35 これにて仕上げを御覧じろ
マルコシアスが振り返った。
落ちていく主人を見て、かれは余裕たっぷりに微笑んだ。
まるで高所から川に飛び込むときのように姿勢を正して、マルコシアスはシャーロットに向かって手を伸べ、かれ自身もまた、開け放たれた窓から飛び降りた。
眼前でそれを見た衛兵と――そしてオーリンソンの驚きいかばかりか、しかし職務に忠実な衛兵は、シャーロットを目で追うこともなくオーリンソンに突進した。
シャーロットは固く目を閉じていた。
感じたのは、がくん、と、落下を引き留められる衝撃――内臓が口からこぼれそうになる。
マルコシアスの力強い腕が彼女の背中の側から回され、彼女を重力から掬い上げたのだ。
かれの腕を感じたのもわずか一瞬、すぐにその感覚もほどけ、そして耳許で、ばさり、と大きな音がした。
――重さが消えた。
「――……エム?」
目を開ける。
足許にいぜんとして地面はない。
だが、落下速度は――いや、もうこれは落下とはいえない、ゆっくりと舞い降りていくその速度は――きわめて緩やかになっていた。
シャーロットは目を瞠り、反射的に彼女の悪魔を捜した。
かれがいない――見えない。
慌てて身をよじろうとすると、耳許で笑い含みの声がした。
「ちゃんとまっすぐに立ってな。大丈夫、地面に下ろしてあげるから」
もう一度、ばさり、と音がした。
その音の源を首だけで振り返って探り、シャーロットはあやうく、心臓を吐き出しそうになった。
――彼女の背中から翼が生えている。
マルコシアス自身が生やしていた翼によく似ていた――つまるところがコウモリの翼に似ているものだ。
色は鉄色、マルコシアスの枷と同じ色。
シャーロットの身の丈に合う巨大さで、彼女の意思にはよらずに動いている――
ここが地面の上であれば、シャーロットはふらりとよろめいているところだった。
だが今は、彼女の平衡を支えているのはこの翼である。
よろめく素振りを見せたのはシャーロットの表情だけで、数秒のうちに、見事にシャーロットは地面の上に下ろされていた。
足許は芝生、頼もしい地面の感触に、数秒とはいえそこから引き離されていたシャーロットとしては感涙もの。
頭上では凄まじい怒声が上がっている。
衛兵がオーリンソンを捕縛しているのだ。
数人の衛兵が、窓から頭を突き出してシャーロットを見下ろした。
口笛の音と歓声が響き渡る。
「こりゃあすごい――無事だ! あの子、魔術師だ!」
ぺたん、と芝生の上に座り込んだシャーロットの背中から、すうっと鉄色の翼が消え失せた。
代わってそこに現れたのは、もちろんのことマルコシアスだ。
かれは得意げにシャーロットを見下ろしていた。
しばらくのあいだ、シャーロットが息も絶え絶えになっている様子を観察してから、かれは愛想よく言った。
「どう? なかなか気が利いてたでしょ?」
シャーロットはぐったりと地面に手を突いて、うなだれた。
「そうね……せめて一言、何か言ってからにしてほしかったけれど……」
マルコシアスは少し考えたようだった。
それからかれは頷いた。
「なるほど。覚えておこう」
そのとき、慌ただしく芝生を踏む足音がした。
シャーロットがはっとして顔を上げると、議事堂をぐるりと回り込んできたらしい、まさにネイサン参考役その人と、すっかり周章狼狽した様子のグレイ、そして衛兵たちが、こちらに向かってくるところだった。
――アーノルドがいない。
衛兵を誘導したのはアーノルドのはずなのに。
一抹の不安が降ってきた。
シャーロットは思わず、目を細めて衛兵の一団を透かし見ようとした。
アーノルド――あの小柄で、大人びた顔をする、薄幸そうな少年はどこだろう。
「――シャーロット!」
ネイサンが声を上げた。
シャーロットは地面に手をついて立ち上がった。
