30 一丁あがり
あけましておめでとうございます。
今年も『レディ・ロッテの魔神』をよろしくお願いいたします。
辺りは弾け飛ぶ銀色とくろがね色と赤色の火花の海だった。
名状しがたい、歌声のような、あるいは森が風になびくような、そんな音が満ち満ちていた。
幾度か、それとは別の、聞こえてはいけない類の――たとえば、屋上の一部が陥没するような――音が聞こえた。
空の青さももはや見えず、作業棟の屋上は、火花が形作る溢れんばかりの光と音のドームに包まれているようだった。
だがそれでいて、二人の魔神は言葉を交わしさえしていた――魔精は既にいなかった。
シャーロットはこの場所が光と音で塗り潰されるより前――マルコシアスが塔屋から飛び降りるとほぼ同時に、かれがほとんど面倒そうである一撃で(どういった一撃だったのか、シャーロットにもよく分からなかった――見えたのは、魔精に向けてかざされたかれのてのひらが、強く輝いたことだけだった)魔精を二人吹き飛ばし、いわゆる致命の一撃を簡単に与えるのを見ていた。
損傷がこの交叉点で身体を保つ限界を超え、息絶えるように消え入る悪魔を、このときシャーロットは初めて目にすることとなった。
かれらに死が有り得ないと知らなければ、間違いなくかれらが息を引き取ったに違いないと思ってしまうような、雪が溶けるような儚げな消え方だった。
実際、それを見たシャーロットは、わけもなく胸の痛みを覚えたほどだった。
魔神がこれほど容易に魔精を消し去ってしまえるのなら、マルコシアスを前にしたリンキーズの怯えようにも納得ができる。
マルコシアスはそれから、五、六歳程度の少年に見えるもう一人を、頸を掴んで軽々と持ち上げた――マルコシアス自身が小柄な少年の姿をしているので、その光景には一種、現実離れしたような印象すらあった――そしてそのあと、ハルファスの一撃を捌くと同時に、もう一人の、巨大なクモに似た形を取っていた魔精が足許まで這い寄ってくるのを待って、かれをいともたやすく踏み潰した。
踏み潰された魔精は、マルコシアスの靴を汚すことすら許されなかった。
そしてかれは、頸を掴んで持ち上げた魔精がばたばたと暴れるのを面白そうに観察した――間もなくして、その魔精の身体がぼとぼとと溶け出し始め、蒸気を噴き出しながら縮み始めた。
まさに致命の一撃だった。
マルコシアスは半ば以上が溶けたその魔精の身体を放り出すと、もはや興味も失せた様子でそちらは一瞥もせず、それまでも勢いよくかれに向かって攻撃を飛ばしていたハルファスに、いよいよといった様子で向き直ったのだった。
そして辺りは光と音のドームと化した。
ハルファスは主人をよく守っていたが、こうまで主人が近くにいては、先ほどかれが盛大に披露した得意の魔法は使えない――それはシャーロットにもよく分かった。
シャーロットはといえば、ひたすら悲鳴を堪えて、精霊に守られているのみである。
彼女は内心で、自分をここに――まさに彼女を誘拐しようとしているに違いない魔術師の頭上に――無防備な状態で置いていったマルコシアスを呪い、今にも魔術師が顔を上げて、彼女を捕らえるようハルファスに命令を下すのではないかと恐れていたが、そんなことにはならなかった。
その命令を下すには、マルコシアスとハルファスの競り合いが熾烈に過ぎた。
その熾烈な競り合いの後ろから、「ちょっとその手を止めて、上にいる女の子を捕まえてくれないか」と依頼するには、自分がかれに提示した報酬が、勢い余るかもしれない魔神の手を止めるに足るものか、魔術師は熟考せざるをえなかったに違いなかった。
マルコシアスが命令に対して誠実な魔神であるとして有名なのと同じように、ハルファスは気性の荒い魔神として有名だった。
だが、とはいえ、先述したように、その熾烈な競り合いの中にあっても、二人の魔神は言葉を交わしていたのだ――つまるところがこの場所は、二人の勝敗を決する上では十分な場所ではあっても、二人が全力を出すには不十分だったのだ。
