01 召喚
四月二十五日の夕暮れ時、念願かなって入学したリクニス学院の地下通路の一つで、シャーロット・ベイリーはぴたりと足を止めた。
耳を澄ませたが、一瞬後ろから聞こえた気がした足音は、今はもう聞こえなくなっている。
気のせいか、と思ったものの、つい先日に、軍省付参考役であるジュダス・ネイサンから受け取った手紙の内容がありありと脳裏に甦り、彼女は生唾を呑み込んだ。
――『きみの立場を知る人間は少ないけれど、一度とはいえ危険はあったのだから、くれぐれも油断しないように。きみも血を抜かれて木乃伊になりたくはないだろ?』。
なお、もちろんのこと、学友たちはシャーロットが政府高官と手紙をやりとりしているとは知らない。
手紙の差出人はいつも、ケルウィックの架空の番地に住むジョン・コリー氏となっている。
ゆっくりと後ろを振り返る。
春であっても冷気漂う、壁にずらりと灯る蝋燭の明かり以外に光源のない、暗い石造りの廊下が、がらんと広がっている。
シャーロットは咳払いした。
もしも後ろに誰かいるならば、もうシャーロットに気づかれたと思って、すごすごと退散してはくれまいか。
だが、咳払いは空しく廊下に反響しただけだった。
彼女は、背負った革製のバックパックの肩ひもをぎゅっと握った。
このバックパックはリクニス学院が学生へ恵む、数少ない支給品の一つである。
一説によると、過去には膨大な数の教本を運ぼうとして学生たちの鞄が破れに破れ、深刻な苦情に発展したことから、こうして学用品用のバックパックを支給するようになったと言われている。
事実、今も教本や召喚陣のためのチョークやコンパスが入ったバックパックは、はち切れんばかりの重さだった――
廊下はしんと静まり返っている。
シャーロットはためしに数歩を戻ってみたが、慌ててその場から走り去るような足音もない。
(気のせい……)
シャーロットはほっとして息を漏らした。
彼女はまさに、学費の減免の対価となっている、管理人への労務の提供――というのは、リクニス学院側が用いたがる硬い表現であって、学生の側はよく、「お手伝い」と呼んでいたが――の最中だった。
正確には、こまごまとした帳簿の整理を手伝い終えたところであって、この地下通路の奥にある一室の戸締りを確認することを頼まれており、それをもって今日の労務の提供は終了となる予定だった。
つい先日、そっと手紙に同封して送り返した小切手のことを思い出した――そして、そこに書いた自分の文言を。
『管理人さんのお手伝いをすることで、私が危険に晒されることは絶対にありません』。
もし仮に、今この場で自分の身に何かが起こってしまうと、ネイサンのそれはそれは大きな溜息を喰らいそうだ。
シャーロットは心なしか速足になって地下通路を進んだ。
地下通路とはいっても、暗いばかりであって、陰気な黴臭さはなかった。頻繁に清掃がされているためだ。
そんな中を、晴れて十七歳になったばかりのシャーロットは、慣れた足取りで邁進した。
彼女の腰の近くまで伸びた金髪は、首の後ろでそっけなくひとつに束ねられており、バックパックに巻き込まれて、蝋燭の明かりをちらちらを反射している。
シャーロットは迷う様子もなく角を曲がり、ずらりと壁に点された蝋燭の明かりを頼りに階段を昇り――とはいえ、そこは地上階ではなく、半地下に留まっていた――更に進む。
そうして、目当ての倉庫室まで行き着くと、その扉を点検した。
その扉は、他の木製のものとは異なり、鉄で出来ている。
というのも、中に大量の『ビフロンスの加護の水』が保管されているためだった。
この水は、触れるとたちまち――文字通り――抜け殻となってしまい、回復の手立てはないという恐ろしいものだったが、同時に、その状態であれば人間の身体は大抵の損傷にも耐えうることが証明されている。
はた目には、利用価値はほとんどないも同然の魔法の産物であったが、医学の現場においてはあれこれと使われているようだった。
