11 悪魔と悪魔の甘言
「何も話せない」
シャーロットが泊まるホテルの一室。
「話すことは何もない」
床に放り出されたリンキーズは、カラスの顔面でも分かる仏頂面。
「命令違反じゃないにせよ、ご主人に明らかに不利益になることだ。話せない――痛い痛い痛い!」
わがもの顔でベッドに腰掛け、脚を組んで、リンキーズを見下ろすマルコシアスはきわめて悪魔らしい表情を浮かべている。
全身に雷光が絡んで悶絶するリンキーズを見て、同胞がうんぬんと言っていたとは思えないほど楽しそうだ。
「あんた、ちょっと人間の流儀に染まり過ぎじゃない?」
シャーロットは神妙な顔で、マルコシアスの後ろに、ベッドに上がり込んで座っている。
このホテルに、片手にカラスをぶら下げた十四歳の少年を伴って戻ってきたシャーロットを見たとき、宿の主人はいかにも嘆かわしげに首を振っていた。
シャーロットとしては、誤解を訂正したくとも出来ない状況に、慙愧に耐えない思いである。
もっとも、それをマルコシアスが察知した様子はなかったが。
リンキーズはリンキーズで、道中はさんざん騒いでいたものを、さすがに悪魔だと知られるのは避けたかったのか、パブを通って部屋へ上がるあいだは、ぴたりと押し黙っていた。
ベッド脇のサイドテーブルの上のカンテラに灯が踊り、淡い影が四方の壁で忙しなく揺れている。
これは通常の火ではなかった。
カンテラの硝子の内側で、無数の小さな火の玉が楽しそうに躍っているのである。
言うまでもないが、これらはマルコシアスに従う精霊たちだった。
主人である魔神がご満悦であることを感じ取っているのか、精霊たちも非常に機嫌がいい。
「別にいいよ、あんたが話す気になるまで付き合っても。こっちには時間があるからね」
マルコシアスは鼻唄でも歌いそうな調子でそう言って、いかにも親切そうに微笑んだ。
「ただ、知ってたら教えてほしいな。
――まず、『神の瞳』って言ってたね」
「そう! そう!」
唐突に勢いづいて、リンキーズは叫んだ。
かれは今も、哀れにも燐光を発する網で拘束されているのだが、それにも慣れてきたのかたいへん元気である。
「『神の瞳』ですよ! その、後ろにいるその子が持ってたんですよ! 興味ありません!?」
「……持ってないってば」
シャーロットがぼそっとつぶやき、マルコシアスは肩を竦める。
「――とのことだ。もう手放してしまってるなら、これから追いかけても見つからないかも知れないからね。それなら僕は、この子が僕に約束している報酬を優先するよ。
――で、だ。僕が訊きたいのは、あんたがどこから『神の瞳』を持ち出してきたのかってことだよ。よその国? この国? この国だとしたら誰に言われて運んでたんだ? この国の首相か誰かか?」
リンキーズはぶすっと黙り込んだ。
「――――」
「『神の瞳』は、今は所在不明だったと思うけれど」
シャーロットが、マルコシアスの後ろから口を挟んだ。
「たとえば、この国の偉い人がこっそり持ってたってことなのかしら。
――でも、変ね。そんなに偉い人が『神の瞳』を運ぶとしたら、魔精じゃなくて魔神を使いそうなものだけれど」
「ロッテ、それは違う」
マルコシアスが口許だけで微笑んで、言った。
「魔神を使ったりは出来ないさ。――『神の瞳』そのものを報酬にでもしない限り、魔神に預けたが最後、持ち逃げされるのは目に見えてる。魔精には、『神の瞳』は扱い切れないからね――魔精に頼むのは分かる話だ。
もっとも、」
床に伸びているリンキーズをとくと眺めて、マルコシアスは鼻で笑った。
「こんな雑魚に頼んだのは、よっぽど人手不足だったんだなとは思うけれど」
「雑魚じゃない!」
リンキーズがキィキィ声で叫んだ。
シャーロットは思わず、この声が外に漏れませんように、と祈ってしまう。
マルコシアスはなおも嘲りの表情。
「どうだか。あんた、――あーっと、僕は魔精の位なんてどんぐりの背比べ、見ただけでは分からないんだけど、どうせ魔精の中でも格下の方だろ」
「そんなわけないだろ!」
リンキーズが叫んだ。
よほど腹に据えかねたと見える。
「あそこにいた魔精五人を叩きのめしたのは僕だぞ!」
「ほう」
「魔神だって三人いたけどなんとかしたし!」
「へえ」
「僕じゃなきゃ、とてもじゃないけど盗み出せなかったね!!」
「なるほどなるほど」
マルコシアスは組んでいた脚を解いて、前屈みになってその膝に肘を突いた。
あごを撫でて、かれはつぶやく。
「盗んだんだ。そうか。つまりあんたは、『神の瞳』の正当な所有者に仕えているわけじゃないんだね」
「――あ」
思わず、といった様子で声を漏らすリンキーズ。
かれのカラスのくちばしが、じゃっかん間抜けにぽかんと開いた。
「えーっと……」
マルコシアスが、ちらっとシャーロットを振り返った。
その黄金の目に浮かぶ言葉を、シャーロットはありありと読み取ることが出来た――これは、こいつの主人がベンを差し向けてきたんなら、ベンだって盗人の片棒を担いだ悪人だぞ。
そして同時に、かれは訝しそうでもあった。――なんだってあんたは、『神の瞳』を持っている上に、別の理由でもつけ狙われているんだ?
