20 理解が足りない
九時の鐘が鳴った。
シャーロットはぽかんと口を開けていた。
――グレイはクローブ社近くから、今度は辻馬車を拾った。
窓の外の整然とした街並みを眺めてシャーロットが目を丸くすること少し、馬車はグレイの用命どおり、グレートヒルのさらに奥を守る隔壁の門に辿り着いたのである。
文字通り、グレートヒルの心臓部に通ずる場所だ。
グレイはそこで馬車を降り、シャーロットもそれに続いて、彼女を四、五人ほど縦に積み上げたような高さの隔壁をまじまじと見上げてしまった。
壁はレリーフが施された石積みで、等間隔で鉄格子が挟まれている。
そして同じく等間隔で、深緑色の制服の衛兵が立っていた。衛兵たちは微動だにせずに仁王立ちしている。
隔壁にはいくつかの門が開いており(とはいえ、シャーロットから見えるのは一つだけだったが)、グレイは慣れた様子でそのうちの一つに向かっていた。
門を守る衛兵にグレイが声をかけ、シャーロットを示して何か言っている。
シャーロットはどういう表情をすればいいのか分からず、とりあえずしおらしい顔をしておいた。
正面から見ているだけではよく分からなかったが、近づいてみれば、隔壁が三十フィートほどの奥行を備えていることが分かった。
門となっている場所は、いわば短いトンネルをくぐるようなものだったが、そのトンネルの内部は隔壁がくり抜かれて、衛兵たちの詰め所となっているのだ。
グレイとしばらく話した衛兵が肩を竦め、合図してその詰め所に向かう。
シャーロットがグレイの顔を窺うと、グレイはシャーロットを手招きした。
「――あのね、ここは」
グレイが囁いた。
「私のようにグレートヒルで働いている身分が明らかな者は通れる。
それに、きみのような学徒に対しては、寛容に見学を許してくれるんだよ。憲法にあるだろう――人民の譲渡し得ない名誉とは――」
「独立、教育、所有」
シャーロットは先回りしてそう言って、頷いた。
「得体の知れない人間を通してしまわない限りは大丈夫って、そういうことですね」
だが、とはいえ、無論のこと検査はあった。
軽い身体検査のあとに荷物検査があり、シャーロットのトランクは山ほどの本が詰め込まれていたことで彼女の学徒としての身分を保証した。
『神の瞳』が見つかるかとひやひやしていたシャーロットは、それを乗り越えた安堵もあり、ここぞとばかりに、「昨年、リクニスに入学が決まった中での最年少は私です!」と主張して、衛兵の感嘆を誘って自分の無害ぶりを顕示した。
続いて、「悪魔を連れて入ることは禁止されているので、悪魔を召喚している場合は申し出よ」という通り一遍の注意があり、シャーロットはみずからの悪事が露見しないことを神に祈る、敬虔な眼差しでそれを拝聴することとなった。
とはいえ、人間の目では悪魔の擬態を見破ることには限度がある。
マルコシアスはおそらく、大あくびしながらこの注意を聞き流していたことであろう。
あなたがもしも、「ならば悪魔を使って、この場に悪魔を連れている魔術師がいないかを確かめさせればよいではないか」と思ったとしよう。
しかしそれは行われていない。
悪魔どうしであっても、格下の悪魔は格上の悪魔の擬態を見破ることが出来ないし、ここで通行人を見守る仕事に頷いた稀有な魔神も過去にはいたが、かれは仕事の退屈さと人の多さに鬱憤をため、遂にはかれを解放するか隔壁を崩落させるか選べとかれの主人に迫ったのである。
以降、この仕事を魔神に依頼する魔術師はいなくなった。
そして何より、この隔壁の内側で仕事をこなす魔術師の中には、格の高い魔神を召喚している者もいるのである。
門を崩落の危険に晒すよりは、有事の際には彼らの助力を得る方が、はなはだ効率がいいというものであった。
衛兵たちも、まさかシャーロットのような子供が悪魔を召喚しているとは考えなかったらしい。彼らはもっぱらグレイを見ていた。
グレイは潔白を示すように両手を挙げ、これにて検査は完了となった。
