25 神の実在
シャーロットは、自分の曾祖母の名前すら知らなかった。
だが首相が知っていた。
彼女の名前はスーザン・ベイリー、気高きスー、勇猛なるスーとして、当時の戦争省――つまるところが、軍省の前身――に務めた女魔術師だった。
「当時は、国境を争った大グルヴィアとの戦争の終結から十年ほどしか経っていなかったからね――軍省、あのときでいう戦争省は忙しかったことと思うよ」
そう言ってから、首相はまた少し考えた。
何をどこまで話すかを熟考しているようだった。
シャーロットはどんどん嫌な予感を覚え、胸のうちが曇っていくのを感じている最中だった。
(軍省勤め――それからもずっと監視が入るって……)
彼女の頭の中に、「戦犯」だの「懲戒」だのという不穏な文字が踊りはじめていた。
だが、首相がこれから話すことが曾祖母の単なる一身上の問題だとすれば、わざわざ〈ローディスバーグの死の風〉の話を出した意味などない。
(どういう……?)
首相はシャーロットの、そういう不安に駆られた表情を眺めながら、慎重に言葉を選んで先を続けた。
「きみが十八になったら、以前の首相がきみのお父さんにしたように、包み隠さず全て話す――今回は、きみが厄介事を抱え込み、ここへ逃げ込んでくることになった原因だけを話そう。
きみが賢明であれと祈るよ。もしも私が話すことを他言したなら、私としてもきみの安全は保障しかねる。むしろ積極的に、きみときみのご両親、そしてこの話を耳に入れたきみの友人の安全を侵害せざるをえなくなるからね、シャーロット。
――端的にいえば、」
首相は言葉を切り、軍人の一人を見上げた。
その軍人は目を瞑っていた。
まるで、この部屋の中では何も見聞きするまいと心に決めたようだった。
首相はそれを見て肩を竦め、それからシャーロットを見た。
口止めを彼女が呑み込んだかどうか、それを推し量るような目だった。
シャーロットは小さく頷いた。
首相は大きく息を吐いた。
「――御伽噺の神は実在する。
実在して、実際に、この丘の下に葬られている」
「――――」
シャーロットは目を見開いた。
「神って、あの神さま?」
窓の外で聞き耳を立てていたアーノルドが、この段になってぼろっと言葉をこぼした。
彼もまた大きく目を見開いていたが、これに応じたのは二人の悪魔の嗤笑だった。
「そんなわけあるかよ」
苦労してはばたきながらリンキーズが吐き捨て、空中にうずくまるマルコシアスもまた、心底馬鹿にした様子でせせら笑った。
「本物の神が、人間の手の届くところに下りてくるかよ。
僕らがあいつらを蹴散らせたのは単に、あいつらが目先のことに興味を持っていなかったからさ。なんでも知っててなんでも出来るくせに、なんにもしようとしない博愛主義者どもめ。
――魔神だよ、どうせ」
そこまで言って、しかし、マルコシアスとしてもその呼称に特別なものは感じたらしい、少しばかり神妙な口調でつけ加えた。
「――魔神にしては桁外れに力が強かったにせよ」
部屋の中でもまた、それが認められていた。
「実際には魔神だったと言われている――本当に力の強い魔神だったようだが」
「…………」
シャーロットは懐疑的に目を細めた。
(おかしい……エムの話と合わない。そんなに力が強いなら、そもそも私たちに悪夢を見せる必要がないもの。この交叉点から報酬を受け取る必要がない。
――だったら、人間と取引したはずはない――人間が二番目の名前を与えたはずがないわ)
首相はシャーロットの表情を見落とした。
「当時は――本当にいろいろあってね、詳しいことはきみが十八になれば話すが――きみ、そのわずかのあいだでも寮を抜け出すのは嫌だとは言うまい! きみが十八になった夏季休暇にでも話そう。
――そうだね、今は、議会の中で二つの派閥が激しく争っていたと思いなさい。
そして――ともかくも、その魔神が召喚された。
争っていた派閥のうち一つが、切り札として召喚したものだった」
首相は視線をランプにまで上げた。
「当時はまだ、魔術が人を害する手段として使われていた――想像もできないだろう、戦争にさえ悪魔を加担させたのだ!
