16 外に出たい!
「アーニー! アーニー! やばいよ!」
突如として扉の下の隙間に犬の鼻面が突っ込まれ、かん高い声でそう叫ばれて、床に仰向けに寝転び、立てた片膝の上にもう片方の足を乗せてのんびりしていたアーノルドは、自分の膝に頭をぶつけそうになるほど驚いた。
「はっ? えっ?」
飛び起きようとしてバランスを崩し、アーノルドはごろんと横向きになった。
その姿勢から、慌てて両手両足をついた四つん這いの体勢になる。
「なに? なに? なんかあった?
あんたのご主人が捕まったの?」
ぱんぱん、と手を払いながら膝立ちになると、扉の向こうで、犬の格好をしていたはずの悪魔が、すばやく姿を変えたようだった。
きゃん! という悲痛な鳴き声が聞こえたかと思うと、ちょろちょろと小さなトカゲが扉の下をくぐり抜けて、アーノルドの目の前に来た。
――そこは、半地下の小部屋だった。
居心地がいいとは、普通の人間はとてもいえないだろう――隙間風は吹き込むし、埃っぽい臭いがするし、石のブロックの床は硬くて絨毯もない。
窓は壁の上の方に設けられた横向きに細長い明かり取りが一つだけ、調度品といえるものは、部屋の片隅に置かれた、昔は立派だといえただろう、埃を被った安楽椅子が一つだけ。
この安楽椅子の片方の肘掛は無残にへし折れていた。
他にもそういったがらくたが、埃避けの布がかぶせられていたり、あるいは剥ぎ取られたりして、種々様々に詰め込まれている部屋で、つまりは昔の掃除道具入れとして使われていた小部屋が、体のいいごみ捨て場になったようなものだった。
そして今、お前もごみだと宣言されるかの如く、アーノルドもその部屋に放り込まれていた。
噴飯ものである。
暖炉のあるアパートを借りられるだけの金は払われると思って仕事を請けてみたら、その金は払われずこんなところに放り込まれ、身柄が保留されているのである。
本当ならば怒り狂ってもいいはずのこの処遇に、しかしながらアーノルドは特段腹を立ててはいなかった。
なぜならば、彼の古巣のスラムのごみだめに比べると、この部屋は十分に暖かかったからである。
がらくたにかぶせられた埃避けの布を拝借すれば、それが十分に毛布としての役割も果たした。
唯一の不満は食事が少ないことだったが(窓から入る明かりから推して、恐らく一日に一食だった)、それでも寝転んでいるだけで食べ物が手に入るのである。
食事は一日に一回、窓からようやく明かりが射し込んでくるころに、これまでの人生で一度たりとも微笑んだことすらないといったような、無愛想な男が運んでくる。
そのときだけは扉が開けられるが、男はアーノルドを外に出さないよう注意を払っているようだった。
今のところ、アーノルドはそれをのほほんと眺めているだけだったが。
何しろこの待遇、これまでのアーノルドの生活と比べれば天国なのだ。
――だが、とはいえ、いかに天国であっても、退屈はする。
食事を運ぶ流儀からもお察し、アーノルドに、扉を開ける自由は与えられていないのだ。
彼をここに放り込んだスミスは、振り返りもせずに扉に錠を下ろしたのである。
与えられたのはカンテラのみだった。
カンテラは今も、弱々しく夜陰を払ってぼんやりと辺りを照らしていた。
アーノルドの楽しみは二つあり、そのうち一つが、この悪魔に相手をしてもらうことだった。
そんなわけでアーノルドは、この悪魔を気に入りはじめていた。
どうやらあの魔術師、グレイといったか、その指示でここに様子を見にきているらしく、一度は彼の主人の命令で、金平糖を苦労して扉の下の隙間から通して手渡してくれた。
初めて食べる甘い食べ物に、アーノルドは気絶せんばかりに喜んだ。
そして今、その悪魔は、すっかり気が動転した様子で、アーノルドの前をちょろちょろと走り回っている。
アーノルドは手を伸ばして、トカゲを止めようとした。
「ちょっと落ち着いてくれよ。そんな風に動かれたら、おれ、あんたを見失うよ」
「声でも出してりゃいいのかよ!」
「それか、もっと派手な色になってくれるか、だな。
――で、どうしたの? あんたのご主人が捕まった?」
トカゲが、左の前肢でぺしんと床を叩いたようだった。
トカゲが小さいので仕草も小さい。
見間違いかとアーノルドは目をこする。
「違う! けど、近いうちにそうなるかも知れない――」
「なに? おまわりでも来たの?」
「違うってば。けど、それに近いかもしれない。ご主人はすっかり動転してる。
さっき、ご主人が書棚の本の奥に隠してあった酒を飲もうとしたんだけど、すっかり手が震えちゃって、めちゃくちゃこぼしてたよ。あれは、匂いで奥方にばれるね」
「なあ、何が起きたか、おれが自力で当てなきゃだめ?」
アーノルドがのんびりとそう言って、その場にあぐらをかいた。
それを見て、ようやくトカゲも落ち着いたようだった。
「あの子だよ、あんたたちが誘拐した――」
アーノルドは驚いて目を見開いた。
まったく無意識に、彼は懐の辺りを押さえた。
「シャーロット? あの子、逃げおおせたんじゃなかったのか?」
「そう、その子。逃げおおせたとも。
で、逃げおおせたその子がなんと、自分からここまで来た」
勢い込んでトカゲが頷き(トカゲとまともに会話している自分というものに、アーノルドはつねづねおかしみを感じずにはいられないが、このときばかりは例外だった)、アーノルドはぽかんと口を開ける。
「なんで……?」
「僕のせいじゃない!」
悪魔はいきりたってそう言って、それからその場でくるっと回った。
かれは少し落ち着いた声を出した。
「まさかだよ。本当に、まさかご主人の方に――」
「いやいや、待てよ」
アーノルドは片手を挙げた。
「なんであんたのご主人に行き着くのさ?