グレイに連れられて、シャーロットは隔壁の内側に足を踏み入れた。
八歳のとき以来、実に二度目のことだった。
――グレートヒルの心臓部といえる隔壁の内側には、議事堂をはじめとして、政治中枢にかかわる機関や、行政のための数多の機関――軍省(昔は戦争省といったらしい)、司法省、垂教省、食糧省、貿易省、逓信省、技術省などだ――、そして中央銀行が、広々と迷路のように展開されている。
そして隔壁側に少し遠慮するようにして、政府からの重視を勝ち得た企業たちが、誇り高く軒を連ねていた。
それらはたとえば、蒸気機関車の運行を一手に担ってきたジョン・トワーズ石炭貨物社であったり――およそ国中の初等学校で使用されている書籍を編纂するエバーカリディ書房であったり――明けても暮れても奇妙な実験に勤しんでは、そのうちの十分の一ほどが新たな技術の発展に寄与し、残る十分の九については、十年ほど経ったあとに思わぬ発見につながるような技術者連合であったり――悪魔をせっせと働かせては海を埋め立て山を崩し、それらを少しでも効率よく行うことが出来るよう、新たな呪文の発見に勤しみ、国中で最もそれらの成果を挙げてきたリディーベル研究所などであった。
リディーベル研究所については、世間の目はやや冷たい――というのも、最近になって、悪魔を召喚せずとも山の岩肌を広範囲にわたって吹き飛ばすだけの効力のある魔法を借り受ける呪文が開発されたからだった。
これまでは、どうにも上手く以来を伝えられなかったことを、魔神たちに誤解なきよう届ける言葉の羅列の発見である。
これにほくほく顔をみせたのは、汽車の軌道をさらに伸ばすことが出来ると喜んだジョン・トワーズ石炭貨物社の社長だったが、警鐘を鳴らしたのは司法省と技術省だった。
人間が扱うよりも遥かに大きな力を持つ悪魔に、どうして呪文ひとつの合図で山を崩すことを許すのだ。
悪魔を召喚していれば、悪魔に「人を傷つけるな」と命じて山を崩すことが出来ていたが――さらにいえば、悪魔の主人となる魔術師に、「人を傷つけるなと命じるよう」と義務を課すことが出来たが――、これでは下手をすれば悪意をもって雪崩が起こる。
いわばこれは、これまでは人の目につく大砲でしか行えなかった大破壊を、懐に隠し持つことが出来る拳銃で行い得るようになったかのごとき問題だった。
さらにこの発見は、魔術師たちをも辟易とさせた。
曰く、「俺たちみたいな善良な魔術師まで、大破壊が出来る人間兵器みたいな目で見られるじゃないか」。
複雑に入り組むグレートヒルの中心部は、〈神の丘〉の中腹に築かれた議事堂を頂点として、緩やかな上り坂を描いている。
複雑ではあっても整然としており、建物の多くは白亜の外壁、蛇行して入り組んだ街路を成す敷石は寸分の狂いもなく敷かれ、圧巻というほかない壮観を作り上げていた。
人通りは、ローディスバーグの他のどの場所よりも少ないのではないかと思えた。
この時間は皆が皆、持ち場で仕事に打ち込んでいるのかも知れなかった。
議事堂に近づけば動きがあるはずだったが、企業が軒を連ねる場所にあっては、人通りは皆無に等しい。
シャーロットは覚えず、八歳のときのことを思い出していた――ここのどこかで、彼女は人生で初めて魔術を見たのだ。
われ知らずきょろきょろと周囲を見渡していたシャーロットは、グレイがどこへ向かって歩いているものか、全く見ていなかった。
ただ盲目的に彼の背中について歩いていた。
グレイは迷いなく歩き、とある建物の――シャーロットが注意深くしていれば、それがリディーベル研究所の、数多ある離れの一つであると気づいたはずだ――外階段を上がった。
螺旋を描く外階段は、そのまま望楼のような踊り場に通じている。
躍り場にはしゃれた屋根がかぶせられていて、まるで優雅なガゼボのような雰囲気すらあった。
白く滑らかな材質で、まるで石膏で彫り抜かれたおもちゃのような印象さえ与えた。
その踊り場で、グレイは足を止めた。
彼が溜息を吐き、シャーロットを振り返った。