「グレイさん――ネイサンさん」
立ち上がり、スカートから芝を払うのもそこそこに、彼らに駆け寄る。
走り寄ったシャーロットを抱き留めたのはグレイで、跪いて彼女を抱きしめながら、彼はもはや涙ぐんでいた。
「よく――よく無事で……」
「心配をかけてごめんなさい」
シャーロットはつぶやいた。
「アーニーはどこ?」
しかしながら、その声は慌ただしいネイサンの言葉に掻き消された。
「私の悪魔が階上に遣わした精霊が、きみが落ちたと言うものだから、われわれは急いで駆けつけてきたわけだけれども」
ネイサンがほっとしたように言って、額をぬぐった。
「大丈夫? 落ちたにしては元気だね――その悪魔のおかげかな」
シャーロットは振り返った。
少年の姿のマルコシアスが、謎めいた金色の瞳でシャーロットを眺めて、微笑んでいる。
「――――」
グレイは嗚咽の一歩手前にあった。
「よく無事で」と繰り返して、シャーロットの頭を撫でている。
よほど心配をかけたらしい、と反省して――
――もうこれしかないと決意した。
「こっ、この人です!」
シャーロットは叫んで、自分の頭を撫でるグレイの手をたかだかと掲げてみせた。
ネイサンがきょとんと目を丸くする。
それに輪を掛けて、グレイもきょとんとした。
「このっ、グレイさん!
グレイさんが、私のために悪魔をつけてくださっていたんです!」
――もうこれしかない。
シャーロットがなんの免許もなく悪魔を召喚したことを隠蔽するにも、どうやら風前の灯であるらしいグレイの職歴を守るにも、これが最善手だ。
「グレイさん、本当にありがとうございます! 本当に忠実な悪魔でした!
グレイさんが守ってくださらなかったら、私、きっと死んでたに違いありません!!」
力いっぱいそう言った。
グレイの顔がじゃっかんひきつっている。
マルコシアスの顔を窺っている場合ではない――が、背後から、不機嫌そうな咳払いが聞こえてきている。
お願いだから余計なことを言わないで、と――どうして人間は背中にもうひとつ顔を持たないのだろう、と思いながら――シャーロットが祈り、その背中を冷や汗に濡らすこと数秒。
ネイサンは目をぱちくりとさせ、シャーロットを見て、マルコシアスを見て、それからグレイを見た。
そうして、彼は大きく頷いた。
「――なるほど。さすがはクローブ社にお勤めのことはある。
ミスター・グレイ? ちょっとご同行を――あなたのご尽力について、閣下にご説明しなければ」
グレイは腰が引けていた。
シャーロットを凝視し、ネイサンを窺って、額を拭う。
また彼の手が懐の煙草に伸びかけたが、さすがにこの状況では彼も自制した。
襟を正す仕草で手つきを誤魔化して、グレイはしどろもどろに声を出した。
「あ、いや、私は……」
「スプルーストンで私が誘拐されそうになったときに、グレイさんがたまたま休暇で通りかかられていて! それからずっと守っていただいていたんです!!」
ここぞとばかりに事実を嘘で糊塗するシャーロット。
スプルーストンにいたのだから、グレイが休暇をとっていたことに違いはない。
なぜスプルーストンのような田舎に――と突っ込まれるかもしれないが、それはあれだ、職場での不当な仕打ちがための傷心旅行だったのだ。
シャーロットのきらきら輝く顔に、グレイの顔はどんどん強張っていく。
「あ、いや――それは――」
「ねっ、グレイさん!」
違うとは言わせない勢いでシャーロットは繰り返し、衛兵のあいだにも、なんとなく感心の色が広がった。
マルコシアスがまた咳払いをしたが、それを気にかける者は皆無だった。
「きみたち、この方を閣下のところへ。閣下も今はかなり気が立っておられるだろうが――この方の功労をまず最初にご説明しろよ。行け」
ネイサンが衛兵に指示を出し、むしろ狼狽するグレイを、「さあさあこちらへ」と、賓客もかくやという低姿勢で導いていく衛兵たち。
