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03 シャーロット・ベイリー

 プロテアス立憲王国は、エルフェイア大陸の西方に位置する。

 東西南を他国に接し、その国境線は時代とともに激しく変動してきたが、ここ八十年程度は、和平のうちにその国境線も安定していた。


 そして北は海に面しており、その海はまさにこの国のために、大陸を穿って喰い込んでいるが如き地形を成していた。

 その青々とした海をローディス湾という。


 この湾が、帆船の時代からこの国に多くの富をもたらしてきたのだ。


 そしてそのローディス湾を擁するローディスバーグは、この国が立憲王国となる遥か以前から、揺るがぬこの国の中心を為してきた都市であった。


 かつては海辺の絢爛な城塞であった王宮こそがその心臓として煌びやかに栄えたが、今やその時代は去り、この国の心臓は目下、グレートヒル――通称〈神の丘〉あるいは〈神の墓〉、古い神を葬った巨大な塚であると言い伝えられるところの、なだらかな丘の上に建造された、無愛想な灰色の議事堂であった。



 少女はその丘に特別な思い入れを持っていた。

 とはいえ、彼女が特段深い繋がりをその丘に持っているかといえばそうではない。


 しかしながら彼女が幼さゆえの憧憬をその地に抱く理由としては、彼女の先祖の一人がその地に眠る神の祝福を受けた乙女だったのだ、と、物心ついた頃に枕許の父から聞いた御伽噺のゆえであった。


 そんな御伽噺を娘に聞かせた父の家系は、しかし、決して裕福ではなかった。


 少女からみたときの祖父、つまり彼女の父の父は、材木の卸により生計を立てていた。

 これは曾祖父が唐突に始めた事業であったらしく、この材木卸を始める以前に曾祖父が何をしていたのかを、祖父は決して父には語らなかったという。

 材木卸は零細ながらも基盤を獲得しながら発展していたが、しかし、西ハースズ商会の台頭により、細々と続けられる材木卸の家業は暗雲を見た。

 高値で材木を買い取るその商会に、林業者は揃って材木を差し出した。

 少女の父は敏感にその情勢を察し、己の道を決めた――彼は数字を学び、やがて陰鬱な灰色の、牢獄のような建物を自身の勤め先として得た。

 彼は銀行で、他人の資産を預かり、そしてそれを他に貸し付け、利息を取ることにより、生活を支えた。


 彼は幼少期から育った田舎を離れ、その銀行が町の真ん中に横たわる都市、ケルウィックへと居を移した。そこで彼女が生まれた。


 ――そう、彼女は聞いていた。


 そして彼女はといえば、初等学校の卒業を間近に見据えた段階で、既に己の道をこれと定め、渋る両親を説き伏せていた。


 ――そう、魔術師である。



 ――つい二箇月前までは、輝かしい未来を確信していたのに!



 内心で、数万回目の悪態をこぼしながら、少女は慎重に部屋の扉を引き開けた。

 細いその隙間から、薄暗い廊下を窺う。


 床が軋む音がしないことを十分に確認してから、彼女は日用(デイ)ドレスの裾を摘まみ上げ、自分の身体ぎりぎりの幅に開けた扉の隙間から、静かに廊下に滑り出した。


 彼女の動作自体は非常に静かなものではあったが、如何せん古い床はそうはいかなかった。

 少女の軽い目方にさえ、床は苦痛そうに軽く呻いて、軋んだ。


 彼女はどきりとして足を止め、そしてその場で耳を澄まし、誰の足音も聞こえてこないことを確認した。


 ほう、と息を吐いて、彼女はなおもどきどきと跳ねる心臓を抱えて、慎重に次の一歩を踏み出した――


「――ねえ」


 そして、唐突な声に、今度こそ飛び上がるほど驚いた。

 心臓が胸の中で回転したかのように思え、彼女は両手で胸を押さえた。


 どっどっどっ、と鳴る心臓に眩暈すら覚えながら振り返ると、つい先ほど召喚したばかりの彼女の悪魔が、戸枠に凭れ掛かって彼女の方をじっと見ていた。


 いつの間にか、かれが扉を大きく開け放っていたのだ。

 蝶番が軋む音が聞こえなかったことに彼女は驚いた。


 少年の姿をした悪魔は、人を丁寧になぞらえた姿で、如何にも億劫そうに肩を竦め、その拍子にずれそうになったストールを押さえた。


 そのストールに隠された首許に、鉄の色合いと風合いの枷が嵌められたことを、つい先ほど彼女は目にしていた――だがそれは本当の鉄というわけではなかった。魔術師と悪魔の契約が疑似的に示された現象でしかなかった。


