33 傲慢
ピーター・オーリンソンは凝然と立ち尽くしていた。
彼は逓信省のそばから、当然ながら議事堂にあるおのれの執務室に戻ろうとしていたのである。
しかしながらそれは出来なくなった――彼の、やや目立つ痣のある左手に、そっけなく短い文言が記されたメモが握られていた。
『露見』
そのたった一語に籠められた意図は、オーリンソンからすれば察するにあまりあった。
失望。頓挫。計画の練り直し。
棄てられるこの計画に関わっていたオーリンソンはもう用済みだと、そういうことだ。
オーリンソンはゆっくりとメモを握り締め、それをくしゃくしゃに丸めて足許に落とした。
冬の乾いた風が、丸めた紙切れをたどたどしく運び去ろうとした。
――彼の顔を思い出した――聡明な面差し、卓越した洞察力で先を見通す眼差し。
彼は、みごとにオーリンソンの足許をすくって優位に立った。
以来、オーリンソンは彼の目的のために、ひたすらオーリンソン自身の地位と人脈を駆使することになった。
彼からの、頼みという名の指示はいつも明瞭だった。
必要なものを集めてほしい――それだけ――
結局のところ、必要なものは……
「――うんざりだ」
オーリンソンは吐き捨てた。
――結局のところ、必要なものは……
彼が手に入れようとしているものを押さえたとして、それはオーリンソンにはなんの役にも立ちはしない。
だが――
「形勢逆転にはなろう……」
ここであっさりとオーリンソンを切り捨てることは出来なくなる。
彼が手に入れようとしているものとともに、姿をくらますことが出来れば、彼は何がなんでもオーリンソンを見つけ出し、協力を乞わねばならなくなるはずだ。
あくまでも高圧的に迫ろうというのならば、居所がはっきりと分かるオーリンソンの家族を人質にとって彼を誘き出そうとするような手段が考えられようが、それこそ愚の骨頂だ。
妻のメイとは互いに愛想を尽かせた間柄、一粒種のショーンもオーリンソンの思惑とは別の道を行こうとしている。
自分の中で愛情と名づけていた満足は、もうとうにオーリンソンの胸中から去っていた。
――結局のところ、必要なものは……
「気高きスーの血、『神の瞳』」
オーリンソンはつぶやいた。
あと一つ必要なものがあることを知っているが、それはオーリンソンではどうにもならないものだ。
今、所在が分かっているものは……。
そして、彼自身がその身柄を押さえるよう命じたものは……
「気高きスーの血」
オーリンソンはゆっくりと身体の向きを変えた。
羽毛におおわれた翼が空気を叩くとき特有の、やわらかな音がした。
オーリンソンは顔を上げ、そばの建物の外側に張り出した窓台の上に、美しい白いオウムが止まっているのを認めた。
オウムの羽根は陽光を受けて、一点の汚れもなくつやつやと輝いている。
オーリンソンは息を呑んで、そのオウムを凝視した。
かれがどう出るのか――かれに与えられている命令がどういったものなのか――オーリンソンには測りかねた。
黒い瞳でしばらくオーリンソンを眺めてから、オウムは首を傾げた。
冠羽が重たげに揺れたが、その仕草は空気のように軽やかだった。
それからオウムはわざとらしく片脚を上げて、ほんもののオウムそっくりの仕草で顔をこすり始めた。
オーリンソンはなおしばらく、無邪気をよそおうオウムを見つめていた。
だが、どうやらかれが動きそうにもないと分かると、かれから背中を隠すようにして、そろそろとその場を離れた。
オーリンソンは大きく息を吸い込んだ。
「――さあ、気高きスーの血だ。
議事堂――首尾はどうなった」
▷○◁
シャーロットに迷いはなかった。
アーノルドが目を覆い、グレイがその場に膝を折りそうになる程度には迷いがなかった。
彼女は毅然として、まず最初に申し渡した。
「エム、手をつないで」
他の誰にも意味は通じなかったが、マルコシアスにとっては意味は明瞭だった。
かれは軽く肩を竦めると、右手でシャーロットの左手首を握った。
