28 悪魔傾心
その時点で、シャーロットはまだなんの危機感も覚えていなかった。
だが、これは特段驚くにはあたらないことだ――魔神が人間に害を与えようとすると、大抵の場合、人間は危機感を覚えるいとまもなく、速やかに永遠の眠りを顔面に叩きつけられることになるからだ。
しかし、精霊は人間よりもはるかに、悪魔の存在に敏感だった。
自分を前へ前へと案内する精霊のかすかなきらめきが、唐突に急かすように明滅を激しくしたのを感じ取り、シャーロットは足を速めた。
おりしもそれは、貿易省所管の巨大な書庫のそばだった。
真四角にそびえる白い石造りの書庫は、閲覧室のための明かり取りの窓をこちら側に見せるほかには堅牢に、重要な書類を断じて陽光には晒さぬ構えで、ほっそりとした木にぐるりと囲まれるようにして、そこに建っていた。
入口には衛兵が二人おり、シャーロットは不審に思われぬ程度に顔を伏せはしたものの、「捕まっても、軍省に行けば大丈夫なんだったわね……」と思うと、往路に比べてはるかに身を隠す気は失せていた。
衛兵はじろじろと不審げにシャーロットを見たが、声をかけてくることはなかった。
太陽は中天に達していた。
空は晴れ晴れとして、シャーロットの影は足許から後ろへ、短く落ちている。
道路は複数の馬車が余裕をもって行き交うことが出来る程度には広いが、今は静まり返っている。
精霊の明滅がいっそう激しくなり、シャーロットも何ごとか、自分にまずい事態が起こりつつあるのではないかと気づいた。
覚えず周囲を見渡し、人通りの絶えた道路に、不審な人影がないかを警戒する――
そのとき唐突に、万力のような強さで襟首が掴み上げられた。
シャーロットは悲鳴を上げようとして、しかし襟首を掴み上げられた関係で、その声どころか息にも詰まった。目の前が暗くなる。
耳許で風がうなった。
瞬きのうちに、シャーロットは腹の中の内臓が浮き上がるような浮遊感を覚え、どこかの巨人が彼女の襟首をつまんで、無頓着に空中に放り投げたようにして、敷石を眼下三十フィートに見る場所にまで引っ張り上げられていた。
まさに吹き飛んでいる最中――彼女の足許に空があり、彼女の頭上に道路の敷石があった。
逆転した世界の奇妙さに息を呑むよりも何よりも、頭に血が昇って吐きそうになる。
風のかんだかい唸りが響く耳が、そのとき別の異音を捉えた。
――轟く爆音。
一秒前までシャーロットが立っていた、まさにその場所の敷石が、もうもうたる黒煙を上げて吹き飛んでいる。
敷石の細かな破片が舞い上がり、シャーロットの頬をかすめた。
破片までが白熱している。
「は――?」
襟首を掴んでいた手が、ぱっとシャーロットから離れた。
とたんに自由落下に身を任せることになり、シャーロットの中の内臓という内臓が重力を慕ってでんぐり返りを披露し、副作用でシャーロットは失神しかけた。
が、間髪入れず、今度は襟首を掴んでいたのと同じ手が、すばやく、だがしっかりと、シャーロットの腰に回された。
ぐい、と引っ張り寄せられて、そのとき初めて、シャーロットはそれがマルコシアスの腕だと気づいた。
頬と頬が触れ合うほどの間近に、マルコシアスの顔があった。
かれもまた、シャーロットを腕に抱え込みながら、ゆっくりと放物線を描くようにして、広大な跳躍の最後の数秒を演じている最中であるようだった――シャーロットと同じく、大空を足許にして、しかし全く動じていない。
風におよぐ伸びすぎた灰色の前髪、白い頬、同年代の少年の面差し、――そしてその淡い黄金の瞳。
その瞳を生き生きと輝かせて、マルコシアスが半ば快哉を上げるようにして叫んだ。
「これはこれは! 今度は魔精じゃないぞ、やりがいのある相手が来た――久し振りだね、ハルファス!」
敷石を吹き飛ばした黒煙が晴れた。
そこに一羽のコウノトリが行儀よく止まっているのを見て、シャーロットは目を剥いた。
貿易省の書庫を守る衛兵たちが、何ごとかを叫んでいる。
