22 急転直下
向こう見ずで無鉄砲、およそ思慮に欠けたところがあると言わざるをえないシャーロット・ベイリーではあったが、そんな彼女であっても当然に、この場でお縄につけばただではすまないことは重々承知していた。
おもに、今の彼女の一連の行動の目的であるところの、リクニス専門学院への入学が危うくなるという一点および、彼女の父母にも多大な迷惑がかかるという点において。
リクニスに入学しそこねた場合の、自分の将来への影響は、彼女の意識には昇っていなかった――なにせ、マルコシアス曰くの、「理想の人生以外は願い下げ」という彼女の性質がある。
リクニス学院へ入学し、望む人生への切符を手に入れるか否か。
おもに、今の彼女の若い人生観は、現在のところそこに集約されていた。
つまるところが、彼女にも冷静さが残っていれば、ここはいったん深呼吸でもして落ち着いて、スミスなる人物の後ろ姿を観察し、彼がまた外に出て来たときに後をつけよう――といった、おだやかな作戦を考えついたはずなのだった。
ところが、彼女のあぶなっかしい冷静さはあえなく吹き飛んだ。
吹き飛ばしたのは一羽のカラスだった。
一羽のカラスが、降って湧いたように墜落じみた勢いでその場に着地したのである。
そしてかれは、いかにもカラスらしくなく、人の言葉でまくし立てた。
「――やっと見つけた! あんた、なにをちょろちょろしてんのさ! ここから出るよ!!」
シャーロットはまじまじとカラスを眺めた。
カラスはカラスで、アーノルドに気づいてぱかっとくちばしを開けていた。
「え?」
アーノルドは渾身の力を目に籠めて、「何も言うな!」と合図した。
カラスは、事情は分からないながらも、ここはすばやく目を逸らすことにしたらしい。
すぐにシャーロットを見上げて、鳥らしい仕草で首を傾げている。
「ねえ、ここから戻ろうよ。見つかったらただじゃすまないよ。ねえ――」
「……リンキーズ」
シャーロットは小声でつぶやいた。
アーノルドはその瞬間、「やっぱりこいつ、どこかでシャーロットに顔と名前を知られるヘマをしたのか」と納得したが、リンキーズは気まずそうな顔をした。
シャーロットはそういう、この場の人間と悪魔の表情の機微には気づかなかった。
彼女が考えたのはただ一点、ここでリンキーズに引き戻されてしまえば、この絶好の機会を――万に一つあるかないかという機会を――失うということだった。
マルコシアスに命令すれば、リンキーズをすばやく無力化することは出来よう――だがそれが、恐らくそぞろ歩くあの一団に気づかれてしまう。
「グレイさんは、それじゃ、私に帰れと言ったのは本気だったのね」
「そうだよ!」
ひそひそと叫ぶようにして、リンキーズは肯定した。
状況が分からないアーノルドは訝しげに眉を寄せる。
リンキーズは、きょろきょろと周囲を見渡した――マルコシアスを警戒しているのだ。
じつをいえば、ネズミはそばで足を止めて、ネズミの姿であって淡い金色を呈する眼差しでリンキーズを観察していたのだが、格下の悪魔が格上の悪魔の擬態を見破ることは難しい。
リンキーズはマルコシアス捜索をあきらめて、すぐに小声でまくし立てた。
「あんたに帰ってもらえれば、僕はお役目終了! 万歳!