さいわいにも、この地下に眠る神が召喚されたとき、私はまだ生まれていなかった――ゆえにその惨状は知らないが、まさに言語を絶するものだったという――」
そこまで話されれば、頭の中で推論が積み重なり、かちりと音を立てて噛み合うのに、特段の才覚は必要なかった。
シャーロットは息を吸い込んで、低く叫んだ――つもりで、声はあまり出なかった。
彼女はかすれ声でつぶやいた。
「まさか――まさかそれが、〈ローディスバーグの死の風〉ですか」
シャーロットは腰を浮かせた。最悪の考えが頭をよぎった。彼女の頬から血の気が失せた。
「まさか――違うとは思いますけれど、もしかして――」
「この魔神が、そうだ、この魔神の魔法こそが〈ローディスバーグの死の風〉の元凶だ」
首相がすばやく口を挟んで、シャーロットを黙らせた。
シャーロットは椅子の上に腰を落ち着けたものの、気が気ではない様子で目が泳いでいる。
「公にすることは出来ないが、記録はされている――くだんの魔神は日没に召喚された。そして毒の瘴気が撒かれ、それらは真夜中までのあいだにこの辺り一帯――当時はまだ、グレートヒルなどと呼ばれてはいなかったが――を覆い、明け方になるころには死者も相次いだ。
当時のローディスバーグの人口が一夜にしてどれほど削れたか。
魔神が封印されて瘴気こそ収まったものの、瘴気を吸った人間は重篤な症状に苦しんだ。
それが〈ローディスバーグの死の風〉だ」
シャーロットは息を止めていた。
首相の声と重なるようにして、忙しなく打つ自分自身の心臓の鼓動を聞いていた。
嫌な予感は足音を立てて彼女のすぐそばに佇んでいた。
その予感が外れていることを、シャーロットは縋るようにして祈った――
「魔神は封印された――私は魔術師ではないが、理由としてはこう聞いている。
つまり、魔神がこの地を去ろうとしなかったがために、かれをあるべき場所には送還できず、やむなく封印したのだと」
シャーロットは胸が苦しくなってきて、彼女の頬はもはや土気色に変じていた。
あまりに強く胸に押しつけた組んだ両手に、ありありと『神の瞳』を封じた首飾りの形が伝わっていた。
首席宰相であるところのチャールズ・グレースは、目の前で卒倒しそうになっている十四歳の少女を見た。
恐怖に目を見開く幼い顔貌を見た。
年長者としての慈愛が、チャールズ・グレースの目の中に浮かんだ。
口調を変えて、彼は唐突に尋ねた。
「――シャーロット、魔術は好きかな」
シャーロットは苦労して息を吸い込んだ。
声はくぐもった。
「……はい」
「では、今の話は怖かったかな」
チャールズはそう言って、シャーロットがふたたび息を吸い込むあいだに、言葉を滑りこませるようにして続けた。
「ウィリアムが言うには――きみは、出来れば悪魔と話して、キノープス暦以前の昔のことも知りたいと、そう志して魔術師を目指したということだったが」
「――怖いのは」
シャーロットがわななく声で囁いた。
彼女の動揺を映して、返答が遅れてしまっていた。
窓の向こうではアーノルドが、「助けに入らなくていいの?」とマルコシアスを促し、マルコシアスは本心から驚いて彼を見て、「どうして?」と尋ねているところだった。
「ロッテにはなんの危険もないじゃないか」
「怖いのは、」
窓の向こうのそのやりとりなど知る由もなく、シャーロットは囁いていた。
「私の曾祖母がその魔神を召喚したのだと、そう思えてならないことです」
「――――」
チャールズ・グレースは微笑んだ。
彼はすばやく右手を挙げて、二人の軍人を制していた。
そして、彼はおだやかに言った。
「――シャーロット、今、私が言えるのは、」
シャーロットの息は震えている。
「きみの曾祖母――気高きスーが、その魔神を封印したということだけだ」
「――――」
シャーロットは息を吸い込んだ。
彼女の橄欖石の瞳が大きく瞠られる。
チャールズ・グレースは微笑んだまま、しかし軽く挙げられた右手はそのまま二人の軍人の挙動を制し続けている。
「スーザン・ベイリーはその魔神を封印した。並大抵のことではなかっただろう――この封印の原理については、すまないが軍省の――もちろん限られた者だけだが――魔術師が詳しい。