――当然だった。
海岸の埋め立てや山を貫く隧道の建設に魔術師が活躍することからも分かるように、悪魔には地形を変えるだけの力がある。
その力を思う存分こんなところで発揮されては、二人の主人もろとも一国の中枢が沈むことになる。
悪魔が人間の国を気にするとは思えないが、少なくとも、この国にごまんといる他の同胞たちを巻き込んだ場合、かれらの道に戻った際に、少しばかり手荒な落とし前をつけられる要因にはなるだろうということは、重々分かっていたのである。
悪魔というのはだれもかれも、少なからず報酬を得ることには熱心になっているものなので。
言葉を交わす二人の口調は対照的だった。
片やのんびりと、片や苦々しげに。
二人ともが、決して声を荒らげてはおらず、周囲は音と光が弾け飛ぶ異空間と化しつつあったが、それでもどうしたことか、二人の魔神の声ははっきりと聞こえていた。
「ねぇハルファス、あんたの領域ってどのへんだっけ? あんたが引き籠もることになるあいだ、暇潰しに事欠かないといいんだけど。僕の罪悪感も疼きにくい」
「心配は無用だ。それに、近所づきあいは求めないぞ。近所かどうかも私は知らないがな。
それに――お前の罪悪感など、舌の先で感じるものだろうが」
「近所じゃないでしょ。僕とあんたを同列に並べるなよ。僕の方が数段いい場所に領域を持ってるに決まってるさ。けっこう気に入っててね――でも招待は期待しないでくれ」
「だれが期待など」
「悪いね。招待するやつは厳選することにしててね、未だに僕の基準を通ったやつはいないんだ。あんたでは望むべくもないぜ、ハルファス。
――あと、罪悪感だっけ? それは――僕もそいつには詳しくないが――お互い様じゃないか、責めないでよ」
「責められて痛む場所があるなら教えてくれ。旧知のよしみだ、二度と痛まぬよう抉り取ってくれる」
「抉り取るだって? じゃあ、その前にしっかり手を洗ってくれよ。あと、僕を捉まえられるかどうか、一度自分とじっくり相談して、もし出来ると思うなら頭の具合を確かめてくれ」
それぞれの魔神の主人であるところの二人の人間は、この状況にあっては大人しくしているより他にないように思われた。
シャーロットからすれば、どちらが優勢にあるかすら分からなかったのだ。
彼女は確かに頭脳には恵まれていたが――でなければ、彼女が固執する入学許可を、そもそも得られたはずがない――、このときは完全に目を回して混乱していた。
――だが、ハルファスの現在の主人であるところの、アレス・メッセンはそうもいかなかった。
彼には事情と算段があり、ここさえしのげば後はなんとかなるだろうと思っているシャーロットとは、根本的に心構えが違った。
彼にとってはこここそが正念場だったのだ。
彼からすれば、眼前にハルファスのコウノトリの背中があり、そしてその向こうにマルコシアスが気負いなく立っているという格好だ。
彼は後退り、この屋上への出入口も兼ねている塔屋の上をちらりと振り返った。
マルコシアスは悪魔らしい慢心で、かれの主人を塔屋の上に置き去りにした。
塔屋といってもそう小さなものではなく、おそらくシャーロット・ベイリーは塔屋の屋上の真ん中で身を縮めているのだろう――姿を窺うことは出来ない。
アレス・メッセンはすばやく考えた。
召喚してあった悪魔は全部で五人いたが、そのうち四人がいともたやすく相手の魔神に蹴散らされた。
ハルファスが呼びかけていたところによれば、相手はマルコシアスらしい――
(ついてないな、まったく!)
序列三十五番のマルコシアス。
三十八番のハルファスよりも、序列でいえばかろうじて上回る。
アレス・メッセンは内心で魂の叫びを上げざるをえなかった――
(どうしてこんな子供が、序列三十五番を召喚しているんだよ!)
