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09 遭遇

 かくして家出は始まった。

 目指すは無論、ケルウィックである。



 乗合馬車には、シャーロットのほかに乗っているのは三人だけで、皆が皆、申し合わせたように陰気そうな中年の男性で、目深に帽子を被って座席で眠りこけていた。

 そのために、シャーロットは「子供がどうして一人で乗合馬車に乗っているのだろう」という好奇の目を免れた。言い訳はやまほど頭の中で用意していたところであり、シャーロットは拍子抜けしてしまった。


 とはいえ、彼女から金を受け取って切符を渡した車掌は、まじまじと不思議そうにシャーロットを眺めていたのだが。



 乗合馬車は、それを牽く老いた馬の歩調に合わせてゆっくりと進んだ。

 シャーロットははじめこそ、いつ三度目の不運が襲ってくるかとひやひやしていたものの、そのうちにそれも忘れてしまった。

 彼女は硬い座席の上で半ば振り返るようにして窓の外を眺め、スプルーストンが馬の一歩ごとに離れていく過程を楽しんだ。


 やがて、ごとごとと不規則な馬車の揺れがいい具合にシャーロットを宥め、いつの間にやら、彼女は自分の隣に引っ張り上げていたトランクに突っ伏すようにしてすやすやと寝息を立てていた。


 しばらくしてはっと目を覚ましたシャーロットは、熟睡していた自分に衝撃を受けたような顔をしてからよだれを垂らしていないか点検し、きょろきょろと窓の外を見て現在地を確かめた。



