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31 再会悲喜こもごも

 ウィリアム・グレイが、彼の悪魔であるリンキーズと再会を果たしたのは、まったくの偶然だった。


 彼は、シャーロット・ベイリーの身に迫る危険を察したマルコシアスにより、少々乱暴にグレートヒルの相当な距離を引きずられ、かれが安全と判断した場所に留め置かれた。


 しばらくのあいだ、グレイはその場で、いつまたあのエディルという悪魔が自分を追って姿を現すものかと怯え、震えていたわけだが、ややあってその気配もないとなれば、彼は慎重にその場所から這い出すことを決断した。


 ともあれ、彼はシャーロットのことが心配だった。


 彼はうろうろと歩き回り(そのあいだに煙草を一本消費し)、そうしているうちに、あきらかに悪魔が絡んでいるだろう騒音を聞きつけ、彼は逡巡したものの、様子を窺いながらであれば大丈夫だろうと結論づけ、そちらに足を進めた。



 そうして、とある交差点で、ばったりとネイサン氏率いる異色の三人組(トリオ)に行きあったのである。



「あ」


 思わずつぶやいて、グレイは半ばまで吸っていた紙巻煙草を足許に落とした。


「あっ」


 リンキーズも叫んでいた。


 かれはアーノルドの腕の上で悠々とくつろいでいたのであるが、唐突に、飛び立つ直前の前傾姿勢をとった。



 アーノルドは全力で目を逸らし、なんなら顔もそむけていた。

 自分がどんどん言い逃れの難しい立場に追い込まれていくのが分かって、彼はどうにも居心地が悪かった。


 頭の中で複数の筋書きが走り始める。


 なんとかして平穏無事に元の生活に戻らねば。

 欲をいえば、元のよりちょっとばかりいい生活に。

 暖炉のある生活であれば言うことはない。



 ネイサン氏は、騒動のあいだにじゃっかん薄汚れたようにも見えるグレイを上から下までとっくりと眺めたあと、リンキーズに視線を移して、肩を竦めた。


「察するにきみの主人かな。――ああ、そうらしい」


 後半は独り言だった。


 リンキーズはばたばたと慌ただしくはばたいて(そのついでに、意図せずしてアーノルドの顔面をカラスの翼でひっぱたき)、グレイに向かって突進していたのだ。


 アーノルドはむっつりと自分の顔を撫でた。


「ご主人! ご主人! どこにいたのさ!!

 なんにせよ無事で良かったよ、僕の無事に乾杯してくれ!」


「リンキーズ……」


 グレイは茫然としてつぶやき、突進してきた魔精を腕に止まらせ、無意識の仕草でその頭を指の背で撫でた。


「お前こそどこにいたんだね、それに……」


 グレイは困惑をいっぱいに湛えた目でアーノルドを見て、それから戸惑った様子で瞬きし、ネイサン氏を窺った。


 彼のネイヴィ・ブルーの背広の仕立てや立ち居振る舞いを見て、どうやら彼が地位のある人だと判断することに成功し、グレイは遥か年下のネイサン氏に向かって、丁寧に会釈した。


「こちらはどなたかな……」


 おぼつかない口調で尋ねたグレイを、遠慮のない目でじろじろと観察してから、ネイサン氏はアーノルドを振り返った。


「知り合いかな?」


 アーノルドは一歩下がって、懸命に気配を消そうとしていた。

 彼は足許の敷石の形に、突然強い興味を惹かれた風を装って、その質問をやり過ごそうとした。

 が、ネイサン氏が辛抱づよく咳払いするに至って、無視はできないことを悟った。


 彼は顔を上げ、悲壮な顔でグレイを見てから、ネイサン氏を見上げて、ぼそぼそと応じた。


「……えーっと、会ったことはあります……ほら、あの、おれ、清掃下男だから。まあ、この辺で見掛けることはありますよね」


「ほう」


 ネイサン氏はつぶやいて、グレイを見た。

 遠慮のない態度だったが、グレイとしては嫌な気持ちにはならなかった。


 彼はアーノルドを見て、彼が懸命にこの事態から距離を置こうとしているにも関わらず、渦中に巻き込まれて困り切っているのだということを察した。


 彼がいつ、監禁状態にあったはずの議事堂から抜け出したのかという疑問は残るが、


(まあ、頭のいい子だから……)