だが、序列だけをみれば、ハルファスが敵わない相手ではないはずだ――事実、序列十一番のグシオンに対し、序列十五番のエリゴスが辛勝した噂は広く伝わっている。
そこに、他に四人の魔精がいたのである。
冷静に考えれば、ハルファスに軍配が上がったとして不思議はなかった布陣だが、マルコシアスは荒事のために召喚されることが多かった魔神だ。
魔術がまだ武力の一つに数えられていた時代、つまるところこの国においては七十年前まで、数多く召喚されて実力をしらしめてきた。
ハルファスも同じく荒事のために召喚されることの多い魔神だが、この二人の魔神の能力は毛色が異なる。
もしも仮に――メッセンも想像することしか出来ないが(何しろ、悪魔が戦場にいたなどという、まさに趣味の悪い悪夢は!)――、ここが戦場であったなら。
そうであれば、ハルファスはマルコシアス相手にも善戦したはずだ。
マルコシアスは、戦場においても活躍はしたが、むしろ護衛として重宝された悪魔と聞く。
一方のハルファスは、独自の魔法が派手なだけあり、大規模な戦場でこそ活躍した悪魔だ。
――つまるところ、今のこの状況は、ハルファスが不得手とするものなのだ。
マルコシアスとの距離が開いていれば、あるいはハルファスも健闘しがいがあったかもしれないが、マルコシアスは躊躇なくかれとの距離を詰めた。
それをもって、ハルファスは、さながら頭を押さえられたような格好になっている。
しかし、序列が近いだけのことはあり、マルコシアスはハルファスの相手で手いっぱいといったようだった。
余裕ぶった言葉は聞こえてくるものの、塔屋の上にいるはずの少女を気にかける様子はまるでない。
ならば自分で、と、メッセンが考えたことに無理はなかった。
眩暈がするようなその一瞬、メッセンは息を殺した。
――もう一年以上も前のことになるが、初めてオーリンソンから非合法な頼まれごとをされたとき――その頼みのために魔術を使ったとき、彼は一晩の眠れぬ夜のあいだに飲み干した酒瓶を目の前に積み上げることとなった。
そしてそのときに、メッセンは決め事をしていた。
つまるところ、己が積み上げてきた研鑽と学問的知見、学術と技術、そういったものへの矜持と良心を、酒精とともに埋葬することを良しとしたのだ。
彼はひどい不手際を起こしていたから、その隠蔽のためにはやむなかった。
そもそも魔術師を志したのは、安定した賃金と並み以上の生活のためである。
魔術という学問に対する矜持を理由に、そういった生活を投げ捨ててしまうのは本末転倒ではないか、と、いかにももっともらしくメッセンは結論した。
そしてそのとき、ただし、自分の手は汚すまい、と決めていた。
何を頼まれようが、それは悪魔にやらせることだ。
自身の優雅な生活のために手に入れた魔術という学問的手段で、その生活を守るならば、天秤が釣り合うように思える。
だが、自分自身の手は汚してはいけない、と。
その決意が、ここへいたって緩んでいた。
この頼みをしくじったときに、自分が今の生活を失うかもしれないと思うと――そして追加で悪魔を召喚する余裕もないとなれば。
今や、彼の心は溶けかけのバターのようにぐんにゃりと形を変えつつあった。
それに――と、メッセンは眩暈の中でひらめくように考えた。
(あの人はこの子を殺さないと言っていた――)
あくまで、身柄が必要なのだと。
それがなぜなのか、メッセンは知らない。
想像の範囲においては、メッセンにとって、シャーロット・ベイリーは莫大な資産を相続する権利のある少女であり、あるいはやんごとない有力者の娘であった。
(だったら――)
さて、仰天したのがシャーロットである。
ひたすら彼女の悪魔の武運を祈っていたところ、真下から突然、呪文を唱える声が聞こえてきたのだ。
シャーロットがマルコシアスの名前を叫ぶより早く、マルコシアスが彼女のそばに残した精霊が動いた。
シャーロットの目では事態を正確に追うことは出来なかったが、どうやら真下から響いてきた呪文が求めた結果は成就しなかった。
大抵の魔術師とは違って、シャーロットは呪文を定型の文句ではなく、語句の意味として覚えているが、たった今唱えられた呪文は――この、火花弾け飛ぶ異常事態の中でなお、それを聞き取った自分に、シャーロットは誇らしさすら覚えた――一般的な、物を動かす力を借り受ける呪文だった。
つまるところ、この塔屋の下にいる魔術師は、シャーロットを力づくで引きずり下ろそうとしたのである。
しかし、それは精霊が阻止した。
シャーロットは恐怖の眼差しで周囲を見渡した。
彼女の目には、精霊はかすかなきらめきとして映るが、そのきらめきが疲弊しているのかそうでないのか、それは分からなかった。だが、
(ま――まずくない……?)