 昼過ぎになって、乗合馬車はいくつかの駅を経由した上で、エールリバーという町に到着した。

 ここまで来れば汽車に乗れる。


 シャーロットは意気揚々とトランクを持ち上げ、よたよたと馬車から降りた。


 車掌はずっと心配そうに彼女を見ており、案の定、馬車から降りる際によろめいた彼女をすばやく支えてやった。


「大丈夫?」


 シャーロットの身の上を憂える表情で車掌は尋ねたが、シャーロットは眩しい笑顔で応じた。


「ありがとうございます、大丈夫ですよ!」


 その元気いっぱいの返答に、車掌は続く質問を胸の中にしまい込んだ。

 彼とて暇ではないのである。



 エールリバーも、決して栄えた町とはいえなかった。

 昼時であっても道行く人の姿は数えるほどで、まばらに散らばる家々の背は低く、道なのか空地なのか、判断に迷うような地面が延々と続いているように見える。

 そんな中にもぽつぽつと街灯が立っており、そして乗合馬車の駅からほど近くに、寂れた汽車の駅が見えていた。

 汽車の線路は町を二分しており、駅は風化してしまった煉瓦造りの簡便な小屋だった。

 線路は一本、東に向かう汽車と西に向かう汽車は、この町の以西と以東でそれぞれ、大きな駅ですれ違うまでは、同時に走ることが出来ない。

 やってくる汽車の数の少なさを偲ばせる光景である。


 薄雲をまとった青い空の下でその光景を眺め渡し、シャーロットはぽつりとつぶやいた。


「――おなかが空いたわ」


 振り返ると、駅と反対側のほど近くには川が流れていた。

 対岸が見えないほど幅の広い川の水面がきらきらと光っているのが見え、灰色の石橋が架け渡されているのが分かる。


 シャーロットは半ばトランクを引きずるようにしながらその橋に向かい、橋のふもとでトランクから手を離し、ぐっと伸びをした。

 辺りを見渡して、近くに人がいないことを確認する。

 それから屈み込んで、左手首の腕輪に囁きかけた。


「――ねえ、ちょっと人の格好をしてくれない」


 数秒の間があって(マルコシアスが眠り込んでいたのではないかとシャーロットは疑った)、腕輪が軽く震えた。


 そして、なめらかに溶け出すように地面にしたたり落ち、慌てて後退ったシャーロットの目の前で、億劫そうに灰色の髪の少年が身体を伸ばして立ち上がった。

 黒ずくめの格好の上から、品のいい焦げ茶色の外套を羽織っている。


 かれは眩しそうに瞬きして、伸びっ放しの前髪をいじった。


「――なにか用? それとも問題?」


 無愛想に尋ねるマルコシアスに、シャーロットは首を振った。

 訝しげに顔を顰めるマルコシアスに、彼女は肩を竦めて愛想笑い。彼女の吐く息が白く漂った。


「一緒にごはんを食べましょう」


「はっ?」


 瞬きし、いっそう訝しそうにするマルコシアスに、シャーロットは愛想笑いから一転、決まり悪そうに顔を顰めた。


「だってこの町、大叔父さまのところと同じよ。きっと、ふだん見ない顔は町の皆さんがじろじろ眺めるような町よ。そんなところで一人でごはんを食べても居心地が悪いじゃない」


 マルコシアスは呆れて息を吸い込んだ。


「あんたさ……じろじろ見られながら馬車に乗るのは平気だったのに、なんで今さら僕を呼ぶの」


「あら、だって」


 シャーロットは悪びれなかった。


「お前の分の切符は買ってあげられなかったんだもの。でも、お前にパンを買うことなら出来るわ。別にいいでしょ、エム。毒になるものでもないし」


 マルコシアスは溜息を吐いたが、結局のところは受け容れた。


 確かに、悪魔は食事も睡眠も必要としないが、そのどちらも、摂ることが出来ないものではないのである。

 そして、主人の機嫌を積極的に損ねる悪魔は少ない。


 だがそれでも、シャーロットが当然の顔でトランクを突きつけてきたときには、マルコシアスは覚えず半眼になって彼女を睨んだ。


「は?」


「持ってよ、お前には軽いんでしょう」


 当然のようにそう言うシャーロットに、マルコシアスは軽蔑が伝わる表情を作ってみせた。


「嫌だね。あんたがそれを持っていても、僕に命令されたことには何の差し障りもない」


「ふうーぅん」


 シャーロットはわざとらしくそう言って、トランクを足許に置いて腕を組んだ。

 風が吹いて、彼女の金髪がそよそよと揺れた。


「つまり、お前はこう言ってるのね……いつ私に三度目の不運が起こるか分からないけれど、私がこの重い荷物を持っていてもいい、と……これまでのことからしても、私が唐突に刺されることだって有り得るんだけど、この荷物のせいで私が逃げ遅れてもいい、と……」