 少女の読んだ文献によれば、枷の色合いや風合いは様々で、如何なる原理でそれが決定されるのかはまだまだ研究の余地があるとのことであったが、一説によればそれは、魔術師の人柄が現れるとも言われていた。


 少女を眺める悪魔は、つい、と、部屋の中を指で示した。

 痩せた少年の指はやや骨ばっていた。


「これは置いていくの?」


 これ、と示されたのは、その埃っぽい空き部屋の片隅に置かれたトランクと外套だった。


 彼女は眉を寄せた。

 眉間に綺麗な縦一本の皺が入った。


 彼女の母に、「不機嫌の縦線」と揶揄されるものである。


「もちろんよ。トランクと外套を抱えて大叔父さまに見つかってごらんなさい、どう言い訳するっていうの」


 悪魔は、悪魔としてはあるまじきほどに人間を忠実に真似た仕草で瞬きした。


 そして唇を曲げて、笑みの真似事を象った。

 さも大発見をしたかのように、かれはゆっくりと言った。


「なるほど。ここはあんたの大叔父の家なんだね」


 少し黙ってから、悪魔マルコシアスは勿体ぶって続けた。

 淡い金色の目が、興味深そうに少女の顔を眺めていた。


「そして、あんたは内緒で出て行くわけだ。ということは、あんたの出発に際して、その大叔父さんからのいってらっしゃいのキスはないらしいね」


 少女は顔を顰めた。



 更に言えば、彼女自身の格好も、決して日頃のものではなかった――今日、この悪魔の助けを借りてわが家に帰還することを前提に、彼女はこのドレスを着込んだのである。


 確固たる彼女の意見を表明するに当たり、まずは形から入ろうと。


 だが、大叔父が日頃から彼女の装いを気に留めているかといえば、それは否だった。

 彼が気にしていることは、彼女が間違いなくここにいること、その一点だった。


 そしてそれは、崇高な使命感や――彼女への加虐の意思の下で気に留められていることではなかった。


 大叔父が生活に窮し、この古い屋敷を持て余し、手放せばいいものをこの屋敷に固執するが余り、到底彼の生活に見合ったものとはいえない租税の支払いを求められ、父に相当額の資金を融通してもらっていることを、彼女は知っていた。


 大叔父は父に弱味を握られているに等しい。

 この場合の大叔父は、彼女の母の縁戚であって、父のではない――血の繋がりもない相手への借金を、大叔父は気まずく思っており、とてもではないが父の頼みを断ることは出来ない。


 つまり、父こそが、彼女をこの屋敷に置いておきたいと思っている張本人なのだ。



 少女は息を吸い込んだ。

 その足許で、ぎぎっ、と、床板が軋んだ。


「ありません。私、お財布を取ってここに戻るから――」


 少女がそこまで言ったとき、悪魔マルコシアスは、軽やかな動きで空き部屋を出た。


 床を軋ませることもなく、少年の形を取った悪魔は少女の目の前に立った。

 そして、少女が無意識に向いていた廊下の一方向の先を見据えて、素気ない仕草で頷いた。


 悪魔が自分に先立って歩き始め、少女は口の中で小さく悪態をついた。

 だが、どうすることも出来なかった。

 悪魔と魔術師が交わすのは、報酬を対価とした契約であって、奴隷契約ではない。


 何もかもを思い通りにすることは不可能で、重い命令違反があれば、魔術師はそれを咎めて契約を棄却し、報酬を渡さずして悪魔をかれらの世界に戻すことになるが、この程度ではそれほど重い命令違反とはいえなかった。


 だがしかし、ここで大叔父に見つかり、悪魔を召喚したと露見するのは避けたかった。


 何しろ、少女が魔術を用いることは、まだ免許されていることではなく――特に免許がないからといって国家権力に罰されるものではなかったが――褒められたことではないからだ。