精霊と悪魔の力関係を比べてみれば、あきらかに悪魔が優勢であるように思える――かれらが精霊を当然に配下としていることからも。
そして今、精霊は悪魔が力を貸し与える呪文の成就を妨害した。
もしも、これでそばにいる精霊たちが疲れきってしまっていて、もはやシャーロットを守る余力がないとしたら――
――どこか暗い部屋に連行され、血を搾り取られる自分の姿が、ちらっと脳裏によぎった。
シャーロットの背筋が粟立った。
あまり愉快な想像ではなかった――しかも、それが〈ローディスバーグの死の風〉をふたたび巻き起こすかもしれないとあっては、なおいっそう。
先ほど呪文を唱えたのと同じ声が、悪態をついた。
シャーロットは塔屋の屋上で身を起こし、膝をついて、光と音が弾け飛ぶドームの中で、彼女の悪魔を夢中になって目で捜した。
護衛の務めをしくじったことはないと豪語していたかれならば、たった今、シャーロットが危機的状況にいることにも気づいているはずだと思ったのだ。
シャーロットは、銀色とくろがね色の火花が絶えず弾け飛ぶ光のドームの中で、彼女の魔神を見つけた。
はぜる音の中で、叫んだところでかれに声が届くかどうか――
マルコシアスの表情にはまだ余裕があったが、ハルファスからは目を逸らしていなかった。
かれは両手をポケットに突っ込み、右へ左へうろうろと歩き回っており、そしてそれはハルファスとの距離を完璧に一定に保ちながらのことだった。
ハルファスも同様に、速足で右へ左へ動いていたのだ。
マルコシアスは時おり、右手を軽く振っており、そしてそのたびに大音響とともにひときわ大きな火花が弾けている。
シャーロットからみて、かれに彼女を助ける余力はとてもないように思えた。
そしてシャーロット・ベイリーにとってみれば、不確かな精霊の守護を妄信して身を竦めていることなど、いっそ耐え難いことだった。
マルコシアスとハルファス、どちらが優勢かは彼女には分からなかった。
ゆえに、すぐにマルコシアスが助けに入ってくれるはずだとも思えなかった。
そして、魔術師が繰り返し繰り返し呪文を唱えてしまえば、そのうちにそばにいる精霊が力尽きるのではないかという危機感が、胸のうちを這い上がるようにして一気に占めていた。
(これは――やるしかない)
シャーロットは息を吸い込んだ。
塔屋の上を膝で這い、彼女はそのふちから眼下を窺う。
光が弾け飛び、影すらおぼつかず踊り狂うその光景の中で、塔屋のそばに立つ魔術師が、まっすぐに彼女を見上げていた。
目が合った。
彼は目を見開いた。
シャーロットは、二人の魔神が織り成す魔法の余波で吹き荒れる風の中に泳ぐ自分の金髪をつかまえ、押し込むように耳に掛けながら、無我夢中で、目がくらむような思いの中で口を開いた。
その緊張の中であっても、夢中で読み漁った文献から得た知識は健在だった。
脳裏で開いた本のページを指で辿るようにして、彼女は魔精ジニスとほぼ同格の魔精、ケヴァから力を借り受ける呪文を、ゆっくりと、ことさらに大きな声で唱え始めた――緊張のあまり声がうわずった。
(――ゆっくり、ゆっくり――)
何がなんでも、この呪文を結実させてはならない。
――魔術を、人を傷つける手段として使ってはならない。
それが、魔術師に求められる最低限の倫理だ。
眼下の魔術師がいよいよ大きく目を見開いた。
呪文を用いて魔術師どうしが争うなど、本来あってはならない事態だ。
そのために、彼も戸惑ったのかもしれない――ほとんど教科書的な反射をもって、彼が口早に、ケヴァと同格の魔精として有名な、魔精ジニスから力を借り受ける呪文を唱え始め――
――迷っている時間は一秒たりともなかった。
シャーロットは塔屋の上で立ち上がった。
吹き荒れる魔法の光景に目がくらみ、平衡感覚が狂う。
髪がひるがえり、スカートが大きくはためく。
彼女はよろめき、しかし耳だけは確かに、魔術師が呪文を最後の一節まで唱えるのを聞き――
その呪文の効果が現れない。
魔術師が一瞬未満のあいだ息を詰めたのが、見えたというより気配で分かった。
しかしシャーロットにとってみれば、それは分かり切っていることだった。
なぜなら、ジニスは――
そしてシャーロットが必要としたのは、そのわずかの間――魔術師が面喰らうに違いない、そのわずかの間隙だった。