不思議に思っているのはシャーロットも同じである。
彼女はちょっと顔を顰めて、「知らないわよ」という表情を作ってみせた。
マルコシアスは肩を竦めた。
かれはリンキーズに向き直って咳払いした。
「まあいいや。馬鹿にして悪かったね。
――で、あんたの主人って誰?」
「…………」
「なんだって『神の瞳』をあんたに盗ませたの?」
「…………」
「で、これがいちばん重要なんだけど、なんだって僕のレディにご執心なんだ?
この子、そんなに特別な何かを持ってるってわけじゃないみたいだけど」
この言われようにはむかっとくるものを感じ、シャーロットはぼそりとつぶやいた。
「リクニスに最年少の入学を決めた秀才に、よくそんなことが言えるわね」
「ああ、そうそう、そうだった」
マルコシアスは頓着なく手を打った。
「僕のレディは才媛であらせられる。――あんたの主人、それを妬んだりしてる?」
「いや、別に」
そろそろ痛い思いをするのにも懲りたのか、神妙にリンキーズは応じた。
「まあ、その年齢で入学できるようになるのは珍しいんだって? 僕のご主人もちょっとびっくりしてたけどね」
「なるほど、どうも」
マルコシアスは真顔で言った。
「つまり、あんたの主人はきっちり下調べをして、身の上調査までした上で、僕のレディを誘拐しようとしたわけだ。誰でも良かったってわけじゃないらしい」
「ああ、もう」
リンキーズが目を閉じた。
「いつもこうだ。上手くいってるときは全て上手くいく……でも、一つ失敗すると、また一つ、また二つ、ぽろぽろとミス……」
いじけたような声音が気の毒で、シャーロットとしては慰めたい気持ちにもなったが、慰める材料もなければその義理もなかった。
マルコシアスは振り返り、まじまじとシャーロットを見つめた。いっそ無遠慮なほどだった。
「あんた、本当に何か心当たりはないの」
「ないわね」
シャーロットはなんとなく腕を組んだ。
「人より頭がいいことを除けば、私なんてごくごく平凡な十四歳だわ。ご先祖さまの誰かが御伽噺の着想の元になってるくらいよ」
「うん?」
「〈神の丘〉の下に埋葬された神さまの祝福を受けて、ローディスバーグの疫病を収めたっていう有名な美談の主人公よ。――まあ」
彼女はむっつりと唇を曲げた。
「同じ御伽噺の着想の元はうちの祖先だっていうおうちは、他にもいくつかあるけれどね」
「面白いね」
くすりとも笑わずにマルコシアスはそう言って、またリンキーズに向き直った。
が、すぐにまたシャーロットの方を向いて、真面目な口調で言った。
「あんたのその、謙遜を知らない性格が、どのくらいの人の恨みを買っているかが、今のところの僕の心配事だよ」
「謙遜と呼ばれる嘘は嫌いなの――って、ちょっと」
シャーロットの返答を聞かず、マルコシアスはさっさとリンキーズに向き直っていた。
「あんたの主人は誰? ちょっと前に、この子は殺されそうになってるんだけど、それもそいつの仕業かな?」
「…………」
だんまりを決め込むリンキーズに、マルコシアスは溜息を吐いた。
そして、唐突に打ち解けた風になって、かれに話しかけた。
「なあ、兄弟。ここは協力し合っていこうじゃないか。僕としては、僕のレディの安全を確保したいんだ。そのためには、この子にご執心のあんたのご主人が誰なのか、そいつの目的が何なのかを知らなきゃいけない。けど、全部を話せとは言わないよ。あんたも知らないことがあるだろうしね。
