19 時間切れと迷子
翌朝、着替えと朝食を済ませたシャーロットは、夫人に篤く礼を言って頭を下げながら、グレイに連れられて彼の邸宅を出た。
マルコシアスは、昨日と全く同じ腕輪に化けている。
夫人にもサムにも、連れ立って家を出ることは当然のことに見えたはずだ――何しろシャーロットは、グレイの勤め先の誰か――誰だったか、シャーロットは既にその名前を忘れ切っていた――の姪ということになっているのだ。
このまま職場に連れられて、その伯父と合流するのが自然な流れというものだろう。
サムは、父であるグレイよりも家を出る時間が遅いらしく、バターを塗ったパンをもぐもぐ食べながら、興味深そうにシャーロットを観察していた。
夫人は、いくどかそんな愛息子を注意している。
同時に彼女は、夫のただならぬ様子を心配しているようでもあった。
さもあらん。
グレイはシャーロットの目から見ても、蒼褪めて覚悟を決めたような顔をしており、異様な雰囲気を醸し出していた。
正確には、覚悟を決めようとして決め切れていない表情だ。目許が完全に強張っている。
これではシャーロットの方が落ち着いている。
とはいえシャーロットも、朝食はさすがに遠慮した。
夫人はこれに、「食が細いのねぇ」と心配そうに溜息を吐いた。
シャーロットの実母が聞けば大笑いする一言であった。
自宅を出てすぐに、グレイは「ちょっと失礼するよ」と断りを入れて、懐からシガーケースを取り出した。
昨夜、彼の書斎で持っていたものとは違うシガーケースだ。
そしてそこから、紙巻煙草を一本、震える手で抜き出した。
そして、――シャーロットが内心で大興奮したことに――小声で呪文を唱えた。
グレイは最初、魔精ジニスに火を点けることを依頼する呪文を唱えた――召喚ではない、これは悪魔の道にいる悪魔から力を借りる魔術だ――が、どうやらジニスは誰かに召喚されており、不在だったらしい。
すぐに、魔精ケヴァに力を借りる短い呪文に切り替えた。
ぱっ、と火花が散り、煙草の先端に火が点いた。
深々と煙を吸い込み、グレイはかろうじて真っ直ぐ歩く気力を保ったようだった。
――ちなみに、悪魔そのものを召喚するならばともかく、今のように力を借りるだけならば、よほど大掛かりなことを依頼しない限り、報酬は必要とされない。
以前までのシャーロットはそれを当然と思っていたが、今は違う。
報酬は既に全ての人間が払っていることを知っている。
つまるところが、悪魔たちは、人間の悪夢から得られる恐怖や不快の感情を食べているのだと。
多少力を貸す程度ならば、謂わば元が取れている状態なのだろうと推測できる。
――シャーロット自身の感情はさておいて。
(また嫌な夢を見たら、エムに話して聞かせてやるわ……)
ふうっと紫煙を吐き出したグレイが、ちらりとシャーロットを見遣った。
周囲には、同じく勤め先へ向かうのだろう男性たちの姿が、ちらほらと見え始めている。
彼らの息は、寒さの中でやはり白い。
壮年の男性が多い中で、シャーロットは明らかに浮いていた。
「……平気なのかね」
ぼそ、と、小声でグレイは尋ねた。
シャーロットはけろっとして答えた。
「どきどきしてますけど、大丈夫です。
私、何もしないでいることの方が苦痛に感じる性分なんです」
グレイは煙を吐き出した。
彼は疲れて悲しそうだった。
「そうか。羨ましいね」
鉄道馬車に揺られ、昨夜と逆の経路を辿ってグレートヒルに向かい、グレイはまず最初に、コーヒーハウス〈ルーメン〉へ足を向けた。
ほう、ここが噂の、と、シャーロットは思わずまじまじと、鎖で軒から吊り下げられた、木目模様も美しい看板を見上げてしまう。
グレイがシャーロットの腕をとってコーヒーハウスの中に入ると、からんからんと鳴ったドアベルの音と同時に、「開店前ですよ」と咎める声が上がった。
開店準備をしていた店主の声だ。
グレイはそれに、いいからいいからと手を振って、カバンの中から取り出したメモを彼に手渡した。
「ミスター・スミスにこれを頼む」
スミス!