 とにかく目の前のことは現実と受け容れて、グレイは遠慮がちに微笑んだ。


「ええ、よく見かける下働きの子ですよ。――名前はなんていったかな」


 アーノルドの青灰色の目が、じゃっかん潤んだ。

 自分の立場に理解を示す希少な人間に対する、溢れんばかりの感動の念であった。


 彼はしかし、それを微塵にも声に出すことなく、淡々と応じた。


「アーノルドです」


「私はグレイだよ。――ええっと……?」


 グレイはネイサン氏を見て、首を傾げた。

 ネイサン氏は愛想よく微笑んだ。


「ネイサンです。ジュダス・ネイサン。軍省付参考役です」


 アーノルドからすれば、「なんだそれ」という肩書ではあったが、グレイは目を剥いた。


 彼はそわそわと背広の襟を整えて、「それはそれは」とつぶやく。

 さっと髪を直して、彼はまた言った。


「それはそれは。――そんな方が、……どうしてまたこんなところに? しかも――」


 腕に止まって、澄まして知らん顔を決め込もうとする魔精に向かって顔を顰めてから、グレイは恐る恐るといった語調で。


「――私の魔精と一緒に」


 ネイサン氏はアーノルドを振り返り、リンキーズを見て、それからわが身を振り返るような顔をした。

 彼は認めた。


「ええ、まあ、なんというか、異色の取り合わせだったことは認めますが」


 そこで彼はグレイを見て、灰色の目を細めた。


「ミスター・――グレイ? あなたは――」


 じろじろと見られ、グレイは背広を急に心許なく感じた。


「――見たところ、役人ではなさそうですが」


 グレイは言葉に詰まったあと、ここで衛兵を呼ばれる危険は犯してはならないと判断した。


「……クローブ社の者です」


 ネイサン氏はぱっと顔を明るくした。


「ああ、あの。リンキーズを召喚できるわけだ、優秀な魔術師とお見受けする」


 グレイは心ならずも泣きそうになった。

 職場における仕打ちと、それに端を発した今回の一件での出来事が、怒濤のように彼の脳裏を巡った。


「いえ――いえ。それほどでも」


「いや、リンキーズが仕事を終えられた際にはぜひご一報をいただきたいものです。実を言いますと、私も一度召喚してみたいと思っておりまして。これまで縁がなかったのですが。

 ――なるほど、クローブ社にお勤め」


 ネイサンの表情は晴れていた。


「本社は隔壁の外だったと記憶していますが?」


「技術省に少し、使いを頼まれまして」


 よどみなくグレイは言って、これ以上は掘り下げさせてなるまじと、ささやかな逆襲に移った。


「ミスター・ネイサン。あなたこそ、どうして私の魔精と一緒に?」


 そのとき、グレイはふとアーノルドを見た。


 アーノルドはネイサンの斜め後ろで、彼の視界に入るまいとしつつも、グレイに向かってぶんぶんと首を振っていた。


 その仕草にそこはかとない危機感を覚え、グレイは無意識のうちに懐を探って、煙草を取り出す。

 取り出してからしまったと思ったものの、ネイサンはこだわらなかった。


 「ああ」とつぶやいて、ネイサンが片手を伸ばす。


「失敬、ミスター・グレイ。私にも一本いただけますか」


 グレイはまごついた。


「安物ですよ」


 ネイサンは歯を見せて笑った。


「私がいつも吸っているものを見れば、あなたもそうは言いますまい」



 かくして二人は、いったん落ち着いて、道の真ん中で煙草を吹かすことと相成った。


 騒然とした叫び声が、そう離れていないところから聞こえてきていたが、どうにも二人とも、それに合わせて浮足立つには状況を上手く咀嚼し切れていなかったのだ。


 煙草には、リンキーズが気を利かせて火を点けたわけだが、それをもってネイサンは、ますますリンキーズに惹かれたようだった。

 彼はぼんやりとリンキーズを眺め、「いいなあ」とつぶやいていた。


「頭がいい――命令の理解が早くて予想外の事態にも対処できる――ちゃんと命令の本意を汲み取って行動する――いいなあ……」


 グレイはなんともいえない顔をしていた(それはそうだ、本当にリンキーズが命令の本意を汲み取って行動するなら、ここで主人と鉢合わせたはずがないのだ)が、リンキーズはそれをまるで聞いていないという顔をしながらも、どんどん胸を張り、誇らしげにぴんと頭を立てるようになっていた。