「ああもう、分かったよ」


 根負けして、マルコシアスはトランクを持ち上げた。


「ずる賢いね、レディ・ロッテ」


「悪魔にそう言われるなんて光栄だわ」


 真顔でつぶやいてから、シャーロットは屈託なく微笑んだ。


「ねえ、本当におなかが空いたわ。

 お前、これまでたくさんの主人に仕えてきたんでしょう。何か食べて気に入ったものなんかはなかったの? 同じものがあったら買ってあげるわ」





 マルコシアスが所望したものは、まるまると太ったガチョウの丸焼きを腹の中に詰め込んだ豚の丸焼きという、まずもってお目に掛かれないものだった。

 当然、この町にそんなものはなかった。


 シャーロットは代わりに、たっぷりとグレイビーソースの掛かった肉と、はちみつの掛かったチーズを一緒くたに黒パンの中に詰め込んだものをかれに買い与えた。

 二人は店の前に並んで立ち、やはり周囲からの、「見ない顔だな」という視線を注がれつつ、それを頬張ることとなった。


 パンは温かく、チーズは溶けかけている。

 マルコシアスは懐疑的な表情でそれを受け取り、シャーロットが食べるのを見届けてから、半信半疑といった様子で口をつけたが、直後に驚いた顔をした。

 どうやらかれにも美味だと感じられる部類だったらしい。


 びっくりした様子を見せるマルコシアスは、そのときは見た目相応に十四歳の少年に見えた。

 初等学校での級友たちを思い出して、シャーロットは知らず知らずのうちに微笑んでいた。



 それからシャーロットはまた、マルコシアスに彼女と「手をつなぐ」よう――つまるところが腕輪に姿を変えるよう――指示して、今度は汽車の切符を買うために駅に向かった。


 彼女がトランクを持ってよたよたと歩くのは、どうやらマルコシアスの気に入ったらしい。

 腕輪がかすかにふるふると震えており、シャーロットはマルコシアスが爆笑していることを察した。



 駅に設けられたカウンターの向こうで退屈そうにしていた駅員は、年端もゆかぬ子供が一人で切符を買いに来たことに懐疑的な顔を見せたものの、幸いなことに、彼がそれに対して何かの行動を起こすほどには、彼に支払われている給料は多くなかったと見える。


 駅員の彼は面倒そうに、代金と引き換えに、ビルヴィーヒルまでの切符をシャーロットに渡した。

 ビルヴィーヒルで汽車を乗り換える必要があることを、シャーロットはケルウィックからスプルーストンへ連れて来られた際に経験して知っていたのだ。


 シャーロットが切符をポシェットにしまっているあいだに、駅員の彼の後ろの壁に取りつけられた黒い電話機が、ジリジリと音を立てた。

 駅員の彼はシャーロットへの興味も失せた様子で椅子の上でそっくり返り、おざなりに手を伸ばして釣鐘型の受話器を手に取って耳に当てた。


 何事かを聞いて彼がうんうんと頷き、送話口に向かって心持ち怒鳴るようにして返事をするのを、そそくさとカウンターの前を離れながら聞き、シャーロットはそれが、行方不明になった十四歳の少女を捜す依頼の電話ではないことを切に祈っていた。





 あの電話は、行方不明の女の子を捜す依頼のものではなかったらしい――シャーロットは無事に汽車に乗り込んだ。手持ちがさほど多くはないため、彼女は三等客車の切符を買っていた。