ただ、きみに分かっていてほしいのは、シャーロット、」
グレース首相が軽く身を乗り出した。
まさに為政者の仕草であり、その身動きひとつに、有無を言わせず相手の意識を集中させる効果があった。
「その封印にはきみの曾祖母の血が使われている」
シャーロットはいっそう大きく目を見開いた。
ようやく事の真相が見えたとき特有の、愕然とした驚きをもって、彼女は首相の青い目を見ていた。
「きみを襲った連中が求めていたのは、まず間違いなく――文字どおり、きみの血液だ、シャーロット」
大きな怪我はなかったか、と、首相が最前自分に尋ねた意味を、ようやくシャーロットは理解した。
「魔神の封印を解くにあたって、必要なものはいくつかある――それらをきみが知る必要はない――だがそのうちの一つが、気高きスーの血を引く女性の血液だ。
これもすまないが、魔術の都合のようだね、男性と女性では血が違うらしい」
首相はシャーロットと目を合わせて、ゆっくりと言った。
「きみは勇猛なるスーの血を引くベイリー家に誕生した、初めての女の子だ。
ウィリアムと話はしていた。もし仮に、魔術師の倫理を破ってこの地下に眠る魔神を兵器として利用しようという輩が現れたときには、きみの身に危険が及ぶだろうと。
――それが今だったというわけだ」
首相はふたたび、背もたれに体重を預けた。
「きみを保護しておくことがどれだけ重要か、これで分かるだろう?」
数秒、あるいは数分のあいだ、シャーロットはその場に身じろぎもせずに座り込んでいた。
頭の中であらゆる音がとどろいていた――誰かの叫び声、ベイシャーで聞いた波濤の音、ここに至るまでに聞いたあらゆる足音、そして想像上の――想像することしか出来なかったからだが――〈ローディスバーグの死の風〉に晒された人の悲鳴。
シャーロットは今や震えていた。
全身を震わせ、彼女は唐突に椅子から滑り降りて、その場に膝をついた。
首相が眉を寄せた。
「どうしたね?」
「閣下、申し訳ありません」
シャーロットが吐露するようにそう言ったために、首相のおもてに緊張が走った。
「シャーロット?」
「最初に申し上げるべきでした、申し訳ありません――取り違えていなければいいのですが――、つまり、私をつかまえて、私の血を絞ろうとすることは重罪ですね?」
念を押すようなシャーロットの口調に、ますます首相は眉を寄せた。
そうすると眉頭が隆起してみえた。
「むろん、そうだ。きみへの犯罪というだけではなく、目的が目的ならば国家に対する犯罪だ。内乱罪に相当する」
シャーロットは頭のてっぺんから爪先まで震えていたが、怯えているわけではなかった。
彼女の瞳は熱を帯びていた。
「でしたら、閣下――さきほど閣下のおそばにいた、左手の甲に痣のある男性のかたの名前をおっしゃってください」
首相の顔色が明白に変わった。
「なに?」
「あのかたです――」
シャーロットは、話の筋から綺麗にグレイを抹消したことで、知らぬ間にアーノルドに大海のごとき深い安堵の溜息を吐かせることとなった。
「――私を誘拐したのはあのかたです!」
数秒の、完全なる沈黙が落ちた。
そして地面に落ちたその沈黙の弾薬が破裂するようにして、首相が立ち上がり、怒鳴った。
二人の軍人は既に出入口へ突進していた。
にわかに、その部屋の中の何もかもがひっくり返ったかのようだった。
「――ピーター・オーリンソンをひっとらえて来い!!」
▷○◁
自分の命運を、首席宰相が声高らかに宣告したことなどいざ知らず、スミスことピーター・オーリンソンは今まさに、自分の執務室を悠々と出たところだった。
そばには、目には留まらぬ影のように、気性の荒い魔精が控えて、暴れるときを今や遅しと待ち構えている。
ピーター・オーリンソンは鷹揚な足取りで、彼の認識によればウィリアム・グレイがいるはずの、クローブ社へ足を向けようとしていた。
直接グレイの顔を見ようとは思っていなかったが、それでも彼に貸し出された魔精に、あれこそ標的であると教えてやらねばならないのだ。
そして同時に彼は、アレス・メッセンがしくじることなく用命を果たすことを、珍しいほど真剣に祈っていた。
▷○◁
