08 お前は知らないことでしょうが
「――ただ、ねぇ」
はたしてどうやって、今は亡きベンの目的をあきらかにするのか――まさに文字通り、「死人に口なし」となっている状況を、どうやって打破するのか――、二人がそれに本格的に頭を悩ませ始めたのは、日が落ちてからのことだった。
良心と志の板挟みを、良心に恥じることはしていなかったという証拠捜しへ逃げることで一時的に免れ、さらにいえばマルコシアスからの、「絞首台の縄より早く、僕があんたに始末をつけよう」という約束を拠りどころとしたシャーロットは正気づいた。
その結果、彼女は空腹を自覚し、「何か食べない限りは、もう何も考えられない」と言い切ったのである。
マルコシアスとしても、シャーロットを餓死させる予定はなく、どうぞご自由に――と促すこととなったが、大叔父としては、「どうぞご自由に」とはならなかった。
昨夜には寛大な心を見せた彼だったが、一夜明け、しかもシャーロットの姿が見えず、肝を潰した時間があったものだから、彼は厳格に対処した。
すなわち、昼食と夕食の支度とともに、屋敷の何箇所かの清掃をシャーロットに命じたのである。
昼食を終えたシャーロットは、しおらしく命じられた場所の清掃に汗を流した。
その程度、魔術師ならばしもべの悪魔に頼めばよろしかろう――と思った人がいるとすればそれは正しくない。
マルコシアスは気位の高い悪魔であり、仮にそのようなことを命じてしまえば、その命令に背いたところで軽微な命令違反に留まることに目をつけて、舌を出してお断りだと言い放つだろう。
かくしてシャーロットが屋敷の清掃と夕食の支度、そして夕食そのものを終えて自室に戻って、はじめて話が再開されたのである。
低い梁に吊るされたランプには灯が入れられ、頼りないオレンジ色の明かりが狭い部屋をぼんやりと照らし出している。
部屋の隅には追い遣られた暗闇がうずくまっていた。
シャーロットはベッドに腰掛け、デスクの前の椅子に座るマルコシアスと目を合わせようとしていた。
マルコシアスは完全にシャーロットに背を向け、書棚の古ぼけた本の背表紙を眺めているようだった。
「ねえ、聞いてる?」
「聞いてるよ、僕はこの命令の遂行については、人一倍関心を寄せてるから」
シャーロットに背中を向けたままで、マルコシアスは即答した。
シャーロットはむっとしたものの、相手は悪魔なのだから、背中に目の一つや二つがあってもおかしくはなかろう、と思い直した。
咳払いして、彼女は続けた。
「このあいだの誘拐と、今回のベンの件が、仮にこの――お前への報酬を目当てにしたものだったとしたら、おかしいと思わない?」
マルコシアスが、くるりとシャーロットに向き直った。
「思うの? 説明して」
「だって、このあいだの人、この屋敷には目もくれずに私を誘拐したでしょう? ベンだって、家探しする様子はなかったし――」
シャーロットは肩を竦めたが、その仕草がマルコシアスからうつったもののように思え、どことなく気まずくなった。
マルコシアスには何ら感じるものはなかった様子だが、シャーロットは意味もなくもう一度咳払いした。
「――ともかく、この付近で落としたものを捜しているなら、家探しするのが普通だと思うの。
つまり、」
「目的は落としものの捜索じゃなかったか――それか、連中はあんたがそれを持ってることまで知ってたか。
それか、目的は落としものの捜索だったけれども、とりあえずあんたも確保した上で、ゆっくりここも家探ししようとしてたか。
このうちのどれかだ」
マルコシアスが言葉を引き取って、少し首を傾げた。
かれが何かを考え込んでいる風情を見せたので、シャーロットも声を出すことを控えた。
外で風が吹き、明かり取りの小さな窓の硝子ががたがたと揺れた。
シャーロットは窓を振り仰いだ。
汚れた硝子は、外の様子は欠片も映さない。
