23 弾丸と見物人
「落ち着いたかね」
尋ねられて、シャーロットはそれはもう深々と頭を下げた。
彼女は咄嗟に立ち上がろうとしたのだが、それは相手にてのひらで制された。
相手としても、もう一度シャーロットがぶっ倒れるのを見る気はなかったのだろう。
「はい、あの……申し訳ありませんでした」
絞り出すようにそう言って、シャーロットは緊張のあまり汗の浮かぶてのひらで髪を撫でつける。
処は議事堂の一室、どちらかといえばプライベートな目的で使われることが多いのだろう小部屋。
プライベートな、とはいっても、ここで私生活のあれこれが起こるはずもない。
気を取り直したシャーロットが、こんな場合ではあっても不謹慎なことに思い描いたのは、役人どうしの密会の光景だった。
そんな小部屋には、シャーロットと相対する椅子に悠然と腰かける、この国の最高権力者であるところの首席宰相。
そしてそのそばに、軍服を着た二人がいた。
――芝生の上で卒倒したシャーロットは、ふらふらしながら議事堂に通され、まずは議事堂のホールの隅の長椅子で休むよう言いつけられた。
ホールを行き交う人の仰々しさたるや!
磨き上げられた床で反響する靴音の忙しなさたるや!
休めと言われたその間も周囲を固める衛兵たちに、彼女はいっそう憔悴した。
首相(首相!)は衛兵に何ごとかを言いつけるとさっさと去ってしまい、ついでにスミス氏もいつの間にか姿を消してしまったので、シャーロットは茫然としてしまったのだが、どこからか調達されてきたコップ一杯の水を手渡され、まずはこれを飲んで落ち着けと言われてしまうと、場所が場所である、彼女も大人しくそれに従った。
そして落ち着いてから連れられてきたのがこの小部屋であり、彼女を先導したのは衛兵と、落ち着いたネイヴィ・ブルーの背広を着こなす三十半ばと見える若者だった。
若者は白く見えるほどに色合いの淡い金髪で、首相と同様、その髪はきっちりと後ろに撫でつけられて、秀でた額があらわになっていた。
若者は灰色の目でじろじろとシャーロットを眺めていたが、そこに感じられたのは純粋な好奇心であって、シャーロットも嫌な印象は持たなかった。
壮年以上の年齢の男性が多い中で、彼の若さは輝くように際立っていた。
名前が分からなかったので、シャーロットは内心で彼のことを「ミスター・ネイヴィ」と呼んだ。
なにしろその色合いの背広が似合っていたのである。
ミスター・ネイヴィは、この小部屋の入口まで彼女を案内したが、中に入ることはしなかった。
扉を開けて中へ促すネイヴィ氏に、シャーロットは戸惑った顔をしてしまったが、ネイヴィ氏は軽く肩を竦めて、どことなく投げ遣りな口調で言った――「私は魔術師でね。大事な話には参加できないんだよ」。
なるほど、魔術師は政治家にはなれない。
ネイヴィ氏の役職をなんとなく不思議に思いつつ、シャーロットはばつの悪さも感じていた――まだ卵だが、彼女も魔術師である。
ついでに、自分と首相(首相!)の話が、どうやら「大事な話」に分類されるらしいと分かって、彼女は吐き気すら覚えていた。
頭の中は過去の悪事の総浚いである。
記憶に新しいところによれば、彼女は免許を得ずに悪魔を召喚したが、これは別に犯罪ではない。
もしやベン――ではなく、ボリス――は、首相の縁故だったか。
いやしかし、最近の悪事をあげつらわれるのであれば、首相が彼女の父の名前を知っていたことに説明がつかない――
そんなわけで、彼女は頭のてっぺんから爪先まで震えながら、その小部屋に入り、促されるままに立派な椅子に腰掛けた。
内装は立派なものだったが、七十年の古さはごまかされようがなかった。
部屋の隅の壁は黒ずんでいる。
ただ、窓硝子はぴかぴかに磨き上げられていた。
天井のランプは花の形を模しており、色つき硝子で飾られたその意匠は、やや前時代的ではあった。
シャーロットがかたかたと震えること数十分で、ものものしく首相が登場したというわけである。
彼は多忙の合間を縫っていることが分かるあわただしさでやって来たのだが、シャーロットの目から見れば、まさに地獄の窯の蓋が開くような音とともにやって来たように見えていた。
お付きは二人の軍人のみ。
首相が入ってきたときに開いた扉からちらりと見えた廊下の光景の中に、まだネイヴィ氏は佇んでおり、軽く頭を下げていた。
――そして今に至る。
立憲王国の最高権力者を前にして、シャーロットとしては冷や汗が止まらない。
勝手に目が泳ぎ、彼女の視線は青空を映す窓に吸い寄せられがちだった。
そもそも、スミス氏はどこへ行ったのだ!