シャーロットは思わず声を上げそうになったが、自制した。
シャーロットはリンキーズからしか「スミス」という名前は聞いていない。
つまり、グレイの視点から見れば、シャーロットがその名前を聞いたことはないはずなのだ。
ここで過剰に反応しては、リンキーズが困ることになる。
店主は迷惑そうな顔をしたものの、拒絶はせずにメモを受け取った。それをエプロンのポケットに入れて、肩を竦める。
グレイは近くのテーブルにいくつかの硬貨を置いて、すばやく店の外に出た。
そのときになって、シャーロットはさも初耳だというように尋ねてみせた。
「スミスさん。スミスさんとおっしゃるんですか、グレイさんのご依頼主は」
グレイは眉を上げて、シャーロットを見下ろした。
彼がつぶやいた。
「……聞いていたんじゃなかったのか」
「――――」
思わず、愛想笑いで固まるシャーロット。
「えっ?」
しかし、グレイはもう足を速めている。
シャーロットは、重いトランクに四苦八苦しながらもそれに続いた。
昨夜、寒さに震えながらシャーロットがうろついた通りは、今はたくさんの背広の男性が埋め尽くしていた。
ざっざっ、と響く革靴の足音、溜息や雑談、笑い声、愚痴、立ち昇る白い息。
シャーロットは自分が、突然黒い林の中に放り込まれたように錯覚した。
もたもたしていると踏まれそうだ。
両手で持ち上げたトランクにつまずきそうになっていると、それに気付いたグレイが、「貸して」と言って、隣からトランクを取り上げた。
「どうも……」
シャーロットはふと、グレイはどうやって自分を連れてきたと言うつもりなのだろう、と訝しんだ。
無理やり連行してきたというには無理があるだろう。
適当な嘘を含ませて連れてきたと言うつもりなのか、はたまた……
「重いねぇ」
グレイが白い息を吐いてつぶやいた。独り言のようでもあった。
シャーロットも小声で応じた。
「本が入っています……」
グレイは小さく笑った。
彼に親しい人間がそばを通れば、「その子は誰だ?」というような疑問の声が降ってきても良さそうなものだが、それはなかった。
グレイに声を掛ける者は一人もおらず、しかしシャーロットはちらちらとよく見られた。
着替えの中から翡翠色のワンピースを軽率に選んだ今朝の自分を心中で罵りながら、シャーロットはもう少し暗い色の服を着ていれば良かったと後悔したが、考えるまでもなく、今は外套がワンピースのほとんどを覆い隠している。
小さな子供というだけで、ここではじゅうぶんに目立つのだった。
グレイは続いて、クローブ社に向かった。
シャーロットは内心で、「魔術師の仕事が見られる!」と舞い上がったのを完璧に押し殺さなくてはならなかった(が、マルコシアスはそれを完璧とは思わなかったらしい。腕輪の形のかれが、ぎゅうっとシャーロットの手首を絞め上げたので、シャーロットは葬儀のごとき敬虔な眼差しを見せることになった)。
けれども、その苦労も必要のないものだった。
クローブ社の入口を入ると、そこは訪問者にみずからの靴の裏に泥がついていないかどうかを一考させるような、きらきらした大広間となっている。
その大広間の真ん中には円環状のカウンターが設けられており、そのカウンターの向こう側(あるいは、内側)に、頭にちょこんと灰色のベルベットの帽子をかぶった女性が座っている。
グレイはつかつかと靴音を立ててそちらに歩み寄ると、ベルベットの帽子の女性に囁いた。
シャーロットはちょろちょろとグレイについて動き、その声を聞いていた。
「――研究部アントレ班のグレイからミスター・アントレへ、今日は義父が体調を崩したと報せが入ったので出社できないと伝えてくれ」
ベルベットの帽子の女性は完璧な微笑を浮かべていた。
