29 今、騒ぎになっているのは分かる?
その銀色の光を、グレートヒルの全ての人といわないまでも、屋外にいてその方角を向いていた人々、あるいはその方角に向かって開いている窓を眺めていた人々は、例外なく目の当たりにした。
中空でちかりと強く瞬いた銀色の光は、一瞬後には鋭い一筋の輝線となって、空を両断する勢いで迸り――一点に着弾した。
もうもうたる粉塵が上がったことは、薄く空にたなびく雲に似た砂煙を見て、数十人が納得したことだったが、彼らは同時に蒼くなった。
言うまでもないが、粉塵が上がるということは建物や道路に破損があったことを示すからだ。
あっという間に、グレートヒルは蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。
「なんてことするの! なんてことするの!!」
シャーロットに首を絞められそうになって、マルコシアスは鬱陶しそうに首を傾けてそれを躱した。
「うるさいな、大丈夫だよ。別に派手にやっちゃいない」
「じゅうぶん派手でしょう! 人を巻き込んでないでしょうね!
これ、お前がやったって知れたら、怒られるのは私なのよ! 怒られるじゃ済まなかったらどうしてくれるの!
牢屋に入れられるならまだしも、入学取り消しになったら報酬も渡しませんからね!」
マルコシアスは、それこそ悪魔らしい魅惑的な笑顔で、シャーロットの鼻先に自分の鼻先を軽く触れさせた。
「あんたのそういうところ、いいと思うよ。
にしても、あんたの入りたい学院って、牢屋の中からでも通えるの? 『牢屋に入れられるならまだしも』って」
シャーロットはのけぞり、マルコシアスの頭をひっぱたきそうになった。
「言葉の綾よ!」
「分かってるよ、うるさいな。
――さあ口を閉じて、ロッテ。レディらしくスカートを押さえて。――ハルファスの頭を叩くよ」
コウノトリの姿をした悪魔が、猛烈な勢いで銀の光線が着弾した辺りを目掛けて飛翔している。
その悪魔に特段の傷がないことを、見たというよりはその勢いから感じ取って、シャーロットも先ほどの、「派手にやっちゃいない」というマルコシアスの言葉の正しさを納得せざるをえなかった。
少なくとも、ハルファスの召喚主ごと周囲の建物が吹っ飛んだなら、ハルファスは〈身代わりの契約〉により、主人の負傷を肩代わりしているはずだからだ。
シャーロットが口を閉じ、片手でスカートを押さえ、もう片方の腕でしっかりと自分の首にしがみつくのを確認してから、マルコシアスが大きくはばたいた。
一度高く舞い上がったかれが、まるでハルファスの主人に向かって落ちていくかのように加速する。
巨大なコウモリの羽がはためく。
マルコシアスの首許のストールが半ばほどけて旗のようになびく。
シャーロットの金髪が引きちぎれんばかりにひるがえり、外套が後ろへ引きはがされそうになりながらはためく――
落下の勢いでマルコシアスが飛んだ先は、貿易省からやや議事堂寄りに位置する、技術省所管の作業棟のうち一つだった。
とはいえシャーロットはそうとは知らず、丸屋根と平屋根と斜壁を持つ塔屋を併せ持つその建物を、奇妙だと思っただけだった。
マルコシアスの魔法は正確に作業棟のそばの道路を抉っており、もうもうたる粉塵は今まさに収まろうとしているところだった。
建物から通りに出て、何があったのかを背伸びして見物しようとしている人もいれば、それらの人々を叱りつけて屋内に戻そうとしている人もいる。
衛兵が続々と集まりつつあり、シャーロットは眩暈を覚えた。これはまずい。
作業棟の丸屋根の一部は硝子張りになっており、その硝子は汚れて曇ってはいたが、中を覗き込むことが出来た。