――逃げられた!
▷○◁
さて、主人がそんな思いをしているあいだに、忠実なしもべであるはずのマルコシアスがのんびりしていたなどと、根拠なき謗りを受けるようではいけない。
かれに話を戻そう。
議事堂そばの芝生の上で、無様に卒倒した主人から礼儀正しく目を逸らし、マルコシアスは溜息を吐いた。
彼女の向こう見ずさは気に入っているが、それにしてもこれは。
召喚陣から得た知識によれば、ここは騒ぎを起こしてはいけない場所の中でも首位を争う場所である。
「間抜けが過ぎる……」
つぶやいたネズミの姿のマルコシアスに、カラスの姿のリンキーズが思わずといった様子で言った。
「あんたも苦労するね」
「――あんたよりはマシだ」
つぶやいて、マルコシアスは嫌々ながらも姿を変えた。
ネズミの姿が浮き上がり、ねじれて、一瞬後には首にストールを巻いた灰色の髪の少年がそこにうずくまっている。
アーノルドは絶句したが、マルコシアスはそれには気づかず額を押さえてから、恨みがましげに指を折った。
「カササギ、ネズミ、人――これで三度目だ。ロッテめ、覚えてろ」
小声でそう言ってから、マルコシアスは迷いなく立ち上がった。
それに泡を喰ったのはアーノルド、初対面の悪魔に対する遠慮も吹き飛び、「ちょっとぉぉぉ!」とかれに縋りつく。
それを見てリンキーズがぼそりと「勇気あるな」とつぶやいたが、それはアーノルドの耳に入らず。
「待って待って、見つかるとやばいから!」
「やばいのはあんたたちであって、僕じゃない」
マルコシアスは清々しいまでの口調で言い放ち、アーノルドの肩を押して彼を遠ざけた。
「僕のレディの言いつけは、あの子を守ることだからね。どうせ見つかったところで、僕に害はない」
「いやいやいやいや」
リンキーズがマルコシアスの爪先をつつこうとして、すげなく蹴り飛ばされて地面を転がった。
とはいえ加減はされていたとみえ、かれはぴょこんと立ち上がって、羽に不具合がないかを確かめるように軽く広げながら、とうとうと言い聞かせるように言った。
頭のてっぺんで、抜けかけた黒い羽根が一枚、不格好に立ち上がってしまっている。
「あんたが見つかってみなよ、ご主人のあの子が罪に問われて捕まるよ。
荒事以外では馬鹿って本当なんだな、あんた」
「あ?」
マルコシアスの一睨みで、リンキーズはすばやく従順に目を伏せた。
「なんでもありません」
「そう」
何事もなかったかのように腕を組んだマルコシアスが、うんざりした様子で溜息を吐いた。
「――とにかく、僕が見つかるとロッテがまずい立場になるなら、隠れてやるより仕方ないね」
つぶやいて、マルコシアスが淡い金色の瞳で、一羽のカラスと一人の少年を眺める。
徹底的に無関心な眼差しだった。
「僕は勝手にやるから、そっちも勝手にやりな」
そして実際に、かれはくるりと背中を向けて、静かな足取りで立ち去ろうとした。
芝生の上に堂々と足を踏み出しているのだが、これが悪魔の歩き方である、まるで雲の影が山稜にかかるかのような自然さであって、かれの動きを目に留める人間はいなかった。
ここにきちんと悪魔について学んだ魔術師がいれば話は変わっただろうが、先だってから繰り返し申し述べているように、魔術師は政治の道に進むことは出来ず、延いてはこの場にいる魔術師の数も、非常に限られたものとなっているのである。
議事堂勤めの魔術師は、大抵が議事堂の中で仕事をこなす。
わざわざその外を監視している物好きはなかなかいない。
アーノルドとリンキーズは顔を見合わせた。
真面目にカラスと見合っている現状について、アーノルドはどこか心の奥の方でおかしみを感じたものの、それが表面化するほどに状況は悠長なものではなかった。