そして瞬きのうちに、かれの姿はシャーロットの左手首に収まる鉄色の細い腕輪に変わっていた。
アーノルドがそれに絶句しようとしているうちに、つまりはマルコシアスの変身から一秒たりとも間を置かず、シャーロットは断固たる足取りで作業棟へと足を踏み出した。
アーノルドは目を覆い、グレイはその場に膝をつきそうになった。
アーノルドは思わず、「なんで……」と嘆きの声をこぼしたものの、シャーロットに届いたのはその言葉の内容だけだった。
彼女は決然として応じた。
「ネイサンさんに会うのよ。会って――大捕り物のことは黙っていてくださいって頼むの」
アーノルドとグレイの、心からの言葉が重なった。
「上手くいくわけないだろ……」
――ところが上手くいったのである。
シャーロットが苦労した点といえば、衛兵に襟首を掴まれて外に放り出されそうになった瞬間だった。
それはアーノルドが横から飛びついてシャーロットを救出し、シャーロットにいたく感激されたが、冷や汗を浮かべるアーノルドとしては、動機は明瞭だった。
つまるところが、今もシャーロットの腕にくっついている(どう見ても腕輪にしか見えない)悪魔が、衛兵に手を出してしまっては取り返しがつかないと思ったのである。
アーノルドは初等学校すら満足に通えておらず――ゆえに、魔術師が悪魔を使って人を傷つけることが、特別に重い罪であることは知らなかった。
アーノルドはついついシャーロットについて来たが、グレイは賢明にも外に留まった。
当然、リンキーズも外にいる。
リンキーズのカラスの眼差しに、アーノルドは自分に対するあわれみを読み取った。
お互いさまだよ、と思うアーノルドは、去り際にリンキーズに向かって親指を立てておいた。
作業棟の中は、外から見る様子に輪を掛けて騒然としていた。
半ばパニックを起こしたような技術省の人々に、駆けつけた衛兵が落ち着きを取り戻させようとしているが、「一体ぜんたい、私らの頭の上で何が起こっていたんだ?」という、ヒステリーじみた質問に満足に答えられる衛兵はおらず、それでいっそう技術省の人々の気は立っているようだった。
さらにいえば衛兵が、こういった場合の大原則――つまるところ、この騒動を起こした犯人の逃走防止――のために、技術省の人々を中に留め置こうとしていることも、作業棟の中を殺気立たせることに一役買っていた。
「お願いだから外に出してくれない!?」というかん高い女性の声が、アーノルドの耳にキンと響いた。
そんな中を、シャーロットは人波にもぐって泳ぐようにして突き進み、複雑な造りをしている作業棟の中で、やっとの思いで上階へ通じる階段を見つけ出した。
辿り着いた二階、三階でも同じように、人波の中を溺れるようにして泳ぎきった彼女は、じゃっかんもみくちゃになりながらも、むしろパニックのおかげで人目につかず、誰何もされずにそこまで辿り着いたことを誇るようにして、屋上に通じる扉を開けた。
屋上では、数名の衛兵と、彼らに指示を出しているらしいネイサンが、午後のさっぱりした陽光に照らされて影を落としていた。
くだんの魔術師は屋上で伸びたまま、ネイサンはそのそばに立っており、そのネイサンを守るようにして、先ほど見えたあの大きな青い鳥が、ネイサンの腕に優雅に止まっていて、その長い尾羽が垂れていた。
あちこちが陥没したり割れていたりと、惨憺たる様相を呈する屋上の有様に、アーノルドは思わず閉口した。
扉が開いたことに気づいたのか、ネイサンと衛兵の数名がこちらを振り返った。
衛兵が、不審げというよりは訝しげに、誰何のためにこちらに歩み寄ろうとしてくる。
アーノルドは思わず天を仰いだが、衛兵がシャーロットとアーノルドに詰め寄るよりも早く、「待て」とネイサンが声を上げた。
シャーロットも、そしてもちろんアーノルドも知らなかったが、参考役というものはかなりの地位であるらしい。
