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05 三者三様、運も悪い

 シャーロット・ベイリーが初めて魔術というものを見たのは、八歳のとき、初等学校の授業の一環で首都を訪れたときだった。


 ケルウィックは首都ローディスバーグ近郊の都市の一つに数えられる。

 それがために、シャーロットたちは汽車に詰め込まれ、〈巨人の丘〉の上に林立する柱に支えられて聳える議事堂、その周囲を囲む小さな町のような灰色の建物群に連れて行かれた。


 そこは、主に国家から委託を受けて研究をこなす、国の中でも選りすぐりの研究機関が軒を連ねる場だった。


 無論、初等学校の悪ガキたちを案内できる場所は少なく、研究者の一人がおざなりに召喚陣の中から魔精を一人呼び出してみせ、ぞんざいに契約を交わし、ほらこのうるさい子供たちを黙らせる手品を一つ披露したら報酬をやるぞ、と持ち掛けた。


 魔精は頷き、即座にその場を色とりどりの煙幕で埋め立て、更にはその煙幕の間の空中から次々に黄金やルビーの宝飾品を取り出し、そらこれを土産にやろう、と子供たちに気前よく告げた。


 子供たちはわっと湧いたが、魔精はいかにも悪魔の顔で笑っていた。

 悪魔は歌うような調子でしばらく取り留めもないことを話したあと、報酬を受け取って姿を消した。


 そしてすぐに、魔術師は苦笑と共に言った――それは悪魔の冗談だから、きみたちが家に帰る頃には消えてなくなっているよ、と。

 それは事実であり、ばら撒かれた黄金は全て実体のある架空だった。


 だが、シャーロットにとってはそれはどうでもいいことだった――その頃彼女は繰り返し繰り返し、キノープス暦以前の神話の時代の英雄譚を、易しく噛み砕いた本を読んでいた。


 そしてあの悪魔は歌うような口調で、その英雄譚の片隅に出てくる使用人の名前を口に出したのだ。


 悪魔が消えてしばらく、教師に促されてその場を離れる寸前になって、シャーロットは――当時からすれば――生涯最大の勇気を振り絞って、くだらなさそうにズボンのポケットに手を突っ込み、煙草を探っている魔術師に駆け寄って、尋ねた――「悪魔というものは、ずっとずっと昔のことも知っているものなんですか」。


 魔術師はいとも容易く応じた――もちろんだ。あいつらに死ぬという概念はないからね。呼び出して、あいつらが満足する報酬さえ差し出せば、あいつらは大昔のピトの大王がどこに葬られたかってことまで答えてくれるだろうさ。まあ、あいつらは悪魔だから、話したとしてもどうせ嘘だと思うがね。



 幼いシャーロットにとって、その回答こそが浪漫だった。


 そのあとすぐに見上げた魔術師の顔は、さっそく紫煙に煙ってしまっていたが、しかしその回答は、それから先もずっと彼女の中で燻り、彼女にあこがれを植え付けていた。



 ――古い時代に召喚され、既にその名が忘れ去られ、召喚の途が絶えた悪魔もいる。



 だが裏を返せば、かれらの名前を突き止めることが出来れば、かれらを再び呼び出して、もう失われてしまった古い時代の話を、ありありと尋ねることが出来るのだ。



 ――そしてそのずいぶん後になって、シャーロットはとある有名な詩人の話を聞いた。


 それこそが、彼女が魔術師を志す、決定的なきっかけとなった。





▷○◁





 そうっとドアを開けると蝶番は軋んだ。


 自室に割り当てられた部屋を出て、召喚陣を描いた部屋に足音を忍ばせながら戻る。


 シャーロットはそこでトランクを回収し、外套を着込んで、今やいよいよ決行となった家出に向かって、爪先立ってドアから身を乗り出したところだった。


(大叔父さまはこの時間、いつも書斎にいらっしゃるから――)


 何しろ早朝ではあるが、大叔父が外出のほかは寝室と書斎の往復で一日を過ごしがちで、食事さえも書斎で済ませることは、既にシャーロットも承知のことだった。


 だが、ふと気まぐれを起こして廊下をうろついている彼に鉢合わせてしまえば、かなり面倒なことになるのは疑いがない。


 仮に、召喚した悪魔を盾にそこを強行突破して家に戻ろうと、大叔父に悪魔を嗾けた事実があれば、父はいい顔をするまい。


 下手をすればそれがリクニス専門学院に伝わり、「素行に当院に不相応なもの認められ、入学の資格なし」と断ぜられる可能性すらある。


(でも、一人でケルウィックまで帰るのはいくらなんでも危ないし、)