シャーロットはわれに返り、瞬きした。
「――ここで、ご依頼主と待ち合わせですか、グレイさん」
「いいや、違うよ」
おだやかにそう言って、グレイはずっと持っていたシャーロットのトランクを足許に下ろした。
そして、強張った顔で告げた。
「ミスター・スミスには、きみには逃げられたと言っておこう。
――ミズ・ベイリー、冒険はここまでにして、帰りなさい」
シャーロットはぽかんとして口を開けた。
グレイは片手で額を押さえた。
その目許にくっきりと隈が浮かんでいた。
「サムのことを考えても――どうしても、きみのような子供を危険に晒すことは耐え難い。
ミズ・ベイリー、帰りなさい」
「――――」
シャーロットはしばらく、黙りこくってグレイを見上げていた。
ややあって、彼女はつぶやいた。
「つまり、私をあなたのご依頼主のところには連れていってくださらないということですね、グレイさん」
グレイは困ったように眉尻を下げた。
誘拐の標的になった女の子に、なぜその黒幕のところへ乗り込むことを誘拐犯である自分がやめさせなければならないのか――それを空しく考えつつも、彼は言った。
「危ないよ、ミズ・ベイリー」
シャーロットは、なおもしばらく、まじまじとグレイを見上げていた。
そして、彼女は深く息を吐き出した。
グレイはほっとして、寒さの中であっても汗が滲む額を拭った。
安堵の所以は簡単だった、シャーロットが納得したように感じたのだ――
(――つまるところ、ロッテへの理解が足りない)
マルコシアスがそう考えると同時、シャーロットが顔を上げた。
マルコシアスに、かれの本当の名前を伝えさせた、あの強情さの覗く表情――理想の人生の他など願い下げだと言い切るような、理想の人生を生きることを生き延びるというのであれば、生き延びるためなら死んでもいいといわんばかりの、――あの激烈なきらめきが、橄欖石の色の瞳で踊っていた。
「分かりました、グレイさん」
シャーロットが、叩きつけるようにきっぱりとそう言った。
グレイが引き留める間もあらばこそ、シャーロットは、すばやく身を翻して階段を駆け下りていた――身一つで、迷いもなく。
唖然としたグレイはしかし、すぐにシャーロットの考えを察して蒼くなった。
「――リンキーズ!」
彼は低い声で叫んだ。
十四歳の少女の身ごなしは、既に彼女を地面まで運んでいた。
グレイは慌てて、トランクはその場に置き去りにして階段を駆け下りてそれに続きつつも、老齢に足を突っ込んだ自分では、とてもではないがあのすばしっこい少女を捉まえるのは無理だろうと判断していた。
すぐに、まるで最初からそこにいたと言わんばかりに、グレイの背広の背中を這い登って、小さなトカゲがひょっこりと顔を出した。
あからさまに怯えた顔をしている。
「なに? 無茶な命令じゃなきゃいいけど」
「あの子を――ミズ・ベイリーを安全なところに逃がしてやりなさい!」
あえぎながら命令を下し、グレイは目を丸くするトカゲに向かって断言した。
「それが出来たら報酬をやろう――縁を切ってやるとも!」
目を丸くしたトカゲは、しかしすぐさまカラスに姿を変えた。
その瞬間は苦悶に顔を顰めたものの――そしてまた、年季の入った魔術師であるグレイは、悪魔がこうした変身を嫌うのを知っているため、罪悪感を表情に浮かべたものの――、リンキーズは有頂天になって叫んでいた。
「本当だろうね? どういう風の吹き回しかは分からないけど、最高だ。嘘だったら恨むよ。
あの子の魔神と戦争になるかと思ったよ――ほんとに最高、僕に任せて!」
「ねえ、ちょっと、いいの?」
マルコシアスは腕輪の姿のままだったが、囁き声がシャーロットの耳許に聞こえた。
「あんた、そのスミス――あれ、スマイサーだっけ? ――ってやつのこと、顔も知らないんじゃないの?」
「いいの!」
脱兎のごとくに走り、右へ左へ適当な角を選んで邁進しながら、シャーロットはひそひそと叫ぶように答えた。
「そのスミスって人は私の顔を知ってるはずだもの!
