10 口はわざわいのもと
――犬。
マルコシアスの言葉に、しばし呆気に取られたシャーロットは、ややあってあっと声を上げた。
犬。犬といえば!
あの哀れな名無しの悪魔が暴れ狂っていた浜辺で、あの悪魔を召喚した魔術師――その足許で走り回っていた魔精!
「あの、目玉の大きな犬ね!」
思わずシャーロットは声を上げ、身を乗り出しそうになったところをマルコシアスの片腕で後ろに追い遣られた。
ぞんざいな仕草だったが腹を立てるところではなかった。
魔精を相手にして、シャーロットを庇うための仕草だと分かったからだ。
カラスはばたばたともがいている。
マルコシアスは冷淡な瞳でそれを見下ろして、その場にしゃがみ込んだ。
まさに十四歳の少年そのものの身振りだった。
「で、あんた、口は利けるでしょ?
まさか偶然ここを通り掛かったなんてことはないだろう。こっちに用があったんだ、違う?」
カラスはまた、無言でばたばたともがいた。
シャーロットとしては、無垢なカラスが苦しんでいるように見えて心が痛んだが、これは悪魔である。
しかも、一度は自分を誘拐したであろう悪魔である。
シャーロットはマルコシアスの後ろにしゃがみ込み、注意深くかれの動きを見守った。
マルコシアスはいらっとしたらしく、ひょいっと片手でシャーロットの肩を抱き、自分の隣に引っ張り寄せた。
急なことだったので、シャーロットはあやうく顔面から地面に激突しそうになり、地面に手を突いてマルコシアスを睨んだ。
マルコシアスはどこ吹く風、涼しげな顔で魔精を見下ろしている。
「僕のレディを紹介しよう。この子に用があったんだろ?
あいにくと、この子にはあんたの恨みを買った覚えはないらしいけど」
ぱちん、とマルコシアスが指を鳴らした。
小さな稲妻がカラスに絡み、カラスが、およそカラスらしくない悲鳴を上げた。
シャーロットは覚えず顔を顰めてしまったが、マルコシアスはむしろ楽しそうだった。
「あんたの主人は誰? で、そいつはどうして僕のレディに執心するの? 教えるのが早いか、あんたが致命の一撃を喰らうのが早いかだけど、どうする?」
「待って待って待ってください!」
はじめて、カラスの姿の魔精が人の言葉を発した。
声が裏返っている。
キィキィ声でかれは叫んだ。
「待って! 違う! 違います! 偶然!
偶然この辺りを飛んでただけです!!」
「嘘は重罪だぞ」
いたずらっぽいまでの口調で言って、マルコシアスが、ぽん、と目の前の空間を弾くような仕草を取る。
これまでの倍の規模の雷光が絡み、拘束されたままのカラスが悲鳴を上げる。
「僕たちが酒場から出てからずっと、後をついて来てたでしょ? 気づかれないと思った? 残念でした」
マルコシアスは手を伸ばして、ぐったりと地面に伸びたカラスの片翼を引っ張った。
一枚一枚の羽根まで精緻に作られた、その風切り羽をぐいっと引く。
カラスが悲痛な声を上げた。
「痛い痛い痛い!」
「痛くてけっこう。あのね、別に嘘や言い訳が聞きたいわけじゃないんだ。
答えてくれ、あんたの主人は誰? そいつはなんで僕のレディにご執心なの?」
カラスはいよいよ悲鳴を上げた。
この異様な現場を見られては大変と、シャーロットは慌てて周囲を見渡したが、周囲に人気はなかった。
ガス灯の明かりだけがぽつぽつと見える通りは、わざとらしいまでに静まり返っている。
「知らないです! 知らないです!」
魂のこもった悲鳴を上げる魔精の羽を、それこそ引きちぎりそうなほど引っ張りながら、マルコシアスは無邪気な笑顔を浮かべる。
「知らないって、それは嘘だろう。あんたがあんたの主人を知らないはずはない」
「痛い痛い痛い!」
魔精の声は涙ぐみつつあった。
マルコシアスは肩を竦める。
「僕としても、同胞を痛めつけるのは心苦しい。
でもまあ、あんたはあの可哀想なわが同胞を、無理やりこっちに引きずり出す片棒を担いでたみたいだし――」
「あれは違う!!」
反射の速さで否定した魔精に、マルコシアスはにっこり笑った。
羽を引っ張る手を止めて、マルコシアスは頷く。
「人違いじゃなくて良かったよ。確かにあんたはあそこにいた魔精だね」
「勘弁してくださいよぉ」
魔精が涙声を上げた。
シャーロットの想像よりもずっと人間くさい声だった。
「放してくださいって、本当に何も知らないんですよ!」
「よし分かった」
マルコシアスはそう言ったが、言葉に反して、魔精を拘束する燐光を放つ網が緩む様子はなかった。
「じゃあこうしよう。あんたに下された命令を教えてくれ。それで、僕はあんたを放すよ」
魔精は口籠った。
間髪入れず、マルコシアスがもう一度指を鳴らした。
小さな雷光が閃き、魔精は悲鳴を上げた。
とうとう、シャーロットはおずおずと口を挟んでいた。
「あの……あの、エム? もう少し優しく――というか、私の目から見て優しいやり方はないものかしら? ないなら仕方ないけど」
「なんて優しいお嬢さん!」
魔精が叫んだ。
シャーロットの最後の一言は聞こえなかったものと見える。
「お嬢さん、そこの魔神に僕を解放するように言ってくれてもいいんですよ!」
「それはちょっと」
シャーロットはてのひらを相手に見せ、がっくりと項垂れる魔精を見ないようにした。
魔精はまた、ばたばたともがいた。
「なんだよ! もう! 放せよ! 踏んだり蹴ったりだ、くそ!