 やがて紫煙を吐き出して、ネイサンは煙草の吸殻を足許に捨てた。


 そして、気まずそうにしているグレイを見て、ゆっくりと言った。


「――実を言いますとね、私はとある女の子を捜しておりまして」


 グレイとしては、嫌な予感に胃に穴が開きそうになる瞬間だった。



 ――まったくあの子は、逃がしてやろうとしたこちらの手を掻い潜っていったと思ったら、グレートヒルの心臓部も心臓部、軍省付の参考役がいるともなれば議事堂か、あるいは軍省の本部だったのだろうが、そんなところまで駆け抜けていたとは!



「……はあ」


 もはや泣きそうになりながら相槌を打つ。


 アーノルドがネイサンの後ろで頭を抱えているのが見えていた。

 彼もこの歳で苦労するな、と、グレイは仲間を思う心境で彼をあわれに思った。


「シャーロット・ベイリーという金髪の女の子です。

 どうも、このアーノルドくんと、」


 優雅な手つきで背後のアーノルドを示し、その同じ手つきでグレイの腕に止まるリンキーズを示し、ネイサンはにこっと微笑む。


「あなたの魔精が、その子を知っているようなのですが」


「それは――」


 グレイが言いよどんだ。


 彼は全く事情を知らない。

 それゆえの警戒心だった。


 彼からすれば、シャーロットが不法侵入の挙句に捕まって逃亡し、ネイサン氏がそれを追っていると思った方が、まだしも自然だったのだ。


 が、ここで、もはや黙っていても事態は好転しないと判断したアーノルドが、すばやく助け船を出した。

 彼はそっと囁いた。


「シャーロットが、昨夜、あの人の家に泊めてもらっています」


 ネイサンがアーノルドを振り返った。

 彼は眉を上げた。


「そうなの?」


「はい」


 “おれを信じて”、と手振りで示して、アーノルドはちょっと顔を顰めながら続けた。


「なんでって訊かないでください――おれだって知らないんで。

 ただ、――あの、他の人には黙っててくれます?」


 一度はネイサンに対して黙秘を貫こうとした経緯がある以上、後ろめたい理由があったとしてしまった方が話が早い。

 そう判断して、アーノルドは窺うようにネイサンを見上げた。


 ネイサンは面白がるように頷いた。


「もちろん」


「良かった。――さっき、おれ、この人のことよく見かけるって言ったでしょ。この人が途中まであの子――シャーロット――を、案内してたんですけど、途中でなんか、技術省? でしたっけ? そっちに行かないとまずいって言い出しちゃって。