 世の中がそう善人ばかりではないと、どちらかといえば箱入りに近い育ちをしてきたシャーロットであっても知っていた。

 ()()に殺人、世の中は物騒な話題に事欠かない。


(頼りになる知り合いもいないし、)


 何しろシャーロットの十四年の人生で得てきた知り合いは、皆ケルウィックにいる。

 そして皆、今ごろ初等学校の八年生を謳歌しているはずだ。


 突然学校に現れなくなったシャーロットをどう思っているだろう。

 リクニスへの入学許可が下りて、もう学校に興味がなくなったなどと思われていたら心外だ。


(人を雇う自由もお金もないし、)


 何しろ、シャーロットはまだ子供である。


(そうなったら、もう他所から連れてくるしかないでしょう!)


 リクニス専門学院への入学は、諦めるには大き過ぎる彼女の成果だ。


 清々しい自己正当化にぐっと拳を握る。



 そのとき、ふい、と、彼女の前に腕が伸ばされた。


 はっとわれに返ると、彼女が召喚した悪魔が、気の無い顔で彼女の前に腕を伸ばして、彼女を制止していた。


 伸ばしっぱなしにされたような灰色の前髪の下で、淡い金色の目が廊下を往復するように眺めて、それから気が済んだのか、魔神マルコシアスはわざとらしいまでに仰々しい仕草でシャーロットに先へ進むことを促した。


「どうぞ。道に不安はありませんよ、ご主人さま――おっと、ロッテ」


 シャーロットはほっとした。


 マルコシアスは命令に対しては真面目な悪魔で、主人の質問には誠実に答え、どんな危険にも対処することで知られている。

 が、実際に目にしたマルコシアスの態度が、慇懃無礼というにも程がある態度だったために、不安に思っていた部分もあったのだ――あの文献の記述は間違っていたのではないかとか、あれは経験を積んだ魔術師にしか適用されないことなのではないかとか。


 マルコシアスは相変わらず、足音ひとつ立てずに歩いた。


 本を詰め込んだ重みのあるトランクを両手で持ち上げ、よたよたとシャーロットが廊下を進む間に、マルコシアスは次の曲がり角まで行き着いて、その向こうを見た上で待っていた。


 そうしている間に、マルコシアスがすっと目の前に人差し指を掲げ、そこに何かを小声で囁き掛けているのが見えた。

 マルコシアスの人差し指から、仄かな光が遊離して、ほわほわと他の廊下へ渡っていくのが見えた――精霊だ。


 シャーロットがマルコシアスに追い着くと、マルコシアスは彼女の非力さと愚鈍さを鼻で笑ったあと、とってつけたような丁寧さで言った。


「小さいロッテさん、僕の精霊が見てきて言うには、この廊下には今のところ人の気配はないらしい」


「良かった、ありがとう」


 シャーロットはつぶやいた。

 鼻で笑われたことは気にならなかった。『神の瞳』を対価として主従関係にあるにせよ、マルコシアスが遥か年上で力も強いことに間違いはない。


 だが、一点聞き逃せない点があり、シャーロットは強い語調で囁いた。


「小さい、とは失礼ね。私はもう立派なレディなの」


 マルコシアスの、幼い風貌に形作られた顔はぴくりとも動かなかった。

 かれは肩を竦めた。


「はいはい、レディ・ロッテ」


 シャーロットはいよいよむっとしたものの、それに拘泥していられる場合でもなかった。


 マルコシアスは気負いのない足取りで、廊下を更に進み始めた。

 擦り切れた絨毯の上を、埃も立てずに移動して、床の軋みひとつなく、廊下の先を見て回る。


 シャーロットはちらちらと後ろを気にしつつ、よいしょとトランクを両手で持ち上げてそれに続いたが、そのうちに、彼女の背後にも精霊が微細な――埃と見紛うような幽かさで――光と共に舞っていることに気づき、背後を気にすることはやめにした。



