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03 孤立

 シャーロットは、おずおずと空き教室から顔を出そうとした。


 マルコシアスが面倒そうに彼女の肩を掴んで後ろに引っ張り、彼女に代わって空き教室から顔を出し、周囲の安全を確認する。

 そして、もったいぶって主人の手を取った。


「よし、行こう。僕がいて、あんたが危険に晒されることなんてまずないよ」


「だったらいいけど……」


 シャーロットが不安そうにつぶやくと、マルコシアスは心外だというように目を瞠った。


「あんただって、僕をわざわざ選んだんでしょ?

 例の無粋な契約がないのに、僕を召喚して対処させたんだから」


「あー、それは」


 シャーロットは顔を顰めた。


「私、お前以外の魔神を召喚したことはないのよ。大急ぎで召喚しなきゃならなかったのと、魔精だと不安だから、お前を呼ぶことになっただけ」


 マルコシアスは、わざとらしくもがくりと肩を落とした。

 とはいえ、その淡い黄金の瞳はいたずらっぽくきらめいている。


「なんだ。あんた、少しは僕にやる気を出させるようなことを言いなよ。

 ――けど、なるほどね。あんた、他の魔神は呼んでないんだ」


 シャーロットは眉を寄せた。


「なんなの。お前といいネイサンさんといい、私が魔神を召喚すると困ることでもあるの?」


 マルコシアスは肩を竦め、ほがらかに笑った。


「いや、別に?」


「なんなのよ……」


 そうつぶやきながらも、シャーロットは手を引かれるがままに空き教室を出て、進むべき方向をマルコシアスに示した。





 ――彼女も動転していて、床に描いた円とシジルを消すことを思いつかなかった。


 その召喚のしるしは夜通しこの教室に残り、やがてある学生がそれを見て、得心の頷きに頭を傾げさせることとなる。


 だがそれをシャーロットは知らない。





 リクニス学院の本棟は途方もない広さを誇る。


 廊下の分岐のたびにマルコシアスはシャーロットを振り返り、彼女が進む方向を合図するのを待った。


 シャーロットは如才なく合図を送り、手を引かれるがままに足を進めながら、徐々にぼうっとしてきた。

 先ほど不気味な魔精に襲われたショックが、遅れて彼女の頭を殴りつけたかのようだった。


 泣き疲れたあとのような具合で、彼女は急激に眠くなってきたが、まさかここで丸くなって入眠するわけにもいかない。


 とはいえ、意識は現状から離れ始めた。

 シャーロットは自分の半歩前を進むマルコシアスを斜め後ろから見て、二年と少し前には、背丈は全く同じだったな、と考えていた。

 今は違う――今は、シャーロットの方が少し背が高い。



 ぼんやりと足を運んでいたシャーロットはしかし、ぴたりとマルコシアスが足を止めたがために、つんのめって足を止めることとなった。


「どうしたの?」


「誰か来る」


 マルコシアスが落ち着いて応じた。

 かれがシャーロットを見上げて、ちょっと首を傾げた。


「どうしましょうか、ご主人様」


 シャーロットは眠い頭を叩き起こして、すばやく算段した。


 ――悪魔を召喚することは規則違反ではないが、なぜ召喚の授業ではない今、召喚したのかと尋ねられるとまずいことになる。


 シャーロットの耳には、マルコシアスが聞きつけたのだろう足音や人声はまだ聞こえない。

 晩餐時である今、本棟からは人が掃けている――皆が皆、寮で食事にかかっているのだ。