シャーロット――あの子、ほとんどあんたのご主人の顔も見てなかったはずだろう」
とたん、悪魔は貝のように黙り込んだ。
それを見て、アーノルドは懐疑的に顎を撫でた。
ははあん、もしかしてこいつ、何かの拍子にあの魔術師の身元の証拠でも残しちゃったのか?
だが、それをとやかく問い詰めても始まらない。
期待外れを神さまと人に向かって言うのはナンセンス。起きたことは起きたことだ。
アーノルドは首筋を掻いた。
「それにしても変だな。シャーロット――あの子、あんたのご主人を憲兵に突き出すつもりなら、別にあんたのご主人のところに乗り込まなくてもいいんじゃない? 憲兵に、あんたのご主人が住んでる家の番地を書いた紙を渡せばいい」
何しろ、シャーロットは人に教えられるくらいには字が書ける。
悪魔はトカゲの姿のまま、何かを言おうとしては言葉を呑み込んでいる。
アーノルドは溜息を吐いた。
悪魔と――少なくとも、この悪魔と――関わり合うようになって、彼が学んだことがいくつかある。
それは、かれが――少なくとも、自覚している範囲においては――、主人への不利益を避けようとするということだ。
また、仮に自分が主人に不利益を運んでしまったときは、それを全力で隠蔽するだろうということだ。
どうも、アーノルドにはよく分からなかったが、あの魔術師がこの悪魔を罰するに足る、何かの確固たる手段があるらしい。悪魔はよくそれを恐れるような顔をしていた。
つまり、悪魔にかれの失態を尋ねるときは、その失態そのものに触れてはいけないのだ。
あくまで、かれがどう考えるかを、それによってかれの犯した何がしかの失敗に触れることはないと言外に確約した上でないと、かれは何も話してくれなくなる。
「あんたはどう思う、リンキーズ? あの子がどうやってあんたのご主人に行き着いたのかはさておいてだ、なんでわざわざ自分で会いにきたんだと思う?」
「あ、あー」
リンキーズはアーノルドのささやかな気遣いに思い至った様子もなく、トカゲの喉から唸り声を上げた。
「どうだろうね、僕にも分からないけれど、たとえば、どうだろう、僕のご主人が自発的に自分を誘拐したんじゃないって、あの子が気づいちゃったのかな」
「――――」
アーノルドは瞬きして、あぐらを崩して片膝を立てた。
彼は少し考えた。主にこの数日のことを。
――ものすごく退屈だった、と彼は述懐せざるをえなかった。
確かに快適ではあったが(この状況を少なからず快適と考えることが異常だと、そう指摘する者は彼の頭の中にはいなかった)、絶望的なまでにやるべきことがなかった。
彼がしていたことといえば、この悪魔と言葉を交わしたり、旅行用の小さな辞書に挟まれた紙切れで文字の練習をしたり、そんなことだけだ。
本音をいえば、そろそろ外に出て、身体を伸ばしたかった。
自由に大空の下を歩き回ること、これは生来の欲求である。
そして、単に外に出るだけでは――この扉をなんとかして突破して、外に立ってみるだけでは、アーノルドは非常にまずい立場に置かれそうだった。
ここで身柄を保留されていることからもお察し、アーノルドを自由に伸び伸びと生活させてやることは、スミスの計画にはあるまい。
もっといえば、スミスにはアーノルドに約束の報酬を支払う気があるのだろうかと、何百回目かに考えて、アーノルドは悲しい気持ちになった。
「あんたのご主人の上に誰かがいることに気づいた、ね……」
分かっていることから整理しよう――ここはグレートヒル、〈神の丘〉だ。それは分かる。
いかにアーノルドに教養がないとはいえ、このローディスバーグのごみだめで暮らしていたのだ。噂話でもグレートヒルの話は聞く。
たとえば煙突掃除をしているときにでも。
そして遠目に、なるほどあれがグレートヒルの端っこなのだな、と納得するような、立派で堅牢な建物のてっぺんを見ることもあった。
だが、今いる場所はそこよりも更に奥だった――スミスは、例の誘拐が失敗して、あのオウムの姿の魔神(そういえばかれはどこにいるのだろう、しばらく見かけていない)に彼らを回収させたあと、ものも言わずに彼をここに連れてきた。
汽車に乗せ――辻馬車に乗せ。
辻馬車は厳重な壁に開いた門を通り、幾度かの誰何を乗り越えてここに辿り着いていた。
右も左も分からないアーノルドは、あれよあれよという間にここに放り込まれていたのだ。
つまるところ、こうだ。
一つ、ここは国中で最も警備が厚い場所のうち一つ。
二つ、アーノルドはそこのごみだめにいる。
