャーロットの――正しくは、シャーロットとノーマ・ハイアットの――私室である。
シャーロットはあのあと、本棟に取って返して医務室に駆け込み、ワルター氏の生命の無事を確認した。
彼は医務室のベッドに横たわり、まさに死んだように動かなかったが、医務官であるところの医師はおだやかに、頭を打って昏倒しているだけだと保証した。
シャーロットはそれに震えながら頷き、そして、震える小声で、腕輪の姿のマルコシアスに命じた――精霊の一部を彼につけて、これ以上は何人たりとも彼に危害を加えることがあってはならない。
とはいえ、シャーロットにも分かっていた――学院内で人死にが出たとなれば、厳戒態勢が敷かれる。エデュクスベリーの警察が動き、学生たちは親元に帰されることになるだろう。
襲撃者は、それを避けようとしたのだ。
だからこそ、最低限におだやかな手段で、シャーロットの庇護者の一人を排除したのだ。
マルコシアスが命令を了承したことを確認して、シャーロットはとぼとぼと女子寮に戻ってきた。
一階の食堂は、まだ食事と談笑にさざめいていたが、彼女はそちらに見向きもせず、私室に戻った。
ルーム・メイトはまだ食事から戻っていなかった。
シャーロットは、彼女のためのスペースとノーマのためのスペースを区切る分厚いカーテンを引き、バックパックを下ろし、黙々とデスクに向かって、短い手紙をしたためた。
それが終わると便箋を封筒に押し込んで封をし、几帳面にデスクの上にその封筒を置くと、よろよろとベッドに座り込み、うつむいた。
――そうして今に至る。
マルコシアスが勝手に腕輪の姿から少年の形に戻ろうが、何を話しかけようが見向きもしない。
マルコシアスは肩を竦めると、馴れ馴れしくシャーロットの隣に腰かけ、彼女の肩を叩いた。
「ロッテ、そう気を落とさないで。これは、あれかな。僕には分からないけれど、いつか誰かが言っていた、あんたには慈悲があるって、そういうことかな。あんたがしょんぼりしているのは、あんたの慈悲のためなのかな」
シャーロットは応じない。
マルコシアスはぐるりと瞳を回した。
「まあまあ、ロッテ。さっきの――誰だっけ。あんたが見舞っていたあいつも、もしかしたら不注意で足を滑らせたのかもしれないさ。あんたがそこに作為を疑っているだけだ」
「――正気で言ってるの?」
ようやく、シャーロットが顔を上げた。
彼女が、まさに耳を疑うという軽蔑の表情でマルコシアスを見た。
マルコシアスは嬉しそうにした。
「お、こっちを見たね。あんたの耳が馬鹿になったんじゃなくて良かった」
「お前――」
シャーロットが言葉に詰まりながら声を荒らげたが、それよりも早く、マルコシアスはおどけて両手を挙げてみせた。
そして、いたずらっぽい――まさしく魔性の表情で、シャーロットの強張った顔を覗き込んだ。
「ロッテ、僕は状況が分かってないんだよ。さあ、教えて」
シャーロットは声が詰まった様子だったが、マルコシアスは頓着しなかった。
かれは、おだやかな――悠揚迫らぬ態度で繰り返した。
「さあ、教えて。
まず、寝込んでたあいつは誰?」
「――――」
シャーロットは息を吸い込み、やがてその息をゆっくりと吐き出した。
悪魔を相手に何を言っても無駄だと思ったのか、彼女は両手で顔を押さえながら、呻くように言った。
「……ワルターさんよ。彼と――もう一人のかたで、私に――お前、私の立場は知っているでしょう、だから、私にもしものことがあったら――あの人が議事堂にそれを知らせてくれるはずだったの」
「ほう」
マルコシアスは真顔で頷いた。
いっそ興味深げでさえあった。
もちろん、それは悪魔の見せかけだったが。
「あんたが変な魔精に襲われると同時に、そいつが階段で足を滑らせていたわけだ。
――なるほど、偶然だとすると、あんたは本当に運がない」
シャーロットは激昂して口を開きかけたが、マルコシアスはそれに先んじて、おだやかに言っていた。
「あんたが気に病んでいることを教えてくれ、ロッテ。