「どう……しようか?」
「どうするもなにも、その前に、状況を教えてくれよ、なんであの子と一緒にいるのさ。
ってか、いつあの部屋を抜け出したんだ?」
「いや、それを言うならこっちもだよ。
あんた、いつシャーロットに名前を知られたの」
問い詰めてみたところ、リンキーズは熟考の顔をして、それから悪びれなく言った。
「よろしい、お互い、これは墓場まで持って行こうじゃないか」
「おい」
思わずアーノルドは真顔でつぶやいたが、リンキーズはそわそわと羽を揺すっている。
「それより、どうすんの、僕はあの子――シャーロットを安全な場所に逃がしてやれって命令されてるんだけど」
アーノルドはその場に崩れ落ちそうになった。
「グレイさん、なに考えてんだ。ってかそれ、もうほとんど失敗だろ!」
「でもあの子を見失うわけにはいかないし――」
「ああ、もうっ」
金茶色の髪をかきむしって、アーノルドは呻いた。
そして、指を一本立てた。
「あの悪魔にくっついて行くぞ。おれたちが見つかれば、連座で自分も見つかりかねないとなれば、あの悪魔だっておれたちのことも何とかしてくれるさ」
カラスは悲壮な顔をしていた。
「じゃあ僕は、自分が帽子の羽飾りにされないことを祈っておくよ」
くっついてきた魔精と人間を、マルコシアスが心底邪魔に思ったにせよ、リンキーズは羽飾りにはされなかった。
というのも、かれが若干ではあれ議事堂の内部構造に明るかったからである。
アーノルドの尊敬の眼差しに対してリンキーズはカラスの胸を張り、「三回くらい前にも、議事堂勤めの魔術師に召喚されたからね」と。
堂々と芝生の上を歩いたマルコシアスではあっても、さすがに議事堂に入ることは躊躇した。
というのも、先ほどのリンキーズの言葉からも分かるように、議事堂にいるのは政治家ばかりではない――下官の中には魔術師がいることもあり、また、魔術に明るくない政治家たちのための参考役として、魔術師が入っていることもあるのだ。
悪魔に詳しい魔術師ならば、そう簡単に誤魔化されたりはしない。
かれはそれに思い至ったらしく、柱が林立する議事堂の正面玄関、そこへ通ずる幅広の階段の影で、ふむと腕を組んで考え込む様子をみせた。
なお、ここに至るまでにかれらは衛兵の壁を突破しているのだが、さいわいなるかな、衛兵の中に魔術師はいなかったものと思われる。
マルコシアス本人と、面倒そうにかれが庇ったリンキーズとアーノルドは、無事に衛兵の壁の内側へ到達している。
アーノルドとしては、自分がどこにいるものかの実感すらもはや乏しく、地面を踏む足の裏まで恐縮と遠慮のかたまりと化していた。
リンキーズは、マルコシアスが考えなしに邁進していかなかったことについて、本気で胸を撫で下ろしたようだったが、その安堵もそう長くは続かなかった。
マルコシアスは、もうこれ以上は連続して生きものの形で姿を変える気はない。
そして、外から議事堂の中を偵察するに当たって、鳥の姿ほど都合のいいものはない。
それに気づいたマルコシアスが、あっさりとリンキーズを蹴り出したのである。
「僕のレディが窓のある部屋にいるとも限らないけど、行って見てきて、僕のレディを見つけておいで」
語調は優しくとも完全に脅しである。
リンキーズとしては、「僕の主人はあんたじゃないぞ」と言いたい気持ちを顔に出しはしたものの、それ以上の勇気はなかった。
かれはしおしおとうなだれて、巨大な馬蹄形を成す議事堂の、おびただしい数の硝子窓を覗き込む任務に飛び立った。
とはいえ、さいわいにも、リンキーズはそう時間を要さずシャーロットの姿を見つけてきた。
