12 尋問と観察
マルコシアスが首を傾げた。
かれがピンとこないという顔をしたので、もったいぶったシャーロットは歯噛みした。
自分が良心に恥じることはしていないという確証に近いものを得られ、それに加えて現状からの突破口も見えてきたことで、彼女の心は見事に舞い上がりつつあった。
それを分かち合うべき相手がぼんやりした顔をしているので、思わずその肩を掴んで揺さぶりたくなる。
シャーロットは息を引いて、咳払いした。
立てた指をしまい込んで、彼女は顔を顰める。
「馬鹿な悪魔ね、お父さまよ。私を大叔父さまのところにやったのはお父さまなの」
マルコシアスは表情を変えなかった。
「間抜けなレディだな、ちゃんと分かるように話しなよ」
「もう」
シャーロットは苛立ちにこぶしを振った。
「つまり、こういうことよ。
お父さまは、私がどこかに誘拐されていく心当たりがあった。それで、私を慌てて大叔父さまのところへ逃がしてくれた――としたらってこと。
私がケルウィックに住んでいることは知られていても、まさかスプルーストンまで追いかけていく人がいるとは思わなかったんでしょう」
マルコシアスは上品に冷笑した。
「追いかけられたわけだけどね」
「論点はそこじゃないわよ」
シャーロットは憤然と囁き、また指を立てた。
「いい、つまり、この考えが正しければ、私がどうして誘拐されるような目に遭わなきゃいけなかったのか、それを判明させて解決さえすれば、お父さまだって私をお手許に戻してくださるはずだし、リクニスへの入学だって何の問題もなく出来るってことなの」
マルコシアスが瞬きした。
かれが首許のストールに触り、頷く。
「……なるほど。あんたから僕への、そもそもの命令だ」
シャーロットは頷く。
「そうよ。――お父さまに直接お伺いするのは駄目よ。
そんなことしたら、もっと僻地に隠されちゃって、リクニスがどんどん遠くなるかもしれないもの」
シャーロットは無意識のうちに髪を一房握りしめ、想像した――「お父さま、私、危うく誘拐されるところだったんです」と告げ、それを聞いた父が顔色を変え、「なんだって? スプルーストンでも近過ぎたのか!」と言うところを。
それを思えば――
(お母さまは、私が誘拐されるような目に遭うお心当たりはなかったんだわ)
それがあれば、大叔父から話を聞いたときに、誘拐をシャーロットの嘘八百と決めつけたはずがない。
そして、
(あのときはお母さまを恨んだけれど――お母さまがお父さまのお耳に入る前にこの話を止めてくれて、結果的には良かったんだわ!)
こぶしを握りしめ、シャーロットはそのこぶしどうしを軽くぶつける。
「つまり、いいこと――エム、マルコシアス、命令よ」
シャーロットは、青いあぶくの中でなおも暴れるリンキーズを指差した。
「あの魔精から、――私を誘拐するように言ったっていう――あの魔精の主人の雇い主を聞き出しなさい」
マルコシアスは、シャーロットが指し示す青いあぶくの中を見た。
リンキーズは雰囲気を察して竦み上がった顔をしている。
シャーロットに目を戻し、マルコシアスは悪魔の微笑を浮かべた。
胸に手を当てて、軽く頭を下げてみせる。
「仰せのとおりに、レディ・ロッテ」
その答えに、むしろシャーロットは不安そうな顔をした。
ちらりと床の上を見る。
そこで青いあぶくに覆われて、何事かを叫んでいるリンキーズに、彼女は動悸じみた胸の痛みを感じた。
覚えず身を乗り出すと、シャーロットは念を押すように、口早に言った。
「出来るだけ優しく、優しくね、エム」
ぽひゅん、と音を立てて青いあぶくが消え去り、リンキーズは怯えた様子を見せた。
燐光を放つ網に絡めとられている以上逃げ出すことも出来ず、カラスを真似て作られた頭部の羽毛が哀れなほどにぴったりと寝ている。
その小さな黒い目に、網の燐光が青白く映り込んでいた。
「あの――あの、マルコシアスさん?」
マルコシアスはベッドから立ち上がり、伸びをした。
そしてシャーロットを振り返ると、いかにも悪魔らしく微笑む。