 で、おれ、仕事中だったんですけど、」


 自分は清掃下男である、という設定を、けなげに堅守する。


「たまたま通りかかって。で、あの子を議事堂まで連れて行けって言われて、そこの悪魔と、あの子を任された、みたいな感じだったんですよ。

 ――けど、おれも仕事さぼったことになるんで、あんまり言いたくなくて」


 目を伏せてみせる。



 ――シャーロットは首相に対して、「父に言われてここへ来た」と言っていた。

 ならば、その言い訳を知らないネイサンに対しても、その設定を貫いてしまった方が後が楽だ。


 シャーロットは首相、つまりこの国の最高権力者にとって、招かれざる客ではない――むしろ、賓客に近い立場の人間だ。

 ならばいっそのこと、全面的にシャーロットに協力していたとしてしまった方が、まだ立場として救われる。



 あわただしく頭の中でそんなことを考えながら、アーノルドはいかにも申し訳なさそうにグレイに目を移した。


「すみません――仕事をさぼったことがばれるとおれも困るんで、黙っててくださいって言ったのに。

 あの子のお父さんかなんかに、あの子を連れてけって言われたかなんかでしたっけ? あの子がなんかそんなこと言ってましたけど」


 シャーロット、再会が叶ったときには、空気を読んで話を合わせてくれ。


 ――そんな祈りとともにアーノルドはそう言った。


 グレイは瞬きしたが、どうやらアーノルドが自分以上に事情をわきまえており、しかもシャーロットは不法侵入で捕まったのではない、ということを呑み込んだようだった。


 彼は、やや不自然さはあったものの、頷いた。


「あ――ああ、まあ、そうだね。悪いね、仕事中だったのに。

 ――それで、あの子は?」


「えーっと、それはですね、たぶん」



 アーノルドは神妙な顔になった。


 シャーロットに手水場を勧めてしまったネイサンも神妙な面持ちだった。



 二人は揃って、どうやら騒動が起こっているらしい、今や派手に爆音と光を撒き散らし始めた一画を指差した。



「たぶん、あそこです」



 グレイはその場に崩れ落ちた。





▷○◁





 そんな経緯は知らないので、シャーロットは自分の罪深さも知らないまま、感動の面持ちでグレイおよびアーノルドと再会した。


 二人とも顔が引きつっているわけだが、両人の無事を目で見て確かめた喜びに有頂天となったシャーロットは、それを感知しなかった。


「グレイさん! 無事だったんですね! 良かった!

 アーニー、大丈夫だった?」


 彼女の悪魔は、屋上から一飛びで彼女を地面に運んで、慎重にシャーロットを地面に立たせていた。


 かれが手を離すや否や、シャーロットは前に飛び出して、勢いよくアーノルドに抱き着いた。


 アーノルドはもはや無我の境地のような表情でそれを受け止めつつ、この熱烈なシャーロットの態度は、「たまたま彼女を議事堂まで案内した使用人」に対するものとして妥当とネイサンが判断するかどうか、祈るような心地で考えていた。

 下手を打って、ベイシャーでの一件も白日のもとに晒されては堪ったものではない。


 おもに自分とグレイが。


「大丈夫、大丈夫だよ、シャーロット」


 唱えるようにそう応じて、アーノルドはシャーロットを自分から引き剥がして、こちらもこちらであわれなほど困惑しっぱなしのグレイの精神を守るべく、とりあえずネイサンの方へ彼女を突き出した。


 さすがのシャーロットもばつが悪そうにした。


「あ、あー……」


 つぶやき、目を逸らすシャーロット。


 とはいえ、ネイサンはシャーロットが自発的に議事堂から飛び出していったと確信しているわけではないらしく、大仰なまでに喜んで、両手を彼女の肩に置いた。


 シャーロットの後ろで、マルコシアスが咳払いした。


「シャーロット! 良かった、無事だったんだね――議事堂は大騒ぎだよ。

 オーリンソン補佐助官は見つからない上に、きみもいなくなったとあってはね。

 閣下にももう知らせがいったと思う。早く、きみが無事だったと知らせねば」


「うっ」


 シャーロットは思わず鳩尾を押さえた。

 彼女にも罪悪感はあるのである。


 考えなしにも議事堂を飛び出した際に、浅慮にも衛兵をはじめとする人々への職務上の多大な迷惑を考えなかった自分を、シャーロットはひっぱたきたくなった。

 彼女は恥じ入ってうつむいた。


「申し訳ありません……」


「どうして謝るの?」


 見開かれたネイサンの灰色の目が、シャーロットの罪悪感をいっそう煽った。


 そのとき、後ろからやんわりと肩を引かれて、シャーロットは背後に向かってよろめいた。


 振り返ると、マルコシアスが顔を顰めている。


「で、あんた誰?」


 シャーロットは迷わずマルコシアスの足を踏んだ。

 マルコシアスがシャーロットを睨んだ。


「僕はあんたの身の安全を考えてるっていうのに」


「失礼なこと言わないの!」


 シャーロットはたしなめた。


「こちらは、えー……」


 口を開け、しばらく言葉を探すシャーロット。


 あの部屋でそばについていてくれたことは覚えているのだが、はて、名前は?