アーノルドが、見知らぬ悪魔と二人になってしまい、気が気でない不安にそわそわすること数分で、カラスの姿をした悪魔はばたばたと慌ただしく戻ってきて、「いました、いました」と。
「あっちの部屋にいました」
「で?」
マルコシアスは悪魔らしく微笑んで、首を傾げた。
リンキーズはがっくりと翼を落としつつ、言葉を続ける。
「……ご案内しますよ」
「けっこう」
アーノルドが、はっしとリンキーズの尾羽を掴んだ。「自分も連れていけ」の意である。
リンキーズはうんざりした顔をした。
議事堂は巨大な馬蹄形を成し、正面玄関はその馬蹄形の、いわば凹部に位置する。
正面玄関に臨んで立てば、議事堂は両側に翼のように拡がって見えるわけである。
そして言わずもがな、マルコシアスを筆頭として、三人は今、正面玄関付近に身をひそめている。
リンキーズが、「あっちの部屋」と示したのは、馬蹄形の外側に当たる場所であり、つまりここからその部屋に向かおうとすれば、巨大な議事堂を回り込んでいくか、あるいは議事堂の中を突っ切るか、はたまた議事堂を乗り越えるか、いずれかの手段によることになるわけだ。
リンキーズはむろん、最短経路をとって議事堂の上を飛ぶつもりでいた。
マルコシアスは、と見やれば、さすがは魔神。
かれは人の姿のままで、背中に巨大なコウモリの翼を広げていた。
アーノルドはそれを見て唖然としている。
リンキーズも少しばかり悲しくなった。
魔精の身では、この芸当はできない。
アーノルドとリンキーズが、片や頼み込むように、片や面倒そうに見つめ合っている数秒のあいだに、マルコシアスはさっさと飛び立ってしまった。
ばさ、とはばたいた巨大な翼が、しかし全く音を立てない。
あっと言う間に、翼を除けば少年そっくりの姿をした悪魔は、議事堂の壁面に沿うようにして大空に舞い上がってしまった。
リンキーズは溜息を吐いた。
慌てて追いつかねば、「案内するって言ったのに、何してんの」とばかりに、ふたたびマルコシアスから虐待を喰らう憂き目を見ることになってしまう。
「ああもう、面倒だな」
言いながら、リンキーズはよいしょとばかりにアーノルドの襟首をカラスの貧弱な鉤爪で掴んだ。
「なんできみたちが、わざわざそんな不便な格好を選んでるのか、僕にはさっぱり分からないね」
本物のカラスには有り得ないことに、小さなカラスが十四歳の少年一人を持ち上げた。
足が地面から離れ、危うく襟首で頸が絞まりそうになりながらも、アーノルドは歓声を堪えなければならなかった。
頭の片隅で、「これ、さすがに見つかるんじゃないか?」と思いはしたものの、十四歳の少年にとっては、初めての「空を飛ぶ」という体験に勝るものはない。
「動くと落っことすよ」
そう警告して、カラスは魔神を追いかけて、ばたばたと懸命にはばたき始めた。
かくして、二人の悪魔と一人の少年は、窓の外からその部屋の中を覗き込むこととなった。
マルコシアスは、あたかも足許に床があるかの如くに窓のすぐそばにうずくまり、翼をしまって中を覗き込んでいるが、リンキーズはアーノルドをぶら下げたまま、ばたばたと不格好に中を覗き込むこととなった。
アーノルドは窓のそばの壁に手を突いて(てのひらにすり傷を作りつつ)自分でも身体を支え、おぉシャーロットよ下手を打ってくれるなよ、と、もはや祈る心地である。
分厚い硝子の向こうにいるシャーロットは、珍しいほどに周章狼狽している。
シャーロットはこちらを向いた椅子に腰かけているが、窓の外の見物人に気づいた様子はない(おそらく気づける精神状態ではない)。