どうやらその真下は吹き抜けになっており、建物を揺らす衝撃に泡を喰っただろう人々が、しかし徐々に落ち着きを取り戻し、重要な備品の無事を確かめようとしている様子が、上空からは見てとることが出来た。
そして問題の魔術師は、その屋上に立っていた。
塔屋のそばで、吹く風にひるんだかのように塔屋に手を突いて身体を支えている。
四十前後、ざんばらに着られた茶色い髪が、風に乱されてくしゃくしゃになっている。
背広ではなく作業着のようなものを着ていて、彼はあきらかにマルコシアスに気づいて悪態をついていた。
そのそばには既にコウノトリの姿をしたハルファスが翼をたたんで控えており、その赤い瞳が、空を渡ったマルコシアスをひたりと追って睨み据えている。
シャーロットは息を呑んでいた。
魔術をもって人を害することは紛れもなく犯罪で、通常の暴力よりも重く罰せられる。
具体的には、魔術師専用の監獄であるカルドン監獄で一生を過ごすことになりかねない。
そのために彼女は、暴力をふるう魔術師というものを、想像だにしたことがなかった。
だが、シャーロットの予想に反して、屋上に立つ魔術師に躊躇はみられなかった。
風に声を浚われて聞き取れないが、彼が迷いなく口を開いたことは見てとることが出来た。
呪文を唱えている――
「エム!」
「大丈夫だよ、言っただろう――」
ひるんで己の魔神の名前を叫ぶ主人に、その魔神は余裕をもって微笑んでみせた。
「――攻守交替だ。こっちが攻める側だ」
空中に佇み、マルコシアスはまっすぐに右手を伸ばした。
子供がたわむれに拳銃の形を指でまねるときとそっくりの手つきで、かれが屋上の魔術師を指差し――
コウノトリの姿の魔神が、翼を広げて一声鳴いた。
屋上に立つ魔術師の額から一フィートの位置で激しい火花が散った。
マルコシアスが舌打ちし、魔術師は目が眩んだようでいながらも呪文を止めない。
マルコシアスが何かをつぶやいた。
シャーロットはかれの肩に顔を伏せて目を庇わなくてはならなかった。
屋上に立つ魔術師を、目に見えない射手が取り囲んだかのように、四方八方から眩しい光線が降り注いだのだ。
轟音が上がり、つかのま、魔術師はまぶしい光に塗り潰されたかのように見えなくなり――
その光が消えたときには、屋上は惨憺たるありさまになっていた。
無数の穴が開き、粉塵が舞い上がり、建物の欠片が散らばっている。
だがそれでも、魔術師の足許から半径六フィート程度は無傷のまま保たれていた。
「やるねぇ、ハルファス。よっぽどいい報酬を約束されているんだね、頑張るね」
マルコシアスが皮肉っぽく言ったそのとき、ハルファスの足許に変化が起きた。
さながら、屋上の床が水面であったかのごとく、そこから別の悪魔が顔を出したのだ。
まず指が。
てのひらを見せて腕が突き出し、辺りを探るようにしたあとで、水面を突き破るのと同じ動きで頭が現れる。
黒い髪の、五、六歳の少年に見えた。
かれが訝しげに辺りを見渡したあと、空中のマルコシアスに気づいて怒鳴り声を上げた。
マルコシアスはうんざりしたように眉を顰めた。
「魔精が増えたな。まあいい――」
魔精が屋上の床から這い出し、その場に立ち上がった。
激昂して何かを怒鳴る魔精の肩に手を置いて、魔術師が何かを尋ねている。
そして、なにか思わしくない返事を受け取ったかのように額を押さえた。
だがすぐに、口早に、かれに新しい命令を与えている。
「さっきの呪文、あの子を呼び戻していたのね」
シャーロットは推測でつぶやいた。
彼女自身は、召喚した悪魔が離れた場所にいるときに、かれを手許に戻す呪文については知らなかったのだ。
「ロッテ」
マルコシアスが呼び、シャーロットがかれを見た。
かれは首を傾げた。