――一秒たりとも躊躇せず、一瞬の戸惑いに身体の動きを止めた眼下の魔術師めがけて、シャーロットはがむしゃらになって塔屋の上から飛び降りた。
その瞬間に彼女が賭けたことは、そばにいるはずの精霊たちが、落下の衝撃から彼女を守ることだけだった。
狙いは当たった。
落下の浮遊感とにぶい衝撃だけがあり、本来ならば身体が痺れて(運が悪ければ、骨を数本犠牲にして)、作業棟の屋上でのたうち回ることになっただろう彼女は、無傷で短い落下を終えていた。
そして彼女は、およそレディらしからぬ乱暴さで、魔術師の肩に激突した上で彼を作業棟の屋上になぎ倒し、悶絶する彼を全身でしがみつくようにして押さえ込んでいた。
「なん――っ!」
魔術師が咄嗟にシャーロットをはねのけようとして、しかし重力の助けを得た彼女を、簡単に放り出すことは出来ずにその場でもがく。
魔術師が怪我を負ったのかは分からなかった。
〈身代わりの契約〉により、たとえ怪我があったとしても、それは全てハルファスに転嫁されたはずだからだ。
ゆえに、シャーロットも相手の身を案じたりはしなかった。
「――っ、残念でした、」
息を荒らげ、同じく息を上げる魔術師が降ってきた重石から逃れようとするのを、必死になって引き留めながらも、シャーロットはこればかりは堪え切れず、輝くような笑顔で言い放っていた。
「魔精ジニスはどこかで召喚されてるわ!」
「はっ?」
――今朝がた、煙草に火を点けるに当たってささやかな魔術を披露してくれたグレイに心の底から感謝を。
「お前――!」
魔術師の顔色が変わっていた。
頬がさあっと赤くなり、目がぎらつく輝きを帯び、彼が上体を起こして腕を振り被る――
(あっ、まずい――)
――自分が特攻した相手は、魔術師である以前に、立派な大人の男だった、と思い当たり、さすがにシャーロットは蒼くなった。
あわてて立ち上がって逃げ出そうにも、今度は逆に手首を掴まれた。
大の男に本気の握力で手首を掴まれ、シャーロットは喉が詰まるような思いを味わう。
同時に、自分が飛んで火に入る夏の虫を演じたのではないかということが脳裏をよぎり――
「――僕のレディから手を離して。痕になっちゃう」
ひょい、と、軽々とかかえ上げられてその場から助け出された。
一瞬、シャーロットはそれが幻聴なのではないかと疑った。
耳鳴りがした――だがそれは、辺りではぜていた音が、唐突に全て静まり返ったがゆえの、鼓膜の残響に近い耳鳴りだった。
息を止めて、自分を抱きかかえるものの、すぐそばにある横顔を見つめる。
いつの間にそばに来ていたのだろう――伸びすぎた灰色の前髪の下の、まだ幼さを残す顔貌に形作られた頬。
かれがふと頭を傾けるように彼女の方を見たので、ごく近い距離で目が合った。
淡い金色の、切れ長の瞳。
かれの唇が笑みを象った。
「期待以上だ。
よくやった、相棒」
「――――」
シャーロットは、ぽかんと口を開けていた。
かれはすぐにシャーロットを下ろして、彼女を自分の後ろに庇った。
その指が、容赦なくまっすぐに、その魔術師を指差した。
魔術師が、事態が理解できないといった様子で、愕然として周囲を見渡す。
弾け飛んでいた光と音のドームが、すみやかに晴れつつあった。
天頂からドームが裂け、周囲が元の様子を取り戻していく。
屋上の惨状が白日のもとに晒されようとしていた。
それに伴って、周囲の建物や道路から上がる、困惑や恐怖の悲鳴が耳に届き始める。
シャーロットは眩暈を覚え、気が遠くなったが、それよりも、眼前に立つ魔神の背中が彼女を現実につなぎ留める力の方が強かった。
「ハルファス、あんたなら分かると思うけど」
マルコシアスが、ほとんど愛想がいいと言ってよいだろう口調で、上機嫌にそう言っている。
「僕はあんたの頭を押さえた。この距離だ、あんたが何かするよりも確実に早く、僕があんたの主人の頭を吹き飛ばすぞ。例の無粋な契約は健在かな。
だったら黙って、ハルファス、三歩下がってその不格好なくちばしを下げろ」
ハルファスはその一瞬、逆上して一歩前に出るかと思われた。
コウノトリの翼が持ち上げられ――しかし一秒後、ゆっくりとその翼が下ろされ、かれは慙愧に耐えぬという面持ちで、慎重に三歩下がった。
そして、コウノトリらしい優雅な長い首を垂れた。