――それで、兄弟、あんたも、このままだんまりを決め込むわけにはいかないぜ。僕としては、あんたが何かを喋ってくれるまでは、あんたを放すわけにはいかないんだから」
燐光を放つ網に絡め取られたまま、リンキーズがちらりと頭を上げた。
カラスの瞳に窺うような表情を見て、マルコシアスは頷いた。
「あんたが戻らなきゃ、あんたのご主人だって、あんたがしくじったことを察するんじゃない? ただ音信不通になるのと、手ぶらでもご主人のところに戻って、何か実のある報告をするの、どっちがご主人は喜ぶかな?」
マルコシアスは悪魔の微笑を浮かべた。
声はいっそ甘いほど――まさしく悪魔の甘言。
「安心していいよ。僕も僕のレディも、あんたに会ったことは言わないさ。
――さあ、あんたの知ってることを話してくれ。
それで平和的に別れようじゃないか」
「…………」
リンキーズは、まだなお少し黙っていた。
だがその黒い目の奥で、忙しなく何かを考えているようだった。
マルコシアスは寛大にそれを待った。
数分してようやく、リンキーズは不明瞭な――呻くような声で言った。
「……どうしてそこの子を誘拐するように命令されたのかは、僕は知らない。僕の主人も知りませんよ」
シャーロットが身を乗り出しかけたのを、マルコシアスが頭を叩いて止めた。
シャーロットは信じられないという顔をしたが、黙った。
「その子の誘拐と『神の瞳』のことも無関係です。正直にいうと、僕だってその子の顔を見てびっくりしましたもん。
まさか、自分が『神の瞳』を鼻先に落っことした子を誘拐しろと言われるなんて思わないでしょ?」
リンキーズはみじめな口調で続けた。
「というか、僕が『神の瞳』を首尾よくご主人に届けられてさえいれば、僕はそこの子の誘拐には噛まずに済んだんですよ――くそっ、あの魔神どもめ」
「『神の瞳』を盗んだ理由は?」
マルコシアスの制止を乗り越えて、シャーロットが口早に尋ねた。
リンキーズはむっつりと半眼になったが、マルコシアスが咳払いしてようやく、嫌々といった様子で応じた。
「知らないね。必要だから取ってこいとだけ」
「何に必要なのかしら」
シャーロットは思わずつぶやいたが、マルコシアスがそれを黙らせた。
かれは肩を竦めて言った。
「悪いね、僕のレディは好奇心旺盛なんだ。――で、ええと、そうそう。
最近この子は殺されかけてるんだけど、それについては知ってるかな?」
シャーロットは覚えず息を詰めた。
リンキーズは、およそカラスに似つかわしくない、鼻から息を抜くような声で笑った。
「その子を殺そうとしたっていうなら知りませんけどね、あれだろ、ボリスだろ? そっちに乗り込んで誘拐してこいって言われてて、僕のご主人は自分にそれが命令されなくて良かったって、めちゃくちゃ安心してましたよ」
「ボリス」
意図せずして、マルコシアスとシャーロットの声が揃った。
二人は顔を見合わせた。
「――ベンの本名かな?」
マルコシアスが声をひそめてシャーロットに囁き、シャーロットは不安のあまりのかぼそい声で応じた。
「……かも知れないわ」
マルコシアスが肩を竦めて、ちょっとその場をシャーロットに譲るような身振りをした。
シャーロットは身を乗り出した。
「その、ボリスって人って、黒髪で……」
「陰気くさい黒髪緑目骸骨顔の男だよ。そういえばきみがここにいるってことは、ボリスのやつ失敗したの?」
ベンだ!