くっきりと化粧を施された顔をほとんど歪めずに、女性ははきはきと言った。
「はい。研究部、アントレ班のミスター・グレイ。ミスター・グレイよりミスター・アントレへ、本日はお義父さまのご体調がすぐれないためミスター・グレイは欠勤なさる旨、お伝え申します」
「ありがとう」
グレイはそう言って、シャーロットに合図してきびすを返した。
シャーロットはもの珍しさが勝って、思わず振り返り、きょろきょろと辺りを見回してしまう。
どこもかしこもきらきらしていた。
大広間から出る通路は五本あったが、その五本のどれもが、今は大量の背広の男性たちを呑み込んでいる最中だった。
ベルベットの帽子の女性は、完璧な仕草で頭を下げている。
「お疲れの出ませんよう」
その声に見送られ、シャーロットはふたたび、グレイに連れられて外に出ていた。
外套をかき合わせながら、シャーロットは鼻をすする。
これからどこに向かうのだろう、と思いながらちらちらとグレイを見上げていると、驚いたことにグレイに急いだ様子はなかった。
彼は、忙しなくクローブ社の中へ入っていく人波を眺めながら、その人波をかわすことの出来る、クローブ社の社屋の壁際にしばらく立っていた。
人波のうちの何人かが、ちらっとグレイを見た。
それがどことなく胡乱な眼差しに思え、シャーロットは居心地が悪かった。
「あの……」
シャーロットがつぶやくと同時に、グレイが懐を探って、家を出た直後と同じくシガーケースを取り出し、紙巻煙草を口にくわえた。
しばらく火を点けないままでいたが、やがて指で紙巻煙草をつまむと、また呪文を唱えて紙巻煙草に火を点けた。
ゆっくりと紫煙が立ち昇る。
グレイは深呼吸するように一服し、そのあいだに何かを考え込んでいるようだった。
シャーロットはその隣でじっとしていたが、三回ほどくしゃみをした。
その三回目のくしゃみで、グレイはシャーロットの存在を思い出したかのように彼女を見下ろした。
「――ああ、いけない、昨夜の寒さで風邪を引いたかな」
シャーロットは首を振る。
そんな彼女を苦笑ぎみに見て、グレイは優しくつぶやいた。
「きみ、駄目じゃないか。今こそ隙を突いて逃げ出すタイミングだっただろう。何をぼんやりしているんだね」
「――――」
シャーロットは言葉に困ってグレイを見上げた。
何しろ、まだスミス氏のスの字も見えていないので、今逃げ出しても何の目的も達されないのだ。
シャーロットが困惑したのは、グレイのこの言葉が冗談か否かを判別しかねたためでもあった。
グレイはいっそう苦笑して、紙巻煙草の先端から灰を落とした。
そして、独り言のようにつぶやいた。
「いや、でも、そうだね。きみが助けを求めるにせよ、グレートヒルの中心部の方が警備は厚い」
シャーロットはやはり黙っていた。
ぷかりと煙を吐き出したグレイが、まだ半ばが残っている煙草を足許に落とし、それを靴裏でぐりぐりと踏みつけて火を消した。
彼はいっそう疲れて見えて、家を出てから今までで、五つほども歳をとったようだった。
「――さて、ミズ・ベイリー。時間切れだ。
きみは突くべき隙を逃してしまった。ついておいで」
▷○◁
アーノルドは道に迷ってまごついていた。
彼の想像以上に、ここは広大な場所だったのだ。
――ここまでは、首尾も上々だった。
アーノルドは夜明けを今か今かと待ち、いつものように、生涯にただ一度も笑ったことなどないと言わんばかりの、無愛想な男が食事を運んでくるのを待ち構えた。
そして、扉が開くや否や、昨日までののほほんとした態度を捨て去って、勢いよく彼に飛びつき、不意を突かれた彼が倒れ込んだところを部屋の中に蹴り込むことに成功した。