「あんたの大叔父さんの屋敷を見張らせている精霊をこっちに戻すよ。いいね?」
シャーロットは一瞬のあいだ混乱し、しかしすぐに頷いた。
「もちろん! もう意味はないもの――」
「よしきた」
マルコシアスがつぶやき、軽く手を振った。
とたん、おびただしい数の精霊が動いた。
かすかなきらめきとしてしか肉眼には見えない精霊たちが、われ先にと屋上に押し寄せる。
ハルファスと魔精が、やむなくかれらの主人を守るために動くのが見えた。
ところどころで金色の火花が散っている。
精霊どうしが衝突しているのかもしれない。
雲霞のようにきらめきざわめく精霊のために、屋上の光景がしばし霞んだ。
息を呑むシャーロットをちらりと見てから、マルコシアスはもったいぶって巨大なコウモリの翼をたたみ、空中に腰かけるような格好をとって脚を組んだ。
そして、膝の上にシャーロットを乗せた。
シャーロットは、足許からはるかに地面が離れていることを意識して、無意識のうちに強くマルコシアスにしがみついていた。
「あの無粋な契約のおかげで、主人を叩けば頭は押さえられる。
僕がハルファスの立場だったら、まず敵を主人には近寄らせないね」
シャーロットは落ち着かなげにもぞもぞと動いた。
靴が落ちそうになって、彼女は心持ち爪先を上げた。
「私はばっちり見られているんだけど……」
「だから、そばから離してないでしょ?」
マルコシアスが悪魔らしい、致命的ないたずら心がきらめく瞳でシャーロットを覗き込んだ。
「今もあんたは僕の膝の上だ。ね? 僕のロッテ」
「――――」
シャーロットは瞬きし、ぽかんとしてマルコシアスを見つめた。
マルコシアスが微笑んだまま、訝しげに首を傾げる。
「ん?」
「あの――」
シャーロットは言いよどんだ。
彼女の胸の中で、初めてかすかな違和感が動いていた。
その違和感が危機感を撫でている。
――マルコシアスが、「僕のレディ」とシャーロットを称することは何度か聞いていた。
そして、ある意味ではそれは当然の呼称だった。
なにしろシャーロットはマルコシアスの主人だから。
――しかし今、マルコシアスははっきりと、「僕のロッテ」と呼んだ。
その違和感。
その危機感。
――シャーロットにはまだ、魔術師としての経験がほとんどない。
ゆえに、ウィリアム・グレイが当然のものとしてわきまえている認識が薄い。
悪魔の関心がそれすなわち悪意であるという感覚が育っていない。
それがために、マルコシアスが数ある魔術師の中で、わけても自分に目を掛けるならば、それが自分にとっての不幸になるだろうという危機感が弱い。
――だがそれでも、本能的に、シャーロットは違和感と危機感を覚えていた。
人間という存在が、悪魔と呼んだ存在から向けられる視線に対して、本能的に覚える防衛本能で。
――だがそれを上手く言語化できない。
シャーロットがその、言語化できない違和感のために言葉に詰まっているあいだに、マルコシアスの金色の瞳が、事態の推移を見てとった。
「おっと、僕のかわいい精霊たちが困っている」
かれが、今度は右腕にシャーロットを抱えて、空中で立ち上がった。
シャーロットはあわててかれにしがみつき、高所に眩暈を覚えながらも、咳き込むようにして尋ねた。
「大丈夫なの?」
「何も心配はないけれど、ロッテ」
マルコシアスが軽やかに応じた。
続く言葉を、シャーロットは聞き間違いかと思った。
「僕が自分であっちに乗り込むから、あんたはちょっと離れててくれない?」
「……は?」
シャーロットは唖然とし、そしてその瞬間、直前に彼女を悩ませた本能的な違和感と危機感を、綺麗に忘れ去ってしまっていた。
――「そばから離していないでしょ?」と言った直後にこれとは、まったく悪魔は気まぐれな。