 沈黙したシャーロットに助け船を出すようにして、ネイサンは控えめに咳払いした。


「しまった、名乗っていなかったね。

 私はネイサン。ジュダス・ネイサンだ」


「ネイサンさん」


 愛想笑いで会釈したうえで、シャーロットはマルコシアスを軽く睨んだ。


「ネイサンさんよ、分かった?」


 マルコシアスは肩を竦めただけで、応じなかった。


 一方のジュダス・ネイサンは、見知らぬ少年の無礼な言動にも無頓着に、きょろきょろと周囲を見渡した。



 言うまでもないが、周囲は大騒ぎになっている。


 そしてその騒ぎも、当の作業棟の中から響いてくる騒ぎの比ではなかった。

 作業棟には衛兵が詰めかけ、開けっ放しにされた扉や窓から、怒号じみた悲鳴が聞こえてきている。



「ところで――これはどういうことだろう。

 かなり派手に悪魔が暴れたみたいだけれど」


 シャーロットは口籠ったが、彼女の悪魔は頓着しなかった。

 かれは不機嫌につぶやいた。


「別に派手にやっちゃいない」


 ネイサンが瞬きして、マルコシアスを凝視した。


 じゃっかん不躾に思えるほどまじまじとかれを見て、やがてネイサンはすっとんきょうな声を上げた。


「きみ、悪魔か?」


 マルコシアスはうるさそうに一歩下がった。

 そして、あからさまに胡乱そうに相手を見遣る。


 ネイサンはその態度は不問に付した様子で、ぱあっと顔を輝かせた。


「いや、驚いた。私はリクニスの出身でね、大抵の魔精の擬態は見破れるが、きみ、魔神だろう? いやまったく見事な――」


「リクニス?」


 今度はシャーロットが声を上げた。

 彼女がネイサンを見上げ、一気に打ち解けた尊敬をその顔いっぱいに浮かべている。


「リクニスとおっしゃいました? ネイサンさん、リクニス学院のご出身でしたの?」


「そりゃ……」


 と、つぶやいたのはグレイだったが、その声はごく小さく、シャーロットには聞こえなかった。


「参考役にまでなろうと思えば、出身はリクニスか、ヴォーガルだろうとも」


 それが聞こえたのか、ネイサンは少しばかり顔を顰めたが、シャーロットは熱烈に彼に向き直っており聞いていなかった。


「私もリクニスに入学する予定なんです!」


「きみが?」


 ネイサンが驚いたように目を瞬かせた。


「へえ……ずいぶん頑張ったんだね。私が入学を決めたのは十四のときだったから、周りからは神童だなんだと大騒ぎされたけれども」


 感心したようにそう言ってから、ネイサンはにこっと微笑んだ。

 そして、ふと学生時代の思い出が甦ってきたのか、彼はとうとうと話し始めた。


「入学は秋だよね。入学したら、まずあの寮の食堂のアップルパイは絶品だから楽しみにしておいで。図書館の蔵書も相当だから、まず退屈はしないと思うよ」


 シャーロットの顔がますます輝いた。

 それを面白そうに見ながら、ネイサンはおかしそうに笑う。


「私が在学していたときの司書は気難しい人だったけれども、あのじいさんももう退職しているだろうしね。浴室は――あ、これは、きみは女性だから関係がないか。

 諸先輩がたから、もっともらしい怪談を聞くかもしれないけれども、それは無視して大丈夫だよ。全部()()だから」


 私も最初は怯えていたけれど、と微笑み、ネイサンは楽しそうに腕を組んだ。


「少なくとも最初の二年は相部屋になっているはずだから、ルーム・メイトとは仲良くね。あそこは広いから、迷子になったときに助けに来てくれるのはルーム・メイトしかいないし――特にきみみたいに、早く入学を決めた人はやっかみの対象になるから、味方は作っておきなさい。

 成績優秀が認められたら、取った允許の数にもよるけれど、早ければ三年目から個室が貰えるよ。煩わしい共同生活とおさらばできる」


 あと、とつぶやいて、ネイサンは指を立てた。


「学院のそばに、〈ピーリードット〉っていうカフェがあるんだけど、たぶん今もみんなのたまり場になっていると思う。勉強で行き詰まったら行ってみなさい。必ず教えてくれる先輩がいるから。あと、あそこはコーヒーとファッジが美味い」


 シャーロットは両手を握り合わせ、もはや崇拝の眼差しを見せていた。


「はいっ」


「シャーロット、盛り上がってるところ悪いんだけど」


 アーノルドがとうとう割り込んだ。

 彼もまた、周囲をきょろきょろと見渡していた。


「何かあったんだろ。――何があったか訊いていい?