「レディ、あんたには興味のないことだろうから、あんたが見て感激していた、この部屋の浴室でも使っていたらどうかな」
シャーロットはためらった。
確かに丸一日以上を汽車で過ごし、そのあと酒場を経た身としては、着替えて旅の埃を洗い流したい気持ちもある。
だが、マルコシアスの言葉は決してその気遣いゆえのものではない。
「――あの……」
ベッドの上で固まる彼女に、リンキーズの哀れっぽい声が聞こえてきた。
「待って、待ってくださいよ」
「おい兄弟、そんなに怯えるとは外聞が悪いじゃないか」
いっそ親しげなまでにマルコシアスはそう言って、リンキーズのそばに屈み込んだ。
「大丈夫だよ。話してほしいことは二つだ。
あんたの主人の雇い主は誰? どこに行ったら会えるかな?」
「――――」
「黙っているなら構わないよ。話してもらえるまで付き合うさ」
いっそ甘やかすような口調でそう言って、マルコシアスはシャーロットを振り返った。
「見ていてもつまらないと思うけど、見ていく?」
シャーロットは息を止めていた。
マルコシアスがゆっくりと微笑んだ。
残忍な好奇心が、ふいにかれの淡い金色の瞳の中で踊った。
――ふと、思ったのだ。
目の前で人間が死んだことで、その傲岸たるあやうさゆえに折れんばかりになった彼女は、では、相手が悪魔ならばどうか?
彼女の脆さ、あやうさ――かれの目からは、触れれば即座に砕けそうでいながら精巧な形を崩さぬ、一つの硝子細工のように見える――そのあやうい均衡を保って見える彼女の心根は、こういったときにどう反応するのか?
新しいおもちゃを与えられた愛玩用の小鳥が、それを使ってどう遊ぶのかを見守るような――それに似た好奇心と興味をもって、マルコシアスはまじまじとかれの主人を眺めた。
シャーロットは迷っているように見えた。
橄欖石の色の瞳が、ありありと不安そうにリンキーズを見つめている。
「――――」
彼女が口を開いた。
リンキーズが悪魔であることを――つまりは、取り返しのつかない、「死ぬ」という結末を迎えることのない存在であることを――勘案してもなお、マルコシアスに、出来るかぎり暴力的な手段はとらないよう命令するつもりだったのかも知れない。
だが、シャーロットが言葉を発するよりも早く、悪魔の気ままさで、かれはこの検証に飽きてしまった。
そもそも、シャーロットからの命令があった――彼女を家に帰らせてやらないかぎり、『神の瞳』はマルコシアスのものにはならない。
ここでシャーロットがマルコシアスに暴力を禁じてしまえば、かれらは有力な手がかりを得る手段を失うことになる。
それが、命令の遂行を困難にすることであることは火を見るより明らかだ。
それを避けたがった、ものぐさなマルコシアスの怠け心が、かれの好奇心を押し留めた。
――それに、他の機会でも構わない。
シャーロットの傲岸なあやうさが眼前の事象についてどう反応するのか、それを眺めるのはまた別の機会でも構わない。
かれは肩を竦め、きわめて面倒そうに言った。
「ロッテ、僕らにとってはよくあることだよ。それに、こいつが消えてなくなってしまうと困るから、僕も本気でいじめやしない」
それに、と首を傾げて、マルコシアスは言った。
「本当にまずくなったらこいつだって報酬を諦めるさ。僕らは所詮そんなものだ」
マルコシアスは溜息を吐く。
「見ていたいなら見ててもいいよ。でも別に、あんたの出番はないと思う」
シャーロットは棒を呑んだような顔をして、床に伸びたリンキーズを見ていた。
かれは怯えてはいるようだったが、じゃっかん諦めの風情も漂っている。
こういう場面に慣れているのかも知れない。
シャーロットはぎくしゃくとマルコシアスに視線を移した。
かれは面倒そうに肩を竦め、「お好きにどうぞ」と言わんばかりである。
それを見て、なんとなく、シャーロットは察した――実際のところ、リンキーズもまずくなれば口を割るのが事実だろう。
シャーロットは息を吸い込んで、もたもたとベッドから下りた。
トランクを開けて、着替えを取り出す。
その一挙一動を、マルコシアスは注意深く見ていた。