そんなグレイを少しのあいだ引き留めて、シャーロットは周囲をきょろきょろと見渡してから、小声で尋ねた。
「グレイさん、アーニー――アーニーはどこ?」
グレイの瞳に、ふっと憂慮が走った。
「見かけていない。きみも?」
「ええ――」
会話はそこまでだった。
グレイは丁重に衛兵に連れられていき、「いや、私は――閣下にお目通り願えるような人間では――とてもとても――」と、ささやかな抵抗を試みる彼の声が、徐々に遠ざかっていった。
その場に、ネイサンとシャーロット、そしてマルコシアスだけが残った。
ネイサンはちらりとマルコシアスを見て、それからシャーロットに歩み寄り、彼女の肩に手を置いた。
なにやら愉快な思索に捉われているのか、彼は小さく笑っていた。
シャーロットはネイサンを見上げて、首を傾げた。
「参考役さま、ここへ来られるまでに、アーニー――あの、一緒にいた男の子をお見掛けになりましたか」
ネイサンは軽く肩を竦めた。
「いや。――見当たらないんだろう? 大丈夫、安心しなさい。
彼もこの件については功労者の一人だ――捜して褒美を取らせよう」
シャーロットはほっとして、ゆっくりと眉を開いておずおずと微笑んだ。
そんな彼女を見下ろして、ネイサンはシャーロットの肩に置いた手を、ぽん、と、もの言いたげに弾ませた。
「まあ、彼もリンキーズを召喚して、きみを助けていたのは事実だしね」
シャーロットはびくりと肩を揺らした。
「……え?」
「まあまあ」
微笑んでちらりとマルコシアスを見て、ネイサンは片目をつむった。
「とても良い鉄の翼だ。大事にしなさい」
「…………」
シャーロットは半笑いで固まった。
「――え?」
▷○◁
アーノルドはほっと息を吐いていた。
「悪人はこちらです!」と衛兵を誘導したはいいものの、さすがに大捕り物に巻き込まれてはなるまじと、彼はシャーロットが駆け込んだ部屋の外にいたのだ。
中の大騒ぎが決着した頃合いを見計らって、彼はおずおずと部屋の中に踏み込み、オーリンソンに顔を見られないようにおもてを伏せつつ(といっても、オーリンソンは周囲への罵倒に忙しく、それどころではない様子だったが)、本と書類の山を避けながら奥へと進んだ。
衛兵たちも負けじとオーリンソンに向かって厳しい言葉を投げ掛けている。
そこに、この部屋を使用する正当な権利のある者がやって来たらしく、「何がどうなっているんですか!」と、部屋の外で騒ぐ声が聞こえてきていた。
それらを後目に、アーノルドは大きな窓を苦労して開け、外に頭を突き出して眼下を覗き込む。
(悪魔もいたし、大丈夫だとは思うけど……シャーロット、落ちて死んでたりしないよな……)
もしも、見下ろした先にシャーロットのばらばらにひしゃげた身体を見るようなことになれば、相当後味が悪そうだ。
そう考え、つばを飲み、半ば祈りながら見下ろした先で、そのときちょうど、シャーロットがグレイの手をたかだかと掲げた。
「――――」
アーノルドはほっとして破顔した。
――シャーロットがグレイを、一連の件の立役者として名指ししたのであれば、グレイは彼が恐れていた運命を免れるだろう。
「じゃ、ま、グレイさんの方はめでたしめでたしで一件落着ってことで……」
つぶやいて、アーノルドは窓から頭を引っ込めた。
「あとは、おれ……」
せめて、暖炉のあるアパートを借りるだけの金を。
そう思い、ここは図々しく、あのネイサンって人のところに功績をアピールしに行こうかな、と、アーノルドが室内を向き、窓から一歩離れたときだった。
――羽毛におおわれた翼が空気を叩くとき特有の、やわらかな音がした。
アーノルドは弾かれたように振り返った。
見開いた彼の青灰色の瞳が、窓枠に軽やかに止まった、真っ白な羽毛の美しいオウムを見た。