 三等客車に乗るのは、シャーロットには初めてのことだった――ケルウィックからスプルーストンへ向かったときには、二等客車に乗ったのだ。


 三等客車の座席は、背もたれもない木の座席で、造りつけのベンチが整然と――少々窮屈に――並んでいるといって良かった。

 窓の数が明らかに足りておらず、なんとなく車内は薄暗い。

 乗っているのは貧しい身形の人々ばかりで、シャーロットの格好は小綺麗なものとして目立った。


 車内は雑然と混みあっており、座席はほぼいっぱいになっていた。


 後ろの方では、つぎはぎの当たった旅装の女性が立って、泣き喚く赤ん坊をなんとか宥めようと奮闘している。

 それに手を貸そうとしているのか、複数の男性が大声で赤ん坊に向かって何事か声をかけていたが、そのだみ声こそが、赤ん坊が泣き喚いてる主因ではないかとも思われた。


 客車の真ん中辺りで、トランプゲームに勤しむ数人のグループがあり、彼らが大声で盛り上がっているところをみるに、どうやら具体的な金銭を賭けているらしかった。

 彼らは皆、炭鉱夫独特の薄汚れた格好をして、手荷物は小さく、トランプをめくる指先は黒く汚れていた。


 煙草を咥えている者もかなりいて、車内にはうっすらと紫煙が漂っている有様だった。

 この寒空であっても窓は開け放たれていたが、換気は追い着いていない。


 見たことのない世界にシャーロットは目を丸くしたが、それを口に出すことは控え、いわんや怯むことはなかった。


 自身も煙草をくゆらす車掌に切符を見せ、重いトランクをえっちらおっちら持ち上げて、車内を見渡す。

 前方の座席の隅が空いていたため、そこにちょこんと腰を下ろす。


 隣ではひしゃげた帽子をかぶった老人が、火の点いていない煙草を咥えて、かなり古い日付の新聞を一心不乱に読んでいた。

 彼はちらりと横目でシャーロットを見て、急に興味を覚えた様子で煙草を手に取り、彼女に勢いよく話しかけ始めた。歯が抜けており、声はふがふがと不明瞭だった。

 シャーロットはもちろん、きゅっと唇を引き結んで答えなかった。


 知らない人に話しかけられても応じてはいけないと、これは言い聞かせられていることである。





 汽車は東に向かって突き進んだ。


 窓の外にははじめのうち、おだやかな牧草地帯が広がり、やがてそれが小さな町に変わった。

 汽車は駅に着いては停まり、その度に汽車から降りていく人と、乗り込んでくる人で、車内の人間模様は少しずつ変わった。


 夜になると汽車は停まり、いったん扉が開いた。

 今日はもうこれ以上は進まず、外で食事を済ませて来いとの意味である。


 シャーロットもトランクを手によたよたと立ち上がり、汽車を降りて、主にこうした汽車の乗客を収入源としているのだろう露店が広がる光景にぱちぱちと目をしばたたいた。

 ケルウィックからこの道程を逆に辿ったときには、この世の終わりのように落ち込む彼女に、同行していた父が食事を都合してくれていたのである。


 シャーロットは少しばかり、またマルコシアスを人の形で呼び出して、一緒に夕食を――としゃれこむかを検討したが、今度ばかりはやめておいた。

 小綺麗な恰好で三等客車に乗り込んだ彼女は少なからぬ注目を浴びており、腕輪が少年の姿に変わっていくところを、誰に見られないとも限らなかった。


 シャーロットは露店で硬いパンと野菜スープの食事をあわただしく済ませ、汽車の中に戻った。


 続々と乗客は車内に戻り、やがて全ての窓が閉め切られて、車内はつかのま簡易宿舎に様変わりした。

 乗客皆が思い思いの姿勢で眠りに落ちるなか、シャーロットは賢明な判断をした。

 つまり、赤ん坊をかかえて眠りに落ちた女性のそばに席を取り、トランクにもたれ掛かるようにして眠りについたのだ。

 さすがにこの状況で、あらくれ男たちの真ん中で堂々と眠る勇気は彼女にもなかった。



 夜も明けきらぬ、朝靄がたなびく時間に、再び汽車は軋むような音を立てて動き始めた。

 高らかに鳴り響いた汽笛の音でシャーロットは飛び起き、まだ車内の半数は眠りに落ちている気だるい空気のなか、目をこすって自分の所持品を確かめた。


 トランク、異常なし。

 ポシェットの中身の財布と地図、異常なし。

 『神の瞳』、異常なし。


 もっとも、もし彼女が眠りこけているあいだに『神の瞳』を盗もうとする不届き者がいれば、さすがにマルコシアスが全力でそれを阻むだろうが。

 ――そう思い至って、彼女は自分の足許を見渡した。


 マルコシアスに撃退された不届き者が転がっていたりはしなかった。





 その日の昼になって、ようやくシャーロットはビルヴィーヒルの駅に到着した。


 この汽車はこのまま、東方の山地に向かって突き進んでいくが、シャーロットが乗りたいのはローディスバーグ方面に向かう汽車である。



 ビルヴィーヒルは大きな駅で、プラットホームは混みあっていた。


 蒸気機関車の煙が漂うなかを、様々な格好の人たちがひしめいている――三等客車付近には貧相な身形の人たちが、そして一等客車付近には豪奢な恰好の人たちが、それぞれ汽車から降りたり、逆に汽車に乗り込んだり、人を見送ったりと忙しない。