この近くにいるなら――それで、どうしたって私を誘拐したいなら、向こうからやって来てくれるはずだわ!」
シャーロットは勢いよく角を曲がった。
とたん、まさにその角から飛び出そうとしていた人影とぶつかった。
相手は驚いた声を上げてたたらを踏んだだけだったが、勢いがついていたシャーロットは、勢いあまってその場に転んだ。
「あーあ」と耳許で囁くマルコシアスの声を聞いた。
シャーロットは混乱しながら顔を上げる。
目の前にかぶさる髪をかき上げ、彼女は一瞬、先回りしたグレイに捕まったのだと思った。
だが、そうではなかった。
そこにいたのは、いつか廃校で出会った、綺麗な青灰色の瞳をしたアーノルドだった。
▷○◁
アーノルドは仰天していた。
彼は、このグレートヒルの心臓部が予想より遥かに広大だったことに辟易し、二度目の迷子の境遇に片足を突っ込んでいたのだが、でたらめに走っていたところでシャーロットにぶつかったのだ。
これをもたらしたのは自分の運の良さかグレイの運の良さか、それに一瞬間だけ思いを馳せてから、アーノルドは慌てて、転んでしまったシャーロットに手を伸ばした。
驚いた顔をすることも忘れない。
「――ごめん、大丈夫?」
目を丸くしながらそう尋ねると、アーノルド以上に驚いた顔をした(まあ、当然だ)シャーロットが、おずおずとアーノルドのてのひらに指を載せた。
アーノルドはその手を握って、勢いをつけて彼女を助け起こした。
シャーロットは目を丸くしてアーノルドを凝視したまま、上の空の手つきで衣服から埃を払い、外套を直した。
そして、もう一度上から下まで、まじまじとアーノルドを観察し、折り返すように視線を上げて、ぽかんとした口調で囁いた。
「……アーニー?」
アーノルドは抜け目なかった。
ここで即座に彼女の名前を呼んだりはしなかった。
アーノルドにとって、シャーロット・ベイリーとの出会いは印象深いものだった――それはもちろん、彼女が字を教えてくれたからだということもある。
だが、シャーロットを誘拐しようとした事実があったからこそ、アーノルドは彼女の顔も名前も、あのときの一度切りの出会いで覚えたのだ。
シャーロットに不審に思われないためにも、ここは一芝居打つべきだと考えたのだ。
アーノルドは、まずまじまじとシャーロットを見つめた。
シャーロットがちょっと赤くなった。
それを見てから、アーノルドは驚きと得心を籠めて頷いてみせた。
「やっぱり、きみか! あの……ベイシャーで会ったよな? 覚えてるかな、字を教えてくれただろ。きみ、ええと……」
ばっちり名前を覚えているというのに、言い淀んでみせる。
シャーロットが助け舟を出した。
「シャーロットよ。シャーロット・ベイリー」
「シャーロット。ごめん、そうだった。
――ええっと、なんでここに?」
首を傾げて、アーノルドは精いっぱいの困惑顔を作った。
「なんか、すごい勢いだったけど。誰かからか追っ掛けられてたの?」
「ええっと……」
シャーロットも言い淀む。
彼女が、今度は観察する眼差しでアーノルドの全身を見遣った。
アーノルドは後ろめたさと緊張にどきどきしてきたが、それをおくびにも出さなかった。
ややあって、シャーロットが首を傾げた。
「――あなたこそ、なんでここに?」
アーノルドは肩を竦めてみせた。
風が吹いて、彼の金茶色の猫っ毛が頼りなくなびく。
「知り合いの紹介で、ここで雇われてる」
シャーロットはなおも、妙にじっくりとアーノルドを見た。
アーノルドは居心地が悪くなって鼻の頭を掻いたが、そのときふいに、シャーロットが手を伸ばして、アーノルドの腕を掴んだ。
そしてそのまま、ずんずんと歩き始める――シャーロットの進行方向へ、つまりはアーノルドが元来た方向へ。
行動を共にすることは願ったり叶ったりだが、ここで抵抗の一つもしないのは不自然だろう。
そう考えて、アーノルドは面喰らった声を出してみせた。
「え? ――シャーロット?」
「ここで働いてるのね、ちょうどよかった、助けてほしいの」
無遠慮なまでにそう言って、シャーロットはアーノルドを引っ張った。
アーノルドはそっと彼女を振り解いて自由の身に戻りつつ、それでも歩調はシャーロットに合わせて、顔を顰めた。
「働いてるって言っても、見ての通りの下働きだぜ」
「いいのよ、お仕事の邪魔をしてごめんなさい。
私、人を探してるの。あなた、働いてる最中にあちこちに行くでしょう――その中で、スミスさんって見たことないかしら?」
スミス!