着替えを胸に抱えて、シャーロットはぺこりと会釈する。
「じゃあ、あの、お言葉に甘えて」
マルコシアスは笑みの形に唇を歪めた。
「うん。こいつ、ちょっとは頑張りそうだから、そんなに急がなくていいよ」
▷○◁
靴と服を脱いで、そうっと白い琺瑯のバスタブの中に足を下ろす。
『神の瞳』は、脱いだ服の上に置いておいた。
青銅色のバルブをひねると、バスタブの上に首を伸ばすシャワーから、温かいお湯が降り注いできた。
バスタブを無数の滴が叩く、耳に柔らかい音。
白い湯気が、かすかに立ち昇り始めた。
寒さにかじかんでいた全身が緩むような気持ちで、思わずほうっと息を吐き、シャーロットは髪を掻き上げる。
その際に少し顔を顰めてしまったのは、誘拐事件のときに切った左足の傷が少しうずいたからだった。
十日経って傷はほぼ塞がっているが、ふとしたときに痛むことがある。
両てのひらにお湯を受け、ぱしゃぱしゃと顔を洗う。
そうするとやはり気分が良かった。
もう一度髪を掻き上げると、指が髪のほつれに引っかかった。
溜息を吐いて、シャーロットは根気強く髪を手櫛で溶かし、洗った。
全身をしっかり洗って拭い、『神の瞳』を首から下げ(銀が冷えており、彼女はその冷たさに飛び上がった)、温かさを取り戻して色づいた肌の上に着替えを纏って(部屋着ではなかったが、柔らかいワンピースだった)、彼女はさらに数十秒を待った。
耳を澄ませたが、寝室の方から魔精の悲鳴が聞こえてくることもない。
死なない相手とはいえ、罪悪感にどきどきしながら、シャーロットはある一瞬に覚悟を決め、脱いだ方の服を胸にかかえ、靴に足を突っ込んだ。
そうして、出来るかぎり落ち着いて見えるよう気を配りながら、湯気の立ち込めた浴室を出て、寝室へ戻った。
まだ濡れている髪から、ぽたぽたと滴がしたたって、着替えたばかりのワンピースにしみを作った。
シャーロットが寝室に顔を出すと、ベッドの上で悠々とくつろいでいたマルコシアスが彼女を振り返った。
リンキーズは床にいたが、もう燐光を放つ網の拘束を免除されていた。
かれはいかにも大変な目に遭ったと言わんばかりで羽を引きずっていたが、じゃっかん、清々したというようにも見えなくなかった。
シャーロットは思わず、ベッドの手前で立ち止まった。
悪魔どうしの会話――会話、会話だったのだろうか、拷問でなかったことを祈るばかりだ――は、どういう経緯を辿ったのだろう?
マルコシアスが肩を竦めた。
「そこに立っているのがお好みなの? そうじゃないならこっちに来なよ。わが兄弟がちゃんと話してくれるよ」
シャーロットはそそくさとベッドに歩み寄り、靴を脱いで元のようにその上に上がり込むと、かかえていた衣服をそばに放った。
そして、声をひそめてマルコシアスに尋ねた。
「――あんまり酷いことはしなかったでしょうね?」
マルコシアスはうるさそうに顔を顰めたものの、仏頂面で応じた。
「まあ、あんたとはそういう約束だからね」
シャーロットはほっと息を漏らした。
そして、気懸かりがなくなったことがありありと分かる晴れやかな笑顔で、床にうずくまるリンキーズを窺った。
「えーっと、あなた、リンキーズ――」
「ああもういいよ、話せる限りのことは話すよ。それでいいんだろ?」
シャーロットを遮って言って、カラスの姿の魔精はくちばしをカチカチいわせた。
「もう知ってると思うけど、僕が落っことした『神の瞳』とあんたの誘拐は無関係。なんで『神の瞳』が必要だったのかも、なんであんたみたいな小娘を誘拐したがったのかも、僕は知らない」
「けっこう」
マルコシアスが予定調和といわんばかりに頷いているので、シャーロットはふと、これはリンキーズにとって二度目の話であって、もう既にマルコシアスには洗い浚いを喋ったあとなのではないかと思った。
「あんたの顔を知ってしまった僕の不幸だよ。自分で自分が可哀想だね。僕のご主人が僕に下した命令は、シャーロット・ベイリーを見張ること。まあ、ずっとってわけじゃなくて、それこそボリスのことは、僕もご主人のそばにいるときに見送ったけどね。ボリスに冥福あれ!