「けっこう」
マルコシアスは嬉しそうに言った。
「あんた、忘れちゃった? どのくらい前か忘れたけど、ケルテット荒野でも、あんた、主人から目を離して僕にやられただろ? 争点がどこにあるか頭からすっぽ抜ける悪癖は治りそうもないね。
――で、きみ」
軽蔑の眼差しで魔術師を見下ろし、マルコシアスは悪魔らしい冷ややかな笑みを浮かべた。
「まず第一に、いいかな、僕のレディを手荒に扱う権利はきみにはないよ。
あと、これは親切心で教えてやるんだけど、」
親切心など持ちえないはずの悪魔の分際でそううそぶき、マルコシアスは首を傾げた。
「魔術師どうしの競り合いではね、いかにして相手の魔術師を落とすかが大事なんだ。きみたちが必ず結ぶあの無粋な契約のお蔭でね、僕たちがお互いにどれだけ相手を傷つけるかは問題にならない――相手の主人に手が届いた方が勝ちなんだ。
これは、僕がよく召喚されていた時期には常識だったんだけれど、今のきみたちにその常識はないらしい」
しかつめらしく指を振って、マルコシアスは言った。
「きみの敗因は、僕との距離が近かったこと。あんたさえ安全圏にいれば、ハルファスももうちょっとやりようがあっただろうに。
僕のレディの勝因は、ハルファスが僕でいっぱいいっぱいになっているうちに、ちゃっかりきみの気を引いてくれたこと」
シャーロットに向かっていたずらっぽく片目をつむり、マルコシアスは余裕綽々といった様子で肩を竦めた。
「――さて、僕のレディ。いかがいたしましょう」
シャーロットはまだ混乱していたが、それでもかろうじてつぶやいた。
「……ええっと、とりあえず、ハルファス……ハルファスさんには、お前たちの道に戻ってもらっていいかしら」
「だ、そうだ。ハルファス、失せろ」
傲然とそう告げてから、マルコシアスは真顔で付け加えた。
「もちろん、僕に叩きのめされて再起不能になりたいなら、別に止めはしない。受けて立とう」
ハルファスは数秒のあいだ、ここで徹底抗戦して勝利をかすめとり、当初約束されていた報酬を受け取ることのできる可能性と、ここですばやく引くことで、致命の一撃を喰らわずに領域に戻り、他の魔術師からの召喚を受けられる――つまりは、別の報酬の獲得の機会がすばやく巡ってくる――可能性、そしてそれぞれの利点を、天秤に乗せて考えたようだった。
祈るようにかれを見つめる魔術師が、そのどちらの可能性を採ることをかれに期待したのかは言わずもがなだが、結局のところハルファスは、主人の意向には副いかねると判断したらしい。
はあ、と、コウノトリにはあるまじき仕草で溜息を吐き、ハルファスはちらっとシャーロットを見た。
「――今度はよい報酬を携えて、このハルファスをご所望あれ」
「僕のレディに色目を使うな」
ハルファスが肩を竦め、コウノトリに出来る最大限の顰め面でマルコシアスを睨んでから、すばやくその場で身を翻す。
ぱっ、と、その姿がかれの精霊もろともに消え失せた。
魔術師がハルファスとのあいだの契約を破棄したわけではないので、この魔術師はやろうと思えばハルファスを呼び戻せるが、この状況でのこのこ戻ってくる悪魔はさすがにいない。
魔術師は自由になればすぐにでも、ハルファスを「任に満たず」として馘首し、契約を破棄するだろう。
「さて、それから――」
マルコシアスが魔術師に目を戻した。
魔術師は先ほどの激昂の表情から一転、今や蒼白になっている。
ハルファスと世界の壁を隔てた以上、〈身代わりの契約〉ももはや役に立たないからだ。
立ち上がろうにも悪魔に指を突きつけられている状況で、彼は怯えているというよりも茫然としているように見えた。
その表情を見ていられずに目を逸らし、シャーロットはもはや哀願するような口調で言っていた。
「彼にはここにいてもらわなきゃならないわ。この――この事態の責任をとってもらわなきゃ。
それまでのあいだ、彼には無事で、怪我なく、大人しくしていてもらいたいの。出来る?」
マルコシアスがシャーロットを見た。
かれの淡い金色の瞳が、不思議な感情を得てきらめいた。
かれはもったいぶって頷いた。
「ご希望とあらば、レディ」
かれが、ぱちんと指を鳴らした。
とたん、魔術師が白目を剥いた。
シャーロットは思わず悲鳴を上げた。