 なんと不幸な時間に襲われたのだろう、とシャーロットは涙しそうになったが、考えるまでもなく、そういう時間だから襲ってきたに違いない。


 向こうからやって来るのが、シャーロットを魔精に襲わせた張本人かもしれない――そして、そうではないかもしれない。


 シャーロットは息を吸い込み、頬の内側を噛んで、気合を入れた。


「エム、()()()()()()。――何かあったら、すぐに私を助けて」


 マルコシアスは肩を竦めた。


 シャーロットは一瞬、この合図をかれが忘れ切っていたらどうしよう、と思ってうろたえたが、心配は不要だった。

 二年と少し前と同じように、マルコシアスはすばやく、シャーロットの左手首に嵌まる鉄色の細い腕輪に姿を変えた。


 シャーロットはその腕輪を撫でて、もう一度息を吸い込むと、足早に廊下を進み始めた。



 ――とはいえ、やって来る人影はすぐに誰かと知れた。

 シャーロットはほっとして破顔し、駆け足になって、向こうから歩いてきた二人連れへと走り寄った。


「キャリー――ロベルタ。どうしたの?」


「どうしたの、じゃないわよ」


 威勢よくそう言ったのは、黒髪を高く結い上げたロベルタ・マクファーソンである。

 少々鮮やかに過ぎる緑色のワンピースを着ていたが、彼女にはそれがよく似合っていた。


 彼女は気の強そうな青い猫目で、睨むようにシャーロットを見た――とはいえ怒っているわけではなく、これが彼女の標準装備の視線なのである。


「晩餐の時間になっても戻ってこないから、心配して捜しに来てあげたんじゃない。迷子になってたんじゃないでしょうね。もう――私たちの分も席がなくなってたら、怒るわよ」


 一方のキャロライン・ブラウンは、おだやかに微笑んでる。

 茶色い髪をおさげにし、温かみのあるとび色の瞳を細めている小柄な彼女は、小声で、「大丈夫?」とだけ尋ねた。


 シャーロットは心から安堵した。

 もしも、この二人がもう少しこちらへ向かっていたら、例の溺死体の襲撃に巻き込まれるところだった。


 シャーロットは、「大丈夫よ」と応じようとして、ぐっと言葉に詰まった。

 見慣れた学友の顔を見た安堵が、魔精の襲撃によって打撃を受けた神経を温めたかのようだった。


 唐突に涙が出そうになって、シャーロットはそれを誤魔化すためにいったんうつむかなければならなかった。


「……大丈夫よ。大丈夫」


 顔を上げてそう言うと、ロベルタが怪訝そうに眉を寄せた。


「あら、そう? 何かあったの?」


「ううん――」


 つぶやいて、シャーロットは意識して微笑んだ。


「――けど、ごめん。管理人さんから、寮の門番のかたへの伝言を預かっちゃったのよ。食堂の前でお別れね」


 そうなんだ、とキャロラインはなごやかにつぶやいたが、ロベルタは頬を膨らませた。


「ええっ、もぉぉぉ、そういうことは先に言ってよね! キャリーも私も、これで晩餐を食べ損ねたらどうしてくれるのよぉ」


「先に言うって、どうやるのよ……」


 シャーロットは呆れながら苦笑し、キャロラインと目を合わせた。


 キャロラインは肩を竦め、それからおだやかにロベルタを眺めて、微笑ましそうにしている。

 性格が懸け離れているように見えるこの二人のあいだにあって、シャーロットには与り知れぬ何かの化学反応が起こっているらしく、入学してからこちら、ロベルタはこのおだやかな学友の友情を獲得し続けているのだ。