 とはいえ、マルコシアスもこの屋敷を抜ける正しい道順を知っているわけではない。

 かれは分岐点で立ち止まり、礼儀正しくかれの主人を待った。


 シャーロットはかれに顎で指示して、正面玄関に通じる階段への道順を伝えた。


 広々とした階段を、所々が破れ、薄くなり、元の色さえ分からぬほどに数多の靴底に踏み締められてきた絨毯に足を取られそうになりつつ、シャーロットはトランクを手にもたもたと下ったが、階段が時おり悲鳴のような音を立てて軋むのには、いちいち身を竦める思いがした。


 魔神マルコシアスは常に彼女の先に立ち、主人の足の遅さに苛立った様子でうろうろと階段を歩き回り、古ぼけた手摺にひょいと腰掛けてみせたりしていたが、シャーロットがよろめいたときには必ず、瞬きのうちに彼女に駆け寄って彼女を支えた。


 この階段からシャーロットが転がり落ちた場合には家に帰るどころの話ではなくなり、ゆえにその事態の誘発は契約違反に当たるのだと、正しく理解しているようだった。


 折り返して二階分の階段をようやくシャーロットが降り切って、マルコシアスはわざとらしく溜息を吐いた。


「あんた、もうちょっと素早く動けないの。そんなんじゃケルウィックに帰り着く前に暦が変わるよ」


 シャーロットは、ぜぇ、と息を吐いてから、マルコシアスを睨み上げた。

 同じ年ごろの人間の背格好を真似してはいても、マルコシアスの方が僅かに背が高かった。


「馬鹿な悪魔ね」


 腹を立てた幼い言葉に、マルコシアスは、悪魔としては愛想がよいと分類される表情で、端的に応じた。


「間抜けなレディだな」


 シャーロットはその言い草を不問に付した。

 何しろ契約に関わるところではない。


 だが、小声ながらも憤然と言葉を続けることはやめられなかった。


「たくさん本が入っているんだから重いに決まってるでしょう。お前が持ってくれてもいいのよ」


 マルコシアスはシャーロットが両手で持つトランクに目を向け、それから肩を竦めて両手を上げ、ひらっとその掌を振った。


「ごめん被るよ、レディ・ロッテ。僕がその大荷物を抱えることは、あんたが家に帰るに当たって必須のことじゃない」


 古く陰気な玄関ホールを抜け、マルコシアスは礼儀正しく樫材の扉を開けてシャーロットを待った。


 シャーロットはトランクの重みに早くも足取りを怪しくしながら、マルコシアスが開けたまま押さえている大きな扉をくぐった。


 冬の冷えた早朝の空気に、シャーロットは身を竦めた。

 そのまま、よたよたと玄関前の広く浅い三段の(きざはし)を下りて、その場でいったんトランクを下ろし、息を吐く。


 しかしすぐに、「窓から大叔父が見ているかも知れない」と思い至り、慌ててトランクを持ち上げて、可能な限り素早く、目の前に広がる、荒れ放題の、庭園なのか原野なのかの判別もつきづらいような、そんな場所を抜けて、辛うじてこの町を走る石畳の道に向かって、よろよろと歩き始めた。


 道は雑草に埋もれるようにしながら、辛うじて真っ直ぐに続いていたが、行く手で川にぶつかって、その流れに沿うように湾曲し、スプルーストンの町の外へと、遠い道のりを辛抱強く続いていた。


 マルコシアスも、辺りを見渡しながら、のんびりとした足取りでそれに続いた。

 が、どうしても言わないわけにはいかなかった。


「――ロッテ。まさかずーっとこのまま歩いていくわけじゃないよね」


「そんなはずないでしょ」


 シャーロットは応じた。


 田舎の朝は早く、既に遠くに見える他の屋敷の煙突からは、炊事の煙が立ち昇っていた。

 煙はそのまま、曇った空に吸い込まれるように消えていく。


 どこかの家で、雄鶏がけたたましく時を告げている。

 ミセス・ケレットの家だな、と、ぼんやりとシャーロットは考えた。

 あの家からは、幾度か卵を貰っている――


「川沿いを少し行くと、乗合馬車の駅があるの。そこで馬車に乗れば、汽車の駅まで行けるわ」


「それを聞いて安心したよ」


 わりあいに冗談の雰囲気もなく、魔神マルコシアスはシャーロットから十五フィートほど後ろに立って、悲壮につぶやいた。


「あんたがそのまま何十リーグも歩くとすれば、僕としても愚かな主人に仕えた経歴の言い訳を考えないといけないところだった」





 ――さてここで、不審な動きを見せていた馬車の動きに触れぬわけにはいかない。


 馬車はごく一般的な、最近では少し時代遅れともいえる二頭立ての幌馬車で、御者台には草臥れた背広の上から外套を着込んだ男と、歳の頃十四程度と見える薄汚れた格好をした少年が、共に背中を丸めて座っていた。