がくん、と力を失った魔術師が、しかしながら両脇から見えざる手で支えられたかのごとく、ゆっくりと屋上に横たえられる。
シャーロットは両手で口許を覆った。
「ちょっと!」
「まあ落ち着いて」
「大丈夫なの!? 大丈夫なんでしょうね!」
魔術師のそばへ飛んでいって様子を見ようとするシャーロットの手を取って、マルコシアスが彼女を引き留めた。
シャーロットはマルコシアスを振り返り、かれが呆れた顔をしていることを見て取り、少々の落ち着きを取り戻した。
「――大丈夫なの?」
「この上なくね。そのうち、気分爽快に目を覚ますさ」
マルコシアスがそう請け合うのを聞いて、シャーロットの足から力が抜けた。
これまでの出来事がどっと圧し掛かってきたようにも感じ、彼女はへなへなとその場に座り込む。
マルコシアスに片手を取られたままだったので、彼女は残る片方の手を屋上の床について、大きく息を吐いてうなだれた。
金色の髪が彼女の顔の横にこぼれた。
「良かった……」
「そうだね」
特に気持ちの籠もらない同意をして、マルコシアスはシャーロットの手を離した。
シャーロットが顔を上げて、マルコシアスに恨みがましげな目を向ける。
「お前、ハルファスの相手で精いっぱいだって顔をしておいて、こっちをちゃんと見てたのね」
マルコシアスは肩を竦め、両手をポケットに突っ込んだ。
風が吹いて、かれの灰色の髪がゆるやかに揺れた。
「そりゃあ、もちろん。
ハルファスは違ったけどね。僕に夢中だった」
「でも、この人が呪文を唱えても知らん顔をしていたでしょう」
マルコシアスは悪魔らしく、無邪気に微笑んだ。
「まあね。あんたには精霊をつけていたし――それに、」
ちらっと魔術師を見たあとで、かれは軽く膝を曲げて、シャーロットの顔を覗き込んだ。
「ハルファスと僕は序列も近い。まともにやり合えば長引くからね。
さっさと片をつけるには、間抜けなハルファスが綺麗に忘れてくれていたあんたが、自分でこの魔術師の気を引いてくれる方が良かったんだ。
いくらハルファスでも、自分の主人に何かあれば気づくからね。そっちに気を取られてくれれば、僕はあんたを助けに行ける。
あとは――ごらんのとおり。見事にすばやく片づいた」
軽く両手を広げて自身の成果をアピールするマルコシアスの背景は、砕かれ抉られひびの入った、作業棟の屋上である。
シャーロットは頭が痛くなってきた。
「だからって、お前ね……」
こめかみを押さえて訴えると、マルコシアスははにかむように笑った。
いかにも悪魔らしい、にせものの含羞で。
「あんたなら、間違いなく自分で動いてくれると思ったんだ。これは本音だよ。
――ただ、」
ふいに心底おかしそうに笑って、マルコシアスは座り込んだシャーロットの隣に、片膝を立てる格好で親しげに腰を下ろした。
「まさか飛び降りるとは思わなかった。あのときばかりは僕もびっくりした。
あんた、たくさん勉強してきたんだろう。使える呪文は山ほど知ってるだろうに、どうしてわざわざ飛び降りたのさ」
「そんなの、」
シャーロットはきょとんとして言った。
「当たり前でしょう。
魔術師が魔術で他人に怪我をさせてどうするのよ」
「――――」
マルコシアスは瞬きして、シャーロットの顔をまじまじと見つめて、それから微笑んだ。
「そうか。それでこそだ。
あんたはやっぱり曲がらないね」
シャーロットは戸惑って瞬きした。
「ええっと……ありがとう?」
「まあ、それに、」
手を伸ばして、シャーロットの右手を取り上げ、そちらに視線を落としながら、マルコシアスは理の当然のように言葉を続けた。
「飛び降りようがダンスしようが、あんたは怪我はしなかったんだ」
シャーロットは眉を寄せた。
マルコシアスは手遊びのように、シャーロットの右手をもてあそんで、彼女の細い指に自分の骨ばった指をからめている。
くすぐったさにシャーロットは小さく身をよじった。
「あの――エム? 言っておくけど、あらためて〈身代わりの契約〉を結ぶ方法なんてないわよ。知ってると思うけど。
お前を一度解放して、それからまた〈身代わりの契約〉を結んで召喚しない限りは――」
「もちろん知っている」
平然とそう言って、マルコシアスは目を上げてシャーロットと目を合わせた。
かれの淡い金色の瞳の中に、自分のぽかんとした表情をシャーロットは見た。