そしてこちらに背を向けて、誰であろうこの国の首席宰相その人が、二人の軍人を従えて、シャーロットに面と向かっていた。
マルコシアスからすれば、名無しの強大な魔神と面と向かってさえわれを失わず、殺されそうになろうが相手の命を重く見た、気の強い主人の貴重なびびり上がった顔である。
かれは思わずいい笑顔になって、ぴかぴかに磨き上げられた硝子を通して、シャーロットの過去の悪事を総浚いしている顔を眺めた。
「――シャーロット……だったね。
ウィリアムはどうした? ウィリアムに言われて来たのかね」
と、首相がシャーロットに尋ねている。
シャーロットは早くもふたたび目を回し始めており、マルコシアスは腹を抱えて笑いそうになったが、アーノルドははらはらしていた。
(う――上手く切り抜けてくれ……出来ればおれのこともグレイさんのことも喋らないでくれ……)
リンキーズは持ち上げているアーノルドの重さに苛立っていた。
なお、ここは三階であり、落ちればアーノルドはただではすまない。
カラスにぶら下げられている少年の姿は、時と場合が違えば笑いを誘ったかも知れない。
シャーロットが酸欠の魚のように口をぱくぱくさせているあいだに、多忙であろう首相は時間を無駄にせず、次の質問も繰り出していた。
「どうして正規の手続きを踏まなかった?」
(正規の手続きってなんでしょうね!?)
というのが、シャーロットの本音であった。
「ええっと……」
言い淀むシャーロットに、首相は眉を寄せた。
窓の外の見物人にその表情は見えていなかったが、ばっちり見えたシャーロットは、胃袋の中身がまるごと氷にすげ替わったかのような心地を覚えた。
「シャーロット?」
低い声で呼ばれ、まさか首相に七フィートの距離から名前を呼ばれることになるとは思っていなかったシャーロットは、完全に冷静さを頭の外に放り出した。
マルコシアスからは首相の表情は見えていなかったが、シャーロットが頭の中から放り出した冷静さについては、なんとなく目で追える気がした。
(なんてお馬鹿さんなんだろう)
愉快きわまりない気持ちで見守ること数秒。
冷静さを放り出したシャーロットは、持ち前の頑固さと気の強さでのみ、この局面を乗り切る方向へと盛大に舵を切った模様で、ようやくまともに口を開いた。
「――突然押し掛けてきてしまって申し訳ございません。
お父さまに言われて参りましたが、実を言いますとあんまり詳しいお話はされていないんです」
彼女があまりにも滑らかにそう言い切ったので、「そうなの?」と言わんばかりに目を見開いて、アーノルドがマルコシアスを見た。
マルコシアスは、「僕が知るかよ」という気持ちを籠めて顔を顰めたが、数秒後、「そういえば僕が召喚されてからこちら、ロッテは父親とは話していないな」ということに気づいた。
(さすが……)
――さすがはシャーロット。
目的のためならば手段を選ばず、自分の敷いた道から逸れた人生ならば要らないと決め切るほどの、激烈な自我の持ち主。
自国の最高権力者に対して嘘を並べることよりも、自分の目的の重きを取るとは。
マルコシアスは無意識のうちに目を細めていた。
その視線の先にいるかれの主人は、蒼褪めてこそいたものの、もう混乱している様子はない。
冷静さは欠いているものの、照準を合わせて発射された弾丸のごとく、自分の目的をはっしと見据えた顔をしている。
見据えている――見据えてはいるが――
(おぉ――っと、これは……)
マルコシアスは、思わず顎を撫でる。
「詳しいことは……聞いていない?」
首相が訝しげに繰り返し、シャーロットはきっぱりと頷いた。
その所作を見て、マルコシアスは確信した。