 しかも、召喚したのは魔精ではなく魔神だ。

 十四歳という彼女の年齢を鑑みれば、持て余して暴走させてしまうことすら考えられる。


 身内からのお咎めは重いものになるだろう。


 もっと悪くすれば、それが()()()()()()()()の耳に入ることになるかも知れない――


「待ちなさいってば、もう」


 つぶやいて、少女は小走りになって、小さく軋む床板の上で悪魔に追い着いた。


 そして、言うだけは言ってみようと思い立ち、かれに向かって小声で尋ねた。


「お前、あの部屋で待っている気はない?」


 悪魔は聞こえなかった振りをした。


 これみよがしに、悪魔は空中から物を掴み出す仕草をして、そしてその手にどこからともなく現れた木綿のハンカチを握っていた。

 かれはそれで、わざとらしく鼻をかむ真似をした。


 あの部屋の埃っぽさが気に入らなかった意思表示であると正しく受け取って、少女は溜息を零し、片手で髪を掻き回した。


 寝癖が残っていた金髪が、それでいっそうぐしゃぐしゃになった。



 ――だが、大叔父が普段近寄らない空き部屋にしか、召喚陣を描いてはおけなかったのだ。


 初めて召喚する悪魔を呼び出すに当たっては、どうしてもあの召喚陣が必要となる――彼女はあの召喚陣を、二日がかりで描き上げたのだ。


 一度でも召喚したことのある悪魔であって、しかも直近の召喚からさほど時間が経っていない場合には、円にシジルのみを描き、呪文を唱えることでの召喚も可能となる――この交叉点(せかい)における常識や知識を受け渡す工程を省略でき、言葉の不自由を埋める工程も、極めて簡便に、呪文によって代替できるようになるからであって、他の細かい契約事項も、かつて召喚した悪魔であれば、そのときの決め事を流用できるからだ。

 謂わば、一度でも召喚したことがある悪魔であれば、魔術師との間に一種の記録が残っているようなものなのだ。


 だが、言うまでもなく、少女にとってはこれが初めての召喚だった。


 更にいえば、()()()()()()()()姿()()()()()()()悪魔であれば、召喚陣そのものを省略し、呪文と報酬の提示のみで契約を結ぶことも理論上は可能だったが、これは現実的ではなかった。

 悪魔がこの交叉点(せかい)にいるということは、既に他の魔術師と契約を交わしているということであり、その契約に割り込もうとするのであれば、〈身代わりの契約〉が致命的な働きを見せるからだ。

 ――閑話休題。



 ドレスのかくしに押し込んだ、『神の瞳』の感触を得て、彼女は衣服の上から、ぎゅう、とそれを押さえた。


 ――これは魔術的な遺産であり、その中でも他とは別格の、超特級というべきものだった。


 歴史上、これは幾度も現れる――これを持つ魔神(魔精では、どうやら、この『神の瞳』の性質に負けてしまうらしかった)は、悉くその力を大きく増した。


 それがために、この品を得んがために主である魔術師を裏切る魔神もかつては居たという代物。


 それがどうしてある日突然、この寂れた屋敷の庭に降ってきたのか、それは彼女には分からなかった。

 だが、歴史上幾人もの魔術師の手に渡り、それ以上の数の魔神が奪い合ってきたこの品は、現在のところ行方不明とされていたはずで、どこの国家に属するものでもなかったはずだ。