 目が回るような人波の中で、シャーロットはぎゅっとトランクを握り締めた。


 ようようプラットホームを抜け、人混みに揉まれてじゃっかん()()()()()()になりながらも、彼女は駅のホールに行き着いた。


 ホールには長椅子が整然と並べられており、高い位置に開いた大きな窓から、斜めに陽光が射し込んでいる。

 ここにもたくさんの人がいた――自分が乗る汽車の時間を待っている人たちが、ここで時間を潰しているのだ。


 シャーロットは足早にホールを抜け、これもまたたくさんの人がたむろする駅の出口に向かって、トランクの重さが許す限りの速さで歩き続けた。



 駅の出口である、見上げるほど大きなアーチをくぐり抜けると、寒々と晴れ渡った空が彼女を出迎えた。


 駅の正面は、きっちりと敷かれた石畳の広場になっている。

 辻馬車や乗合馬車が乗客を待っているほか、無骨な蒸気自動車も幾台か見られた。


 蒸気自動車に乗っているのはいずれも気取った風の紳士ばかりで、中にはこれみよがしにパイプをくゆらせている者もあった。


 広場の向こうに、ビルヴィーヒルの町並みが広がっている。

 広大な丘陵地帯を切り拓き、石畳で制圧し、灰色の無愛想な建物を次々に建てていった町並みだ。


 こうした町の建設に当たって、魔術師が――というよりも、悪魔が――活躍することは言うまでもない。

 大規模な土木工事は、超重量を一気に動かすことの出来る悪魔の魔法を抜きにしては成り立たない。

 リクニス学院を卒業した魔術師は、大抵が国や大企業の研究職を得るが、大多数の魔術師はそういった、土木工事や橋梁工事、水道工事といった、人の力だけではどうにもならない場所に赴くことが多いのだ。


 ひときわ目につくのは、背の高い時計塔だった。

 時刻は二時を少し過ぎたところ。


 時計塔の尖ったてっぺんに、数羽のカラスが群れているのが遠目に影として見えていた。


 広場によろよろと進み出たシャーロットは、難しい目でそれらの町並みを眺めた。


 そしてこくりと頷くと、相も変わらずトランクの重みに苦戦しながら、広場を横切って歩き始めた。





▷○◁





「――疲れたぁ……」


 シャーロットがそう言ってベッドに倒れ込んだのは、ビルヴィーヒルの駅からほど近い安宿の一室においてのことだった。


 このホテルの一階はパブになっており、昼間であっても床を通して、そのがやがやとした喧騒がかすかに聞こえてきていた。

 だが、シャーロットに文句を言う気は微塵もなかった。

 十四歳の少女を一人で泊めてくれるホテルなど、そうそうない。


 このホテルの主人は片目が白く潰れた老人で、帳場でちらちらと気遣わしそうにシャーロットを見たものの、特に怪しむ様子もなく部屋の鍵を渡してくれた。

 ただし、パブにいた客たちは盛大に口笛を吹いて彼女を出迎え、「お嬢ちゃん一緒にどうだい!」との野次を飛ばしてきたために、このホテルから去るとき以外は断じて一階には降りるまい、と、シャーロットは決意を固めてしまうところだった。