マルコシアスは実際に、とても安全とはいえないだろう、魔術師のすぐ頭上の塔屋の上に、「落っこちないでね」とそっけなく言いながらシャーロットを下ろした。
シャーロットはその場にしゃがみこみ、恨みがましげにかれを見上げざるをえなかった。
眼下では魔術師が命令を下し、ハルファスと、――いつの間にか呼び戻されていた――他の四人の魔精が、塔屋の上に立つマルコシアスを見て怒声を上げている。
マルコシアスは愛想よく微笑み、大量の精霊をシャーロットのそばに残して、頓着しない態度で塔屋から下へ、ふわりと軽やかに飛び降りた。
シャーロットはこわごわと、彼女の悪魔の武運を祈りながら眼下を窺っていたが、若さのゆえに、悪魔の狡猾さを知らないゆえに、一度も考えることはなかった――
――マルコシアスが彼女のかすかな危機感を察して、それすら忘れさせてしまおうと、こうしてわざと彼女から離れたのかもしれないなどということは。
▷○◁
「――オーリンソンは?」
「執務室にはいない――」
「外に出るのを見たってやつの部下が。何の騒ぎだってきょとんとしてたぜ」
「なぜだ? 閣下の指示から数分で、どうして姿をくらませられる?」
あわただしく行き交う足音とともにそんな殺気立った会話を聞きながら、アーノルドは議事堂の一階の、外側に張り出した窓台の下にうずくまっていた。
足許の芝生がちくちくと痛むが、そんなことを言っていられない。
彼は顔面蒼白となっていた。
「――どうすんの、これ」
呻くように尋ねれば、彼と同様、カラスの姿で身を竦ませる魔精もまた、その黒い羽根をめくれば蒼白になった皮膚が見えるのではないかと思えるほどに心許ない様子で、リンキーズも応じた。
「それが分かって予定を立てられれば苦労しないさ!
マルコシアスはどこ行ったんだよ、あのやろう」
羽をふくらませるかれが、今にも自分を見捨てて飛び立ってしまうのではないかと怯えつつ、アーノルドは途方に暮れて周囲を見渡した。
中庭の芝生は無慈悲に広がっており、新緑の色がさやさやと揺れている。
立ち行く衛兵の数も増える一方、もはやここを突っ切って、清掃下男の格好が隠れ蓑となる場所まで撤退する望みはないに等しい。
「やばいよな……おれ、ここで捕まったら死刑かもしんない」
絞首台の上に引っ張り出される自分を想像して、アーノルドは暗澹とつぶやいた。
カラスは、困り切った様子から一転、楽しそうにけらけら笑う。
「考えなしにこんなとこに来るからだろ。自業自得だ」
アーノルドはうなだれた。
「おれの人生、自業自得ばっかり。
――ってかあんたも、シャーロットを連れ戻さないとやばいんじゃねえの」
「あの子が駆け込んだ手水場から戻ってこなくて大騒ぎになってる時点で、もうなんか、無理だなって」
諦めたようにそう言うリンキーズに、「あのお嬢さんがいっこうに手水から戻ってきません」という知らせが入ったときの、あの部屋に詰めていた衛兵たちの、絶句からの阿鼻叫喚までを思い返し、アーノルドはいっそううなだれた。
「攫われた?」「閣下にお伝えを」「いやまだ捜せば見つかるんじゃ……」「女はいないの? 手水場の中を捜させろ」という大騒ぎの中で、ネイヴィ・ブルーの背広を着た若い男性が真っ青になっていた。
「私が手水に行けと言ったばかりに」とうろたえていたが、吐きそうになっている子供がいれば誰だって手水場を指差すだろう。彼は悪くない。
そんな様子を窓越しに見て、アーノルドとリンキーズは、そうっと地面に戻ったのだった。
「あの魔神……マルコ――マルコシアスだっけ? あいつがシャーロットといるとみて間違いないな。問題は、どこにいるかってことだけど」
「そっちもそっちで問題だけどさ、さっきからご主人が僕を呼ぼうとしてるみたいだ」