 かくしてシャーロットは、キャロラインとロベルタと連れ立って、すっかり暗くなった本棟を歩き、女子寮へ向かったが、その実内心では怯えに怯えていた。


 もしもまた悪魔が襲ってきたときに、マルコシアスが咄嗟の判断でこの二人の学友まで守ってくれるとは限らない、ということに気づいたがためだった。



「もう、ロベルタ、そんなに晩餐が気になるなら、走って戻れば?」


「やーよ、そんなの。はしたない」


「食べ損ねても、マチルダが何か取っておいてくれるよ……」


 マチルダ・ピットはロベルタのルーム・メイトである。

 ロベルタは整った顔を顰めた。


「信用できないわ。あの人、いっつも私のためにってポークソテーを取っておくのよ。嫌だって言ってるのに」


「それ、あなたの偏食を直すための気遣いじゃないかな、ロベルタ……」


 そのときふいに、ロベルタがシャーロットをまっすぐに見た。

 ぱちくりと大きな猫目を瞬かせて、彼女が尋ねた。


「――あら、ロッテ? あなた、髪を切ったの?」


「――――」


 シャーロットは、何気ない仕草で自分の金髪を触った。

 そして、にこっと笑った。


「あれ? 気づいてなかったの? 前回の『召喚基礎』で切ってたのよ」


 ロベルタは疑わしそうな顔をした。


「そうだったかしら?」


「そうそう」


 と、全力で誤魔化すシャーロット。

 キャロラインが微笑んだ。


「そうだった? ――ねえ、ゴドウィンさんは髪を切ったことに気づいた?」


 ロベルタが笑い出した。


 シャーロットは、頭の中身の半分以上で、「どうか悪魔が襲ってきませんよう」と考えながら、なんとか溜息を吐いてみせた。


「もう、なんでオリヴァーさんが出てくるの……」


「あなたがやたらと、オリヴァーさんの去年の成績を気にかけるからよ。自分から比べにいって、意識してるのがばればれなの」


 笑いながらロベルタが言って、シャーロットは、これには本音からうろたえた。


「意識してるのは成績よ――」


「はいはい」


 ロベルタにぽんぽんと肩を叩かれて、シャーロットは話題を変えることにした。


 どのみち、髪をいつ切ったのかということでささやかな嘘をついたことが露見してしまえば、つい先ほど悪魔を召喚したのだと知れかねない。


「ねえ、それより、ロベルタ。今度、代数学を教えてくれない――本当にまずいの、允許に関わるわ……」


 ロベルタは笑顔から一転、ぎゅうっと眉を寄せた。


「このあいだ教えてあげたじゃない。私よりエミリーの方が詳しいわよ」


「そう言わず。ねえ、お願い。エミリーに教えてもらうと、今度は私が『呪文理論』を教えることになって時間がかかるんだもの」


「ひどい。自分が教えてもらうんだから教えてあげなさいよ」


「そう言わず。お願い」



 ぶつぶつ言うロベルタを先頭にして、三人は次々に廊下を抜け、広間を抜け、本棟の裏口へと向かった。


 この裏口から、女子寮への渡り廊下が伸びている。



 そこまで達したときには、シャーロットは、今にも走り出しそうになっていた。


 早く門番――つまるところが、彼女と議事堂を結ぶ使者――と会い、先ほどの出来事を訴え、指示を仰ぎたい。


 議事堂あてに、悪魔を送り込んで使者とすることは現実的ではなかった。

 なにしろ、悪魔というのは()()()()()()()()()