蹴り込まれた男が猛然と反撃してくる予感があったので、アーノルドは全力で彼の鳩尾に飛び蹴りの踵を決めた。
男は目を剥いて倒れ、アーノルドは一仕事終えた達成感に額を拭った。
スラムでも炭鉱でも、自分より体格のいい相手と殴り合いになるのはしょっちゅうだった。
アーノルドはそれから、運ばれてきた食事のうち無事だったものをありがたくいただき(食事を無駄にするなど、アーノルドにとっては王さまの顔に泥をぶっかけるよりも酷い罪悪だった)、倒れてぴくりとも動かない男が生きていることを念のため確認したあと、彼のお仕着せを強奪した。
さすがに、グレートヒルがぼろ同然の服でうろついていれば悪目立ちする場所であるということは彼にも分かったし、何よりも寒かったのだ。
男が来ていたシャツとズボン、ウエストコートをはぎ取ったアーノルドは、とりあえず男をそのへんの埃よけの布でくるんでおいた。
こうしておけば、凍え死ぬことにはなるまい。
アーノルドは、ズボンの裾を三回ほど折って穿き、シャツを着てみたところ、裾も袖も盛大に余ったので、裾はズボンに押し込んで、袖はまくり上げた。
ウエストコートだけは誤魔化しようがなかったが、仕方がないと割り切って、意気揚々と彼はその部屋を脱出した。
――そして、今に至る。
(いやだって、仕方ないだろ……!)
そもそもが、半地下から地上への階段を探すのが大変だった。
歩けど歩けど終わらない廊下、どんどん分岐していく廊下、気づけば自分が歩いてきた道ですら定かではない。
やっとの思いで階段を見つけて昇ってみれば、その階段が妙に長く続き、おかしいなと思っていたところ到着したのは二階だった。
絶句である。
しかも半地下には人気はなかったというのに、ここは人であふれていた。
その全員が小綺麗な身形をしているので、アーノルドとしては全身が緊張のあまりぞわぞわする。
広い廊下、大きな窓が開いていて、辺りは明るい。
いつの間にか、外は明るく晴れ渡っているようだった。
自分がかなりの時間、半地下でうろついていたことが分かって、アーノルドは眩暈を覚えた。
床はぴかぴかに磨き上げられた大理石、白亜の壁、凝った形の柱が立ち並び、高い天井には何やら彩色あざやかな絵画。
初めて見る世界に、アーノルドは唖然と口を開けていた。
彼が茫然としたことに、廊下は幾つかが並行して走っているようで、等間隔に壁にアーチが開いて(アーノルドは知らなかったが、その間隔は正確に四十九フィートだった)、そうした廊下との行き来が出来るようになっている。
そしてもちろん、その廊下が更に分岐して奥へと続いていく。
もはや、自分が果てしない迷路の中に放り込まれたような気分になる。
ともかくもここから出なくては、と思って、さり気なく窓に近寄ってみた――いっそ飛び降りるのもありだと思ったのだ――が、アーノルドはそこで危うく悪態を吐きそうになった。
窓はことごとく嵌め殺しだった。
硝子は分厚く、頭突き程度で割れそうにはなかった。
まごついてうろうろしていると、周囲の会話もよく聞こえてきた。
「今日は首相がいらっしゃるから」、「前回の議事録は複写したか」、「お茶はどこに」、「マリンスター議員の秘書の方がお見えです!」、「逓信省のエボットを見なかったか?」。
そういう会話が徐々に頭の中に沁み込むにつれ、アーノルドは、気が進まないながらも認めざるを得なかった――自分はグレートヒルの、まさにど真ん中に放り込まれていたのだ。
身柄を逃がしてはならない相手を閉じ込めるのに、これ以上の場所はあるまい。
見慣れない顔は即座に誰何がかかるだろう場所だ。
だがそれも、アーノルドが顔を伏せてたくみにこそこそする技術を身に着けていなかった場合の話だが。