――えーっと、どこって言ってたかな……そう、議事堂だ。議事堂と連絡がとれなくなったことを嫌がってるの?」
シャーロットは言葉と一緒に激昂を呑み込み、顔をこすった。
「そう――いいえ、正確には、それが半分だけど……」
「ほぉーう? 残り半分はなんだろう。この不勉強な悪魔に教えてくれ」
わざとらしい興味をよそおったマルコシアスの声音に、シャーロットは顔を顰めた。
「お前には分からないんでしょうね――悪魔だから。
でも、――彼は……ワルターさんは、私のせいで階段から突き落とされたのよ」
マルコシアスは指を鳴らした。
「そうか。なるほど、分かったぞ。その罪悪感だ。――“罪悪感”、使い方あってる?」
「――――」
シャーロットは息を吸い込み、それから諦めたように溜息をこぼした。
彼女はうつむいた。
そんな彼女の背中を軽く叩いて、マルコシアスは快活に言った。
「よーし、じゃあ、整理しよう。――ロッテ、いいかい、あの男はもう寝込んでしまっている。あんたがここで打ちひしがれていようが、反対にダンスを踊っていようが、変わらない」
「…………」
シャーロットは眉間に皺を刻んだ。
「違うわ……私がここにいるから……」
しかし、マルコシアスは彼女が言い差したその声が聞こえなかったようにして、言葉を続けた。
「議事堂との連絡は、僕が行ってもいいけど、どうせあんたの目当ての人間に行き着く前に、山ほど疑われて手間取ることは目に見えている。――でしょ?」
シャーロットは額を押さえた。
「そうよ。――手紙を書いたの。悪魔が持って行かない――普通のお手紙だったら、時間はかかるけど届くから。明日、郵便馬車に託すわ」
「人間って、僕らに頼るのに僕らを疑うからね」
マルコシアスは感慨深そうにそう言って、微笑んだ。
「じゃ、朝まであんたに出来ることはないんだ。違う?」
シャーロットは口ごもり、やがてぽつりと言った。
「……本当は、お父さまもネイサンさんも閣下も、本音のところでは、私に何かあるなんて思ってなかったの。オーリンソンさんは捕まったし……私たちの事情を知っている人たちは、全員とても厳しく追及されたし。
ちゃんと片づいたと判断されてなかったら、もっと二の手三の手が用意されたはずだもの。格好だけだったの――本当は分かってる」
「そうなの」
「私も、いけなかったの。入学していいって言われて――有頂天になってたの。もうちょっと、本当に何かあったときのために、皆さまと話し合っておくべきだったのよ」
「そうなの」
マルコシアスは愛想よく頷いて、立ち上がった。
ベッドは軋みすらせず、目を閉じていればかれの存在は感じようがないような、静かで気配のない仕草だった。
「ともかく元気を出してくれ、レディ。あんたがしおれていると、僕は落ち着かない」
シャーロットは目を見開いてマルコシアスを見上げた。
「は?」
「ロッテ、さっき話に出ていた、オリヴァーっていうのは誰?」
シャーロットはなんとなく前髪を触った。
「先輩よ……」
「そう」
マルコシアスは、壁際に寄せられたトランクの上に重ねられた、最近シャーロットが受け取った新しいドレスが入った箱を観察し、それから軽やかな足取りでシャーロットの書棚に近づき、頓着のない手つきで、適当な本を引っ張り出してはぱらぱらとめくり、また書棚に戻すということを繰り返した。
シャーロットが毒気を抜かれてそれを眺めることしばし、マルコシアスは書棚に置いた箱の中に詰められた、これまでにシャーロットに宛てて記されてきた、手紙の山に手を伸ばした。
「こら」
シャーロットは慌てて立ち上がり、マルコシアスの手を押さえにいった。
「お前はすぐ、他人の手紙を読む……」
「そう?」
マルコシアスは手を下ろし、肩を竦めた。
そのとき、部屋の扉が開く、がちゃりという音がした。
きぃ、と蝶番が軋んで、床を踏む靴音がそれに続く。
シャーロットは飛び上がり、マルコシアスに「隠れて」と合図した。
マルコシアスは平然と立っている。
「――ロッテ?」
ルーム・メイトのノーマの声がした。