――もうずいぶん、シャーロットはやけになってしまっているようだ。
やけっぱちで定めた目的に向かって飛んでいく、弾丸のごとき主人。
もはやシャーロットがこの綱渡りをどう乗り切るか、ひとまずはそれを見守るより他はないらしい。
仮にシャーロットがしくじったとして、そのときに窓を破って助けに入るのは、はたしてシャーロットと交わした彼女の倫理に従うという契約に違反するものかどうか、その点だけがマルコシアスとしては気懸かりだった。
▷○◁
シャーロットは大急ぎで頭の中を整理していた。
冷静さはかなぐり捨て、頭の中はさながら壊れた蒸気機関である。
暴走列車の車窓から周囲の景色を把握するかのごとき忙しなさで、シャーロットは状況を整理する。
(首相はお父さまのことをご存じ――スミスって人は首相のそばにいたわ――だったら私が誘拐された理由は、首相がお父さまのことを知ってらっしゃる理由と同じ可能性が高い。私を誘拐してお父さまを脅そうとしたとか何とかでしょう。
でも詳しくは分からないし、下手なことを言って私が何も知らないことを首相に知られてしまうのはまずいわ。私がここに来た経緯を詳しく知られてしまったら、私がこっそりエムを召喚していることもばれてしまう)
瞬きが増えたが致し方なし。
(この揉め事を解決して、リクニスに入学できるならなんだっていいわ――この様子だと、首相はお父さまに悪感情は持ってらっしゃらないみたいだもの、上手くすれば守っていただけて、首相がスミスって人を捕まえてくださるわ)
ぎゅっと膝の上で手を握る。息を吸い込む。
(……たぶん。
あの人が、首相の側近でなければ)
「実を言いますと、」
声が震えたがこれも仕方なかろう。
首相は太い眉を顰め、その眉の下で鮮やかな青い目が懐疑的にシャーロットを映している。
小娘の嘘などたちどころに見破る為政者の目かもしれないが、同時にその目に映るのは、緊張を多分に含んだ十四歳の子供でしかない。
多少の挙動不審はあって当然、怯むことはない。
「つい先日のことですが――私、その、危うく誘拐されるところでした、それでお父さまが――」
「誘拐?」
首相が繰り返した。
大きく目を見開いている。
その目尻のしわを、なんとなくシャーロットは目に留めた。
首相の両脇の軍人も、思わずといった様子で短く声を上げた。
シャーロットはびくっと椅子の上で身を引いてしまった。
たかが――といっては語弊もあるが――誘拐一つで、首席宰相ともあろう人がこうも動揺する理由が分からなかった。
何しろ誘拐など、国中で毎日のように起きているはずなのだ。
「いつだ、誰に――待て、聞いていないぞ」
首相が慌ただしくそう言って、右側の軍人を見上げた。
彼は背筋をぴんと伸ばして、折り目正しく――ただしやや早口に、答えた。
「報告は受けてございません、閣下」
首相がシャーロットを振り返った。
その視線を受けて、シャーロットは生まれて初めて、人の目に刃物に近いきらめきを見た。
息を吸い込んだまま凍りついた彼女に、はっとわれに返ったらしい、首相が慌てた様子で口許だけで笑みを作る。
「――すまない、驚かせたかな。いいから、続きを話してくれ。
ウィリアム――きみのお父さんが、何と?」
「あの」
意味もなくそう口走って、シャーロットは膝の上でぎゅっと手を握り合わせた。
指が震えていることを自覚した。
頭の中が沸騰しているかのように熱い。
「私――私、そもそもお父さまの近くにいたわけではなくて……スプルーストンの大叔父さまの屋敷におりました、あの、本当の家はケルウィックなのですが」
「知っているよ。続けて」
首相がわが家の住所を知っていた!