周囲の建物の窓が開き、爆音の所以を探る顔がいくつも覗く。
シャーロットはぞっとしたが、しかし二人の悪魔は、そんなものは歯牙にもかけていない。
コウノトリが軽く翼を広げ、しわがれた声で叫んだ。
「お前だったか、マルコシアス!」
「ああ、僕だ」
応じると同時に、マルコシアスの背中から巨大なコウモリの翼が生えた。
ばさり、とそれが一度はばたいて、マルコシアスは宙返りするようにして重力に対して正しい姿勢を取り戻した。
空を頭上に、敷石を足許に。
三十フィートの高処において空中で停止し、マルコシアスは左腕にシャーロットをかかえたまま、いかにも悪魔らしく首を傾げた。
「ハルファス、あんたへの報酬はいかほどだ? この僕を相手に引けないほどかい? 最初にそれを訊いておこう」
コウノトリもまた、実際のコウノトリには有り得ない赤い瞳でマルコシアスを眺めて、長くほっそりした首を傾けた。
「なかなかいい報酬だ、とだけ言っておこう。
――マルコシアス、お前は私の手が届かない相手ではないぞ!」
「序列三十八番の分際で、なかなかの大口を叩くね。自分の領域に引き籠もる準備をしておいて。この距離だ、あんたの主人も見えているぞ。
僕への報酬は破格でね、僕が手を抜く期待はしない方がいい!」
「――そんなものは端から持ち合わせていない!」
そのとき地面に足を着けていれば、地面が震えるように揺れるのが感じられたはずだ。
出し抜けに、宙に留まるマルコシアスを中心の一点として、半径にして十六フィートほどの正確な円を描くように、地面に輝線が走った。
そして、そこからするすると伸びるようにして――塔が生えてきた。
小さな塔の堅牢な石壁が伸び、ものの数秒のうちに陽光を遮るほどの高さに到達して、マルコシアスとシャーロットの頭上で、巨大な蓋が描き出されるようにして塔の天蓋が閉じる。
陽光が遮られ目の前が完全な闇になる。
鐘が響くような厳粛な音がして、そして外部の音が一切途絶えた。
地面には、冷静な瞳でこちらを見上げるコウノトリが、粛然とたたずんでいる。
シャーロットは息が上がるのを自覚した。
ばくばくと心臓が激しく脈打っている。
われ知らずマルコシアスの首に抱き着くような格好をとりながら、シャーロットは口早に囁いた。
「――グレイさんはどこ? 無事なんでしょうね?」
マルコシアスはシャーロットをかかえたまま、呆れたような顔を彼女に向けた。
光源はないはずだったが、かれの顔は不思議とはっきりと見ることが出来た。
「最初に言うのがそれ? まずはあわてて駆けつけてきた、あんたのしもべを褒めてくれよ」
「そのために精霊を私につけておいてって頼んだんでしょ。
――グレイさんは大丈夫なの?」
マルコシアスは溜息を吐いた。
「大丈夫、この上なく大丈夫だよ。エ――なんて言ったかな、忘れたけれど、雑魚の魔精がいたからね、適当に振り切っておいた。
今はこの近くで、僕の精霊がちゃんと守ってるよ。まあ、ちょっと雑に引っ張ってきたから、腰が抜けたようではあるけど」
シャーロットは安堵のあまり、マルコシアスの肩に額をつけた。
精巧に人間を模して作られた肩は、やや骨ばった感触さえもが本物らしい。
「良かった。
――それで、エム。ええっと、ここから生きて出られそう?」
左腕にシャーロットをかかえるマルコシアスは微笑んだ。
シャーロットはどきりとした。
今までに見たことのない種類の微笑みだったからだ。
「ハルファスを召喚しているとは、あっちの魔術師も運がない。命令は間違いなくあんたの生け捕りなんだろうけれど、あいつは頭に血が昇りやすい。たぶん命令の内容は綺麗に忘れて、僕を領域に追い落とすついでにあんたのことも殺してしまいそうだけど――」
「ちょっと!」
ぎぃ、ごとん、ぎぃ、ごとん、と、シャーロットの耳に、聞いたことのない音が幾重にも連続して聞こえてきた。
恐怖に駆られて周囲を見渡す。