さあ、早く僕に、この呪われた仕事から手を引かせてくれよ」
シャーロットはぎゅっと両手を握り合わせた。
彼女の橄欖石の瞳が、熱をもって輝き始めた。
(仮にここで――ここで、あの人が悪だくみをしていると叫んだらどうなるかしら)
マルコシアスに、「ためらいなく自分を賭け事のチップにする」と言わしめた彼女の無鉄砲さ、無謀さが、ここへきて顕著にあらわれようとしていた。
(もちろん、あの人は否定するでしょう――私は捕まるでしょう――普通なら)
大きく呼吸する。
(でも、あの人が、何がなんでも私の身柄が必要だというなら、私が普通に捕まって、牢屋に入れられてしまったら困るはずだわ。
その辺をふらふらしている私を誘拐するのと、牢屋の中の私を誘拐するのでは、絶対に牢屋の中から誘拐する方が大変だもの。
それに、あの人の悪だくみは、ここの大臣を巻き込むようなものではないはずだわ。もしそうだとしたら、そもそも私を誘拐する必要もなかったんだもの。堂々と私を捕まえに来たはずだもの。
――だったら、)
シャーロットは息を吸い込む。
それに嫌な予感を覚えたのはマルコシアスだけだった。
かれは思わず、とと、と彼女までの距離を詰め、異様な眼差しでくだんの一団を見つめる幼い主人に、ネズミの前肢を掛けた。
「ちょっと、ロッテ?」
これに、「うわネズミが喋った!」と飛び上がったのはアーノルド、「ここにいたのかマルコシアス!」と飛び上がったのはリンキーズだった。
シャーロットはそのどちらも耳に入れていなかった。
(――だったら――だったら、あの人は、不自然なまでに私を庇ってくれるはずだわ)
そう確信して、シャーロットはすっくと立ち上がった。
振り放される恰好になったマルコシアスが、げっ歯類にあるまじき仕草で激しく瞬きする。
アーノルドは絶望の顔をした。
「ちょ――シャーロット!?」
リンキーズも唖然、さしものマルコシアスも茫然としている。
「は? ちょっと、ロッテ?」
「エム。もちろん、私を守ってて」
最後にそうとだけ命令を下して、シャーロットは、頭のてっぺんからつま先まで震えながら、燦々と陽の注ぐ芝生の上に足を踏み出した。
芝生の上を歩き出したシャーロットに、もちろん衛兵は殺到した。
無為に捕まってなるものかとシャーロットが決意していたとはいえ、ただの十四歳の少女に、衛兵の裏をかけようはずもない。
ものの十数秒でシャーロットはその場でがっちり拘束され、彼女の勢いがついていたこともあいまって、見事に頭から地面に突っ込む羽目になっていた。
「なにしてるんだよ、もう」とマルコシアスがつぶやいたことはさておき、乗り込んできたのが年端もゆかぬ少女とあって、衛兵側も毒気が抜けた。
「お嬢ちゃん、好奇心の使いどころが……」
困ったようにつぶやく声を聞き、シャーロットは猛然と抵抗する。
好奇心ではない、人生の賭けだ! という矜持ゆえの激しい抵抗のすえ、彼女は顔を上げることに成功し、押し寄せる衛兵の間隙を縫って、騒ぎに気づいてこちらを振り返る、くだんの政治家御一行を見た。
その周囲に、壁が出来そうな勢いで衛兵が集結している。
この警備の厚さ、ここにいるのはもしや貴族院の一議員などではなく、大臣だったのかもしれない――と思い至ったシャーロットは、さすがに瞬間的に蒼くなった。
眩暈がして、それを察したらしき衛兵の一人が、「だったら最初から無謀なまねをするなよ」と、叱りつけるように正論を言い聞かせた。
(まずい、ほんとに死刑かも……)
スミスと思われる人の顔は見えなかった。
衛兵の壁が厚く、シャーロットから見てとることが出来たのは、仰々しい身形の複数人のうち、少なくとも二人は文民の格好ではなく、あきらかに軍人と分かる制服を着ているということだった。
軍人であるならば軍省大臣かも知れない。
スミスの顔が見えないことが、いっそうシャーロットの焦燥を煽った。
ここでスミスの焦った顔でも確認できれば、やぶれかぶれに考えたことの当たりを悟って落ち着くことも出来たものを、スミスはもしかしたら落ち着き払っているかもしれない――シャーロットが捕まったところで困るところではないのかもしれない――と疑ったことが、シャーロットの思慮という思慮を吹き飛ばした。
衛兵の一人が、ともかくもシャーロットをこの場から引き離そうと考えたのか、彼女の左腕をがっちりと掴んで引きずり立たせた。
衛兵たちはいっそう警戒している。
シャーロットに気を取られているうちに、本当に害のある人間が警護の対象を襲うようであれば目も当てられない。
軍人の制服を着た二人が、仰々しい身形の政治家たちにぴったりと寄り添って何かを囁きかけている。
衛兵がその周囲を固め、彼らは足早に議事堂に向かう――
「――あっ」
シャーロットは声を上げた。
腕が引っ張られてちぎれんばかりに痛い。動悸のあまり心臓が痛む。
頭の中が搾られているかのような緊張、血が昇って額が熱い――
自分が息をしているのかも分からず、シャーロットはその数秒、目の前の光景が緩慢に流れていくような錯覚に襲われた。
その視界の中で、アーノルドが「あれこそスミス」と指差した、初老の男性がこちらを振り返っている――隠しようもなく、彼は焦った顔をしている――ほとんど恐怖に近い表情を浮かべている――
――真に焦燥に駆られた人間というものは何をしでかすか分からないもので、その瞬間のシャーロットは、自分が絶対に犯すまいと思っていた愚を犯していた。
つまるところ、大声で叫んでいたのである。
「待ってください! シャーロットです!