「――え?」
アーノルドはつぶやいた。
オウムは黒い瞳でじっとアーノルドを見つめている。
そして、本物のオウムそっくりの仕草で、ひょい、と首を傾げた。
かれがくちばしを開いた。
オウムが人の言葉を話した。
――周囲は騒然としていて、それに気づく者はいない。
「――やあ、きみ。僕の主人のところに来てくれる?」
▷○◁
半笑いで固まったシャーロットが、何をどうとも言えずにいるうちに、ネイサンがシャーロットから手を離して踵を返し、その手をひらりと振った。
「私も魔術師だ。悪魔との交渉の大切さは分かっているからね。
きみ、その悪魔と話があるなら済ませてしまいなさい。待っているから、済んだら来るようにね」
「えっ、あの――」
さくさくと芝生を踏んで、ネイサンが歩み去った。
シャーロットは茫然としてそのネイヴィ・ブルーの背広の後ろ姿を見送り、マルコシアスの咳払いでわれに返った。
「ロッテ」
われに返ったものの、シャーロットは動揺を隠しきれずに踵を上下させていた。
「どうしましょう、疑われちゃったわ」
「まあ、仕方ないんじゃない?」
マルコシアスは不機嫌そうに腕を組んだ。
「それより――あんた、言うに事欠いて僕を他の魔術師の悪魔だとはね。
ほんと、天使みたいな嘘をつく」
シャーロットは真顔でかれを振り返った。
「あら、ありがとう。褒めてくれるなんて珍しいわね」
マルコシアスはますます顔を顰めた。
「今のは悪口だ。それに、あんたを褒めたことは他にもあるはずだ、ロッテ」
シャーロットはあいまいに肩を竦め、そしてやはり、その仕草がマルコシアスからうつったもののように感じて、じゃっかんの気まずさを覚えた。
ふう、と息を吐き、シャーロットはマルコシアスに向き直る。
「エム。アーニーがどこにいるか分かる?」
「それはもちろん――ん?」
平然と応じたマルコシアスが、しかし語尾とともに眉を寄せた。
シャーロットはどきりとした。
「どうしたの?」
「いや――」
マルコシアスが顔を上げ、先ほどまで彼らがいた、逃避行の果ての部屋を見上げた。
つられてシャーロットもそちらを見上げたが、陽光が眩しいばかりで何もない。
「エム?」
「ああ、いや――僕の精霊が、さっきの部屋を見られなくなっている」
シャーロットは眉を顰めた。
「ええっと、アーニーがどこにいるか分からないの?」
「他のところにはいない。だからあの部屋だと思うけど、僕の精霊があの部屋に入ろうとしない」
マルコシアスが仏頂面でつぶやき、ストールを直した。
「さっきの魔術師かな。あいつが、別の魔神でも呼んで、あの部屋に置いてるのかな――でもまあ、あの部屋にいると思うよ。他の場所には見当たらないから」
「ああ――」
シャーロットは瞬きした。
「――そうね、そうかもしれない」
アーノルドを捜しておくから、と、ネイサンが言ったことを思い出した。
手っ取り早くアーノルドを捜させるなら、悪魔に依頼するのが最も早い。
あの様子をみるに、ネイサンは複数の悪魔を同時に召喚しているようだ。
魔神にあの部屋へ向かうよう命じ、アーノルドを捜させるのも自然な話だ。
「まあ、大丈夫でしょ」
安心させるようにマルコシアスにそう言われ、シャーロットもようやく安堵した。
――この安堵の味を、シャーロットは何度も何度も苦い記憶として振り返ることになる。
だが、このときの彼女はそれを知らない。
悪魔から差し出された安堵を受け取ってはいけないことを、このときの彼女はまだ、骨身に沁みて確信してはいなかったのだ。
「そう、――ありがとう」
にっこりと微笑み、シャーロットは伸びをした。
「じゃあ、アーニーともあとでちゃんと会えるわね。
――エム、お前の言っていた変な魔神……」
マルコシアスは溜息を吐いた。