声をかけられた衛兵が、ぴたりとその場で足を止め、ネイサンを振り返って頭を下げた。
ネイサンの方はそちらを見もせずに、もみくちゃになって息を上げながら屋上に現れたシャーロットに、唖然とした顔を向けている。
「どうしてここに……?」
ネイサンが、伸びた魔術師のそばを離れ、足早にシャーロットに歩み寄った。
美しい青い羽毛を持つ鳥が、驚いたようにネイサンの腕を離れて飛び上がり、それからゆっくりと優雅に小さな弧を描いたあと、伸びた魔術師のそばに着地した。
迫るネイサンに対して、アーノルドは思わず一歩下がったが、ネイサンの顔に怒気はなかった。
シャーロットはシャーロットで、息せき切って、自分からネイサンに駆け寄っている。
目的を定めた瞬間に、こうまで気後れをなくすとはいっそ見事なものだ、と、アーノルドは他人事のように考えた。
「シャーロット、どうしてここに?」
唖然と尋ねられて、シャーロットは元気よく答えた。
「はい、お願いがありまして」
はたせるかな、ネイサンは大笑いした。
彼は爆笑しながら懐を探り、銀色のシガーケースを取り出し、煙草を一本つまみ出した。
そしてシガーケースを懐にしまい、軽く手を振ったが、シャーロットが驚いたことに、その指先にいつの間にかテントウムシが止まっていた。
そして、その金色のテントウムシは悪魔でしか有り得なかった――かれが軽く翅を震わせ、ネイサンの煙草に火が点いた。
ふうっと大きく紫煙を吐き出してから、ネイサンは笑いの残滓に震える声で、いかにもおかしげに言った。
「なるほどなるほど、理由は分からないけれども、オーリンソン補佐助官の狙いは自分に違いないと、そういうことね。
まあ、理由が分からないってのはきみの方便だろ? 閣下の対応からしても、きみは特別な立場みたいだしね――それに、そこでああして、」
と言いながら、ネイサンは足の爪先で、ひっくり返って伸びている魔術師の方を示した。
「ひっくり返っている魔術師もいることだしね。
しかしシャーロット、きみ、どうやってあの魔術師を撃退したの?」
「あ、私ではないんです――」
シャーロットはしれっと言った。
とたん、ぎゅっと左手首の腕輪が手首を締めつけるのを感じたが、シャーロットは意地に懸けても表情を変えなかった。
ネイサンは眉を上げた。
「ふうん、そう? ――で、きみが無事だってことが分からなければ、オーリンソン補佐助官も、のこのこ様子を見にやって来るかもしれないから、ここでの大捕り物のことは隠していてくれないか、ね――」
煙草を持っていない方の手で、ネイサンは軽く顎を撫でた。
シャーロットは、今にもオーリンソンが、彼の手下の魔術師がしくじったことを察してしまうのではないかと思うと気が気ではなく、慌てて言った。
「あの、まだ、閣下や皆さまに、ここでのことは――」
「え? ああ、まだ伝えてはいないよ」
ネイサンが答えて、シャーロットは少しはほっとしたものの、じれるような気持ちでなおも言った。
「あの、ネイサンさん――参考役さま? あの、たぶん、私がふらふらしていれば、オーリンソンさんも寄って来てくれる可能性が高いと思うんですけれど――」
ネイサンがまたも笑い出したが、おり悪しく彼は煙を吸い込んだところだった。
げほげほとむせて煙を吐き出し、ネイサンは笑みに細められる目でシャーロットを見た。
「きみ、面白いなあ――あっぱれだ。補佐助官を、そのへんをうろつくキツネみたいに言うんだからね」
「なあ、やっぱ危ないって、シャーロット」
アーノルドが、とうとう堪えかねて言った。
彼としては、ネイサンはシャーロットの無謀な思いつきを咎めてくれると思っていたのである。
ところが、どうだ。
ネイサンはほがらかに笑っている。
「大人しくしとこうぜ――変なこと言い出して悪かったよ」
シャーロットの肩に手を置いて、彼女を安全圏に引き戻そうとしていると、ネイサンがふいにアーノルドを見た。