 馬車は道の隅で停まっており、二頭の馬は時折、ぶるると鼻を鳴らしたり頭を振ったり、あるいは蹄で忌々しそうに石畳を蹴ってみたりと、ささやかな暇潰しに勤しんでいた。


 一頭の馬の背中の上には、いやに目玉の大きな犬が悠然と寛いでおり、ぱた、ぱた、と、ゆっくりと動く犬の尻尾が馬の背中を一定のリズムで叩いていた。


 馬車の幌の上にはまっしろな羽毛のオウムが退屈そうに止まっており、鳥に独特の仕草で、片脚でしきりに顔の辺りを掻いていた。



 御者台の二人は、明らかに一軒の屋敷を注視していた。

 二人とも顔は陰鬱である。


 背広を着た男は外套の襟を立てていたが、少年は明らかに薄着で、寒そうに身を竦めていた。

 埃を被ったような金茶色の猫っ毛が、吹く風にいかにも寒そうにかぼそく靡いていた。



 しばらくそうしていた二人だったが、やがて、やおら背広の男性が声を出した。

 長い沈黙を物語り、声は掠れていた。


「――きみ、アーノルド――アーニー、歳は?」


 少年は鼻を啜ってから答えた。


「たぶん、十四」


 たぶん、という言い回しに、背広の男性はちらっと少年を見た。

 そして、その格好から納得するものを得たのか、すぐに前方に視線を戻した。


 気の無い声で彼は続けた。


「これが終わったら、きみ、どのくらい貰えるの?」


 少年は寒そうに腕を擦ってから、応じた。


「三千デオン」


「私の月給だねぇ」


 嫌味でもなく男性はつぶやいた。

 少年は少年で、ピンとこなかったのか黙っていた。


 男性は少しして、不意に吐き出すように言った。


「私はねぇ、クローブ社――グレートヒルの麓に本社を構える大きな会社だけどね、そこで研究をしていて」


「研究」


 耳慣れない言葉を復唱するようにして、少年はつぶやいた。


「おもに、定型的な命令を確立された印章に落とし込んで簡便化することを研究しているのだけれどね、」


 背広の男性の言葉に、少年は首を振った。「意味が分からない」との仕草だったが、男性はそれには気づかなかった。


 思い詰めた様子で、背広の男性は続けていた。


「なかなか成果が出なくてね――いや、成果は出つつあるのだけど、期待ほど素早く出ていないだけなんだ、だがどうも、上の連中は私の部署から何人かの首を切るつもりでいるようでね」


 背広の男性は、立てた外套の襟にいっそう深く顎をうずめた。


「――協力さえすれば私を留めてくれると、ミスター・スミスは言うのだがね。彼はどうやら、かなり顔の利く方らしい――彼が私に声を掛けてからというもの、同僚からの陰口もぴたりと止んだよ」


 少年は瞬きした。

 お察しのとおり、アーノルドである。


「――そうなの。おれ、てっきり、あんたがこれから、その……ナントカ社に入るのかと思ってたよ」


 男性は溜息を吐いた。


「違うよ。――新しいものを得るためにはこんなことまではしないさ。失いたくないだけだ」



 そして、ちょうどそのとき、彼らから見える場所に、トランクを抱えてよたよたと歩くシャーロット・ベイリーが現れたのだった。



 二人は悲しそうに溜息を吐いた。


「身長は四・九フィート」


「金髪」


「やや痩せ型」


「――あの子だね。行こうか」




 ――さて、この事態に非常に驚いたのが、馬の背中で悠々と寛いでいた犬――もとい、魔精のリンキーズである。


 かれはただでさえ大きな目を零れんばかりに見開いて、唖然としてシャーロット・ベイリーを眺めていた。


 彼女こそが、かれが盗み出した超特級の魔法の品、『神の瞳』を拾い上げた少女であると気づいたのだ。


 ――こんな偶然があろうか!