 とはいえすぐに、夕食の必要があると思い至ったのだが。


 ホテルの部屋は狭く、ベッドでほとんどいっぱいになっていた。

 足許の床は剥き出しの板木で、絨毯もない。

 ランプはベッド脇のサイドテーブルに置かれたカンテラだった。


 申し訳程度の細い窓にはカーテンが引かれ、カーテンをめくれば、眼下に駅前の雑踏を見下ろすことが出来た。


 シャーロットが感激したことに、この部屋には浴室もついていた――水道が引かれているのである。

 浴室には白いバスタブが置かれ、シャワーもついていた。


 感激である。

 浴室の隅の方に黴が見えた気もしたが、シャーロットはそれを見なかったことにした。



 シャーロットが身を伏せたベッドのシーツは、わずかに埃っぽかった。


 彼女はくしゃみをして身を起こし、ぐるりと周囲を見渡して、もちろんこの部屋に自分一人であることを確認した。

 そして、言った。


「――エム、人の格好をしてくれる?」


 数秒の間があったが、すぐにシャーロットの左手首の腕輪が溶け出し、形を変え、瞬く間にベッドに腰掛ける灰色の髪の少年の姿に変じた。


 マルコシアスは白いシャツの上から灰色のウエストコートを着て、くすんだ深緑色のトラウザーという格好、そしてもちろん、首許にはストールを巻いて枷を隠していた。


 かれは脚を組んで、ベッドに座り込むシャーロットを眺めていた。


「――なんでこんなところでのんびりしてるの。ここから汽車を乗り継ぐんじゃないの」


「さすがに身体が痛いわよ。一晩休むの」


 シャーロットは疲れた様子でそう言って、伸びをした。

 マルコシアスはそれを観察して肩を竦める。


「まあ、別にいいけど」


「それより、ねえ」


 シャーロットはマルコシアスの方へ身を乗り出した。

 マルコシアスはじゃっかん仰け反った。


「なに」


「大叔父さまのお屋敷の方は大丈夫?」


 マルコシアスは鼻に皺を寄せた。


「大丈夫だよ。何かあれば言ってる」


 安堵するかと思いきや、シャーロットは眉間に皺を寄せた。

 綺麗に一本線が入る、「不機嫌の縦線」。


 マルコシアスは首を傾げる。


「ロッテ?」


「私の方にも何もないわ」


 シャーロットはつぶやき、ほつれた金髪を指先でくるくるともてあそんだ。


「どうしてかしら――」


「ベンに物騒なことをお願いした連中が、ベンの末路をまだ察せてないんじゃない。まだベンを待ってるのかもね」


 マルコシアスは衒いなくそう言って、とたんに顔を顰めるシャーロットを見て肩を竦めた。

 それから、すばやく言った。


「それに、あんたがどこにいるのか、ベンの後ろにいた連中が分かってないんじゃない?

 あんたがどこにいるか分かって、そこに人を差し向けないといけないわけだろう」


 シャーロットは目を丸くした。

 明らかに、そこに考え至っていなかった様子だった。


 この女の子は頭がいいのか悪いのかよく分からないな、と思いつつ、マルコシアスはまた無言で肩を竦める。


「――まあ。確かにそうね、そういうことは早く言いなさいよ」


 シャーロットは、じゃっかん理不尽にマルコシアスを責める声音でそう言って、ぽん、と手を合わせた。


「じゃあ、しばらくここにいた方がいいのかしら」


「……どうだろうね」


 マルコシアスはつぶやいた。


「あんたが誰かの恨みを買ったとして、そいつがベンみたいな人間を差し向けてくるなら、ここに来るまでに時間もかかるんだろうけど」


 シャーロットは首を傾げ、それから真面目な口調で言った。



「じゃあ、とりあえず、私は何か目立つことをした方がいいのかしら。

 どうしましょう、お夕飯を買いに行きながら、自分の名前を歌にして唄ってみるとか?」



「やめてくれ」


 マルコシアスは顔を押さえた。


「度外れてお馬鹿で愚かな主人に仕えたことの言い訳を、僕に考えさせないでくれ」





▷○◁





 時計塔が五時を指し、冬の気の早い夜陰が帳を下ろすころ、シャーロットは夕食のために宿を出た。


 一階のパブの客たちは、いよいよ酒が入って盛り上がる様子を見せていた。

 外に出るためにはパブを通らざるを得ず、シャーロットは大声を上げる男たちに目を丸くしながらパブを抜けた。


 宿の主人はパブのマスターを兼ねてそこにいたが、シャーロットの前に立ってずんずん進む灰色の髪の少年の姿を見て、こちらもこちらで目を丸くしていた。


 それから彼は嘆かわしげに首を振った。

 近頃の少年少女の風紀の乱れを思ってのことだったかも知れない。





 街灯がぽつぽつと照らす石畳の道を、シャーロットは食事にちょうどいい店を探して練り歩いた。


 三々五々に夕食に向かう人の姿があり、あるいは足早に家路を急ぐ人の姿がある。

 道に面する酒場の扉が開け放たれ、内部のオレンジ色のランプの明かりが斜めに道に落ちていて、街灯の明かりと混じって、まるでぽつぽつと光が島を作っているように見えていた。