アーノルドはその眼差しを、終生覚えていることになる――彼の灰色の目が、言いようもない興味を湛えて彼を見ている、その瞬間を。
「きみが言い出した? ――シャーロットを囮にするっていうのは、じゃあ、きみが考えついたことか?」
アーノルドは口ごもった。
そんな彼をちらっと見てから、シャーロットが彼を庇うように言った。
「いいえ、――アーニーが言ってくれたのは、オーリンソンさんがその人の首尾を把握するために、グレートヒルにはまだいるに違いないということでした」
「ふうん……」
ネイサンは紫煙を吐き出しながら、なおもアーノルドを眺めている。
シャーロットは咳払いした。
「あの――参考役さま?」
ネイサンは瞬きして、われに返ったようだった。
はっとしたようにシャーロットを見て、かすかな笑みを浮かべる。
「ああ――すまない。そうだね、囮――まあ、閣下に知られれば私がお叱りをちょうだいすることになるけれども」
「ほら、駄目だって」
アーノルドがシャーロットに囁いたが、直後にその顔が硬直した。
ネイサンが淡々と続けたためだった。
「ただし、オーリンソン補佐助官を野放しにした場合、その比でない人数がお叱りを受けて――まあ、首が飛ぶことになるだろうね」
シャーロットは勝ち誇った幼い顔でアーノルドを見た。
アーノルドは両手で前髪を掴むような、救いがたい愚か者を見るにあたって相応しい仕草でその表情を見つめ返した。
「きみが危ないだろ!!」
「まあ、それは大丈夫。私が保証する」
ネイサンが軽い口調で請け合って、それから周囲を見渡すような仕草をした。
「きみ、あの悪魔はどこ? 男の子の格好をしていた――」
「いません」
シャーロットはきっぱりと応じた。
つい十数分前は頭が回っていなかったが、よく考えるまでもなく、なんの免許もなく魔神を召喚したことが露見するとまずいのである。
隠蔽あるのみと、彼女は澄まして続けた。
「私の悪魔ではないので……」
先ほどとは比較にならない強さで、彼女の左腕の腕輪がぎゅうっとシャーロットの手首を締め上げたが、彼女はなんとか平静を保った。
ネイサンはまじまじとシャーロットを見ていた――先ほどのアーノルドと同じく、シャーロットもその瞬間のことをよく覚えていた。
明晰な灰色の瞳が、興味深そうに彼女を見つめるさまを。
だが、ネイサンは何も言わなかった。
彼はにっこりと微笑み、吸いかけの煙草を足許に落とした。
その煙草から、頼りなく紫煙が漂っている。
「そうか。――ではシャーロット。きみさえいいなら、私が反対する理由は、実を言うとないんだ。
きみの無事はこの私が保証しよう――それに私も、有能な人間が首を切られるさまを見物したいわけではないしね」
とたんに輝くシャーロットの表情を、いっそ面白がるように見ながら。
「きみがよければさっそく、その、きみ渾身の囮作戦に移ろうじゃないか」
渾身の、と、アーノルドは思わず復唱した。
ネイサンがじゃっかんふざけているのではないかと感じた、彼に落ち度はなかろう。
「ちょっと、いんですか、そんな――」
抗議しようと口を開くと、ネイサンはうるさそうに手を振って彼を黙らせた。
その仕草を見て、というよりは、そういえばあの手の上にテントウムシの姿の悪魔がいたな、と思い出して、アーノルドは口をつぐんだ。
ネイサンは肩を竦めて続ける。
「補佐助官からすれば、あそこの彼が成功したかどうかは、おそらくどうでもいいだろう。最終的にきみの身柄が手に入ればいいと考えているはずだ。
それに、補佐助官の立場で見るとだ、ここでの大騒ぎが必ずしもきみのために起こったものだとは判断がつかないと思うね、シャーロット。
だから、このすぐ近くにはいないにせよ、きみが無防備にうろついていれば、きみたちの言うとおり、寄って来てくれはするだろうが――」
ただ、と言い置いて、ネイサンはまたシガーケースを取り出した。