「“変な”、ってなに。僕より格が上だと言っていただけだ」
「とにかく、それ。その悪魔にも遭遇しなくて、ほんとに運がよかったわ。
――オーリンソンさんが捕まったんだから、閣下もこの件が片づいたって安心してくださると思うわ――お父さまにも説明して」
シャーロットは、生真面目にマルコシアスと視線を合わせた。
「私、きっとこのまま、ちゃんとリクニスに入学できるわ」
マルコシアスが瞬きして、シャーロットの橄欖石の瞳を見た。
淡い金色の瞳が、彼女の意図を汲んだ様子でひらめいた。
「――ああ、……なるほどね」
それから、かれは少し首を傾げ、試すように言った。
「最初のあんたの命令は、あんたを家に帰すことだったね。
まだ、ここはあんたの家ではないけれど――」
シャーロットは笑い出した。
「もう、そんな細かいことにはこだわらないわ。
それに、ここから先に何か困ったことが起こるとしても、それはもう悪魔の力を借りる領分ではないもの。
――私の栄光の入口を取り戻してくれてありがとう、マルコシアス。
ちゃんと契約の履行を確認したわ」
マルコシアスは小さく息を吐いた。
かれは悪魔の誘惑を籠めた瞳でシャーロットを覗き込んだ。
「別に、多少は契約が長引いてもいいんだけど」
「そんなことを言って、エム」
礼儀正しくマルコシアスの瞳から視線を逸らしたシャーロットが、首に下げた銀鎖を引っ張った。
「これ、欲しいんでしょう?」
「欲しいね」
即答だった。
マルコシアスは悪魔そのものの笑顔でシャーロットを見つめた。
「喉から手が出るほどには欲しい」
「ちゃんとあげるわよ」
そう言って、シャーロットは首から銀鎖を外した。
衣服の襟から『神の瞳』を引っ張り出すと、マルコシアスはぐるぐるとシャーロットの周りを歩き回り始めた。
すっかり、契約の延長うんぬんを切り出したことは忘れ果てたらしい。
「ちゃんと銀から取り出してくれよ。僕、銀には触りたくない」
「はいはい、もちろん」
そう言って、シャーロットはその場にしゃがみ込み、銀の首飾りをいじり始めた。
そのあいだも、マルコシアスは警戒するように周囲を歩き回り続けている。
まるで、だれかが横から『神の瞳』を盗んでいくのではないかと疑っているようだった。
「周りに誰かいるの?」
シャーロットが戸惑って尋ねると、マルコシアスは首を振った。
「いいや、いないね。さっきの魔術師も、議事堂だっけ、この馬鹿みたいに大きな建物の、あっちの陰にいるよ。ここのことは見えてないし聞こえてない」
「それは良かった」
シャーロットは真顔でつぶやいた。
何しろ、この報酬の品に関しては、彼女も良識に恥じるところを持っている。
数分ののちにシャーロットは、少しばかり苦戦しつつも、ようやくその銀の網を、さながらロケットを開くようにして開いた。
ごろり、と、シャーロットのてのひらに転がり出てきた『神の瞳』は、数多の悪魔がこのために戦ったとは信じられないほどに小さい――まさにこぶし程度の大きさ。
マルコシアスが前のめりになった。
「『神の瞳』!」
「あげるわよ、落ち着いて!」
シャーロットは思わず声を上げ、不承不承といった様子で身体を引いたマルコシアスに向き直って、立ち上がった。
「――魔神マルコシアス、よくやってくれました。
〝契約の履行を確認しました〟」
「はいはい、こちらにも確認させてくれ」
マルコシアスが軽い口調で言って、シャーロットは思わずがっくりと肩を落とす。
「もう……初めての召喚、初めての解放なのに……」
「いいから、いいから」
手を伸べて催促するマルコシアスのてのひらに、シャーロットは慎重に『神の瞳』を載せた。
マルコシアスが嬉しげにそれを受け取って、そしてそれを掲げるようにして陽の光にかざす。
かれの淡い金色の瞳が、ふいに疑わしげに細められた。