 であれば、これを私物としたとして、盗人の誹りは受けるまい。



 ――ならば、この幸運を活かさない手はない。



 少女は足音を潜めて、廊下の果ての狭い階段を上がった。


 かつては使用人のためのものだったのだろうと思われる、この廊下を逆向きにずっと行った先にある階段とは、比べ物にならない粗末な階段だった。


 その階段に敷かれた絨毯は、すっかり古く、埃が溜まって変色し、擦り切れてところどころが破れていた。


 手摺にも埃が分厚く積もっており、いかに手入れがされていないかが窺われる。

 そしてこれは、この廊下を逆向きに行った先にある階段であっても、状態としては概ね同じものであった。


 初めてこの屋敷に入れられたとき、彼女はこの埃の群れが怖かった。

 いかにも不潔で虫が湧きそうで、今もじゃっかん爪先立ちになって歩いてしまうくらいだった。



 とはいえ、魔神とその機微を共有できるものではなかった。

 魔神は軽やかな動きで階段を上がった。

 少女の目方によってさえ軋む階段も、魔神の足許では沈黙を守っていた。


 階段を昇った先の三階は、極端に天井が狭かった。

 この最上階は、元々は物置としての設計だったのだろう――小さな部屋のドアがいくつか並んでいる。


 少女は頻りに背後を気にしながら、そのうち一つのドアを開けた。


 そこで咄嗟に、魔神に向かって「入って入って」と急かす身振りをしたのは、彼女自身に、この魔神を隠さねばならないという意識が働いていたためである。

 魔神は小柄な身を大仰に屈めて、そのドアをくぐった。


 入った部屋は小さかった。


 床も壁も木の板張りで、油断をすれば梁に頭をぶつけそうになる天井の低さだった。

 短く脚を切ったベッドが奥の壁際に押し遣られて設けられており、そのシーツや掛布団に関しては、日々の使用を物語り、決して埃っぽくはなかった。


 奥の壁の上に、明り取りの小さな丸窓がある――丸窓の硝子は曇り、その硝子を通して見上げては、今日の天気ですら言い当てられそうになかった。


 右手の壁際に、取って付けたように急造されたことが分かる、貧相な造りのデスクと本棚があった。

 本棚には傷んだ本が数冊入れられているほか、少女を絶望の底に叩き落とし、そして最高に苛立たせた手紙が、恨みを籠めて無造作に突っ込んであった。


 少女はここに、自分が持参した本も詰め込んでいたが、それらの本は今はトランクに収められている。

 ここに残っている本は、大叔父が僅かな気遣いで用意していた、古い童話の本ばかりだった。


 どうやら大叔父さまは私のことを、六つか七つの子供と思っているらしい、と、初めてこの本棚を見たとき、少女は絶望と共に考えたものである。





 魔神マルコシアスは、ぐるりとその狭い部屋を見渡した。


 梁の一本から、小さなランプがぶら下がっている。

 ランプにはもちろん今は灯が入っていなかったが、ランプの硝子はひどく曇って汚れていた。



 少女は、デスクと対になるようにして置かれた、如何にも座り心地の悪そうな、硬く、高さも微妙に足りない椅子に無造作に置かれていた、小さな、古ぼけた赤いポシェットを、飛びつくようにして拾い上げている。


 ポシェットの口を開け、中の手荷物を確認しているようだった。


 少女が安堵の息を吐き、マルコシアスは彼女が所持金を無事に手にしたことを悟った。



 マルコシアスは本棚に目を移した。


 古びた背表紙の文字列を追う――問題なく読むことが出来た。

 前回かれを呼び出した魔術師は腕が悪く、召喚陣を通ってもなお、言葉は分かれど文字を読むことは出来なかったものだが、この少女はきちんと、文字の知識も召喚陣に入れ込んでくれていたらしい。


 文化文明への理解と知識は過去の召喚からも引き継げるが、その基となる言語――言葉や文字など――は、あまりにも膨大で複雑で、召喚陣の助けなしには覚えていられるものではなかった。