今や周囲は騒然としていた。
首相が怒鳴り声を上げ、「副大臣を私の執務室で待たせておけ!」と怒号を飛ばし、部屋を離れていく。
二人の軍人は扉に突進して一人がそのまま走り去っていき、もう一人がその場にいたネイヴィ氏(本名は分からない)に、何かを抑えた声で伝えている。
それらを総括して聞くに、どうやらスミス氏――もとい、オーリンソン氏は、軍省副大臣の補佐助官という立場にあたる人物らしい。
補佐助官とは、とシャーロットは考えこんだが、どうやら補佐官をさらに補佐する立場らしい。
補佐の補佐とはいえ、大臣と密接にかかわるのだからもちろんオーリンソン氏は魔術師ではない。
「――まあ、私の職場の同僚の先輩にあたる人だね」
と、ネイヴィ氏が言った。
彼は部屋の中にいて、しばらくシャーロットについておくようにと命令され、目を白黒させながらも従っており、周囲を奇妙な目で見渡していた。
「どうしたのかな、なんか、大捕り物みたいな雰囲気になってるけれど」
ネイヴィ氏は暢気にそう言った。
国家転覆の疑いさえある罪をオーリンソン氏が犯していたとは知らないのだから無理なからん。
彼はいわゆる「参考役」と呼ばれる魔術師であるようだった。
魔術には明るくない――そして、明るくなってはいけない――議員たちやその補佐官のため、魔術についての判断の補助をする役割だ。
そして彼は、軍省の人間に対してその補助を行う、軍省付参考役と呼ばれる地位にいる一人らしい。
シャーロットはその隣で、ともかくも座っておくようにと言われ、椅子に腰かけながらも吐きそうになっていた。
(まずい、まずい、まずい――)
脳裏に甦るのはベイシャーでの嵐の一幕である。
グレイは悪魔を召喚した――名前を知られるはずのない悪魔を。
グレイ本人ですら、あの悪魔の性質は知らなかった。
そしてスミスことオーリンソン氏は魔術師ではなく――つまり、悪魔の名前など、一般常識以上には知りようのない立場。
(他にもいるんだ――スミス……じゃない、オーリンソンって人に協力してる魔術師……)
そして、自分がオーリンソンであればどうするか、それを考えたシャーロットは蒼くなった。
――当然、白を切るだろう。
シャーロットのことなど見たことはないし聞いたこともない、シャーロットが自分を名指ししたらしいが、子供の言うことだ、きっと何かの勘違いだろう。神? 知らないな、ほう、本当にこの足許に神が眠っているんですか――というようなことは、きっと平気で言うだろう。
それに当たって弊害となるものは何か?
――ウィリアム・グレイその人だ。
オーリンソン氏にまともな頭脳があれば、グレイが彼の意に沿わないことをしたことは言わずと知れているはずだ。
シャーロットが一人でグレートヒルの心臓部にもぐりこめたはずがないと気づいてしまえば。
そしてグレイは、シャーロットとは違う――大人の男だ。
彼が明瞭に、オーリンソンについての罪状を告白してしまえば、オーリンソンの言い逃れは厳しくなる。
一方、仮に、オーリンソンが――ベイリー家の立場ゆえに――シャーロットが自力であの場に辿り着いていたのだと誤解していた場合、これもまた彼からみればグレイがしくじったように見えているはずだ。
目と鼻の先にいたシャーロットを見逃すとはなんということだ、と考えていたとして不思議はない。
――どちらであっても、グレイの立場は悪い。
オーリンソンに、魔術師の仲間がいると考えればなおいっそう。
彼は魔精リンキーズを召喚しており身を守れるが、マルコシアスと相対したリンキーズの態度をみるに、かれは役に立ちこそすれ、荒事に向いた悪魔ではなさそうだ。
(まずい、まずい、まずい――)
一度でも殺されかけた人間というのは、最悪の可能性がたやすく頭に浮かぶようになるものである。
(グレイさんが殺されちゃう!)
思い出したのは、昨夜の書斎で、困り切ったような顔をして葉巻をもてあそんでいた彼の姿だ。
妻と息子をしきりと気にかけていた。
彼が――彼がこんな騒動の中で落命するようなことになれば――
(それは絶対にだめ!)
いよいよ気分が悪くなってきた。
シャーロットはグレイを守らなければならない――それこそ何に代えても!