「――これ、本当に『神の瞳』?」
「はあ?」
報酬の品にけちをつけられるほど不名誉なことはない。
シャーロットは憤然と腕を組んだ。
「要らないなら返してもらって結構よ!」
「いや――」
マルコシアスの手の中で、『神の瞳』はおだやかな深緑の色に輝いている。
「――思っていたのと違っただけだ。
間違いないね、この気配は『神の瞳』だ」
そう言って誇らしげに報酬の品を握り締め、マルコシアスはシャーロットに目を戻した。
そして、おどけた仕草で軽くその場に膝を突いた。
「――レディ・ロッテ。稀に見る頑固者、折れないスイセン、砕けない硝子細工。
僕の名前を知るただ一人のご主人様。
またのご用命をお待ちしますが、ひとまずはこれで――」
にやりと笑うマルコシアスの手の中で、『神の瞳』がきらめく。
「――〝約束の報酬を頂戴しました〟。
契約はここまでだ、――僕のロッテ」
ぷつん、と、確かに、二人のあいだにあった契約の絆が切れた。
絹糸が切れるよりもひそやかに、しずくが落ちるよりも自然に。
――はるか昔に、はじめて悪魔の文字を研究しはじめた魔術師たちが、契約という魔術の体系を築き上げてからというもの、不変に続いてきた――まさにそのように。
シャーロットは確かにそれを感じた。
こうなってはもう、マルコシアスが姿を変えて目の前に現れても、すぐにはそうとは分かるまい。
いくばくかの喪失感を覚えたものの、それは意識するほどのことでもなかった。
シャーロットは息を吸い込む。
手に残った、空っぽになった銀の首飾りを、とりあえずはまた首に下げておく。
ゆっくりと足を引いて目の前の悪魔から身を引き、彼女は警戒ぎみに微笑んだ。
今までこの悪魔から自分を守っていたのは、取り交わした契約、ただそれだけであったと――それを取り違えることはなかった。
「――どうもありがとう、マルコシアス」
マルコシアスは首を傾げた。
唐突に、かれが人の言葉を忘れたのではないかと思った――それほど、つい数秒前と、かれの見え方が変わったように思われた。
仮面のように整った、淡い金色の瞳を戴くつくりものの顔貌。
シャーロットは息を呑み、数秒のあいだじっとその顔を見つめたあと、はっとして目を逸らした。
「――私はもう行くわ」
マルコシアスは、まさに悪魔の表情で微笑むのみで、応じなかった。
――シャーロットは、警戒しながらではあったものの、マルコシアスに背を向けた。
そして、芝生の上を小走りに駆け出す――待っているネイサンのところへ。
彼女の栄光の入口へ。
▷○◁
陽光に照らされてきらめく金髪の揺れる、快活なその後ろ姿を、マルコシアスはしばらく観察していた。
かれは片手で顎を撫でて、首を傾げる。
「――ああ、ロッテ。不変は罪だが、あんたの場合はそのままがいいな」
つぶやいて、かれは陰惨に微笑む。
「あやうい天秤を躍起になって保とうとする硝子細工さん。
あんたがその心根のままでいてくれたら、どんなにか面白いことかな。
それで――」
かれの片手の中で、深緑の『神の瞳』が、不穏に輝いている。
「――その心根が折れるときはどんな風だろう。
ああ、僕のロッテ、願わくば、その瞬間はこの僕の目の前のことであれ」
マルコシアスは、だれにともなく一礼した。
かれの精霊たちが、帰還の気配を感じ取り、次々にかれの周囲へ集っていく。
そのさまは、陽光がふいにかれの周囲を取り巻き、そしてさざめいたかのようだった。
芝生を撫でる風が吹き渡る。
そして数多の精霊を纏うマルコシアスの身体は、もはやその風を遮るものではなくなっていた。
すう、と、溶けるように、解けるようにかれの姿は薄れ――
――人間からはマルコシアスと呼ばれるその悪魔は、シャーロット以外がその名を知ることはない一人の悪魔に戻って、かれの領域へと凱旋した。