 たぶん、おれでも分かるけど、他にも悪魔がいたんだろうと思うけど」


「そうだよ!」


 ふいにネイサンがわれに返った様子で叫んだ。


「きみが無事だった――大いにけっこう、助かった。早くこれを私が()()()閣下に伝えないと――あ、いや、別に含みがあるわけではないんだけど。

 それから、そうだよ。他に魔術師がいたんじゃないの?」


 シャーロットも慌てて頭上を示した。


「上です。この上。魔術師が一人――悪魔はもういません。

 魔術師さんも、動けないようにしてくれました――かれが」


 かれ、と示されたマルコシアスが、無言で肩を竦める。


 ネイサンは、「上!?」とすっとんきょうな声を上げ、作業棟を振り仰いだ。


「屋上ってこと?」


「はい――はい、そうです」


「なんだってそんなところに――。ちょっと待ってて、行ってくるから。

 なんにせよ、きみに何かしようとしたなら捕まえとかなきゃあ」



 先述のとおり、周囲は騒ぎになっており、衛兵が声を張り上げて通りに出てきた人々を建物の中に押し返そうとしている。


 作業棟の中も、もちろんのこと大混乱だ。

 あの大騒動が屋上で起こったのだから、作業棟そのものもかなり揺れたはずだ。


 作業棟の中には衛兵が押し掛けており、作業棟の中から怒号が聞こえてきていた。

 「触らないで」だの、「いくらすると思ってるんだ!」という剣呑な言葉が、耳に突き刺さるようにして聞こえてきていた。


 作業棟の入口には二人の衛兵が立っており、片や通りに向かって「入ってこないで!」と野次馬を制止し、もう一人は中に向かって「落ち着いて!」と宥めている。



 混沌である。



 シャーロットは罪悪感のあまり蒼くなったが、ネイサンは躊躇ったのもわずか数秒で、すぐに決然として作業棟に向かって歩を進めた。


「止まって!」と衛兵に制止されるや否や、身分を名乗って逆に彼を自分の即席の部下として、状況の報告を求め、屋上へ向かおうとしている。



 シャーロットはぽかんとしてそれを見送り、そしてグレイの控えめな、しかし断固たる咳払いでわれに返った。


「――さて、」


 グレイはかすかに震える手で煙草を取り出し、それをくわえた。

 リンキーズがその先端に火を点ける。


 すうっと大きく煙を吸い込んでから、グレイはきっぱりと言った。


「誰か、このあわれな老いぼれに事の経緯を説明してくれ」





「つまり、きみは事情があって――その事情は私には話せないが――、ちゃんと正当な権利があって議事堂に入った、と、そういうことかね?」


 シャーロットは頷いた。

 その隣で、マルコシアスは大きな欠伸を漏らしている。


 グレイは懐疑的な顔をしつつも、「それで、きみは――」と、アーノルドに目を向ける。



 アーノルドからすれば危機的状況である。


 ここでグレイにベイシャーでのことを口に出されると非常に困る。

 アーノルドからすれば、例の誘拐に自分が関わっていたことは、これまでシャーロットに隠し通してきていることの一つなのだ。



「おれは偶然その子に会って、なんやかんやで議事堂まで一緒に行っただけ」


 すばやくアーノルドはそう言った。


「おっさん――ええっと、グレイさんだっけ? あんたとも()()()()この辺で顔合わせたことはあったけど、こっちもびっくり。なんでこの子を知ってんの?」


 白々しいアーノルドのその態度に、グレイもどうやら口裏を合わせる必要性は認識してくれたようだった。


 むしろシャーロットの方が懐疑的にアーノルドとグレイを見比べている。


 グレイはあいまいに唸った。


「私は――以前にちょっとね」


「その、()()()()()()()()()()()が大問題なんですけれど、グレイさん」


 シャーロットが決然として割り込んだ。


「詳しい事情をお話しできなくて本当にごめんなさい――ただ、さっきのネイサンさんも詳しい事情はご存じないんですよ。