アーノルドは、ぎょっとしてカラスを見下ろした。
この場で一人になることは、スラムで一人で立ち往生するのとはわけが違う。
「えっ、ちょっと、リンキーズ……」
「だいぶ焦ってるみたいだね。この距離じゃ、ご主人がどこにいるか僕が知るわけないじゃんか? あの人、〈退去の呪文〉は当然に知ってても、〈傍寄せの呪文〉は知らないんだな。
それに、別に危険はないはずなんだよね、僕がなんともないんだから」
平然とリンキーズは言って、アーノルドはほっと息を漏らした。
少なくとも、リンキーズが今すぐグレイのもとへはせ参じることはなさそうだと判断したためだった。
「そっか。――まあ、なんにせよ、ここからなんとか離れないと、おれ、このままここでこういう形の彫像になっちゃう……」
アーノルドがそこまで言ったときだった。
かすかに地面が震えた。
彼は驚いて口をつぐみ、そして、離れた場所で、目を疑うような光景が展開されるのを目撃した。
――唐突に、高い塔が建設されていた。
アーノルドは目をこすり、その塔をじっと見て、またごしごしと目をこすって頬をつねった。
そんな彼を胡乱そうに見えて、リンキーズがつっけんどんに尋ねる。
「――どうしたの。そんな馬鹿みたいなことして、らしくないね」
「いや、あれ――」
言い差して、アーノルドははたと気づいた。
カラスの姿で地面にいるリンキーズは、アーノルドよりも視座が低い。
手前の建物が邪魔になって、よく見えないのかもしれない。
「ちょっと失礼」と一言を入れて、アーノルドはカラスを両手で抱え上げ、自分と視線の高さを揃えた。
「おれの目の迷いじゃなかったら、あそこに、さっきまでなかった塔が生えてるんだ」
カラスが、ひゅっと息を呑んだ。
本物のカラスが息を呑むのかどうか、寡聞にしてアーノルドはそれを知らない。
「うおっ、ハルファスだ。違いない」
「だれ、それ」
「知らないのかよ、不勉強だな」
そう言われて、アーノルドはなんとなく、懐にしまった旅行用の小さな辞書と、そのあいだに大事に挟み込んでいる一枚の紙を思い出した。
――もしもアーノルドが契約書というものを目にすることがあれば、損をすることがないように、と差し出された、一枚の紙。
「魔神だよ。序列三十八番。鉢合わせしたことはあるけど、ひどい目に遭った。確かあのときはハエか何かに化けて切り抜けた。あらまあ、派手にやって……」
そのとき、その塔が真っ二つに折れた。
轟音がここにまで届き、議事堂の中もにわかに騒然としたように思われた。
アーノルドは自分が見つからないかと身を竦めたが、そんな彼に両手で持ち上げられたリンキーズは砕ける塔を見つめており、端的につぶやいた。
「――喧嘩の相手はマルコシアスだろうね。序列でいえばマルコシアスが上だから、たぶんマルコシアスが勝つんだろうね」
アーノルドはしばらく目をしばたたかせたあと、神妙な口調でつぶやいた。
「……たぶん、シャーロットはあっちにいるんだろうな」
リンキーズもそちらを見ていた。
「うん、なんか、僕もそう思う」
「けど、あっちに行こうにも――」
「えっ、行きたくないよ?」
リンキーズが、グレイのしもべとは思えない台詞を吐いた。
「見てよ、アーニー。めちゃくちゃ派手な喧嘩だよ。あそこに生身で乗り込む気? 正気?」
崩れ落ちる塔の残骸の周囲に、複数の輝線が走っている。
それを見て、アーノルドも考え込まざるをえなかった。
「確かに、死にそう――」
「だろ?」
二人がしばらく黙り込み、アーノルドがリンキーズを地面に下ろして、いかにして無事にここから脱出するかを、びくつきながらもぼそぼそと話し合うこと、数分。
――中空でぴかりと銀光がひらめいたのが遠目に見えた。