大体お前、だれだよ! “エム”ってなんだ!?」
「だれに向かって口を利いてる」
マルコシアスは冷淡に言って、指を振った。
先ほどよりも大きな雷光が絡み、カラスが悲鳴を上げる。
「マルコシアスだ、雑魚。
――おっと、格上の僕から名乗るようではあんたに礼儀を守らせてやれないね。あんたこそだれだ」
「マルコシアス!」
魔精はあえいだ。
「マルコシアス! なんだってあんたみたいなのが!」
マルコシアスはもう一度、根気強ささえ感じさせる動きで指を振った。
今度は燐光を放つ網がぎゅっと縮まり、魔精は苦しげに首を振った。
「あんたこそだれだ、雑魚」
不機嫌に重ねて尋ねるマルコシアスに、ぜぇぜぇとあえいでから、魔精はためらいがちに答えた。
ためらっている間に、「他の人間や悪魔に名乗ることなかれ」と命令されていたかどうかを反芻していたのではないかと、シャーロットは推し測った。
「……リンキーズ」
「リンキーズ!」
今度はシャーロットが叫んだ。
彼女は両手を口許に当てて、胡乱そうに自分を見るマルコシアスに力説した。
「有名な魔精じゃない! とっても優秀で、召喚者のどんな期待にも応じるって、たくさんの文献に出てるわ!」
「なんて素敵なお嬢さん!」
リンキーズが、今度は心からの声音でそう叫んだ。
マルコシアスは無感動に「ふうん」とつぶやくと、リンキーズを見下ろして鼻を鳴らした。
「そんなこいつも、たった今、仕事をしくじろうとしているところだよ。
レディ・ロッテ、あんたが文献を記すときには、こいつもたまにはミスをすると書いてやってくれ」
リンキーズは泣き声を上げた。
「ちょっと待ってくれ! 魔神ってのは、どいつもこいつも、可哀想な魔精一人をぶちのめすことになんの呵責も感じないのか!」
マルコシアスは肩を竦めた。
「残念。こっちも報酬が懸かってる」
「なんのっ――……待てよ?」
リンキーズが息を呑んだ。
そして、カラスの黒い目でシャーロットを見上げて、唐突に弾けるように叫んだ。
「あんた――そういうことか!
あんた、自分が危ないからって、『神の瞳』でこの魔神を召喚したな!」
シャーロットは瞬きした。
全く同時に、彼女は二つのことを考えた。
――一に、リンキーズは彼女が『神の瞳』を持っていると知っていたということ。
二に、「自分が危ないから」という台詞。リンキーズからすれば、シャーロットには誘拐される心当たりがあったはずだという前提に基づかなければ、まず口を衝かないだろうその台詞。
――そして一秒と経たず、彼女はこれが千載一遇の好機であると察していた。
もしもここで、シャーロットが『神の瞳』など持っていないと白を切れば。
それをもって、リンキーズが少なからずの反応を――たとえば、その報告をかれの主人に持って帰らなければならない、といった反応を――示すようであれば、かれらの狙いはまさしくあの秘宝ということになる。
瞬きのあいだのその思考を経て、シャーロットは叫んでいた。
「知らないわよ!」
この一言で、奇跡が起こった。
マルコシアスがシャーロットの考えを察したのだ。
かれを召喚してから初めて、マルコシアスとシャーロットは意気投合したといって良かった。
マルコシアスがシャーロットを見て、ほとんど批難に近い声を上げてみせた。
「……『神の瞳』? あの?
聞いてないぞ、ロッテ!」
「嘘つけ!」
リンキーズが吠えた。
カラスの首の後ろの羽毛が逆立っている。
かれはばたばたと激しくもがいた。
「僕は見た! 僕は見たからな!