(これは――スミスさんって、思ってたよりやばい人だったり……)
嫌な予感に冷や汗が滲むアーノルドは、突然肩を叩かれて、思わず飛び上がるほど驚いた。
一瞬、振り返った先にスミスがいることを予感して腹の底が冷える心地がしたが、違った。
そこには、今のアーノルドと同じ――つまりは、半地下でひっくり返っている例の彼と同じ――お仕着せを着た、年のころは十六程度と見える少年が、肩をすぼめるようにして立っていた。
「おい、こらっ」
声をひそめて怒鳴られた。
アーノルドはぽかんとするような愚は犯さず、とりあえず申し訳なさそうにうなだれてみせた。
多分、ここはこのお仕着せを着ている人間は入ってはいけない場所なのだ。
少年の表情がありありとそれを物語っている。
「使用人が議事堂に入ったってお達しが来たぞ! ほら、早く来いって!」
遠慮なく手を引っ張られ、アーノルドはこそこそと少年の後に続いた。
おそらく、誰かがアーノルドを見て――というより、アーノルドの格好を見て――直接彼に注意するのではなくて、その上役に当たる人間に注意を飛ばしたのだろう。
お偉いさんはときどき、回りくどいことをするからな――と思いつつ、アーノルドはそういった人間に、内心で舌を出してみせた。
少年は、あれほどアーノルドが迷った廊下を迷いなくすいすいと歩き(入ってはいけない場所にしては、妙にすいすい歩くな? と、アーノルドは怪訝に思った)、いとも容易く彼を外へ案内した。
正面玄関ではなく裏口に当たる場所なのだろう、あの立派できらびやかな内部にそぐわない、小さな扉から外に引っ張り出され、その先に広がる――まだ日陰になっている――芝生で、アーノルドはふう、と息を吐いた。
すばやく扉を閉めつつ、アーノルドを引っ張り出した少年もまた、安堵に息を吐いている。
そして、ぐいっとアーノルドの襟首を掴むと、低い声で凄んだ。
「おいお前、メッケンシーさんが、誰が議事堂に残ってるんだってめちゃくちゃ怒ってるからな。お前――お前?」
少年が訝しそうな表情になった。
ぱっとアーノルドの襟首から手を離し、少年が瞬きする。
「お前――誰?」
ごもっとも。
少年とアーノルドは初対面である。
アーノルドは内心で、すばやく祈りを捧げてから口を開いた。
「おれ……おれ、今日が初めてで」
ここまで大きな場所なのだ。人員の入れ替わりは頻繁にあるだろう、あってくれ――というアーノルドの祈りは、はたせるかな通じた。
少年の表情から、怪訝の八割が消え去った。
「ああ、新入りなの? メッケンシーさん、そんなこと言ってなかったけど――もしかしてアングレアさんの方?」
よく分からないが、使用人には二人のボスがいるらしい。
アーノルドは頷いた。
そして、そっと言い添えた。
「用事が終わったはいいんだけど、迷っちゃって、出られなくて……」
議事堂(というらしい、馬鹿でかいこの建物)を妙にすいすいと歩く少年、そして先ほどの、「誰が議事堂に残ってるんだって」という台詞、これらから推して、このお仕着せの人間が議事堂に立ち入れないのは、時間によるものではないかと思ったのである。
おそらく、早朝は立ち入りが許されるが、ある時間になれば速やかに引き上げなければならないといった決まりがあるのでは、と考えたわけだ。
よく考えるまでもなく、この大きな議事堂を、誰かが磨き上げなければあのきらびやかさは維持できないわけで。
そしてそもそも、半地下でひっくり返っている例の彼は、早朝にアーノルドに食事を届けに来ていたのだ。
つまりその時間は、この場所でうろついていても不審には思われないということに違いない。
はたして、少年はおおむねの事情(嘘だが)を呑み込んだ様子で頷いた。
それどころか笑ってくれた。