リクニス学院は、学院そのものでもこの加護の水を研究するためと、そして国内の他の機関からの委託を受けて、この厄介な魔法の産物を保管しているのだった。
シャーロットは、慎重な手つきで鉄製の扉の大仰なハンドルを回そうとした――確かな手ごたえがあって、施錠されていることが分かった。
シャーロットは満足げに頷き、来た道を戻るため、くるりと踵を返した。
そろそろ鐘が鳴る刻限だ。
早めに帰らなければ、晩餐の席がなくなってしまう。
静まり返った地下通路に、シャーロットの急いた靴音が反響していた。
耳をすませば、蝋燭が燃えていくじりじりというかすかな音ですら聞こえるのではないかと思うような静寂だったが、シャーロットにそうして耳をすませる気は毛頭なかった。
彼女はリズムよい駆け足で階段を降り、複数の地下通路が集合する、(友人のロベルタ曰く、「悪の組織がいかにも使っていそうな」)地下の広間を抜け――
ずるっ、という、通常ならばあり得ない音を聞いた。
シャーロットは打たれたようにびくっと背中を震わせ、飛び上がって足を止めた。
どっどっ、と激しく暴れる心臓を無意識のうちに押さえながら、振り返って周囲を見渡す。
彼女の後ろには、たった今あとにした地下の広間があり、その広間をぐるりといろどる蝋燭のオレンジ色の明かりが揺れている。
そして彼女の頭上にも、その広間の天井よりもやや低い石の天井が圧し掛かり、やはり蝋燭のオレンジ色の光に、遠慮がちにその姿を晒している。
シャーロットは数秒、その場に立ち止まって、早鐘を打つ心臓を宥めようとしながら、たった今聞いた音がどの方向から聞こえてきたのかを考えていた。
行く手から聞こえてきたようにも思えたが、背後から聞こえたようにも思えた。
なにしろ音が反響しやすいから、咄嗟にはそれも分からない。
「――――」
シャーロットはゆっくりと足を引いて、数秒前に辿った道を戻り、地下の広間へとふたたび足を踏み入れた。
もしも音が前方から聞こえてきたものであれば、まずい。
彼女はみずから音の発信源に近づくことになってしまう。
それに対して広間には、まだどうとでも逃げ道がある。
――普通ならば、空耳を疑うような音ひとつでここまで警戒しない。
だが、シャーロットにも事情があるのだ。
広間に戻り、慎重に辺りを見渡した彼女は、小声で短い呪文を唱えた。
――魔精ジニスが彼女の呪文に応じて力を貸し、ぽっ、と、ただ一点の、しかし蝋燭よりもはるかに明るい光が点った。
その光に目を細め、さらに続けて呪文をつぶやき、光点を天井近くまで持ち上げてから、シャーロットは広間を見渡す。
――だれもいない。
「あー」
シャーロットは遠慮がちに声を出した。
その声が、妙に芝居がかって幾重にも散っていく。
「あー、もしもし?」
彼女の声が反響するばかりで、広間から通ずる他の通路からも、なんの応えもない。
「――――」
シャーロットは少し考えた。
このとき彼女にあったのは、いわゆる怪談的な恐怖だった。
彼女は頭の中で算段した――ここから寮へ戻るには、まず地下通路をかれこれ六十ヤード近く歩いてもう一つの広間に到達し、階段三段あたりに踊り場が一つといった具合の、緩やかにもほどがある階段をだらだらと昇って地上階に達し、それからまた、複雑な構造の本棟をぐるりと歩いて、やっと女子寮への渡り廊下が見えてくる。
(走ればなんとかなる……かしら)
何はともあれ、「危険があったら駆け込むよう」と言われているのは、女子寮の門番のところだった。
つまり、ここを脱しなければどうにもならない。
シャーロットは少し考え、バックパックを背負い直し、息を吸い込んだ。
そして、今度こそ突進の勢いで、進むべき地下通路に飛び込んだ。
――そして、さっそく転びそうになった。
今度こそ空耳ではなかった――ずるっ、ずるっ、と、なにものかが身体を引きずるような陰湿な音が、間違いなく――後ろから、彼女を追ってきていた。
血の気が引くと同時に頭に血が昇り、シャーロットは眩暈を覚えた。
(待って――待って待って待って!)