アーノルドは息が止まりそうになった。
では、シャーロットはまさに、グレイの手を逃れて逃亡して、スミスの悪事を晒そうとしている最中なのだ!
だが、その興奮を顔に出してはならない。
最大限の注意を払って、アーノルドは適度に無関心な、記憶を探る顔を作った。
そして、適当につぶやいた。
「スミス? ――いっぱいいると思うけど……」
シャーロットは少し考える顔をして、
「その中で、いちばん偉いスミスさんだと思うわ」
へえ、と声を漏らし、アーノルドはシャーロットに気づかれないように、大きく息を吸い込んだ。
とはいえ彼は、スミスが普段、この広大なグレートヒルのどこで悪事に勤しんでいるのかは知らない。
というわけで、彼は大雑把に言った――自分が放り込まれていたところから推して、その辺りにいるに違いないと考えたわけだ。
「スミスねぇ……おれの知ってる限りだと、よく議事堂に出入りしてる人に、スミスさんっていう人がいるけど」
シャーロットの橄欖石の瞳が、用心深くアーノルドを見た。
「どんな人?」
「どんな、って」
アーノルドは、最後に見たスミスの姿を記憶から掘り起こした。
「痩せてて――びしっと背広を着てて――あと、」
最たる彼の特徴を思い出して、アーノルドは思わず自分の左手の甲を叩いた。
「ここ。左手の甲に痣がある」
シャーロットはしばらく黙っていた。
喜び勇んで突き進んでいく様子もなければ、緊張している様子もない。
むしろ悲しそうだった。
アーノルドは、今度ばかりは本気で当惑して、シャーロットの顔を覗き込んだ。
彼女は唇を噛んでいた。
「……シャーロット?」
「――――」
ゆっくりと息を吐いて、シャーロットが足を止めた。
付き合って、アーノルドも足を止める。
シャーロットが一歩下がって、つぶやくように言った。
風が吹いて、彼女の癖のない金髪がはらはらと揺れている。
「――アーニー、ごめんなさい……議事堂まで案内してって言ったら、困るかしら?」
アーノルドはためらった。
ごしごしとこめかみをこすってから、彼は不承不承といった声音を作って、言った。
「……いや、別に。このあとのご用命は、他のみんなで片づけられる仕事だし」
「良かった」
ぱっと笑って、シャーロットが身を翻した。
「ちょっと待ってて。ほんとにちょっとよ」
「え、――ちょっと!」
目を丸くするアーノルドをよそに、シャーロットはすばやく、ひとつ先の曲がり角に消えてしまった。
待ってて、と言われた以上はそこを動く気になれず、アーノルドは所在なさげに踵を上下させる。
(怪しまれたかな……いやでも、おれを連れてくつもりみたいだし……怪しまれてたら、さすがにそんなことはしないよな……)
――そう思うアーノルドの頭の中を、仮にマルコシアスが覗くことがあれば、先ほどと同じことを言ったことだろう。
つまるところが、「ロッテへの理解が足りないね」と。
▷○◁
「――なんのご用事かな、ロッテ」
物陰で姿を変えることを命じられたマルコシアスは、カササギの姿になって不機嫌に尋ねた。
かれは外側に張り出した窓台の上に、気取った様子で止まっている。
「ちょうどいい道案内がいたじゃないか。僕は誰だか知らないけど」
「アーノルドよ。ベイシャーで会ったの」
「そう。知り合いなら運が良かったね」
そっけなくそう言ったマルコシアスを、思わずシャーロットは叩きそうになった。
「馬鹿な悪魔ね、こんな偶然があるわけないでしょう」
マルコシアスは羽毛をふくらませて、ぶるぶるっと身体を震わせた。
きわめて鳥らしい仕草である。
「間抜けなレディだな、ちゃんと説明しなよ」
「もう」
苛立たしげにこぶしを振って、シャーロットは声を低めた。
「――いいこと。まず、ベイシャーでもここでも会うなんて、普通に考えれば有り得ないでしょう」
「どうだろう」
マルコシアスは茶々を入れた。
「分からないよ。彼があんたの運命の相手かも知れない」
「ぶつわよ」
真顔でそう言って、シャーロットはちらっと物陰からアーノルドを窺った。
所在なさそうにしながらも、その場を去る様子はなく、シャーロットを待っている様子だ。
「普通、有り得ないの。分かった?