――で、なんだってあんた、あの暖かそうな屋敷を出たの? あそこ、見張りやすくて最高だったんだけどな」
シャーロットは思わず目を閉じた。
リンキーズがそれを見て不思議そうな顔をしたので、マルコシアスが咳払いする。
「僕のレディは、くだんのボリス氏に思うところがある」
「あ、そうなんです?」
リンキーズは無邪気にそう言って、カラスの格好で肩を竦める――ならぬ、翼を竦めるような仕草をした。
「まあいいや。で、僕はここまであんたたちについて来た。それでこんな無様な恰好になってるってわけ。
ああほんと、あそこに戻るのがあと半日遅かったらなあ! そうしたら僕はそそくさとご主人のところに戻って、あんたを見失いましたって言って、今度こそ契約を切ってもらえたかもしれないのにな。そろそろ自分が報酬以上のことをしてる気がして、滅入るよ」
「つまり、」
とうとうと愚痴をぶちまけるリンキーズを黙らせて、マルコシアスが口を挟んだ。
かれが横目でシャーロットを見遣る。
「あんたが僕のレディの居場所を報告として持ち帰ったときには、この子目がけてまた殺し屋がやってくるかもしれなかったわけだ?」
「そうかもね」
リンキーズは頓着なく答えて、かれの性分なのか、自分への命令を分析するような顔を見せた。
「なんにせよ、その子の居場所は知っておきたいって感じでしたね。すぐにじゃないにせよ、第二第三のボリスが向かった可能性も――おっと失礼」
先ほどのマルコシアスの言葉を思い出したのか、リンキーズが口をつぐむ。
その仕草は、マルコシアスよりもむしろ誠実そうに見えた。
シャーロットはおずおずと微笑んだ。
リンキーズはさえずるように続ける。
「あんたを見張るのは僕じゃなくて、顔を知ってるって点ではあっちの子でも良かったんだけど、あっちの子は人間だからね。僕の方が器用だっていうことで」
「あっちの子?」
シャーロットがおうむ返しにすると、リンキーズはぴたっとくちばしを閉じた。
マルコシアスが咳払いする。
「そっちは別にいいよ。それで、ほら、あんたの主人の雇い主について話してくれよ、兄弟」
リンキーズが、カラスの姿でいながら妙に人間くさく溜息を吐いた。
ゆさゆさと翼をゆすって姿勢を直して、かれはぶっきらぼうにつぶやく。
「ご主人については話せませんよ。僕は今のご主人が好きではないけど嫌いでもないし、あれはあれで可哀想な人ですしね。
今、ご主人の胃袋にまだ穴が開いてないのは――まあ当然、何が原因ではあれご主人の胃袋に穴が開いたら、僕がそれを肩代わりするわけですけど――、僕が報告に行くべきタイミングが今じゃないからですよ。僕が約束の時間をすっぽかしてみなよ、ご主人、泡吹いて倒れちゃいますよ」
「だから、あんたの主人のことはいいって」
マルコシアスがいらいらと爪を弾きながら言った。
かれの苛立ちを拾ったのか、カンテラの中で遊んでいた精霊たちが動きを止めた。
精霊たちの無垢な視線がリンキーズに集中した――リンキーズの周囲だけが、ひときわ明るく照らし出された。
それを察したのか、リンキーズはすばやく言った。
「そうでしたそうでした、えーっと、僕の主人の雇い主」
リンキーズは半ばくちばしを開けたまま黙り込んだ。
マルコシアスがベッドから片脚を下ろし、これみよがしに音を立てて床を踏んだ。
リンキーズは飛び上がったがシャーロットも飛び上がった。
「あんまり知らないんだって!」
哀れっぽいキィキィ声でリンキーズが叫んだ。
「ほんと! 僕のご主人だってあんまり知らない――痛いっ!」
カラスの全身に雷光が弾け、リンキーズは叫んだ。
シャーロットはわれ知らず顔を顰めてしまう。
「あんまり知らない?」
マルコシアスは無慈悲に迫った。
「知っていることがあるんだろう、話してよ」
「名前はスミス!」
リンキーズが叫ぶように言った。
そろそろ本気で懲りたことを示す、意地をかなぐり捨てた声音だった。
「この国で一番多い名前じゃないか」
マルコシアスが眉を顰め、リンキーズはいっそう泣きそうな声でわめく。
「だってそう名乗ったんですもん! そんならマルコシアスさん、その辺にいるスミスを捕まえて、片っ端から『偽名だろう』って凄んでくださいよ!」
マルコシアスはおだやかに微笑んだ。
まさに悪魔のおだやかさ、その手指には白い雷光が控えている。
「早とちりするなよ、兄弟。他に特徴はないのか訊いているんだ」
「白髪っぽくて短い髪! 痩せてる! 灰色の目! 気取った背広! 歩くとき左手をポケットに突っ込む!