頭の中に、一気にさまざまなことが去来した――海辺の町への誘拐、大叔父の家に踏み込んできた襲撃犯、ガス灯の明かりの下で魔神に尋問されるあわれな魔精、議事堂でのすったもんだ――その末に聞かされた、彼女の曾祖母の特殊な事情。
眩暈とともに視野が狭まる。
心臓はもはや彼女の耳許で鳴っていた。
パニックで膝が笑いそうになったが、彼女は必死になって前に進んでいた。
とはいえよろめき、彼女は左肩を壁にぶつけた。
走ったがゆえではなく恐怖のゆえに息をあえがせ、シャーロットは壁を辿るように、まるで夢の中のようにして、前へ前へと進み続けた。
ずるっ――ずるっ――
とうとう、シャーロットは振り返った。
しかし彼女の目には何も見えなかった。
あるいは恐慌のために焦点を失った彼女の目が、見るべきものを見落としたのかもしれない。
シャーロットは笑いそうになる膝を叱咤して、ようようのことで次の広間へ辿り着いた。
生存本能ゆえの反射で、またもシャーロットは振り返った。
――そして、今度こそ見た。
それは、床から迫ってきているわけではなかった――天井に張り付いていた。
シャーロットから見て、それはあるべき脚がいくつか欠損した灰色のクモのように見えた。
ただし、大きさが桁違いだ。
大の男ほどの大きさの、脚が四本しかないクモ――
生理的な嫌悪すら誘うその姿が、蝋燭の明かりにちらちらと照らし出されている。
怖いもの見たさというべきか、それとももっと本能の根本的な働きによるものか、シャーロットの目はそのものに吸い寄せられた。
――異形の、巨大なクモ――その頭に、海藻のように波打つ襞を備えている――
――そう思ったとき、シャーロットの頭蓋の中で、脳が発揮しなくともよい状況把握能力を発揮した。
ぐるん、と視界が引っ繰り返るようにして、シャーロットは認識した――彼女からわずか二十フィート程度しか離れていない先の天井に張り付いているそれは、まさに人間の女性を象っているのだ。
まるで、海に流された溺死体を丁寧に灰色に塗り固めたかのよう――痩せさらばえた女性が、長い髪を波打たせながら、重力に反して身体を引きずるようにして、ずるりずるりと距離を詰めてきている――
「――――」
悲鳴を上げようとした喉も凍る。
息が止まり、そして徐々にその息が切迫する。
シャーロットはあまりの事態に茫然として、その場で棒立ちになり――
――次の瞬間、全身のばねを使って、勢いよく階段を駆け上がりはじめていた。
嫌悪感が恐怖に勝った瞬間だった。
背後にあるものを見て、彼女の背中がぞわぞわと粟立つ――あれと距離を置きたいという欲求こそが、この瞬間にシャーロットの恐怖ですらも超えたのだ。
階段の段差は低く、奥行きは長い。
そして三段ごとに踊り場がある。
その階段を、飛ぶような勢いでシャーロットは駆け上っていた。
恐怖というよりはパニックのために、彼女は半泣きになっていた――泣きじゃくるためにはまだ余裕が足りなかった。
――あれはなに! どうしてここに!
階段に足を取られ、シャーロットはその場で盛大に転んだ。
このとき初めて彼女は悲鳴を上げた。
具体的な痛み――膝の痛みとてのひらの痛み――が、事態の現実的な理解を助けたのだ。
「誰か!!」
渾身の声はしかし、空しく響くのみである。
泣きじゃくる一歩手前のパニック状態で、しかしシャーロットは足を引きずりながらも立ち上がり、よろめき、そしてまた階段を駆け上がり始めた。
このときになって激しく手が震え始めた。
行く手に、明るく見える四角い形が見え始めた――地上階だ!
息も絶え絶えに地上階に飛び出したシャーロットはしかし、うめき声を上げた。
地下に下りるこの階段のそばは、つねに人通りが多いとは言い難い――そして折悪しく、今は晩餐時。
飛び出した先の廊下は無人だった。
窓もなく、壁の高い位置に設けられたガス灯だけを明かりとする、その広い廊下は静まり返っている。
高い天井は闇の中、広い廊下はむしろ広間のよう、彫刻の施された柱が林立するその廊下は、いっそ神殿のような荘厳さを湛えていたが、シャーロットがいま切実に必要としている人影は、無情なまでに一つもなかった。
「誰かいません!?」
泣き叫んだ声はしかし、空しく散っていくのみである。
遠くに足音すら聞こえない。
しかし、走って行けば誰かには出会うはずだ。
それに、シャーロットを人知れず誘拐することが目的ならば、彼女が地上階に逃げおおせた時点で相手が諦める可能性もあり――
――ずるっ、ずるっ――
シャーロットは打たれたように振り返った。
天井を辿ってきたあの灰色の指が、折れそうなほどに痩せてなおたおやかさを残したその指が、ゆっくりと地上階の空気に触れようとしていた。
学院内では次々にガス灯に火が入れられていっている。
その明かりの中に、溺死体のたおやかな指が伸ばされていく――その非現実感。
シャーロットが金切り声で悲鳴を上げると同時に、べしゃっ、と、おぞましいほどの音が上がった。