「私や衛兵がすぐに助けに入れるとは限らないからね。もしも補佐助官に見つかってしまったら――というか、首尾よく見つかることが出来たら、しばらくのあいだ、きみは自分で身の安全を確保しないといけないよ。それは分かる?」
「分かります」
シャーロットがきっぱりと答え、アーノルドが頭をかかえる一方で、ネイサンはふっと笑った。
「けっこう」
そして、彼はシャーロットとアーノルドに、屋上から下りるように身振りで示した。
「あんまりここにいると、私もきみたちのことを説明するのに苦労するからね。私の袖の下が効く範囲の不信感に留めてくれるとありがたいね」
言いながら、ネイサンは手にしたシガーケースを、まるで何かのボールのように、そばを通り掛かろうとした衛兵に機嫌よさげに投げ渡した。
衛兵がびっくりした顔でそれを受け取ると、ネイサンは歯を見せて笑った。
「職務に忠実な諸君に褒美だ。嫌煙家ではなかろうね、きみ――きみの一月分の夕飯代を賄える代物だぞ、大事に味わいたまえ!」
▷○◁
「馬鹿だろう」と言われること七回、しかしながらシャーロットは自分の意思を押し通した。
なお、内訳は、リンキーズからが五回、腹に据えかねた様子のグレイからが二回だった。
アーノルドは責任を感じているような顔で押し黙っている。
だが、それでへこたれるようであれば、シャーロットは今でもスプルーストンの大叔父の屋敷でくさっていたはずである。
「だって、何がなんでもオーリンソンさんにはお縄についていただかないと困るんだもの!」
迷いのない清々しさでそう断言し、シャーロットは一考した。
ぜひともオーリンソンの目につかなければならない。
どこがいちばん目につくだろう――
オーリンソンの立場で考えてみた。
ネイサンはなんと言っていたか――そう、「補佐助官の立場で見るとだ、ここでの大騒ぎが必ずしもきみのために起こったものだとは判断がつかないと思うね」だ。
そうだ――オーリンソンはもちろん、シャーロットを捕らえるようあの魔術師に命じた――だが、シャーロットがどこにいるかは把握していなかったはずだ。
オーリンソンが見たシャーロットは、まさに議事堂にいるシャーロットであり、そこからシャーロットが飛び出したなどと考える理由は、オーリンソンにはない。
ここでの騒動――これほど騒ぎになったのだ、オーリンソンも気づくだろうが――これを彼はどうみるだろう。
もしかすると――
「グレイさんの……」
思わずつぶやき、心配と度を越した呆れのためにいらいらと煙草を消費しているグレイを見上げる。
グレイは訝しそうにした。
――マルコシアスの言いぶりからして、グレイにも危険があったのは間違いない。
となれば、オーリンソンは、ここでの大騒ぎを察知したとして、それをグレイにまつわるものと考えるのではないだろうか。
で、あれば――
「議事堂――」
シャーロットは口走った。
「いろいろと警戒することがあるにせよ、きっとオーリンソンさんは、なんとかして議事堂の近くに戻るはずだわ」
「ああ、ああ、そりゃあ良かった」
二本目の煙草を取り出しながら、グレイがいらいらと言った。
彼の肩が苛立ちに震えており、それに連動して、肩に止まるリンキーズも震えることとなっていた。
「議事堂なら安全だ。なにしろ首相のお膝元だ。すばらしいね」
「だからかしら」
グレイの言葉から皮肉は読み取らずに、シャーロットはつぶやいた。
「ネイサンさん、私の無事は保証すると言ったのよ。きっと、ちょっと考えれば私が議事堂に戻るはずだって分かっていらっしゃったんだわ――」
「そりゃあ良かった」
言って、グレイは火を点けたばかりの煙草を足許に落として、それを靴底で踏みにじった。
「じゃあ、議事堂に向かおうかね――ミズ・ベイリー、そんな意外そうな顔をしないでくれ。私も大人だ、きみを一人で、危ない目に遭う場所に送り出せると思うかね。これ以上、私をくだらない大人にしないでくれ。
――きみもだ、アーニー。ここにいなさい、なにも、みずから虎穴に飛び込むまねはしなくていいんだからね」