「ロッテ――大丈夫? ロベルタが、様子が変だったって言ってたから。夕ごはんはいいの?」
シャーロットは慌てて、分厚いカーテンを少しだけ開けて、ノーマへ顔を見せた。
黒い髪を左耳の辺りで一つに結ったノーマは、心配そうに首を傾げてそこに立っている。
彼女はバックパックを下ろしながら、眉を寄せた。
「まだ、晩餐のごはんがちょっと残ってるわよ。おなかが空いているなら、食べに行った方がいいわ――それとも、私が取ってきましょうか?」
シャーロットは首を振った。
「大丈夫――ロベルタのことはびっくりさせちゃったかしら。急におなかが痛くなって、医務室に行ってたの。食欲がないの――横になってるわ」
「そう?」
ノーマは目を見開き、年上らしい気遣いでシャーロットをまじまじと観察した。
そして、不承不承といった様子で頷いた。
「医務室に行ってるなら、大丈夫かしら。着替えちゃいなさいね。
――何かあったら言ってね。ひまし油は飲んだ?」
シャーロットは弱々しく微笑んだ。
「そこまでじゃないの。大丈夫よ」
そして、シャーロットはカーテンの奥へ引っ込んだ。
そうしてから、マルコシアスに「どうして隠れてくれないの」と責める瞳を向けたが、かれはどこ吹く風といった様子で、暢気に窓の外を眺めている。
シャーロットは溜息を吐き、自分の側の明かりを吹き消した。
部屋の半分が暗くなったが、ノーマの側ではまだ灯りが揺れている。
ノーマの影が、影絵のようにカーテンに映り込んでいた。
彼女は少しのあいだ、じっとシャーロットの気配に耳を澄ませて、異変がないかどうかを探っているようだった――それから、物静かに動いて、バックパックをデスクの上に置いた――床が軋む。
かすかな衣擦れの音――彼女が着替えている。
そしていつものように、ノーマは椅子の上にゆったりと腰かけて、本を開いたようだった。
ページをめくる、おだやかで乾いた音が聞こえてくる。
シャーロットは深呼吸して、ノーマの側から漏れてくる明かりと、窓から差し込む月明かりを頼りに、彼女自身も着替え始めた。
マルコシアスは礼儀正しく背中を向けていたが、彼女がふたたびベッドに腰かけると、当然のようにその隣で脚を組んで座った。
ページをめくる音――溜息――椅子が軋む音。
シャーロットは目を閉じたが、すぐにまたぱっと目を開けた。
そうするとマルコシアスと目が合った。
かれが、静かな――本当に小さな声、どうしてその声が聞き取れたのか、シャーロットが不思議に思うような声で、歌うように尋ねた。
「眠らないの? 人間は夜になると横になって眠るっていう印象なんだけど」
「――――」
シャーロットは口を開いたが、言葉に詰まった。
カーテンを一枚隔てたそばにいるノーマに、その声を聞かれることを恐れた。
れが分かったのか、マルコシアスがくるくると指を回して合図して、「大丈夫だよ」と囁いた。
かれが何か手を打ったに違いないと分かって、シャーロットはつぶやいた。
「……眠れそうにないのよ。私のせいで、ワルターさんが突き落とされたのよ――他にも誰かがひどい目に遭うかもしれない……」
マルコシアスは驚いたようだった。
淡い金色の瞳が、伸びすぎた灰色の前髪の奥で見開かれた。
「心配いらないよ?」
「お前は……っ!」
声をひそめながらも怒鳴りそうになったシャーロットの肩に、マルコシアスが宥めるように手を置いた。
――人外のものでありながら温かい、そのてのひら。
シャーロットは半ば茫然として、ぽかんと口を開けた。
マルコシアスはそのまま、ゆっくりとシャーロットの腕を辿って、彼女の手を握った。
まるで人間がするように――人間の仕草をそっくりに真似て、かれはシャーロットの指に自分の指を絡めた。
「大丈夫――レディ・ロッテ、大丈夫だ」
言い聞かせるようにそう言って、マルコシアスはシャーロットとしっかりと目を合わせた。
まさに悪魔の甘い囁き――はるか昔から数多くの人間を騙し、幻惑し、破滅させてきたその極上の嘘――ただし最上級の真実に見える優しさで、マルコシアスは繰り返した。
「大丈夫――大丈夫だ」