 ともかく、あの、ベイシャーの件ですが」


 言いながら、シャーロットはちらっとアーノルドを見た。


 アーノルドは見事なまでに無反応を貫いたが、やや無反応が過ぎた。

「初対面はベイシャーだったわよね?」と、シャーロットが念を押したくなったくらいである。


 一方のグレイは片手で顔を覆ってしまう。


「あ――ああ。本当に……申し訳なかったが……」


「いいんですって、それは。結局のところ町も私も無事だったので。

 あと、昨夜は温かいところに泊めてくださってありがとうございました」


 けろっとしてそう言ったシャーロットは、「とにかく」と指を立てる。


 彼女は作業棟の方を窺って、まだネイサンが戻ってきていないことを確認した。


「私を誘拐しようとするのって、実は誘拐以上に罪が重いみたいです。

 ――あの誘拐を指示したのは、『スミス』さんですよね?」


 グレイは手にした煙草を軽く揺らした。

 ぽと、と、地面に灰が落ちる。


「ああ――少なくとも、私はそう聞いている。本名は知らない」


 シャーロットはちらっとアーノルドを見た。


 アーノルドは、空を流れる雲の形に、突然抗いがたい魅力を感じた様子で、熱心にそれを観察していた。


 シャーロットは肘で彼をつついた。

 アーノルドは呻いた。


「ねえ、今度でいいから、どうしてあなたも彼の偽名で彼を認識していたのか、教えてくれる?」


 何しろ、アーノルドは、「あれが()()()だ」と言ってオーリンソンを指差したのだ。

 オーリンソンが悪事に加担するときにのみ「スミス」の偽名を使っていたと仮定すれば、これいかに。


 アーノルドが唯一見せた、どうにも言い逃れのしようがない一点だった。


「…………」


 さしものアーノルドも言い訳に苦心し、冷や汗を隠そうとしつつ、彼は整った顔ではにかむように微笑んだ。


「……偉い人たちって、たまには偽名も使うんだな。はは」


()()、じゃないわよ、もう」


 シャーロットは眉間にくっきりと「不機嫌の縦線」を刻んだうえで、腕を組んだ。


「まあ、後にするわ。

 ――お知らせしますと、スミスさんの本名はオーリンソンさんといいます。ピーター・オーリンソンさん。軍省副大臣の補佐助官だそうです」


「――はあ?」


 グレイが頭のてっぺんから出たような声を出した。

 彼が煙草を取り落とし、地面にころりと転がった煙草が頼りない煙を漂わせる。

 グレイは目を剥いていた。


()()()()()()()()()()?」


 「なんだそれ」とアーノルドはぼそっとつぶやき、「なんか偉いんだろ」とリンキーズが応じている。

 シャーロットは、そのひそひそ声はいったん無視することにした。


「おかげさまで、今たぶん、副大臣その方が首相閣下にお叱りを頂戴することになっていると思います。副大臣を閣下の執務室に呼びつけろと、大変なお怒りようでしたから」


()()?」


 グレイがどんどん驚いているあいだにも、シャーロットは彼の表情を観察していた。


 リンキーズは、「ご主人、なんか喜劇俳優みたいだよ」と、召喚陣から得た知識が幅広いことを示すような喩えでそれをからかっている。


 シャーロットは、リンキーズのことは黙殺しておいた。


「問題は、さっきのネイサンさんのお言葉からしても、オーリンソンさんがいっこうに捕まっていないらしいということなんですけれど――」


 まじまじとグレイの顔を見上げて、シャーロットは首を傾げた。

 金色の睫毛の下の橄欖石の瞳が、不承不承といった様子で細められる。


「……そのご様子ですと、オーリンソンさんのお名前も、役職も、ご存じなかったんですね」


「当然――」


「じゃあ、グレイさんがオーリンソンさんに、『ばれたから逃げろ』と警告なさったのではありませんね」


 シャーロットが真面目にそう言ったために、グレイは新たな煙草を探っていた手を止めた。