あんた、僕の落とした『神の瞳』を拾っ――」
ここまでを衝動的に叫び、リンキーズはひゅっと言葉を呑み込んだ。
カラスの顔にあっても、「あっ、まずい」という表情は見てとることが出来た。
「ロッテ?」
マルコシアスがシャーロットに向き直った。
演技とは思えないほど鬼気迫る顔をしている。
淡い黄金の瞳が光り、そこに映る自分の顔を見て、シャーロットは半ば以上は本気で慌てた。
「待ちなさい――本当よ! 本当に――」
「嘘だ嘘だ」
リンキーズが口を挟んだ。
マルコシアスはご丁寧に、『神の瞳』に気を取られた風を装って、かれへの拘束を緩めていたのだ。
じたばたともがいて拘束から逃れようとしつつ、リンキーズはここぞとばかりに言い立てる。
「僕は見たぞ。あんた、『神の瞳』を拾っただろう」
「ロッテ?」
「確かに拾ったけれど!」
シャーロットは苦肉の策で叫んだ。
言い訳に本気で苦労したために、意図せぬ真実味が言葉の端々に溢れた。
「当然、大叔父さまに言って、しかるべきところに届けたわ!」
「――え?」
リンキーズがぽかんとくちばしを開けた。
「え? 本当に? 本当に、あのへんの巡査隊に届けたの?」
「当たり前じゃない!」
胸を張りつつ、その当たり前のことをしなかったということを改めて自分に突きつける格好になり、じゃっかんの胸の痛みを覚えるシャーロット。
そんなシャーロットを唖然として見上げて、リンキーズは言葉に詰まり、むしろ目を潤ませて、
「……最高」
つぶやいた。
ん? と顔を顰めるシャーロットに、リンキーズはなおもばったんばったんともがきながら、どうやら本気の声音で言い募っていた。
「最高だ。あんた――ええっと、シャーロット・ベイリーだっけ?
ありがとう、本当にありがとう。
――ねえ、あんたの魔神に命じて、僕をここから出すように言ってくれない? 本当に、僕への報酬に誓って、もうあんたに近づかないよ。
あんたを連れていけなくても、『神の瞳』の今の所在が分かったってだけで、僕の主人は泣いて喜ぶ」
「――――」
「――――」
シャーロットとマルコシアスは顔を見合わせた。
(『私を連れていけなくても』? ……と、いうことは、『神の瞳』を持っていようがいるまいが、私を誘拐しようとしてたってこと?
――ってことは、私を誘拐しようとしてたのは、『神の瞳』目当てじゃない……?)
シャーロットは息を吸い込んで、頷いた。
マルコシアスも重々しく頷いた。
かれが立ち上がり、ひょい、と、地面に転がったリンキーズの脚を掴んで、丸焼きになる寸前の鳥よろしく、かれを軽々と持ち上げた。
「あ!?」
遠ざかった地面に叫び、リンキーズが身をよじる。
「ちょ――ちょっと、マルコシアスさん! 放して! 放して! もっとなんかこうさあ、あるでしょ!
『神の瞳』が欲しくないの!? あんたの主人を問い詰めてくださいよ、ねえ!」
「あいにく、十分価値のある報酬を示してもらっている」
マルコシアスはさらりと言って、目の前にリンキーズを持ち上げてみせ、悪魔の微笑みを浮かべた。
「僕の主人は、どうして自分があんたにつけ狙われることになったのかをお知りになりたいそうだ。
――あんたはまず、どうしてこの子をつけ回していたのか、どうしてこの子を誘拐したのか、そもそもどうしてこの子の名前を知っているのか、ちょっと前にこの子は殺されそうになっているんだけど、それもあんたの主人の仕業だったのか、――ついでにどうして『神の瞳』を持っていたのか、僕らに話してくれ」
「同じ悪魔なら分かるでしょ!」
リンキーズは悲鳴を上げた。
「話せるわけないでしょ! 分かるでしょ!」
「そうかな?」
マルコシアスはおだやかに言った。
「ちょっとあんたの記憶を辿ってみてくれ。
あんたの主人は一度でも、『自分がお前に下した命令を喋ったら、報酬はもう渡さないぞ』なんて言った?」
「…………」
「“命令をよそに漏らすな”って、あんたにそう命令した?」
「…………」
「特に命令違反でもないことをお願いしたいだけなんだけどな。
それともなにかな、このまま僕を怒らせて、致命の一撃を喰らって、あっちのあんたの領域に引き籠もりたいの?」
「…………」
黙り込んだリンキーズを、狩りの獲物を逆さ吊りにするかのようにぶら下げて、マルコシアスは上機嫌に言い放った。
「ご理解いただけて何よりだ」
そうしてかれは、じゃっかん引きつりながらそれを見ていたシャーロットを振り返り、空いた手を彼女に伸べた。
「話はついたよ。ゆっくり話を聞こうじゃないか。
――戻ろう、ロッテ」