アーノルドは息を吸い込んだ。
「いや、さすがに、もとはといえばおれが変なこと言い出したせいなんで――行きます」
「ねえ、僕への報酬……」
リンキーズが控えめにつぶやいたが、誰もそれを聞いていかなかった。
シャーロットは勢いこんで、無自覚のうちにリンキーズの訴えを掻き消すようにして言っていた。
「一緒に来ていただけるなら、グレイさん、お願いしたいことがあるんですけれど。――オーリンソンさんが首尾よく私を見つけてくださるとは限らないですし、打てる手は打たないといけないと思うんです」
「もうマジで、シャーロット、きみって傑作だな」
アーノルドが諦めたようにつぶやいた。
「なんで自分の安全より先に、どうやって黒幕に見つけてもらうかを考えてんだよ」
「そのためにここまで来たからよ」
断固として応じて、シャーロットはこぶしを握り締めた。
――スプルーストンを出発したときには考えられなかったほど、シャーロットは一連の事件の真相に近づいた。
あとは首謀者であるオーリンソンの身柄を問題なく押さえることが出来れば、リクニスへの入学も出来るだろう。
その確信と期待に、彼女の橄欖石の瞳はきらきらと輝いていた。
「急がなきゃ」
彼らにというよりは自分に向かって、シャーロットはつぶやいた。
「議事堂に向かったオーリンソンさんが、私が見つからなくて退散しちゃったら大変だわ!」
▷○◁
オーリンソンは遠景の中に議事堂を見ていた。
実際のところをいえば、議事堂からそう離れているわけではなかったが、通りを巡回する衛兵の姿を見て、どうやら「露見」の報は誤りではなかったらしいと改めて確信するにいたって、見慣れたはずの議事堂を妙に遠くに感じていたのである。
オーリンソンは左手でゆっくりと顎を撫でた。
議事堂まで進むのは不可能ではなかった――なにしろ、彼は軍省副大臣の補佐助官である。
一介の衛兵に同行を求められたところで、頭ごなしにそれを叱りつけるだけの権力がある。
首相は既に、オーリンソンが内乱罪にも相当しかねない反逆行為を働いたことを知っていよう――それゆえ、衛兵に彼を捕らえるよう命令を下すことを、軍省大臣に求めたはずだ。
だが、オーリンソンの罪の内容それそのものは、機密に属するものであり公表されてはおるまい。
軍は階級社会だ。
一兵卒はその直属の下士官にしか従わず、下士官は直属の士官にしか従わない――その連鎖だ。
自分に対して命令権のある一人と、有事にあってその代理を務めることが出来る人間を認識しているのみであり、たとえば軍曹に対して、その直属の上官であるところの少尉の命令と喰い違う命令を、軍省大臣その人が発したとしよう――軍曹は間違いなく少尉の命令にこそ従う。
その頑迷さこそが、軍を軍として、規律正しく保っているのだ。
だが同時に、自身より階級が上の者に対しては、無条件に敬意を払うよう骨身に染みているものだ。
だからこそ、オーリンソンに対して同行を求めた結果として、オーリンソンが、一兵卒とは比較にならない身分の者の名前を出し、「諸君らに下された命令は誤解に基づくものであり、自分はその事態の解決のために将校に会いに出向くところだ」と叱りつけてしまえば、間違いなく下士官の命令を仰ごうとするはずだ。
オーリンソンの罪状がつまびらかにされていれば、衛兵も彼の言い分には耳も貸さずに命令を遂行するだろうが、オーリンソンの罪状すらも説明されていないとなれば、末端の衛兵の意識は平時に近いもの――その意識でオーリンソンを見ているはずだ。
そう考えながらも、オーリンソンは慎重な目で議事堂を観察していた。
あの小娘――シャーロット・ベイリーの身柄を、メッセンが上手く押さえたのならば、首相をはじめとした議会中枢の人間は、それこそ天地がひっくり返るほどにその捜索に血道を挙げるはずだ。
あるいはメッセンから、成功を示す合図があってもおかしくはない――
その様子があるか?