 ぽかん、と彼の口が開く。

 彼はこぼれんばかりに目を見開いた。


「は?」


「いえ、オーリンソンさんの雲隠れがあんまりにも早かったようなので、誰かがあのかたに合図の一つも出したのでないと納得ができなくて」


 グレイの絶句の表情に嘘の欠片もなかったので、シャーロットは目を逸らした。


「すみません――ご自宅に泊めていただきながら」


 それから彼女は、そそ、と、目を上げてアーノルドを窺った。


「ことによるとアーニーかしら、とも考えたんだけど――」


 アーノルドは飛び上がった。


「おいおいおい、おれはなんにも知らないよ」


 シャーロットは、口先の言葉は何も信じていないことが分かる、淡々とした口調で指摘を続ける。


「私に、『あれがスミスさんだよ』って教えてくれたでしょう? さすがに、そのあとすぐオーリンソンさんに、『ばれましたよ』って言っていたら、なんというか自作自演がすごいし、そんなことをするくらいなら、最初から私に『スミスさん』を教えてくれる必要もないわけだし、考えから外していいかなって」


 アーノルドは微妙な顔で黙り込んだ。


 シャーロットは、素知らぬ顔で羽繕いをするリンキーズに目を移した。


「リンキーズは……」


「レディ・ロッテ。あいつへの尋問が必要なら僕がやろうか?」


 シャーロットの後ろから進み出て、マルコシアスが生き生きと言った。


 とたん、リンキーズが背中の羽毛と頭頂部の羽毛を逆立てる。


「お前っ、性懲りもなくまた僕をいじめようって言うなら――」


「ん? 悪いね、ちょっと今耳が聞こえなくなった。

 あんた、格上の僕をなんて呼んだの?」


 わざとらしく片耳に手を添えるマルコシアスに、リンキーズはカラスが棒を呑んだような顔をした。


「――マルコシアスさん、いじめないでくださいよぉ……」


 マルコシアスは嬉しそうに微笑んだ。


「僕のレディしだいかな。どうしようか、ロッテ?」



 そのやり取りを後目に、グレイは珍妙な顔で、自分の腕に止まった魔精を見ていた。

 彼がぼそりとつぶやいた。


「――“また”? リンキーズや、あの子たちに会ったことがあるのかい?」


 リンキーズはひゅっと息を呑んだ。

 かれがぶんぶんと首を振ったので、黒い羽毛がふわっと舞った。


「ないないない! ないよ、ご主人!」



「もう、いじめたりしないわよ。ご主人のグレイさんが知らないことを、どうやってリンキーズが命令として遂行するのよ。馬鹿な悪魔ね」


 シャーロットが呆れた語調と表情で腕を振り、マルコシアスは肩を竦めた。


「間抜けなレディだな、じゃあリンキーズの名前を出さなきゃ良かったんだ」


 シャーロットは首を振り、また作業棟の方を窺った。


 ネイサンはまだ戻ってこない。

 混乱ぶりがひどいので、そのためかもしれない。



「――とにかく、そのオーリンソンって人を、何が何でも捕まえなきゃならないのよ」


 きっぱりと彼女が言ったので、アーノルドは控えめに異議を唱えた。


「……なんで? 言っちゃあなんだけど、あんた、大人しくしてれば守ってもらえるんじゃ……」


「それじゃ意味がないのよ」


 シャーロットは断言した。


 マルコシアスがふっと笑った。


「この騒動がちゃんと解決したって、お父さまにも――閣下にも分かっていただかなくちゃならないの!」


 こぶしを振っての力説に鬼気迫るものを感じ、アーノルドはぽかんとする。


 目をしばたたかせて、彼は繰り返しつぶやいた。


「……いや、だから、なんで?」



「だって、」



 シャーロットの眼差しに迷いはなかった。



「この件が綺麗に片づかない限り、()()()()()()()()()()()()()()()()()!」























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