マルコシアスはその表情に向かって微笑み、断言した。
「そんな契約は要らないでしょ? ――僕がいる」
シャーロットは息を引いた。
マルコシアスはなおも彼女の指で遊んでいる。
かれが少し力を籠めればぽきりと折れてしまうに違いない――細い指。
取り返そうと力を入れたが、マルコシアスはそれに気づきもしなかったようだった。
引き続き指をからめ、もてあそんでいる。
――シャーロットの背筋に、ほとんど危機感に近い悪寒が走った。
「エム?」
離して、と命令するよりわずかに早く、マルコシアスが言っていた。
ほとんど甘やかすように――おだやかに。
「僕がいるんだ、傷のひとつもつけさせないよ」
頼もしいはずのその言葉に、言外の意図がある気がして、シャーロットは身ぶるいした。
そんな彼女の様子を、いっそ訝しそうに眺めて、マルコシアスはまるで掌中の珠を見るかのように優しげに目を細めて、彼女の指を撫でている。
「僕に断りもなくそんなことをするなんて、許すわけないだろう?」
シャーロットはぞくりとした。
「エム――エム?」
マルコシアスはまた、かれがもてあそぶシャーロットの指に視線を落とし、目を伏せた。
続く言葉は静かだったが輪郭ははっきりとしており、眼下の喧騒にも邪魔されず、はっきりと彼女の耳に届いた。
「不変は罪だが、あんたの場合はこのままでいい。
――言っただろう、僕が見るあんたという要素はまさに硝子細工だ。あんたがあんたのまま、どこまで進んでいくものか見たいんだ。
あんたがこのままでいられずに変わるとしたら、その今際の際ってやつも見てみたいね。
だから――心配しなくていい」
マルコシアスは魔性の笑みを浮かべている。
目を上げたかれが、おだやかに断言する。
「不要な障害が、あんたに害を及ぼすことはないよ」
シャーロットは息を吸い込んだ。
意識してきっぱりとした口調を作ろうとしながら、彼女は口を開いた。
「――どうもありがとう。でもそれも、この騒ぎが終わって契約が終わるまでだわ」
すばやくそう言って、シャーロットは今度こそマルコシアスの手の中から自分の手を引き抜いた。
マルコシアスはぱっと両手を挙げて肩を竦め、おどけた様子で言っている。
「そうだね。別にこれからも、僕を呼んでくれていいよ。
あんたからの頼みは特別に軽い報酬で聞いてあげる」
「あら」
シャーロットは微笑んだが、表情はかすかに強張った。
彼女は冗談めかして言った。
「悪魔が自分を安売りするなんて良くないわ」
「誰にでも安売りするわけじゃないから問題ないよ。今のところはあんただけ」
マルコシアスは、まさに悪魔の誘惑をもって流し目で微笑んだ。
シャーロットは肩を竦めてみせたが、その仕草がマルコシアスからうつったもののように思えて、彼女は少し気まずい思いをした。
「――お前は悪魔だから、そう言ったこともすぐに忘れちゃうわよ。トンプソンのことも覚えてないんでしょう」
マルコシアスは心外だというように目を瞠る。
わざとらしい、傷心の色すら瞳に作って。
「わあ、ひどいことを言うね。今のところ僕が心配なのは、久し振りに召喚されたと思ったら百年くらい経ってて、あんたが死んじゃってることだけだね。
――それから、ええっと、トンプソンって誰?」
シャーロットは膨れっ面をした。
「……ほら、忘れてる」
マルコシアスは宥めるように笑った。
「あんたのことは忘れないよ」
「――――」
シャーロットが咄嗟に返す言葉に詰まっていると、ふいにマルコシアスが眉を顰めた。
まるで、耳許で何かの報告を囁かれて、そちらに気を取られたようだった。
「――どうしたの?」
わけもなくほっとしながらシャーロットは尋ねたが、マルコシアスはすぐには返事をしなかった。
かれはその場で膝立ちになり、それから立ち上がった。
遠くを見るときのように手で目庇を作って一方向を眺め、やがてマルコシアスが唇を笑みの形に曲げる。
「――おっと」
かれがシャーロットを振り返った。
「あんたの知り合いだと思うけど、あんたを誘拐したやつと、さっきのあの子供と、あのお馬鹿な魔精と――あと一人、僕の知らないやつが、近くまで来てるよ。行ってみる?」
新年最初の更新ですので、
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