 酒が入って盛り上がった声が漏れ聞こえており、ケルウィックにあってはこうした繁華街への立ち入りは許されていなかったこともあり、シャーロットは始終目を丸くしていた。



 結局のところ彼女が入ったのは、まだ落ち着いた雰囲気の酒場だった。

 この辺りには酒場しかないらしい。


 その酒場も混みあってはいたものの、喧騒は他と比べてまだましだった。

 外は息も白くなる寒さだが、熱気に押されて酒場の中はむわりと暑い。


 胸の高さのウエスタンドアを押し開いて中に入り、こういった場でのふるまいが分からずおたおたするシャーロットに舌打ちして、マルコシアスは彼女の腕を引っ張って、かろうじて空いていた隅のテーブル席に彼女を座らせ、自分もその前に座った。


 せまいテーブルの上には、先客たちの食べこぼしや、コップの跡を示す丸い形に残った水滴が残されていた。


 シャーロットはこれに大いに怯んだ顔をしたが、すぐにテーブルの上に立てられたメニューを一瞥して、マルコシアスの好みを尋ねた。

 マルコシアスは無関心な金色の目でメニューを見て肩を竦め、なんでもいいと答えた。


 だが結局、忙しく立ち働く店員を呼び止めたのはマルコシアスだった。

 シャーロットはどうにも、どのタイミングで彼女らに声を掛ければいいのかを把握できなかったのだ。

 その点、悪魔であるマルコシアスは無遠慮だった。

 かれはあっさりと手を伸ばして、店員の前掛けを掴んで彼女を引き留め、シャーロットに目配せして彼女に注文を述べさせた。


 店員は無論のこと不愉快そうにしており、シャーロットとしては注文を述べる前に、「今すぐ手を離しなさい」とかれを窘めることとなってしまった。

 マルコシアスは肩を竦め、ぱっ、と手を離して無邪気さをアピールしてみせる。


 シャーロットはメニューをろくに見もせずにいくつかの品目を読み上げ、やがて運ばれてきたコテージパイとローストビーフ、ソーセージとベイクドビーンズを、大慌てで食べ始めた。

 慌てた理由としては主に、ここにいてはあちこちから酒を勧められかねないと悟ったがゆえである。

 シャーロットはまだ酒を飲んだことがなかった。


 マルコシアスも付き合うようにいくらかそれらをつついたが、主に食べたのはシャーロットだった。


 やがて食事を終えて、シャーロットは会計に足るだけの金額をポシェットから取り出して、テーブルの上に置いた。


 雑然とした酒場の中にあるとは思えないほどくつろいだ雰囲気をかもすマルコシアスに、行きましょうと合図して、入ってきたときとは逆に、今度はシャーロットがかれの腕を掴んでその酒場を出た。