その驚きにシャーロットはいっそ頭痛すら覚えつつ、必死になって言葉を作った。
「そこで――攫われそうになって、いえ、大丈夫だったのですけれど、」
なぜ大丈夫だったのかは言わない。
「お父さまにそれを伝えたんです――電話で。
お父さまは、」
シャーロットの推測としては、彼女の母はシャーロットが誘拐されるなどということは、夢にも思っていないはずだ。
つまり、父ウィリアムは妻に、娘の誘拐の可能性うんぬんを伝えていない――秘密にしている可能性が高い。
(それはそうよね、実は首相の知り合いで、娘は誘拐されるかもしれないんだ、なんて言ったら離婚されちゃう)
「――お母さまのことを気になさっていて、あまり詳しくはお話してくださらなかったのですが……」
シャーロットは息を止めて、首相の表情を探った。
首相は無表情だったが、ウィリアムがその妻に対して、シャーロットの誘拐の事実や――そこに付随する事情を隠している様子だということに、特段の不審を感じた様子はなかった。
――シャーロット自身が事情を知らない言い訳が通った。
よし、とこぶしを握りたい気持ちを堪え、シャーロットは早口になりつつ。
「ともかくもグレートヒルに向かうよう言いつかったのですが、具体的なことは分からなくて……」
言葉は尻切れとんぼに終わった。
シャーロットは息を詰めた。
首相はしばらく、何も言わずにシャーロットを見つめていた。
その視線の重圧に、そろそろシャーロットの首が折れようかという頃になって、首相は深々と息を吐き出した。
彼が立ち上がり、椅子が軋む。
そのまま首相はシャーロットに背を向け、くるりと振り返って窓の方を向き、両手を後ろに組んだ。
そのため、窓の外で二人の悪魔と少年が一人、大慌てで頭を引っ込めていたのだが、さいわいにも首相がそれに気づいた様子はなかった。
首相はしばらく窓の外を眺めやっており、シャーロットとしては、「つきましては犯人の可能性が高い、さっきおそばにいた左の手の甲に痣のある男性は……」と言い出すタイミングを失した形になり、黙り込んだ。
二人の軍人は、互いに小声で何かを話し合っている。
シャーロットの耳には、「軍省に」「この子の保護を」という言葉が届いた。
シャーロットはじゃっかん蒼くなった。
保護は望むところだが、それ以前に抜本的な解決が望ましい。
保護が何年にも及ぶようであれば困る。
具体的にいうなら、九月には自由の身になっていることが必要なのだ。
「あの……」
とうとうシャーロットが小さな声を出し、首相はそれを受けて、半身で彼女を振り返った。
窓から差し込む明かりを受けて、彼の姿が逆光になっている。
彼の面差しには緊張があったが、シャーロットを気遣うような色もまた、あった。
「――シャーロット。確か十四だったね。この春で十五になる……」
年齢まで知られていた。
シャーロットは少なからずおののいた。
「はあ……いえ、あの、はい」
「まだ十八ではないからね、知らないのも当然だったか……」
首相が目を伏せてそんなことを言うので、シャーロットはきょとんとしてしまった。
「――あの、しゅ……首相?」
「ウィリアムからの手紙では、」
首相がそう言ったので、シャーロットは危うく目玉をその場に落っことしそうになった。
(お父さま、首相と文通なさっていたの?)
「秋からリクニス専門学院に通うことが決まったそうだね」
首相がそう続けたために、シャーロットは誇らしそうに見えないよう、挙動に気をつけねばならなくなった。
「はい――ええ、そうです」
ところが、首相の眼差しに褒めるような色は全くなかった。
彼は複雑な――もはや諦観にも近いような色の眼差しでシャーロットを見て、息を吐いた。
そして片手で顔をぬぐうと、つぶやいた。
「……リクニスか。魔術師か。
きみがその道を選ぶとはね――はなはだ皮肉なものだよ」