 シャーロットが在学しているあいだ、通貫して魔精と契約を結ぶことも検討はされたが、結局は却下された。

 報酬が膨大なものとなることが予想されたためと、悪魔の気紛れで裏切られては堪ったものではないからだ。

 そして、たとえ悪魔が「シャーロット・ベイリー」からの手紙を携えていたとしても、それが悪意ゆえの偽造のものではないという確信は、最後まで得られない。

 ただでさえ、政府高官あての届け物は篤い警戒に晒されるのだ。

 悪魔を使って伝言や手紙を運ぼうものならば、喫緊の用件も、むしろ疑いの目で見られてなかなか目当ての相手に届かないことがたやすく予想される。


 ゆえに、議事堂と確実に連絡をつけることの出来る手段は、門番を介しての正規の手続きを踏むことのみだった。

 早くその手続きを済ませ、汽車で駆けつけてきてくれるだろう、彼女を保護してくれるだろう大人たちを出迎えたい――



 我慢できず、シャーロットは軽くキャロラインの腕に触れて、言った。


「ごめん、管理人さんからの用事、けっこう急ぎなの。先に行くね」


「そうなんだ」


 キャロラインは笑窪を作った。


「じゃあ、私とロベルタは食堂に行くね」


 ロベルタが軽く手を振って、「早く行きなさいよ」と合図する。


 それをろくに見もせずに、シャーロットは渡り廊下を走り出した。



 春の夜陰が下りており、渡り廊下は暗い――細い月が、頼りない明かりを地上に落としている――行く手には、温かな灯の点った女子寮がそびえ立っている――



 息を弾ませ、女子寮の入口の脇の、門番のための簡素な木の扉を叩く。


 教えられたように、二度叩いて、一拍を置いてから更に二度。

 この叩き方で、門番は来訪者がシャーロットだと悟るはずだ。



 ――が、ややあって、扉の上部の小さなのぞき窓が開いたとき、シャーロットの心臓は止まりそうになった。



 見慣れていた、今この瞬間に誰よりも必要としている、あの門番の顔ではない――彼がいないときの、代理の男性ですらない。


 二人のうちのどちらかは、いつもここにいるようにしてくれると言っていたのに。


 のぞき窓から温かなオレンジ色の光がこぼれて、シャーロットの顔を照らし出し、彼女の頭の形の影を、後方に縫い留めている。


 目の前ににゅっと突き出した髭面に衝撃をあらわにしたシャーロットに向かって、その髭面の主は顔を顰めた。


「――あぁ? 誰、あんた。こっちも今から夕飯なんだけどね」


 シャーロットの心臓が、ばくばくと激しく肋骨を叩き始めた。



 ――おかしい。

 あまりにもおかしい。


 何かが起こっている。



 シャーロットの、即座に蒼白に転じた顔色に何か感じるところがあったのか、髭面の男性は訝しげに眉を寄せ、少しばかり声音を和らげて言い直した。


「……どうしたね、お嬢さん。何か用かね」


 シャーロットは息を吸い込もうとして、胸が奇妙に塞がるような感覚を覚えた。


 言葉に詰まり、いく度か口を開け閉めしてから、シャーロットは小さな声でつぶやいた。


「……ヴィンセントさんは、どちらですか」


 髭面の男性は面喰らったようだった。


「はあ? 休暇だよ、休暇」


「休暇……?」


 シャーロットは眩暈を覚え始めた。


「じゃあ――じゃあ、ワルターさんは」


「なに言ってんの、あんた」


 髭面の彼は、奇妙なものを見る目でシャーロットを見て、がちゃり、と扉を引き開けた。


 のぞき窓越しではなく直にシャーロットの全身をまじまじと見てから、髭面の彼は、髭におおわれた顎を撫でた。


「今日はワルターの番だったの。で、あいつが――昼頃かな? 階段から落っこちたもんだから、第一寮の見張り番の俺が急に呼ばれたわけ。

 なに、あんた。あいつらのどっちかに伝言?」


「…………」


 シャーロットは、よろめくように後退った。



 ――ヴィンセントは休暇だった、これは本当かもしれない。


 だが、ワルター――ヴィンセントと、コインの表裏のようにしてシャーロットを見守ってくれるはずだった、彼の怪我が本当だとすれば。



「わ――ワルターさん、ご無事なんですか」


「さあねえ。けど、ま、あいつが死んでれば、さすがに大騒ぎになったんじゃないかね」


 髭面の彼は、奇異なものを見る目でシャーロットを見下ろして、戸枠に寄りかかった。


「階段から落ちてぶっ倒れて、昏倒しちまってさ。――顔が見たいなら医務室に行けば? 医者が言うには、そのうち目を覚ますだろうってことだけど」


 その場に膝を屈しそうになり、シャーロットはよろめいた。



 ――では、今日のシャーロットへの襲撃は、前々から計画されていたことだったのだ。


 ヴィンセントのいない隙に――先にワルターを襲って、シャーロットが危機を通報するべき相手を封じることまでして。



 シャーロットの尋常ならざる様子に、髭面の男性は瞬きして、彼女を覗き込もうとした。


「おいおい――、あんた、大丈夫? なに、ワルターといい仲だったりしたの?」


 それに応じるどころではなく、シャーロットはふらつきながらもその場で頭を下げ、踵を返して、元来た道を辿り始めた。


 すぐに、のんびりと歩いてきたキャロラインとロベルタが彼女に気づき、「あら」と声を掛ける。


「どうしたの、ロッテ――あら、何かあった?」



 シャーロットは首を振り、蹌踉とした足取りで渡り廊下を戻り始めた。



 ――夕暮れ時まで、異変など欠片もないと彼女は思っていた。


 だというのに、彼女は今、完全な孤立の中にあった。























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