三つ、スミスは彼の居所を把握しておきたいと考えており、そしてしかも、アーノルドが他の誰かと接触することを危惧している。
つまり、アーノルドはスミスにとって都合の悪い事実を知っている。
そしてそのうえ、スミスはアーノルドの存在を闇に葬ってはいない。
つまり、アーノルドはのちのち、彼にとって有用な存在たり得る可能性を残している。
アーノルドがスミスと関わり合うようになってから目撃したことといえば、二つだ。
一つ、旧王宮からの窃盗。
何を盗んだのかは知らない。
二つ、シャーロット・ベイリー誘拐――いや、これを目撃というのは自分に優し過ぎるだろう。これについて、彼は実行犯の一人だった。
ともかくも、このうちのどちらか、あるいはどちらもが、スミスにとっては弱味になりえることなのだろう。
そしてアーノルドがのちに有用になり得るとすれば、やはりこのどちらかが絡んでいるに違いない。
――さて、本題にかえって、アーノルドが外に出て――それだけでなく、本当の意味で安全を確保し、元の生活、欲を言えば元のよりちょっといい生活に戻るために必要なこと。
スミスに彼を見逃してもらうことだ。
そしてこれは簡単ではない。
シャーロット・ベイリーを今さら捕まえて献上したところで、それでお終いになりそうにない雰囲気をひしひしと感じる。
そして正直にいえば、アーノルドにはシャーロットを捕まえる自信がまるでなかった。
まあそもそも、約束の報酬の支払いを一度ならず二度までも反故にしている相手である。
今さら信じろというには無理がある。
つまり、スミスの悪事をなんとかして世にしらしめて、お縄についてもらわなくてはならない。
スミスに見逃してもらえないならば、スミスとの立場を逆転するべきだ。
さて、スミスはアーノルドをこうして監禁している。
つまり、例の窃盗とシャーロットの誘拐――これからの事実には、スミスを困らせるだけの威力があるのだ。
もちろん、少なからずこれら二件に関わってきたアーノルドにも累は及ぶが、どうということはない。
スミスは、憲兵が乗り込んできたときに失うものが山ほどあるのだろうが、アーノルドにはない。
身一つで逃亡することなら、アーノルドにも出来る。
あわよくば、逃げ出す際に、スミスの財布でも持ち逃げしたい。
アーノルドにとってはそれで十分だ。
そして――シャーロット。
シャーロットが、あの魔術師――グレイに指示を出していた誰かの存在に気づいたのならば話は早い。
よく分からないが、あの子なら事を表沙汰にする方法もひらめくだろう。
「アーニー、どうした?」
トカゲの姿をした悪魔がそう尋ねてくる。
アーノルドはわれに返って、微笑んだ。
「あ、いや。――で、なに? おれに何か出来ることでもあるの?
あんた、ご主人に言われてここまで来たのか?」
トカゲはあきらかに怯んだ。
「えーっと、それは、必ずしもそうではない、かな」
アーノルドは瞬きした。
婉曲な言い回しは彼の得意とするところではない。
数秒の戸惑いを置いたあとで、彼はつぶやいた。
「じゃあ、あんた、こんなところにいていいの? ご主人のそばにいないといけないんじゃないの?」
トカゲは動揺したようだった。
アーノルドとしては、本物のトカゲの動揺などを目の当たりにしたこともないのだが。
「いや、僕は、うん……。あそこにいると、ちょっとまずい……」
アーノルドも得心した。
(こいつ、なんかやらかしたと思ったら、あれか。もしかして、シャーロットかあの子の魔神か、どっちかに顔を見られたんだな)
そのために、泡を喰って逃げ出してきたのだろう。
「顔は出せないにしてもさ」
アーノルドはゆっくりと言って、ふたたびあぐらをかいた。
「ちょっと覗いてきてくれよ。で、シャーロット――あの子があんたのご主人に何を言ったか、教えてよ」
トカゲは疑うようにアーノルドを見上げた。
「なんでさ」
アーノルドは微笑んだ。
――本音をいっては、この魔精は断じてアーノルドの望むようには動くまい。
アーノルドをここから出すことはスミスが望んでいない、すなわちかれの主人も望まないことなのだから。
期待外れを神さまと人に向かって言うのはナンセンス。
誰もアーノルドのためには動かない。
アーノルドにそれをとやかく言う権利はないが、同時にアーノルドが、いちいち他人の思惑どおりに動いてやる義理もない。
「おれ、ここにいると退屈なんだ」
アーノルドは言った。
「だからちょっと覗いてきて、おれにその話をしてくれよ」