 そうだろうか、と疑問に思う者は想像するといい――ある日突然異国の地に呼び出され、不思議な力によってその国の言葉が分かるとすれば。

 恐らくそれに甘えて言葉を学びはするまい。

 その国の風土に親しむことは出来ても、いざその不思議な力が失せてみれば、それらの理解は全てあなた自身の言葉に基づいて為されているはずだ。

 肝心のその国の言葉を、話してごらん聞き取ってごらん読んでごらんと言われても、あなたはきっと困惑するだろう。



 ――そのとき、部屋の外から足音が聞こえた。


 少女がびくっと肩を跳ねさせ、その拍子にポシェットを取り落とした。

 ポシェットはその小ささの割にずっしりした音を立てて、床に着地した。


 彼女が魔神を振り返る。

 魔神は落ち着き払って彼女の視線を受け止めた。


 少女はおろおろと足踏みしてから、「絶対にここから出ないで、物音も立てないで、見つからないで!」と厳命し、やや青ざめた顔で、その狭い部屋のドアを開けた。


 素早くそのドアを閉めた少女の声が、薄いドアなどものともせずに聞こえてきた――「大叔父さま、おはようございます」。



 マルコシアスは軽く肩を竦めたが、ドアの外には一定の注意を払っていた。

 もしも仮に、ここで「大叔父さま」とやらが、少女が家に帰ることを妨害しようとしたならば、かれはそれに対処せねばならない。

 それが契約だからだ。


 マルコシアスは――()()()()()()、〈()()()()()()()()()〟は、契約に対して極めて真面目な性格を持っていた。


 だが、どうやらすぐにその心配はないらしかった。


 ドアの外から、低い老人の声が聞こえてくる――どうやら昨夜の少女の振る舞いについて、何か言いたいことがあるようだった。

 夜中に水を飲む際には足音を立てないで、というような旨を、ねちっこく言い立てているらしい。


 少女がひたすら謝罪し、機嫌を取り、なんとかして「大叔父さま」を階下に戻そうと、当たり障りのない返答を繰り返しているのが聞こえてきていた。



 マルコシアスは溜息を吐き、本の背表紙を流し読みし、そして本棚に乱雑に積み上げられている、封筒の束に目を遣った。


 手を伸ばして、封筒を一枚手に取る。

 中に手紙が入っている。


 それをするりと封筒から取り出して広げてみると、几帳面な文字列が目に入った――『親愛なるシャーロットへ。以前の手紙を読みなさい。書いたように、お前はしばらくそこにいるんだ。愛を籠めて、お前の父、ウィリアム』。


 愛を籠めている文章とは思えないな、と批評を下し、マルコシアスは別の手紙を手に取った。

 こちらの手紙の文章にはまだ愛想があった――書かれた日付も、少し前のものとなっていた――『可愛いチャーリー。不便をさせてすまないが、父さんの言うことを分かってほしい。もう少し大きくなったら、お前にも私の言うことが分かるはずだから。お前のこれまでの努力はもちろん知っているし、私も応援してきたことだ。お前がどれだけ望んでいることなのかも分かっている。それでも、お前にはしばらくそこにいてほしい。いつまでと言えなくてすまないね。いつもお前を思っている。身体に気をつけて、好き嫌いはせず何でも食べるようにしなさい。大叔父さまにご迷惑のないようにね。愛を籠めて、父さんより』。


 ざっと手紙に目を通したところ、どうやら少女が帰宅を願う手紙を出し、それを撥ね付ける手紙が父から届き――という繰り返しのようだった。


 その繰り返しに少女の父も嫌気が差し、徐々に文章が素気なくなっていったものだと思われる。


 稀に、少女の母親と思しき女性からの手紙もあった――『チャーリー、いい子にしてね! 今を我慢すればきっといいことがあるわ。戻って来たら、また試験を受けられるように計らいましょうね。お友達のケイトから、あなたによろしくとのことでした。()()()()()()も大概になさいね! お父さんも困ってらっしゃいますよ。愛を籠めて、母さんより』。