――それで、彼の格好を見なさい。お仕着せの寸法がまるで合ってないわ。ズボンなんて、裾を折って穿いてる」
「誰かのおさがりなのかねぇ」
関心のない様子でマルコシアスがつぶやき、シャーロットはとうとう手を伸ばして、かれの尾羽を引っ張った。
マルコシアスが、信じられないという顔で抗議する。
「痛い! なんてことするんだ、ロッテ」
「エム、ふざけてないでちゃんと聞いてよ。
――誰かのおさがりだったとしてもよ、今日になって急に雇われたんじゃない限り、裾上げくらいはするでしょうよ。つまり、あれ、彼のためのお仕着せじゃないのよ」
カササギは大あくびした。
「そう。――で?」
シャーロットはいらいらと髪をかき回した。
「馬鹿な悪魔ね」
「間抜けなレディだな」
「お黙んなさい。
――私がグレイさんのところから逃げ出した直後にばったり会ったのよ。それで、スミスっていう人のことを知ってるのよ。
これはもう、完全に、彼もスミスさんに雇われていると思った方がいいでしょう」
一呼吸おいて、彼女は悲しそうにつぶやいた。
「私、あの人に文字を教えてあげたのよ。本当にいい人だと思ったのに」
むろんのこと、悪魔は彼女の感傷に付き合ったりはしなかった。
かれは意地悪く言った。
「悪いね、『いい人』の定義を教えてくれないか」
「言うだけ無駄よ。
――そう、とにかく、アーニーはたぶん、スミスって人に命令されて、私を捕まえに来たのよ」
「――なるほど」
カササギが笑った。
かれは、打って変わって友好的な眼差しでシャーロットを見上げた。
「なるほど。それで、あんたはあいつについて行くわけだ」
「当然でしょ」
眉を寄せて言い放ったシャーロットに、カササギは肩を震わせた。
「それでこそだ、ロッテ。
目的のためなら手段を選ばない、あっさり自分を賭け事のチップにしてしまう、あんたのそういうところ、僕はいいと思うよ」
シャーロットはつかの間、それが褒められたのか皮肉か、真剣に考える顔をした。
だが、ゆっくりそれを考えている場合でもなく、彼女は首を振って、あたりさわりなく言った。
「ありがとう。
それで、お前に頼みたいのは、ちゃんと状況を見ていてほしいってことなの。
ほら、もし仮に、アーニーが私をスミスって人のところに連れていくに当たって、私を気絶させようと考えちゃった場合、私は事態が分からなくなるわけじゃない? その場合は、お前にしっかり見ていてほしいの」
「ほぉーう?」
思わず、マルコシアスは興味深げな声を上げた。
「あんたを守ればいいんじゃなくて?」
「守ってもらえると嬉しいけれど、時と場合によるわ。もし、私が気絶を回避しちゃって、アーニーが私をスミスって人のところに連れていくのを断念しちゃうと困るでしょ。
そういう場合は、私は殴られるなりなんなりしなきゃならないもの」
真面目な口調でそう言う小さな主人に、マルコシアスは喉の奥で笑い声を立てた。
「なるほどね。あんたは面白いね、ロッテ。
仰せのとおりにいたしましょう」
「ありがとう」
そう言って、それからシャーロットは付け加えた。
「もちろん、殴られるにあたって、私が痛い思いをしなくて済む方法があるなら、それを採ってくれてもいいのよ? ね?」