 そう思いながらも、リンキーズは努めて何も言わなかった。

 理由は単純な防衛本能であった。


 オウムの姿をした魔神が、少女が『神の瞳』を持っていることに気づいた結果、ここにいる連中を皆殺しにしてそれを獲得しようとすることを恐れたのである。


 魔神と魔精では勝負にならない。

 リンキーズとしても、悪魔である以上は死の概念がないとはいえ、()()()()()を喰らって〝真髄〟が使い物にならなくなり、すごすごと引き籠もって過ごすことになるのは遠慮したかったのだ。





 さて、リンキーズは驚いたものの、それより更に驚くことになったのが魔神マルコシアスである。


 かれからすれば、一連の流れは茫然とするより他になかった。



 ――まず、かれの新しい主人、ちびのお馬鹿さんであるとかれが判断したところのシャーロット・ベイリー。

 彼女がよたよたと道に出た。


 ちょうどそのとき、軽快な蹄の音と共に、幌馬車が一台やって来た。

 当然ながらシャーロットは足を止め、幌馬車が行き過ぎるのを待つ姿勢を見せた。


 が、幌馬車の御者台に前のめりの姿勢で座る少年は手綱を引いた。

 馬たちはいきり立って足を止めた。


 もんどりうって馬車が停まり、御者台からもう一人、中肉中背の男が飛び降りてきた。


 シャーロットは訝しげに一歩下がった――あまりにも意気込みの強い迷子が、道を尋ねるために詰め寄ってきたと思ったのかも知れない。


 この時点で、マルコシアスも危機感を感じるところはなかった。


 そこからは素早かった。

 男が両腕を広げて、唐突にシャーロットを抱き締めた。


 マルコシアスはその瞬間、もしやこれこそが彼女の父親であって、彼女を大叔父の家に寄せたことを謝罪しに、遥々ここまで来たのでは? と考えた。

 そして、もし仮にそうだとすれば、僕の仕事は楽々と終わることになるぞ、と、獲らぬ狸の皮算用に数秒のあいだ勤しんだ。


 シャーロットの方は驚いたあまりに全身が硬直したようだった。

 男が、軽々と――シャーロットはやや痩せている方だったし、男の方は抜きん出て筋肉質というわけではなかったが、年齢相応にがっしりしていた――シャーロットを抱き上げた。


 シャーロットの手からトランクが滑り落ちて、重々しい音を立てて道の上に倒れた。


 男が素早く、シャーロットを馬車の幌の中に放り込んだ。

 どす、と耳に痛い音が上がり、そして一拍置いて、シャーロットの悲鳴が上がった。


 男はあたふたと幌の中に飛び来んで、それを待たずに御者台の少年がぴしりと馬に手綱を当てていた。


 いきり立った馬たちが走り出した。


 車輪が回転し、馬車が猛然と走り出し――



「――あれ?」


 置き去りにされ、茫然としていたマルコシアスはわれに返り、腕を組み、つぶやいた。


「あの様子だと、ご主人さまとあの男、知り合いではないのかな?」


 まさか知り合いに一言の声も掛けず、いきなり幌馬車に引きずり込むような風習が、この三十年で誕生したわけではあるまい。


 少なくとも三十年前、最後に召喚されたときにはそんな風習はなかったのだ。


 マルコシアスは瞬きし、顎を撫で、それからようやく事態を理解して、顔を顰めた。


「――おっと――まずいな」


 召喚陣にて得た知識によれば、こういう事態を誘拐と呼ぶ。


 かれはまだ報酬である『神の瞳』を得ていない。

 誘拐されたとなれば、家に帰すためにシャーロットを救出してやらねばならない。


 そして何より、誘拐の目的が何だかは知らないが――これまた召喚陣にて得た知識によれば、大抵の場合、誘拐した相手を人質として、その家族に何かを要求するために誘拐というものは行われるらしい――万が一、シャーロットが手傷を負い、あるいはもっと致命的な傷を負うようであれば、困る。



 ――悪魔には〈身代わりの契約〉が課せられているのだ。



「ああもう、まったく」


 自分がしくじったことは棚に上げ、マルコシアスは前髪を引っ張って毒づいた。


「屋敷から出た途端に目を付けられるなんて、運が悪すぎるでしょ、ご主人さま」





▷○◁





「運が悪すぎる!」


 リンキーズはキィキィ声で騒いでいた。


 馬の背中から御者台に飛び移り、主人が幌の中でばったんばったん暴れ狂い、自由を獲得しようともがく十四歳の少女を相手に悪戦苦闘している気配を察しつつ、リンキーズは犬そのものの仕草で前脚をアーノルドに掛けて訴えていた。


「まずいって! あの女の子の後ろにいた奴を見た!? 魔神だよ! 立派な魔神!