暗闇にあって何が起こっているのかを見てとることが出来ない。
シャーロットはいよいよ強くマルコシアスにしがみついて、震え声で囁いた。
「あの……嘘だと思いたいんだけど、私の読んだ本では、」
「うん」
ぎぃ、ごとん、と響いていた音が止まった。
シャーロットがその音を聞いたことがないことも、理の当然だった。
それは無数の砲門が開く音――塔の内壁にびっしりと設けられたおびただしい数の砲門が開き、そこから突き出す大砲が、ただ一つの標的に狙いを定める音だったのだ。
砲の狙いを、もはや背筋が震える戦慄として本能的に察知しながら、シャーロットはいっそう震える声で、口早に囁いている。
「ハルファスは序列三十八番の魔神、かれに特有の魔法として、塔を創り出してその中にいるものを皆殺しに出来る、物騒な魔法を持っているってことだったけれど――」
「よく勉強してるじゃないか」
感心したように言われて、シャーロットは絶叫した。
「リクニスへの入学がまだよ!!」
「あんたのそういうところ、僕、本当に好き。
――大丈夫だよ、レディ。
なんたって僕は――」
マルコシアスが右手を上げた。
たかだかと天蓋を示した指先を、拍子をとるように一度揺らして、そしてかれが指を鳴らす。
「――僕は序列三十五番のマルコシアス。
命令にはきわめて忠実、質問に対して誠実。そしてどんな危険にも対処する――」
無数の砲口が火を噴いた。
火薬によらぬ威力で唸る砲弾が、十分の一秒のあいだに火花を散らし、まっすぐにマルコシアスとシャーロットに向かって、幾百幾千と降り注ぎ――
しかし同時に、爆裂音とともに塔の天蓋に亀裂が走っていた。
亀裂から、鋭利な陽光が降り注ぐ。
金の糸が幾筋も伸ばされるように光が沁み入り、そして――
耳を聾する轟音とともに塔が真っ二つに割れた。
シャーロットは耳が聞こえなくなったのではないかと思った。
轟音、氾濫するように押し寄せる陽光、割れ砕け落ちていく塔の破片、コウノトリが翼を広げて飛び立つ――
「――護衛として重宝されることが多くてね、これまで経験した命令は大抵、荒事が多かった。
そして僕は――」
まっすぐに飛来する無数の砲弾に向かって、マルコシアスが薙ぐように右手を振った。
「護衛の務めをやり損ねたことは一度もない!」
横手から凄まじい圧力がかかったかのごとく、全ての砲弾が時計回りに軌道を捻じ曲げられた。
それらの砲弾が、互いに衝突して小規模な火柱を上げながら、目標を捉えることなく連鎖して爆発していく――
その熱と弾け飛ぶ砲弾の欠片、そして落下する塔の破片に、シャーロットは思わず身を竦め、マルコシアスの肩に顔を伏せて悲鳴を上げた。
「――周りの建物に落としちゃだめ!!」
「もちろん分かってる」
ほがらかなまでの口調で、マルコシアスは断言した。
かれの翼がはためき、小さな主人を庇うマルコシアスは、連鎖する爆発の熱から錯綜する軌道を描いて遠ざかりつつあった。
上へ下へ、前へ後ろへ旋回し、宙返りしては天地が逆転し、シャーロットの悲鳴ばかりが尾を引く曲芸飛行。
崩壊する塔の中から粉塵を突き抜けて飛び出したマルコシアスに、しかしなおも、幾筋もの白熱した光線が追い縋るように伸びていた。
ハルファスが、逃してはならじとばかりに更なる魔法を放っているのだ。
曲芸飛行の中でなんとか目を開け、それを目の当たりにしたシャーロットは、息を継いでまで新たな悲鳴を上げたが、マルコシアスは上機嫌に笑っていた。
崩壊する塔が、凄まじい轟音と粉塵とともに、ことごとくが内側に向かって崩れ落ちていく。
周囲の建物から悲鳴が上がっていた。
衛兵たちが駆けつけて、通りに出ていた人々を建物の中へ誘導している。
そこに魔術師がいれば、膨大な数の精霊が網の目のように陣形を組んで、建物に向かって倒れ掛かろうとする塔の破片を押し戻していることに気づいたかもしれない。
地面を震わせ、そばの建物の窓をがたがたと揺らして、ハルファスの塔が崩壊しきった。