その光が流星のごとくに降って――アーノルドからは、こちらへ迫ってくるように見えた――、どこかへ着弾した。
もうもうたる粉塵が巻き上がり、遠くで悲鳴が上がるのが聞こえる。
アーノルドはそれをなんともいえない気持ちで見ていたが、そばでリンキーズが身を硬くしたのを感じ取り、はっとした。
「どうし――」
そこまで言って、アーノルドも気づいた。
――議事堂の中から誰かが出てきている。
それは特段珍しいことではなく、現に幾人もが慌ただしく議事堂の中と外とを行き来していたが、今度の人物は中庭の芝生の上に入ってきた。
アーノルドは、すわ自分が見つかったのかと思って身も凍るような思いがしたが、違った。
彼は――おや、見たことがあるぞ、とアーノルドは思ったが、それも道理、彼はあのときシャーロットに手水場へ行くことを勧めた、ネイヴィ・ブルーの背広を着た男性だった――、空の一点を見上げて、さながら落ちてくるボールの位置に合わせて立ち位置を調整するかのように、右へうろうろ、左へうろうろと動いている。
が、彼が待っていたものはボールではなかった。
間もなくして、濃い青色の羽が美しい、鷹ほどの大きさの鳥が、優雅な動きで空から舞い降りて、差し出された彼の腕に止まったのだ。
アーノルドは内心で、あれはきっと悪魔に違いないと思った。
というのも、彼はこれまで、それほど色鮮やかな羽毛を持つ鳥を見たことがなかったからだ。
ネイヴィ・ブルーの背広の男性――便宜上、ここではシャーロットにならって、彼をネイヴィ氏と呼ぼう――は、青い鳥の形の整った小さな頭を撫でて、頬をかれに寄せた。
そして何度か頷くと、背広の内ポケットから何か小さなメモを取り出し、それを青い鳥の黒い脚に結びつけた。
青い鳥はそのあいだじっとしていた。
ややあってネイヴィ氏が青い鳥に何か一言告げると、青い鳥は優雅な動きで翼を広げ、ネイヴィ氏の腕から飛び立った。
「――あれ、悪魔?」
アーノルドはこっそりとリンキーズに尋ねた。
ネイヴィ氏が振り返れば、二人はばっちり見つかる位置にいる。
そのために、彼は覚えず壁に張りつくような格好になっていた。
リンキーズは無邪気なカラスを装おうとしたのか、意味もなく毛づくろいなどしつつ、いっそうの小声で応じた。
「だろうね。僕と同じくらいの位の魔精だ。預かったのは伝言かな」
なるほど、とアーノルドは頷いたが、直後に胃がひっくり返るような心地とともに、無駄口を叩いた自分を呪うこととなった。
小声であったというのに、それがまるで聞こえたかのように、ネイヴィ氏が振り返ったのだ。
「――――」
終わった、とアーノルドは目を閉じた。
が、すぐにまた薄目を開けた。
通報されるならその瞬間を見届けたいと思ったのだ。
リンキーズも、「あーあ」と思っただろうが、かれの方はカラスに化けている。
暢気に毛づくろいの続きをしながらも、リンキーズがその場から去る様子はなかった。
急に飛び立てば怪しまれると思ったのか、それともアーノルドに憐憫の欠片程度でも感じてくれたのか。
ネイヴィ氏が瞬きし、足早にアーノルドに向かって歩き始めた。
すぐに大声で衛兵の注意を引かれなかったのはさいわいなのかどうか、測りかねながらもアーノルドはそろそろと立ち上がった。
逃げ出すなら、最初から立っておきたい。
すぐに全速力で駆け出すには、足が痺れてしまっている。
「きみ――」
アーノルドの目の前まで来て、ネイヴィ氏が探るようにそう言った。
アーノルドは壁沿いに一歩後退りながら、破れかぶれの言い訳を述べた。
「――えっと、ごめんなさい、清掃下男なんですが、入りたてで――道に迷って――」
「迷った?」