魔性の指が、しっかりとシャーロットの手を握っている。
シャーロットは自分の手が震えていることを自覚した。
しかし、マルコシアスの方には、それに気づいた様子は微塵もなかった。
かれはただおだやかに、シャーロットと目を合わせて微笑んでいる。
「――――」
シャーロットはつかのま、マルコシアスの手を振り払おうとし――しかし、それが出来ずにかれの肩に額を寄せた。
悪魔の甘言に耳を貸してはならない、悪魔の誘惑に屈してはならない、悪魔の言葉と態度を信用してはならない――重々言い聞かされてきたその言葉に基づく彼女の理性が、しかしこの瞬間は、十七歳の少女の弱音に負けたのだ。
シャーロットは魔術師ではなく少女として、おだやかに自分の手を握る、十四歳の彼女を助けた少年の姿をした悪魔に縋ってしまっていた。
――彼女の事情を知るのはかれだけだった。
彼女が今、現状を訴えることが出来るのはかれだけだった。
「ここの人たちに取り返しのつかないことがあったら、どうしたらいい……もう、あの一件で終わったと思ってたのよ……みんな」
「そうだね」
事情を了解してなどいないだろうに、マルコシアスは甘い口調で肯定した。
そして、かれの肩に寄せられたシャーロットの頭に頬擦りした。
「大丈夫だよ、僕のロッテ。
――僕が見ている。あんたは眠るんだ」
シャーロットは顔を上げた。
マルコシアスは――何人もの人間を騙して恍惚とさせてきただろう――優しい笑顔で頷いた。
「何かあれば、すぐに知らせるよ。さあ、ロッテ、横になって。あんたは眠るんだ。
大丈夫――僕がいる」
シャーロットは数秒のあいだ、探るようにマルコシアスを見つめていた。
マルコシアスは、彫刻のようなその笑顔を崩さなかった。
やがて、シャーロットはそろそろとマルコシアスから手を離し、鼻をすすって、もぞもぞとベッドの上に脚を上げ、シーツにくるまって横になった。
マルコシアスはそれを見守り、横たわったシャーロットの右手を、親切そうに握ってやった。
それからしばし。
ノーマが灯りを吹き消し、部屋の中の光源が窓から差し込む月光だけになってからしばらくして、ようやくシャーロットが寝息を立て始めた。
白い月明かりがその寝顔を照らし出し、血の気の失せたシャーロットの顔貌を、人形のように見せている。
シーツの上にばらりと広がった金髪が、月光の下にあっては白っぽい色に見えていた。
マルコシアスはしばらく、満足そうにその横顔を眺めていた。
それからかれは、ひゅん、と、無造作に指を振った。
音もなく、窓のカーテンがぴったりと閉ざされた。
部屋の中はいよいよ暗くなったが、それは悪魔の視界を遮るものではない。
「――綺麗な月にであっても、あんたはやらない」
微笑んでそうつぶやき、マルコシアスはシャーロットの手を離した。
ぽと、とシャーロットの手がシーツの上に落ちたが、彼女が目を覚ます様子はなかった。
かれは笑った――それこそ唇が裂けんばかりに。
「さてロッテ、僕の記憶に誤りがなければ、あんたはきっと、この場所にいることに執心するに違いない――ところが、あんたがいれば、ここにいる人間は危ない目に遭うかもしれない」
ほとんど愛おしさすら感じさせるほどの執心をもって彼女の髪を撫でて、マルコシアスは声もなく哄笑した。
「では、レディ・ロッテ。折れないスイセン、砕けない硝子細工――つねに頭の中で倫理観を学問している、度外れた頑固者さん。
あんたのその倫理観と、あんたの目的がまた喰い違ってきているみたいだ。
――さあさあ、これは面白くなってきた」
シャーロットの頬を撫でて、マルコシアスは高笑せんばかりに。
「あんたはどうやって、あんたの中の天秤を保とうとするんだ?
――それとも、その天秤を保てなくなって砕けるのか――もしそうなるとしたら、その今際の際はどんなだろうね?」
マルコシアスはいっそ無邪気なまでに悪意に満ちた微笑を浮かべ、囁いた。
「――なんにせよ、よくぞ僕を呼んでくれた。――よくよくそばで見ていますとも、レディ・ロッテ」