それからええっと――左手の甲に痣がある!」
リンキーズが叫んだ。
マルコシアスはふむと考え込み、ちらりとシャーロットを振り返った。
シャーロットは顔を顰めていたが、きっぱりと尋ねた。
「どこに行けば会えるの?」
マルコシアスがリンキーズを見下ろした。
「――だ、そうだ。僕のレディにお答えしろ」
「えあーっと……」
リンキーズが目を泳がせた。
あきらかに、これが一線を越える質問だと思っている顔だった。
だが、マルコシアスが片手を振り上げるのを見て、かれは都合よく考え直したようだった――この魔神が、たまたまスミスとかち合うとも限らないじゃないか!
「どこに住んでるのかは知らない! でも、よく僕の主人と会うのは、グレートヒルだ!
グレートヒルの、〈ルーメン〉ってコーヒーハウス!」
「グレートヒル?」
シャーロットが目を丸くした。
しかしマルコシアスは、別のところに引っかかったようだった。
「コーヒーハウスで人さらいの相談をするの」
「そういう大事な話のときはホテルとか! でも普通はそこ!
そこに行って、次に会う場所を言われるんですよ!」
リンキーズが力説し、マルコシアスはシャーロットを振り返った。
シャーロットは頷いた。
正直にいえば、そろそろ目の前でカラスが痛めつけられる光景に、胸の痛みが限界に達しようとしていた。
「よし、僕のレディはご満足だ」
わざとらしくそう言って、マルコシアスはリンキーズに向き直った。
リンキーズは一途な瞳で窓を見上げ、「もう行っていいですか?」と言わんばかりの表情。
マルコシアスは楽しそうに微笑んだ。
「で、あとはあんたをどうするかって話だけど……」
「はあああ!?」
リンキーズが叫んだ。
その声たるや、窓硝子を震わせるほどだった。
シャーロットは身を竦め、どうかこの声が外に漏れてはいませんよう、と祈った。
カンテラの中で遊ぶ精霊たちが、その大声に抗議するように、いっそう激しく動き回りはじめる。
「ちょっと! 訊かれたことには答えたじゃないか!
平和的に別れようって、あの話はどこにいったんだよ、この腹黒やろう!」
「口の利き方には気をつけろよ」
マルコシアスは楽しそうにそう言って、シャーロットの方を向いた。
淡い金色の瞳が光っている。
「さあ、どうしましょう、レディ・ロッテ」
シャーロットは口籠ったが、火を見るよりもあきらかな事実を認めないわけにはいかなかった。
「……そうね……かれのご主人さまに、私やお前がかれから聞いたことを知られると、まずいわね……」
「言わないっ、言わないって!」
リンキーズが叫んだ。
「ちょっと冷静に考えてみてよ! 僕がここでべらべら喋ったことがばれたら、まずだれよりも僕がまずいことになるだろ!!