 序列までは分からないけどまずいって! すぐ追い掛けてくるよ!

 あの女の子、魔術師だったんだ!」


「知らないって!」


 アーノルドはアーノルドで必死であった。


 何しろ御者など初体験。

 魔術師からある程度のコツは教わっていたとはいえ、手綱から伝わる馬たちの気性の荒さに、ただただ竦み上がっている。


「見ただけでは分からんって! とにかくもうやり切るしかないんだって!」





 そして一方、その後ろの幌の中では、ばったんばったん暴れ狂った結果、自分の決定的な失態に気づいたシャーロットが、今度こそ凄まじい勢いで血の気が引き、全身が凍るのを感じていた。



 シャーロットは、この事態が誘拐であると認識できていたわけではなかった。


 ただ、急に知らない場所へ引き摺り込まれた!

 布でぐるぐる巻きにされた(そう、されていたのだ)!

 上から押さえ付けられた!


 という異常事態に、理性というより本能でもって、抗おうとしていたに過ぎない。


 布を被せられ、ささくれた馬車の荷台に押さえ付けられ、彼女は当初、猛然とこの理不尽に抵抗した。

 心臓は百ヤードを一気に走り抜けたかのように激しく打っていた。


 耳鳴りが凄まじく、混乱のあまり悲鳴を上げ、彼女は自分に圧し掛かる正体不明の人物に頭突きをし――


(何がどうなったの!)


 乗合馬車の駅に行くはずだった。

 そこから馬車に乗り、汽車へ乗り継ぐつもりだった。


 世間が決して安穏としたものではないことは知っていたが、こういうときのためにマルコシアスを召喚したのに!

 あの悪魔は何をしていたのだ、主人を守りもせずに!


 膝が痛い。

 幌馬車の中に放り込まれたときに擦り剥いたのだろう。


 混乱と恐怖に涙が沁み出し――


(……え?)


 シャーロットは硬直した。

 彼女の動きが止まったことを察してか、苦労しいしい彼女を必死に押さえ付けていた男が、ふう、と息を吐いて力を緩めた。


 そのときに間髪入れず体当たりでも喰らわせていれば良かったのかも知れないが、シャーロットにその余裕はなかった。


 ついでに、両手が後ろで固定されており、身動きも儘ならない状況ではあった。


 しかしこのとき、彼女はただ、大き過ぎる戦慄に息を止めていた。



 ――()()? どうして?



 悪魔を召喚しているとき、魔術師は基本的に傷を受けない。

 なぜならば、度外れた間抜けでもない限り、必ず〈身代わりの契約〉を結ぶからだ。


〈身代わりの契約〉――読んで字の如く、主人である魔術師の受けた傷を、問答無用で悪魔に転嫁する契約。

 悪魔からの評判はすこぶる悪いが(当然だ)、魔術師としては身を守るためにも必須の契約として、最も重要なものの一つとして名高い。


 これを必ず召喚陣に書き添え――


(う――嘘でしょ……)


 そうだ、召喚陣を描き上げたとき、「何か足りないな」とは思ったのだ。


 それが、まさか、これほど重要なものだったとは!



 ――音を立てて血の気が引く。

 動揺の余りに涙さえも引っ込んだ。


 頭を殴られたような衝撃がぐわんぐわんと視界を揺らし、シャーロットは吐き気を覚えてきつく目を瞑った。



 マルコシアスが、もしも〈身代わりの契約〉を免除されていると気づいてしまえば、きっとかれは『神の瞳』を諦めるだろう――助けに来ることまではしないだろう。


 そして今、シャーロットがこの誘拐の惨劇に見舞われていることを知っているのは、その魔神マルコシアスだけなのだ。


(う――運が悪すぎる……)



 家出の決行は、もう一時間早めておくべきだった。



 ――心底後悔しながらそう思いつつ、シャーロットは激しく揺れる馬車の上で悔恨の涙を滲ませた。
























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