ネイヴィ氏が訝しげに眉を寄せ、あろうことか、地べたで暢気に羽根をこねくるリンキーズを見下ろした。
「悪魔と一緒にか?」
「――――」
アーノルドは、ぽかんと口を開けて絶句した。
リンキーズは、まったくカラスらしからぬことに、その場でばったりと倒れ伏した。
それを見てふっと口許を緩めて笑い、ネイヴィ氏はアーノルドに視線を戻した。
「私はリクニス学院の出身でね、悪魔には嫌というほど触れてきた。大抵の魔精の擬態なら見破れる。
――きみは魔術師ではないね?」
「は……はあ……」
アーノルドは驚いた顔のまま頷いてみせた。
ここで、「リンキーズのことは知らない、ただのカラスだと思っていた、自分は清掃下男だ」と言い逃れが出来る余地を残そうと思ったのだ。
が、直後にその目論見は外れた。
ばたばたと起き上がったカラスが、そばから、「アーニー」と声を掛けてきたのだ。
「アーニー、こいつに告げ口した?」
アーノルドは危うく、リンキーズを蹴り飛ばしそうになった。
強張った顔でかれを見下ろしてみれば、かれは無邪気に首を傾げてみせる。
このやろう分かってて呼びやがったな、と、アーノルドはこぶしを握り固めた。
一人だけで取り残される気がなかったのはお互い様というわけだ。
その様子をおかしそうに見てから、ネイヴィ氏は腰を屈めてアーノルドの顔を覗き込んだ。
アーノルドはのけぞり、その拍子に後頭部を議事堂にぶつけた。
「あいたっ!」
「面白いね、きみ――」
ネイヴィ氏は口許に片手をあてがった。
それから少し考え込み、その手を顔から離すと、親指で議事堂の中を示してみせる。
「今、騒ぎになっているのは分かる?」
「分かります、分かります」
アーノルドは必死になって頷いた。
「おれは清掃下男です、道に迷った挙句になんか騒ぎになってて、今すっごく困ってるんですよ」
「悪魔が足許にいる状況でそう言える、その胆力は尊敬しよう」
真顔でそう言って、ネイヴィ氏は目を細めた。
面白くなさそうな表情であり、アーノルドは腹の底が冷えるような感覚に気が遠くなったが、さいわいにも、ネイヴィ氏が腹を立てているのはアーノルドに対してではないようだった。
「軍省付の私に対しても事を伏せているのが、私としては大いに気に入らないが――」
アーノルドはもはや息を止めていたが、ネイヴィ氏はそれに気づくと気さくに微笑み、首を傾げてみせた。
「きみたち、事によるとさっきまでここにいた、――なんていったかな、そう、シャーロットだ。シャーロット・ベイリーのお友達かな?」
「――――」
どう答えればいいのか分からず、アーノルドは首を傾げた。
「なんであなたがそれを知っているんですか?」とも、「それは誰ですか?」ともとれるだろう、絶妙な表情を作ってみせた。
ネイヴィ氏はしばらく、アーノルドの表情を観察していた。
アーノルドが冷や汗を堪え切れなくなる頃になって、ようやく彼はアーノルドから視線を外し、ちらりとリンキーズを見た。
それからまたアーノルドに視線を戻して、彼は先ほどと同じ言葉を繰り返した。
「今、騒ぎになっているのは分かる?」
「分かります、分かります」
アーノルドが先ほどと同じやり取りに踏み込もうとした矢先、ネイヴィ氏はきわめて友好的な笑顔で言った。
「私がここで衛兵を呼んでしまうと、きみたちが非常にまずい立場になるのは、分かる?」
ぴた、と動きを止めて、アーノルドはリンキーズを見た。
リンキーズの背中の羽根が逆立っていた。
「分か……あの、本当に清掃下男――」
「衛兵――」
「わあっ!」
作り話を繰り返そうとしたところでネイヴィ氏が衛兵を振り返る素振りを見せ、アーノルドは思わず彼に飛びついて彼を止めていた。
ネイヴィ氏がぎょっとしたように身体を引いたので、彼も慌ててネイヴィ氏から離れる。