僕はなんにも言わない! 言わないって!」
ばたばたと翼を動かして、リンキーズは声も嗄れんばかりに主張した。
「まずいことになって、〈身代わりの契約〉で罰を受けたら元も子もないだろ! 僕だって報酬は惜しい! なあ、絶対に言わないって!」
マルコシアスは肩を竦め、シャーロットをまじまじと見た。
またも、かれは興味をもって彼女を観察していた――本当ならば、彼女はリンキーズを放すべきではない。
かれを手許に置いて、そのスミスという人物が得る彼女についての情報を削るべきだ。
だが、目的に向かって邁進する頑固者たるその姿勢と、つねに良心に従おうとするお人好したるその心根――それらを天秤に載せ、無茶をしてでもその均衡を取ろうとする、傲岸なまでのあやうさを持つのがシャーロットだ。
その彼女が、この局面においてどういった反応をするのか、それがかれには興味深かった。
それに、リンキーズが主人に対してもだんまりを決め込む公算はそれなりに大きい――かれ自身が言うように、〈身代わりの契約〉を盾にとった罰則が有り得るからだ。
それがなければ、さすがにシャーロットの判断があきらかに誤るようであればそれを叩き直すにやぶさかではないが、今は違う。
今はシャーロットの判断に委ねてよい。
シャーロットは息を吸い込んだ。
マルコシアスが予想したよりも、彼女が逡巡した時間はわずかだった。
シャーロットは唇を噛むと、すぐに言った。
「エム、リンキーズを放してやってちょうだい」
「なんていい子だ!」
リンキーズが熱狂的に叫んだ。
マルコシアスは溜息を吐き、肩を竦めると、ベッドから滑るように下りてすたすたと窓に歩み寄り、がたついた窓を開け放った。
冷たい夜気が静かに部屋の中に忍び込んできて、髪が濡れたままのシャーロットはかすかに震えた。
リンキーズは元気を取り戻した様子で、飛び立つために姿勢を整えた。
シャーロットはあわててベッドから滑り降りると、かれのそばに膝を突いて、真面目な口調で言った。
「――リンキーズ、文献で見た悪魔と会えて嬉しかったわ」
「そうかい、僕は全然嬉しくなかった」
シャーロットは、「まあ、そうよね」という顔をした。
だがすぐに気を取り直して、彼女はおずおずと微笑んだ。
「今日のことはごめんなさい。別の機会があったら、とびきりの報酬を用意するから、私の召喚にも応えてね。
あなたみたいな、たくさんこの世の中を見てきた悪魔と、私はいっぱい話がしたいの」
リンキーズは、カラスの黒い目でちらりとシャーロットを見た。
彼女を矯めつ眇めつして、かれは悪魔としての模範解答を返した。
「――まあ、報酬によるかな」
そして、勢いをつけて、窓に向かって飛び立った。
目の前でひるがえった黒い翼に、覚えずシャーロットは一歩下がった。
ばさばさ、とけたたましい羽音が数回――リンキーズは窓枠を越えた。
そのあたりでかれが空中でよろめいたので、シャーロットは思わず窓に駆け寄って見守ってしまったが、リンキーズは数フィートを落下したのみで、あとは順調に夜陰の中を遠ざかっていった。
黒い羽根が一枚、置き土産のように窓際に落ちている。
シャーロットはふと、これだけ暗い中で飛べるのだから、カラスの格好をしてはいても、目はカラスのものではないのだ、と、当然にも思えることを反芻した。
「――よし、成果は上々だ」
マルコシアスがそう言って、ひょいっと黒い羽根を拾い上げて、それをふっと窓の外に吹いて飛ばした。
それから、がたがたと音を立てて窓を閉め、カーテンを引く。
シャーロットは寒さを思い出したように身ぶるいした。
マルコシアスはわずかに身長差のあるシャーロットを見下ろして、首を傾げる。
「さて、では、明日からどこへ向かいましょう、レディ・ロッテ?」
「決まってるわよ」
寒さに鼻をすすりながらでは格好もつかなかったが、それでもシャーロットは精いっぱい胸を張って、答えた。
「ローディスバーグよ」
けなげに毎日投稿してるので、
気が向かれましたらなんか反応下さい。
元気になります。