コウノトリは翼を広げて崩壊した塔の上を旋回し、幼い主人をかかえて宙を踊る魔神を赤い瞳で見据えている。
かれの魔法が幾筋もマルコシアスを追いかけているが、マルコシアスは軽々とそれを躱し、錯綜した軌道を描いて見事に逃げおおせている。
それどころか上機嫌に笑ってさえおり、
「ねえ、レディ・ロッテ。
僕らが人間をどういう風に見ているか知ってる?」
「知らない知らない!」
「あんたに想像がつくかな――、いわば、いくつかの要素として見ていることが多いんだけど」
「ま・え・を・見・て!!」
ついにマルコシアスに追い着いた一筋の光線が、しかし事も無げに伸ばされたマルコシアスの指先を前にして、二つに裂けた奔流となってかれを捉え損ねた。
裂けた奔流はそのまま、捻じ曲げられて大空に向かって放たれ、やがて大輪の花を思わせる形の火花を散らして息絶える。
そばの建物の窓から、この唐突に勃発した異常事態を見ていた人々の中には、その大輪の花火を前に、覚えずして歓声を上げた者も多くいた。
光線の余波の熱波に髪を揺らし、さらに自分を追う光線から翼をはためかせて逃れながら、マルコシアスはほがらかに続けた。
「そういう要素として見たときに、あんたは本当に面白いよ、ロッテ」
「ありがとうっ! 前を見て、前をっ!!」
「あんたは、目的のためなら手段を選ばず、自分も賭け事のチップにしてしまうような、そういう激烈な人間だ。自覚ある?」
シャーロットは半泣きになっていた。
「ある! ない! どっちでもいい!! 前を見てっ!」
「けどまあ、そういう人間はたぶん他にもいる。記憶にはないけれど、僕が仕えたことだってあるかもしれない。
でもあんたは同時に、手段を選ばないにもかかわらず、その手段が正しいかどうかを考えている。
僕は今朝まで、それをこんな風に考えてた――」
マルコシアスが拍子をとるように指を振って、とたん、かれに迫っていた二筋の光線が互いに激突して、さながら溶接工の手許で起こるかのような激しい火花が噴き出す。
相打った二筋の光線の残滓の衝撃波を拾って、マルコシアスのコウモリの羽が勢いを孕んでひるがえった。
マルコシアスはくるりと宙返りし、シャーロットは声も嗄れんばかりに悲鳴を上げる。
「――あんたは、自分の行く手にあるものは、良心以外は全て撥ね退けていく頑固者なんだろうって。
つまり、あんたは良心に恥じるまねはしないんだろうってね」
「そうかもしれない!」
シャーロットの悲鳴まじりの同意に、マルコシアスは悪魔らしく微笑んだ。
「でも、どうやら違うらしい。
さっきあんたと一緒にいた子とあんたでは、物事の考え方がまるで違う」
「アーニーのことっ!? アーニーはどこなの、大丈夫なの!?」
光線の一つが、マルコシアスを逸れて地面に突き刺さった。
吹き飛ぶ敷石、爆発の余波で震えるそばの建物、がたがたと鳴る窓硝子。
マルコシアスは肩を竦め、ばさりとはばたいて高度を上げ、
「さっきの子は、良心を感じて行動していたらしい。これは僕の言じゃなくて、あんたを誘拐した魔術師の言だけどね。
一方のあんたは、あれこれと考えて行動している。つねに考えて――考えて考えて」
「私、頭はいいの!」
すっかり混乱した様子のシャーロットに、マルコシアスは悪魔の笑い声を上げた。
「つまりこうだ。あんたは良心に従うお人好しじゃない。
つねに頭の中で倫理観を学問している、度外れた頑固者だ。
手段を選ばず目的に向かって邁進するくせに、その目的といわゆる倫理観を一致させたいのは、あんたの良心のためじゃない。
最初から、あんたの意地のためだったんだ。
この頑固者め、自分で自分を雁字搦めにしているお馬鹿なレディ」
「喧嘩を売ってるの!?」
シャーロットが怒鳴り声を上げ、その語尾は悲鳴になった。
突き上げるようにしてマルコシアスに迫る光線を避けるべく、かれが軽やかに宙返りしたからだった。