 ウエスタンドアを出て、心情的には酒場の喧騒は遠ざかった。



「すごくにぎやかね」


 シャーロットは述懐した。

 店から出て、彼女は外套を掻き合わせるような仕草をした。吐く息が白い。


「もうちょっと大人になったら、こういうところでもくつろいで食べられるようになるものかしら」


「そうかもね」


 マルコシアスは無関心につぶやいて、冬の気の早い夜空を振り仰いだ。


 どこからか雲が湧いてきているようだった。

 冷たい風がにわかに強くなり始めている。


 マルコシアスは覚えず、狼の仕草で鼻を鳴らした。


 そして、すっかり満足した様子のかれの主人の肘の辺りを掴んだ。


「ロッテ、行くよ」


 シャーロットは瞬きして、マルコシアスを振り返った。

 かれの語調が少し変わったことを察したようだった。


 きょとんとした様子だったが、彼女は頷いて、小走りになってマルコシアスと並んだ。



 二人はしばらく並んで元来たホテルの方へ向かったが、唐突にマルコシアスが、ひとつ手前の角を左に曲がった。


 シャーロットは面喰らったが、彼女が何かを言う前に、マルコシアスが強く彼女の手を引っ張った。


 かれはまっすぐに前を見て、街灯の他には明かりのない暗い道を、迷うことなくすたすたと歩いていた。


 シャーロットはその横顔を見上げて、言いたいことはあるものの、とりあえず黙っていようと決めた。



 二人は、街灯と街路樹が交互に立つ、両側をアパートメントに挟まれた道をまっすぐに歩いた。


 他に人気(ひとけ)はなかったが、一台の馬車ががらがらと音を立てて二人とすれ違った。

 マルコシアスは横目で、その馬車が行き過ぎるのを見ている。


 ――そして唐突に足を止めた。


 あまりに唐突に足を止めてしまったので、シャーロットが余分に三歩を歩いてしまったほどだった。


「――エム?」


 シャーロットが振り返った。

 同瞬、マルコシアスも振り返っていた。


 かれが背後の、街灯の上の辺りをまっすぐに指差した。



 その指先が指す街灯の上で、ぱちっ、と白い光が瞬いた。



 かん高い悲鳴が上がった。


 続いて、どすん、と、重みのある何かが敷石の上に落下する音――暗くてよく見えない。

 街灯のすぐそばだ。


 シャーロットはぎょっとして、恐怖というよりは驚きから、咄嗟に三歩を戻ってマルコシアスに身を寄せた。


 マルコシアスはそれにも気づかなかった様子で、悪魔の微笑みを浮かべていた。


 そしてすばやく足を踏み出したために、シャーロットはその場に取り残される形になった。

 不意に寒さが身に染みて、シャーロットは身ぶるいした。


「エム?」


 彼女は囁いたが、意図したよりも小さな声になった。

 ちょうど冷たい風が吹いて、彼女の声をマルコシアスの耳に届ける前に散らしてしまった。


 シャーロットはマルコシアスについて動くべきかどうか逡巡し、結局のところその場に踏み留まった。



 マルコシアスは、()()が落下した、まさにその場所に向かって足を踏み出していた。


 シャーロットからは、街灯の明かりを切り取るかれの後ろ姿だけが見えていた。


 街灯のそばまで歩みを寄せたマルコシアスは、まじまじと自分の足許を見ている。

 その辺りから、なんとも哀れっぽい声が聞こえ始めていた。


「――ははあ」


 マルコシアスがつぶやいた。


 そこで、シャーロットは好奇心に負けた。

 彼女は、そろそろとマルコシアスの後に続いて動き始めた。



「ははあ。――あんた、以前も会ったね?」



 マルコシアスはそう言って、腕を組んだ。


 かれが、後ろから寄ってきたシャーロットに気づいて、頓着ない様子で半歩横にずれ、彼女にも地面に落下した()()()()がよく見えるようにした。


 ガス灯が落とすかすかにオレンジ色かかった白い明かりの中で、地面に落ちてもがいているのはカラスだった――少なくともシャーロットにはそう見えた。

 カラスは、全身を燐光を放つ網で絡めとられ、まさにそこから脱出しようと空しく奮闘している最中だった。


 とはいえパニックになっている様子はなく、なんとはない諦念さえも感じられるもがき方で、これはただのカラスではあるまいと、シャーロットとしても固唾を呑んだ。



 はたせるかな、マルコシアスは言った。



「あんた、前に見た犬の格好の方が愛嬌があったんじゃない。

 ――今日はどうしたの、何の用か訊いてもいいかな」























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