凍えていたところを拾ってくれ、自宅に連れ帰り温めてくれた、彼の善意にこんな形で報いることがあってはならない。
社会的地位ならまだしも生命は、何をどうしようと取り返せないものだ。
彼のあの仕草は、失われてしまえば戻らない。
あの家のあたたかな暖炉が、暖めるべきあるじを失うようなことがあってはならない。
彼には、彼を惜しむ人がいる――彼が愛する人がいて、彼を愛する人がいる。
人の生命に、それ以上に尊貴なことはない。
グレイはシャーロットに親切に接してくれた。
安全なところに逃がそうとまでしてくれた。
その彼から逃げてここまで転がり込んできて、それが契機となってグレイが危険に晒されるなど、そんなことはあってはならない。
グレイは善人だ。
シャーロットよりよほど善人だ。
「家を失うことになる」とうろたえた彼に、「存じません」と言い放ったシャーロットよりよほど、大切にされてしかるべき人だ。
――運命に彼を笑わせない。
愚かな善行だったとは言わせない。
誰が見えていなくとも神さまは見ている、そんなこと、現実にはありはしないと知っている。
(だったら私が、その空想の神さまを実現させてみせる)
シャーロットの心臓が、まるで二つに分裂して、それぞれが精いっぱいに脈打っているかのようだった。
衣服の上から心臓が見えないのが不思議に思えるほどだった。
頭の中は沸騰したかのようで、しかし同時に煮沸されたかのように明瞭だった。
(私が切れるカードはひとつ――)
魔神マルコシアス。
――シャーロットは息を吸い込み、出来るだけ自然に――そして切迫して見えるように、手を口許に当てた。
それに気づいて、ネイヴィ・ブルーの背広のネイヴィ氏が、ぎょっとした様子でシャーロットを覗き込んだ。
「ちょっときみ? 大丈夫? ここで吐かないでくれよ」
「すみません……」
シャーロットはくぐもった、か弱い声を出した。
――見たところ、この場にいるのは男性ばかりだ。
「……気分が悪くて……お手水は……」
「ええっ」
ネイヴィ氏は本気でうろたえた声を出した。
シャーロットの腕をとって立ち上がらせながら、いつの間にか押し掛けてきていた、数人の衛兵たちに声をかける。
――窓の外からそれを見て、マルコシアスは伸びをした。
アーノルドとリンキーズが、不安いっぱいの目でかれを見たが、かれは頓着しなかった。
かれはいかにも悪魔らしく微笑んでいた。
「――さて、そろそろ出番かな」
部屋の中ではネイヴィ氏が、雪の夜に道で倒れ伏している酔っ払いを見つけたかのごとき困りようで、衛兵たちに訴えていた。
「ちょっと、きみたち、この子がお手水に行きたいと言ってるんだけど」
衛兵たちもたじろいだ。
「しかし、閣下は、その子をここから出さないようにと――」
「だからってここで吐いてもいいって?」
ネイヴィ氏は嫌そうな声を出した。
さもありなん、議事堂で嘔吐する十四歳など、前代未聞にもほどがある。
「きみたち、手水の前まで連れていってやれ――それで、入口で見張っていろよ。
事情は、私もきみたちと同じくあまり分かっていないんだけど、少なくともこの子が危険な目に遭わなけりゃいいんだろ?」
シャーロットが本気で気分が悪そうにその場でうっと呻いてみせたがために、早急に議論はその方向でまとまった。
ネイヴィ氏は本気で安堵した様子で、シャーロットの肩をこわごわと、励ますようにさすった。
「悪いね、悪いね、私にもまだこの部屋を自由にどうこうする権利はなくてね」
シャーロットはこくこくと頷き、とにかく一刻も早く手水場に行きたいのだ、という表情で彼を見上げた。
蒼褪めた頬は本物だった。
ネイヴィ氏は不穏な気配を察してくれたらしく、早く彼女を連れていきなさい、と衛兵たちに命じた。
シャーロットは衛兵に前後左右を挟まれて、広い廊下と狭い廊下を足早に歩かされ、階段を降りて、石のアーチが特徴的な、古い手水場に案内された。
「早く戻るように」と手厳しく言い渡され、よろよろと手水場の中に入った彼女はすぐに扉を閉め、おあつらえ向きに逃亡しやすそうな窓が、それでもやや高い位置に開いていることに目をつけた。
駆け寄って確認――大きさに問題なし、きっちり彼女が通り抜けられる大きさだ。
高さはこの際問題ない、なぜならば――
「――エム!」
小声で、しかしはっきりと叫んだ彼女の前に、ひょい、と、灰色の髪の少年の姿をしたマルコシアスが顔を見せた。
「はい、お呼びでしょうか、ご主人様」