マルコシアスにしがみつきながら、シャーロットはもはや半泣きで。
「馬鹿な悪魔ね、喧嘩を売るなら安全なときにしてちょうだい!」
「間抜けなレディだな、安全なときには、僕を召喚する必要なんてないでしょ。
――それに、喧嘩を売るなんてとんでもない。褒めてるんだよ、レディ・ロッテ。
あんたの抱える二つの意地は矛盾すらしている。今のところ、あんたはその心根のままで生きてこられているけれど、これからの人生ではそうはいかないだろ。
それでもあんたがその心根のままでいてくれるなら、僕が見るあんたという要素はまさに硝子細工だ。
きわめて透明、脆くて割れそう、それでもあんたが割れず砕けずそのままでいるなら、――これほど面白い子はいない」
それに、とつぶやいて、マルコシアスは追い縋る光線を大空に向けて打ち返した。
太陽のそばで大輪の花火が咲く。
火花が雪のようにきらきらと舞い落ちてくる――
「――あんたに良心は欠けていても慈悲はある、さっきの魔術師はそう言った。
慈悲というのが何かは知らないが、あんたにいいものならば見てみたいね」
幾筋もの光線が、さながら花の雄蕊の形を真似るかのようにして、ぐんぐんと空を昇ってきた。
マルコシアスは呆れたように肩を竦めて羽をたたみ、まっすぐに下へ――
――自由落下のごとく、地面を頭上に見て落ちていくそのさなか、シャーロットはマルコシアスにしがみつき、気絶せんばかりに悲鳴を上げ――
頭上で、目標を見失ったいくつもの光線が互いにぶつかり合い、盛大な火花を噴き上げて消失していく。
その余波の熱波からコウモリの羽でシャーロットを庇ってから、マルコシアスはその羽をはばたかせ、自由落下に制動をかけ、ふたたび空中を舞い上がった。
シャーロットは、もういっそ失神した方が楽かもしれないと思いながらも意識にしがみついて、ぜぇぜぇと息をしながらマルコシアスにもたれかかっている。
「……今みたいなことをするときは、次から、スカートをちゃんと押さえるように言ってちょうだい、エム」
「承知しました、ロッテ」
おどけたように肩を竦め、舞い上がるマルコシアスが、旋回しながら面白くなさそうにこちらを見据えるコウノトリを見た。
そしてその向こうの一点、シャーロットの目には見えない何かを見た。
かれが、唇が裂けんばかりに微笑んだ。
「ちょうどいい、あっちの主人も見えている。
――準備はいいかい、相棒?」
シャーロットは息を吸い込んだ。
――ハルファスの主人、すなわち魔術師。
オーリンソンに手を貸しているであろう、魔術師。
「出来てるわ、エム」
やけっぱちになって応じたシャーロットに、マルコシアスは声を上げて笑った。
「ではご命令を、レディ・ロッテ」
シャーロットは口を開いた。
――頭の中に、どっと今までの出来事が甦ってきた――リクニスからの入学許可の手紙、そしてそれをなきものとした父の言葉、家出を決行した瞬間に幌馬車に押し込まれたこと、海辺の悪魔、襲い掛かってきたベン、スイセンの花、カラスの姿の魔精を尋問するマルコシアス、雪の中でうずくまっていたこと――
次から次へと!
シャーロットはただ、みずからの努力で勝ち取った、あの切符を取り戻したいだけなのに!
息を吸い込み、ほつれた金髪をかき上げて、シャーロットは怒鳴った。
「私の――栄光の入口を取り戻せ!」
マルコシアスは微笑んでいた。
かれの金の瞳がシャーロットを見た。
「仰せのとおりに、ご主人様」
かれが、すっと右手を前に伸ばした。
シャーロットの耳がかすかな音を捉えた。
それは無数の――たとえるならば、本当に小さな歌声のような――
マルコシアスの右手の先に、銀色の光の弾が凝った。
その強烈な光が、マルコシアスの顔貌から影を削り取って、かれの表情を妙につくりものめいて見せた。
シャーロットは息を呑んでいた。
ふ、と首を傾げて、マルコシアスが宣言した。
「さあ、攻守交替といこうじゃないか」