「ああ、そういうことね。取り残されちゃったんだ。お前、チャックと一緒にいなかったの? 馬鹿だなー」
ばんばん、とアーノルドの背中を叩いて、少年は快活に笑った。
「アングレアさんは優しいからな。アングレアさんに事情を話して、それからメッケンシーさんを宥めてもらえよ」
アーノルドはこくんと頷いた。
チャックというのが誰であれ、今日はこの少年と話さない運命であれ。
少年は、アーノルドがまごついていると思ったのか、笑いながら肩を押してくれた。
「ほら、俺はメッケンシーさんのところに戻って、議事堂に残ってたのはアングレアさんとこの間抜けな新人でしたって言ってくるから、お前はさっさとアングレアさんのとこに戻れよ」
アーノルドはおずおずと微笑んだ。
痩せて無害そうな顔の上で、睫毛の長い大きな目が伏せられる。
シャーロットが彼の顔を見て、「顔は女の子といっても通りそうなほどに整っている」と評したことがあるが、それと全く同じ感想を抱いたのか、少年がちょっとびっくりしたような顔をした。
アーノルドは申し訳なさそうに微笑んだままで、つぶやいた。
「……おれ、道わかんない」
少年は噴き出した。
しばらく大笑いしてから、少年が懇切丁寧に教えてくれる。
まっすぐ進んで噴水のある角を右、それから生垣に沿って進んで、最初に行き当たる細い道を左、道なりに進んで、次の分かれ道も左。
アーノルドはそれを右から左に聞き流しつつも、いかにも感じ入ったふうにうなずいた。
それから、はにかんだ笑みを浮かべた。
「あのさ、おれ、もしかしたら迷うかもしれないから……おれがアングレアさんに話す前に怒られたら嫌だからさ……」
見ず知らずの少年の親切心につけ込んだ、アーノルドのいちかばちかの賭けが当たった。
少年は鷹揚に頷いてみせたのだ。
「分かった分かった。俺もちょっと時間潰して、メッケンシーさんに伝えるのはちょっと待ってやるからさ」
アーノルドはにっこりした。
本心からの安堵だった。
――メッケンシー氏、あるいはメッケンシー女史から話を聞いたアングレア氏――あるいは女史――に、「今日は新入りなんていないはずだぞ」とばれてしまうと、大いに困るのだ。
「ありがとう、恩に着るよ」
少年は肩をすくめた。
「いいってことよ。今度会ったら何かおごってくれよな」
アーノルドは手を振って、少年に教えられた方向へ小走りで向かった。
しばらく進むと噴水が見えてくる。
アーノルドは振り返った。
少年はこちらを見守っており、早く行けとばかりに手を振ってくれる。
アーノルドはぺこりと会釈して、角を右に曲がり、そこで足を止めた。
しばらく経ってから顔を出してみると、少年はもうそこにいなかった。
アーノルドは大きく息を吸って、複雑奇怪に広がって見える、庭園と議事堂周辺の小さな建物群を見渡した。
いや、議事堂が並外れて大きいだけで、周辺の建物も決して小さいなどということはないのだ。
自分がちっぽけなしみの一つになったような錯覚と眩暈を覚えつつ、アーノルドは気合を入れ直した。
――ここから、なんとかしてシャーロットを見つけ出して合流し、どうか誘拐にグレイが絡んでいたことは黙っていてくれないかと、そう頼み込まなくてはならない。
「……ま、たぶん、この豪勢な建物のかたまりの、入口の方で張ってれば通るだろ」
そう独り言ちてから、アーノルドは急に不安になってつぶやいた。
「――入口が一つだったらいいんだけど」
議事堂の位置と太陽の位置を大雑把に見て、アーノルドはひとまず、ローディスバーグ市街の方向であろうと推察できる方へ向かって駆け出した。
彼の背中に響くように、議事堂の上の鐘楼から、九時を告げる鐘の音が鳴り響いた。