 ふむ、と、マルコシアスは顎に手を当てた。

 人間が考え込むときによく見せる仕草だ。


 そうしながら、マルコシアスは唇を曲げる――なるほど、では、少女はどうやら家出を決行した先で温かく迎えられるとは限らないらしい。


 電話をかけて迎えに来てもらう、という手を採らないわけもこれで分かった。

 とはいえ、この古びた屋敷に電話が引かれているのかは知らないが。



 きぃ、とドアの蝶番が軋む音がして、マルコシアスは振り返った。


 そしてそこに、眉間に皺を寄せた新しい主人の姿を見つけて、愛想よく頭を下げてみせる。


 少女は溜息を吐いた。


「――おかしいわね。召喚陣で、礼儀作法についても一応は伝わるようにしたはずだけれど。他人の手紙を読むのはいけないって、分からなかった?」


 マルコシアスは、手に持ったままの手紙をひらひらと振った。

 そして申告した。


「ご主人さま、あんたの魔術の腕は、その年齢を考えるととってもいいよ。僕はきちんと文字が分かる」


 少女はますます眉間に皺を寄せた。

 ()()()()()()とはこのことか、と、マルコシアスは得心した。


「当然じゃない。そうじゃなきゃ、リクニスへの入学許可なんて下りないわよ」


 リクニス、と、マルコシアスは口の中でつぶやいた。


 そして、召喚陣から得た知識の中にその名前を見つけ、大仰に目を見開いてみせる。


「すごいじゃないか、ご主人さま。

 あんた、その年齢(とし)で入学許可を取ったの」



 リクニス専門学院――魔術における最高学府。


 入学は十六歳になる年から可能となり、所定の課程で允許(いんきょ)を得ることで卒業を認められる。


 おおよそ四年での卒業を想定した課程となるが、四年で卒業する者は少ない。


 初等学校八年生――つまり、十五歳になる年――に上がってすぐ、入学試験を受ける資格が与えられるが、大抵の場合、その年齢では入学許可は得られない――入学試験は難関として知られていた。


 初等学校で教わる範囲だけでは到底歯が立たぬ試験となっており、独学で魔術の基礎を固めておくことすら求められる内容なのだ。


 そのため、大抵の者はいったん中等学校へ進み、そうしながら年に一回、入学する前年の十月に行われる試験を受ける。


 ちなみに入学は九月であり、合否の判明から入学まではおよそ一年近い間がある。

 この一年の間は、合格者が入学に向けて、更なる研鑽を積むための期間として設けられていた。


 中等学校在学中にリクニスへの入学許可が得られれば、中等学校を退学してそちらの道に進むのが普通だが、中には中等学校を卒業してなお試験を突破できない者もいる。


 大抵の者は、三年間の中等学校の課程を終えれば働きに出る――更に学問を究めたい者だけが大学の門を叩く。

 尤も、中等学校の門すら叩けぬ環境に生まれ、初等学校も半ばで働きに出ざるを得ず、炭鉱や工場で真っ黒になって働く子供たちも、相当数がいることに間違いはなく、またもっと悪くすれば働くことすら出来ない子供たちも、この国にはまだ存在していたが。


 ――ともかく、中等学校を卒業する年齢を迎え、まだなおリクニスを志す者は、そこで人生の選択を迫られるわけである。


 ただし、リクニス専門学院の門をくぐり、無事に道を修めて卒業できれば、魔術師としての成功はほぼ約束される。

 施される教育の質が他とは訳が違うため、大企業や国の研究機関がこぞって卒業生を取り合うのだ。

 魔術師は政治の道に進むことは出来ないが、魔術師の仕事ならば国にはいくらでもある。



 少女の年齢は十四――今年十五になる。


 ならば、それこそ初等学校八年生の年齢だ。

 つまり、紛うかたなく、リクニス専門学院の入学許可を得られる中で最年少。


 才気が窺えるというものである。



 少女は後ろ手にドアを閉め、つかつかとマルコシアスに歩み寄ると、その手から手紙を奪い取った。


 そして、それを頓着なく折り目に沿って三つ折りにして、本棚に放り投げる。


 床からポシェットを拾い上げると、彼女は断固として言った。

 若い怒りに彼女の肩が強張っていた。


「そうよ。すごいのよ。すごくすごく頑張ったのよ。

 ――それなのに家を放り出されて、このままじゃリクニスにも入学できないわ。

 だから、帰りたいのよ」


 それからマルコシアスを振り返り、飄々と肩を竦めるかれと目を合わせて、少女は首を傾げた。



「――そういえば、自己紹介がまだだったわね。外でも『ご主人さま』なんて呼ばれたら、目立って仕方ないわ。


 ――私はシャーロット。

 シャーロット・ベイリーよ。

 チャーリーとでもロッテとでも、好きに呼んで構わないわ」



 ――さてこれは、キノープス暦九五二年、一月二十七日のことである。





▷○◁





「これが、シャーロット・ベイリーだ。

 彼女を、何が何でも引き渡すように」



 薄暗い部屋でそう告げられ、アーノルドは軽く天を仰いだ。




 泥棒の次は誘拐か。






















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