シャーロット・ベイリーです!」
「何してんだよ!」という、悪魔と人間の三重奏が物陰で上がったことに疑問の余地はない。
マルコシアスに至っては、かれの間抜けな主人を助けるために、嫌々ながらもネズミから姿を変えようとしていた。
だが、それより早く、政治家の一団の中で動きがあった。
「――ベイリー?」
聞き咎め、振り返ったのは、痩せた身体に繻子の襟が艶めく外套を纏った、初老の男性だった。
彼に、周囲の人間が一歩譲った。
白いものが混じり始めた茶色い髪を、丁寧に後ろに撫でつけたその男性が、足早に数歩を戻る。
あきらかに驚いているが、「訳が分からない」という顔ではなかった。
それがシャーロットには驚きだった。
(お――お知り合いに、ベイリーさんがいらっしゃるのかしら……)
いつの間にか、シャーロットを取り押さえていた手が緩んでいた。
シャーロットは身をよじって自由を獲得し、息を上げながら、近づいてくるその男性を見上げ、自身にどういった沙汰が下るものか、固唾を呑んで――半ば気を失うほどの緊張の中で――待ち構えた。
艶のある背広を着た一人が、その茶色い髪の男性に何ごとかを囁いた。
男性はおざなりに手を振った。「お前は知らないことだから」とぞんざいに言うのが、シャーロットの耳の端にかろうじて引っかかった。
男性はシャーロットの目の前に立った。
そこに立つとさすがに、周囲から彼を押し留める声が一斉に上がった。
緊張のあまり、耳の中で声が反響する。
シャーロットにはそれらの声を聞き取ることが出来なかった。
だが、続く男性の言葉は、非常な驚きとともに耳に入ってきた。
「――驚いたな。ベイリーから面会の申し出はここしばらくなかったが……」
シャーロットは目を見開く。
これが仮に、“ベイリー違い”であったなら、シャーロットは自身の家名で度外れた運の良さを発揮したことになる。
そして、“ベイリー違い”でなかったのなら、彼女の父、あるいは祖父は、グレートヒルの政治家に面会を申し入れることの出来る立場にあるということになる。
(――って、お父さまは銀行にお勤めだし、ないないない……)
己の豪運に身を震わせ、これが吉と出るか凶と出るか判じかね、ただ息を止めて膝と手を震わせるシャーロットに、男性は小首を傾げてみせた。
「シャーロット――ウィリアムのお嬢さんだったね。
どうしてきちんと面会を申し込まない」
シャーロットは激しく瞬きした。
――プロテアス立憲王国広しといえど、「シャーロットを娘に持つベイリー家のウィリアム」は二人といるまい。
「え――あの――はい……」
しどろもどろになるシャーロットの様子を、緊張しているのだと前向きにとらえてくれたらしい、茶色い髪の男性は、軽く膝を曲げてシャーロットと視線を合わせた。
それに驚きの声が上がる。
今度こそ、その言葉の――正確には、呼称の――内容が、過たずシャーロットの耳から飛び込み、彼女の頭を直撃した。
「首相!」
シャーロットの顎が、かくん、と落ちる。
(しゅ――首相?)
「ウィリアムはどうした?
お父さんに言われて来たのかね?」
シャーロットは茫然として、答えるどころの騒ぎではなかった。
――首相、すなわち首席宰相。
プロテアス立憲王国において、実質的な政治は議会が行う。
そしてその議会において多数を占める派閥の重鎮が、それぞれの省の大臣として政治の実権を握る。
そしてその大臣の長――つまるところが、国王の権力が過去のものとなったこの国において、現在の最高権力者――その人のことを、首席宰相と呼ぶ。
それが首相である。
――自分の眼前にいるのは、どうやらこの国で最も大きな権力を握っている人間であるらしい――
そう理解して、シャーロットは気が遠くなった。
ふら、とよろめく彼女に、「お知り合いですか」と警戒ぎみに尋ねる周囲の声が聞こえてくる。
「ああ――知人の子だ」
茶色い髪の男性――どうやら首相らしい――がそう答えて、シャーロットの肩に、ぽん、と手を置く。
――人のてのひらに、これほどの重みを感じることがあろうか。
――ここまできて行きあう、最大かつ特大の障害が、まさか主席宰相その人であろうとは。
シャーロットは目を回して、その場に崩れ落ちた。