見極めようといっそう目を細めたそのとき、オーリンソンは予期せぬ姿を見てはっとした。
議事堂の方から、うなだれて足を引きずるようにして歩いて来る人影――
「――は?」
覚えず、オーリンソンは低くつぶやいた。
彼はすばやく足を引き、その場を離れようとした。
――ウィリアム・グレイだ。
理論派の魔術師で、論文を読んだところ優秀ではあるものの、感覚派というよりは熟考派であり、咄嗟のひらめきは鈍い。
それが祟っていくつかのタイミングを逃し、クローブ社の研究職から追われそうになっているところを拾ってやった――
(なぜ無事でいる?)
魔精エディルが彼を片づけたはずだ。
グレイはエディルに対抗できる悪魔は召喚していない。
息の根を止められたはずなのに、どうして無事で――しかも議事堂の方からやって来るのだ。
オーリンソンはわずかに考えた。
グレイにはシャーロットの誘拐を指示したことがある。
『神の瞳』を盗み出すことも指示したが、あれについてはグレイは、盗み出したものの正体までは知らない。
実際にあのものに触れた悪魔は正体に気づいただろうが、魔精リンキーズは実力以上に聡い悪魔として有名だ、口は滑らせるまい。
グレイが仮に、オーリンソンの正体に勘付いて、そしてそれを告発することで罪を逃れようとしたのならば――
しかし、オーリンソンの考えがまとまるよりも早く、グレイが顔を上げ、茫洋と視線をさまよわせた上で、かっと目を見開いた。
オーリンソンに気づいたのだ。
グレイが唖然として口を開けた。
オーリンソンにはうかがい知れぬ理由で、グレイが苦悶するように顔を押さえた。
そして、よろめきながらではあったものの、彼はまっすぐにオーリンソンを目指して歩いてきた。
これには、オーリンソンは特に動揺しなかった。
面倒だとは思ったものの、やりようはいくらでもある――
グレイが目の前九フィートに迫った。
彼が少しためらってから、囁き声で呼びかけてきた。
「……ミスター・スミス――」
オーリンソンは表情を変えなかった。
いかにも面倒そうに彼は首を傾げたが、その裏では、はたしてグレイが彼の本名を知っているのかどうか、そのそれぞれの可能性を見積もっていた。
「どうして――」
そこまで言って一度言葉を切り、そしてグレイが、何かの覚悟を決めたような顔をした。
彼が一気にまくし立てた。
「どうして私が無事かと訝っておられるでしょうね。ええ――ええ、なんとか生き延びましたよ。そして、いいですか、あなたの助けは必要だ、私としてもクローブ社の研究職の地位は惜しい――」
オーリンソンは表情を変えなかったが、そこまで聞いて、どうやらグレイは事態を把握していない、と判断した。
――もしも事態を把握していれば、当然ながらオーリンソンの地位も危ないことを察しているはずだ。
ここで、クローブ社の研究職がうんぬんと、なおもオーリンソンにおもねるような言葉は口を衝くまい。
もちろん、これがなんらかの罠、あるいは誘導であることも考えるべきだが――
(ありえない)
オーリンソンは無意識のうちにそう切り捨てていた。
――グレイごときが、機密に属する情報を一部ではあれ開示されて、その事態の収拾のために協力を乞われることなどありえない、と。
彼を追い詰める最後の一手となったものは、彼自身の傲慢さにほかならなかった。