シャーロットは飛び上がる心地がした。
心臓がばくばくと打った。
「そのボリスって人、以前からの知り合い?」
「そんなわけないでしょ」
リンキーズは一笑に付した。
燐光を放つ網に絡めとられて床に伸びていなければ、堂々たる声音といって良かった。
「お嬢さん、僕はこれでも品行方正な魔精なんですよ。あんな殺し屋と以前から知り合いなんて、そんなことがあってたまるもんですか」
「殺し屋?」
シャーロットの声が裏返った。
マルコシアスは声を出さずに爆笑していた。
「殺し屋? 殺し屋って、あの――お金を貰って人を殺しにいく、あの?」
「他に何があるんだよ、殺し屋がパン屋でパンを焼いててたまるかよ」
やや乱暴な口調でリンキーズは言って、それから「しまった」という目でマルコシアスを窺った。
マルコシアスの主人への無礼なもの言いを、マルコシアスがどう判断するかを危ぶんだようだった。
マルコシアスは寛大に笑っていた。
シャーロットは思考停止しかけていたが、なんとか持ち直して、もごもごと尋ねた。
「それはその……奥さんと子供を養うために仕方なく、といった?」
「この子、大丈夫?」
リンキーズが大声を出したので、カンテラの中で遊んでいた精霊たちがつかのま動きを止めた。
マルコシアスが宥めるような声を喉の奥から出すと、再び精霊たちは無邪気に遊び始めた。
「――僕のレディはお人好しでね」
マルコシアスがつぶやく一方、リンキーズは遠慮会釈なく言っていた。
「お嬢さん、世の中には相手の痛そうな顔を見て喜ぶ奇特な人間もいるんですよ。悪魔の僕だって知ってるぞ。なんで同じ人間のあんたがそれを知らないんだ」
そこまで言って、リンキーズはあっと声を漏らした。
「もしかしてマルコシアスさん、ボリスのことやっちゃいました?」
「――――」
「――――」
「あいつ自信満々で、僕の主人のことも馬鹿にしてから出発してましたけど、やっぱり魔神相手だと形無しですね!」
「――――」
「――――」
シャーロットは目を閉じた。
マルコシアスはベッドの上に片足を引っ張り上げ、くるりと彼女に向き直って、真面目に言った。
「ロッテ、どうだろう。目的は達したんじゃないだろうか」
シャーロットは息を吸い込んだ。
何かの感情を、胸の中にしまい込もうとしているかのようだった。
マルコシアスは眉を寄せる。
「ロッテ?」
「――そんなわけないでしょ」
彼女が目を開けて、つぶやいた。
思ったよりもシャーロットが平静に見えて、マルコシアスは鼻白む。
「まだ何かご不満?」
シャーロットは口を開き、それから、リンキーズが興味津々といった様子で(カラスの顔面で表情豊かなことである)こちらを見ているのに気づいた。
眉を寄せたシャーロットの意図に気づき、溜息を吐いたマルコシアスがぱちんと指を鳴らす。
とたん、リンキーズをうっすらと青いあぶくが包み込んだ。
リンキーズは何か叫んだようだったが、その声はこちらには聞こえなかった。
マルコシアスは両手を軽く広げる。
「はい、これで、こっちの声はあのカラスには聞こえないよ。
――で、なんだろう。何がご不満かな、レディ・ロッテ?」
シャーロットは眉間に皺を寄せた。
青いあぶくの中で何やら叫んでいる様子のリンキーズをちらりと見てから、彼女は小声でつぶやく。
「ベンの――じゃなかった、ボリスさんのことは、」
「ボリス“さん”」
マルコシアスは真顔で復唱し、口許だけで冷ややかに笑った。
「なるほど」
シャーロットはいっそう顔を顰める。
「ボリスさんの人柄については、嘘をつく理由がそもそもないもの、リンキーズの言うことが正しいと思えるわ」
「……――それは良かった」
マルコシアスは本心からつぶやいた。
安堵のあまり、かれは額を押さえた。
「じゃあ、もう――ええっと、どこだっけ――そうそう、リクニス学院だ。そこに入学したくないから僕は要らないなんて、そんなことは言わないね?」
「ええ、そうね」
シャーロットはきっぱりと言った。
彼女の橄欖石の目に、輝くような表情が戻ってきていた。
シャーロットがぎゅっと両のこぶしを握り締め、それをゆっくりと上下させた。
頬が上気している。
マルコシアスは思わず、彼女を抱きしめてキスしそうになった。
主に彼女が持つ『神の瞳』のために。
ところが、かれが存分に喜びを表に出す前に、息を吸い込んで冷静さを取り戻したかれの主人は、あっさりと言っていた。
「お前、あとで、『ボリス』って名前の賞金首だか指名手配犯だか、とにかくそんな人がいないかどうか、新聞だとか警察のところだとか、そういうところを探してきておいて」
マルコシアスは渋面を作ったが、結局のところは頷いた。
「――仰せのとおりに」
「それから、こっちが本題なんだけど」
と、シャーロットが指を立てた。
長旅でくたびれた姿であっても、生き生きした仕草だった。
「お前への報酬と私の誘拐は無関係よ。
つまり、私には誘拐される心当たりがないといけなかったのよ」
マルコシアスは瞬きした。
「でも、ないみたいだね」
「私にはね」
思わせぶりにそう言って、シャーロットは立てた指を振った。
彼女の橄欖石の瞳がきらきらと輝くのを、マルコシアスは警戒ぎみに見ていた。
はたせるかな、シャーロットは言った。
「でも、お父さまにはあったとしたら、どう?」