そうしてうなだれた。
「すみません、分かります」
「けっこう」
背広のポケットからハンカチを取り出し、さっと背広を払ってから、ネイヴィ氏は親しみ深く微笑んだ。
「実をいうとね、今回のこの騒ぎ、私も詳しいところは知らなくてね」
まさか、窓越しの盗み聞きのおかで、あなたよりも詳しく知っていますとは言えない。
アーノルドは貝のように口をつぐんだ。
「ただ、きみのお友達――ミズ・ベイリーかな。彼女は首相にかなり目を掛けてもらっている立場らしいね」
アーノルドは目を逸らしたが、目を逸らしたぶんだけ、ネイヴィ氏が横に動いて彼の視界の真ん中を占めた。
「となると、私もぜひミズ・ベイリーとは仲良くしたいな。分かる?」
答えが一択なのに尋ねられた。アーノルドは顔を覆った。
「分かります……」
「けっこう。きみは見た目にそぐわず頭がいいらしい」
アーノルドは思わず顔を上げた。
「頭がいい」と彼を評したのは、目の前にいるネイヴィ氏で二人目だった。一人目はシャーロット。
ネイヴィ氏はにっこりと微笑んだ。
どうやら彼にも事情があるらしく、かなり含みのある笑顔だった。
「ミズ・ベイリーはどこ? 彼女がいなくなって、議事堂は今てんやわんやだ。
ついでに、そもそも彼女を部屋から出したのが私の判断だと指摘されてしまうと、私は非常に困る立場だ。かくなる上は一刻も早く、ぜひ彼女を見つけて差し上げたいね。心当たりがあるんだろ?」
アーノルドはリンキーズを見た。
リンキーズは、カラスの格好で器用に肩を竦めて(というより、翼を竦めて)みせた。
勝手にしなよと言わんばかりだ。
アーノルドは不承不承、先ほど光が見えた辺りを指差した。
「あっちだと思います……」
ネイヴィ氏は、背広のポケットから懐中時計を取り出し、ちらりと時刻を確認した。
それから頷くと、言った。
「けっこう。一緒に行こうか。
――この悪魔は誰のもの? きみが命令できるのかな?」
雑巾を見るような目でリンキーズを見られ、アーノルドはじゃっかん腹立たしさを覚えた。
「さあ。命令ってか、会話なら出来ますが。
――リンキーズ、行こうぜ」
リンキーズは、名前を呼ばれたことに対して嫌そうにした。
それでも億劫そうにはばたいて、当然のようにアーノルドの肩に止まる。
カラスが肩を占領すると圧迫感がある。
アーノルドは反射的に腕を持ち上げ、リンキーズはひょこひょこと動いて、彼の二の腕に落ち着いた。
「リンキーズか! 今まで縁がなかったが、一度召喚したいと思っていた」
ネイヴィ氏が、打って変わって輝く瞳でリンキーズを見て、かれのくちばしのそばを指で掻いた。
リンキーズは諦めたように目を閉じていた。
ネイヴィ氏はアーノルドに視線を移した。
「衛兵に対しては、私がきみのことを誤魔化してやることが出来る。
――そうそう、私はネイサン。ジュダス・ネイサンだ」
くるりと踵を返して、ネイヴィ氏あらためネイサン氏は言った。
「じゃあ、行こうか。アーノルド」
アーノルドは反射的に頷き、一歩踏み出してから、眉を寄せた。
そして、低い声でつぶやいた。
「……おれ、名乗りましたっけ?」
「――――」
一拍を置いて振り返り、ネイサン氏はリンキーズを示した。
「そこの悪魔が、『アーニー』と呼んでいただろう。
アーニーといえばアーノルドだ。当たっていた?」
アーノルドは瞬きして、リンキーズを見てからネイサン氏の灰色の瞳に目を戻した。
彼は軽く頭を下げた。
「――当たってます」
一人の少女に手水場へ行くよう勧めたがために窮地に陥っているらしいネイサン氏は、ささやかな推理が的を射たことに少しばかり嬉しくなった様子で、にっこりと微笑んだ。
良いお年をお迎えください。