シャーロットは震え上がった。
足許から寒気が這い上がってくる。
溺死体としか言いようのないそれが、天井から床の上に落下したのだ。
磨き上げられた石のタイルの上に落ちた溺死体がのっそりと身を起こし、それこそクモのような動きで、手足を使って床を這い、シャーロットに手を伸ばす――
一秒たりともためらわず、シャーロットはくるりと背を向けてその場から逃げ出した。
当然、目指すのは出口の方だ。
ただし、本棟はあまりに大きい。
複雑に入り組んだ廊下と広間を抜け、階段を通り、そして初めて外に出られる。
構造として広すぎるがために、こうして窓のない区画も多い――
廊下を走り、一段狭くなる廊下へ飛び込む。
体感として、広間を抜けたといった方が近いか。
廊下の両脇には使われていない古い空き部屋がずらりと並んでおり、「立ち入り禁止」であったり、「浸水あり」であったりといった、古くなった木の板の警告が扉に掛けられていた。
だが、こんな空き部屋をこっそりと使って、煙草を吸って普段の憂さ晴らしをしたり、あるいは学生どうしで逢瀬に励んでいる不良もいるのではないか――その可能性に賭けたシャーロットは、ふたたび金切り声で悲鳴を上げたが、それに対する反応はない。
緩やかに湾曲して続く廊下が、ところどころで分岐する。
授業ではめったに使われない区画であり、慣れるまではいく度もシャーロットを迷わせた廊下だが、今迷うと命が危ない。
廊下はときおり膨らみを見せて、ベンチを設けた休憩場所となっていた。
ずるっ――ずるっ
「なんで誰もいないの!」
腹が立ってきた。
脇腹は刺し込むような痛みを訴え始めている。
走りながら振り返ったシャーロットは、直後にそれを後悔した。
溺死体は、いや実際には溺死体ではないのだろうが、その見た目にそぐわぬなめらかな動きで、たゆまずシャーロットを追い、距離を詰めてきている――ガス灯の明かりが、揺らめきながら不気味にそれを照らし出している――
――もう腹をくくるしかなくなった。
シャーロットは二秒の思考の末に決断した。
助けが現れないならば、助けを呼ぶしかない。
次の分岐で、シャーロットは横っ飛びに脇の廊下へ飛び込んだ。
そして彼女が仰天したことに、そのことに、彼女を追う溺死体はふいを打たれたようだった。
勢いあまったかのように、溺死体がそのまままっすぐに廊下を突き抜けていく。
しかし、それをもって安心などはとてもできない。
シャーロットは振り向かずに廊下を突進し、扉が開けっ放しになっていた、空き教室の一つに飛び込んだ。
廊下の先で、憤るようなかん高い叫びが聞こえてきた。
まるで、あの溺死体が、シャーロットが目の前から失せたことに今まさに気づいて、苛立ちに叫んだかのように。
飛び込んだ先の空き教室は、ベンチと机が雑然と並べられ、清掃こそ行き届いているものの、長く使われていない雰囲気はありありと伝わってきた。
シャーロットは渾身の力で開きっ放しになっていた扉を叩きつけるように閉め――蝶番が錆びついており、悲鳴のような音が上がった――、あわてて教室の中央に後退ると、バックパックを放り出して、中から教本がこぼれることもお構いなしに、召喚陣を描くためのチョークを掴み出した。
どきどきと心拍数が上がっている。
緊張と焦燥に吐き気すら覚えた。
今にもあの溺死体が扉を破ってくるのではないかと思うと気が気ではない。
教室の床の上にチョークを滑らせる――力を籠めすぎて、ぼきりとチョークが折れた。
心臓が口から出そうになる。
自分に悪態をつき、今度は丁寧に、無理に深呼吸をしながら、しいて落ち着いて床にチョークを滑らせる――
――通常、召喚陣を描くには相応の時間を要する。
しかし、それには例外もある。
一度でも召喚したことのある悪魔であれば、円にシジルのみを描き、呪文を唱えることでの召喚も可能となるのだ。
さらにいえば、すでにこの交叉点に姿を現している悪魔であれば、呪文のみをもって報酬の提示に入ることも可能とはされているが、これはまず現実的な話ではない。
ずるり、ずるり。
耳に聞こえるこの音が、危機感ゆえの錯覚であるのか現実のものであるのか、それもシャーロットには分からない。
いつの間にか、彼女は全身にびっしょりと汗をかいていた。
焦るがあまりに手が震えそうになる。
必死に息を吸い込んで、唇を噛んでそれを堪える。
――大きな円を描く。
ずるり、ずるり。
――そこにシジルを描き込む。
悪魔の名前をかれらの文字で表し、そしてそれを印章の形に落とし込んだ、悪魔に固有の印を。
ずるり、ずるり。
――そしてチョークを放り出し、大股に後退って円から外に出て、シャーロットは大声で〈召喚〉を唱えた。
召喚する悪魔は決まっている。
彼女が呼び出したことのある魔神は、これまでの人生でかれ、ただ一人――
七十二の魔神のうち、序列三十五番に数えられる魔神。
「――〈マルコシアス〉!!」