仮に今、だれかが窓の外からこの部屋を覗き込んでいたとしても、シャーロットはそれには気づけないし、窓の外からもこの部屋の中はとても見えないだろう。
しばらくして、マルコシアスが指を鳴らした。
そしてその、やや骨ばった指でシャーロットを指差した。
そして、あっけらかんと言った。
「ちょうどいいじゃないか。
――ロッテ、一緒に家出しよう」
「――はい?」
シャーロットは素っ頓狂な声を出した。
そしてその直後に両手で口を押さえたのは、夜間にあってはいっそう、大叔父が騒音に敏感であるゆえだった。
マルコシアスはその挙動を見守ってから、当然のように言った。
「それがいちばん手っ取り早いでしょ。あんたをこの屋敷から出す。僕は精霊にここを見張らせておくことが出来る。
あんたがここを出て行ったあとで、誰かがまたここに来て、今度は家探しをするようなら、連中の目的は落としものの捜索だ。
ここを離れたあんたを三回目の不運が襲ったとして、そのときこの屋敷にも誰かが家探しに入るようなら、それでもやっぱり連中の目的は落としものの捜索だ。
もし、連中があんたを追いかけてきて、しかもこの屋敷には目もくれなかったら――」
マルコシアスは肩を竦めた。
「――そのときは、あんたが何をして誰の恨みを買ったのか、それでその誰かの恨みは正当なものなのか、考えよう」
シャーロットは瞬きして、マルコシアスの言葉を呑み込もうとした。
マルコシアスはそれを彼女の逡巡と受け取ったのか、いくぶんか慎重になった声で続けた。
「ベンがすすんでここに来たのか、それとも嫌々ながらここに来たのか、それを判別する手段はまた今度考えよう。ベンの目的が分かってから考えてもいいはずだしね。
――ベンが誰かに唆されたり頼まれたりしてここまで来たとすれば、もっと運が向けば、ベンにここへ来るように言ったやつに会えるかも知れないよ。そうすれば直接訊けるじゃないか」
シャーロットは幼い顔をぱっと明るくしたが、直後に警戒するような顔をした。
「まがりなりにも乱暴な手段をとるよう、ベンを唆した人たちのところに行って? のんびり質問できるものかしら」
「大丈夫、僕が守るよ」
気負いなくそう言って、マルコシアスは歌うように付け加えた。
「あっちに悪魔がいたとしても、よっぽどのことがない限り、勝てないにせよあんたを逃がすことくらいは出来るからね。フォルネウスが呼ばれていなければ」
シャーロットは訝しげな顔をした。
フォルネウスの名は知っていた――マルコシアスと同様、有名な魔神だ。
ただ、序列はマルコシアスとそう変わらなかったように記憶している。なぜ名指しで「フォルネウスがいると困る」とマルコシアスが言ったのか、それが分からなかったのだ。
だが、シャーロットがそれを疑問として口に出すよりも、マルコシアスが次の言葉を続ける方が早かった。
「あんたが怖いなら、もっと間接的な証拠集めに徹してもいいけど」
「なんでよ」
シャーロットは眉を寄せた。
幼さが彼女の向こう見ずな気質に拍車をかけていた。
「いちばん確実な方法を採らないと意味がないでしょう。怖いからなんなのよ」
マルコシアスはしばし、じっとシャーロットの顔を見ていた。
それからふっと笑って、軽く頭を下げてみせる。
「仰せのとおりに、レディ・ロッテ」
頭を上げたマルコシアスに、シャーロットはいくらかの遠慮をしながら尋ねた。
「あの――お前がここを離れるなら、ベンは」
マルコシアスはうんざりした顔をしたが、それを口に出しはしなかった。
かれは面倒そうに手を振った。
「精霊に言って、どこかに埋めておこう。ちゃんと掘り出せるようにしておくから大丈夫」
シャーロットは針を呑み込んだような顔をした。
彼女は手許を見下ろしてから息を吸い込み、顔を上げると、よりいっそう、慎重に探りを入れるようにして尋ねた。
「大叔父さまは? ――もし、落としものを誰かが拾ったと思われているなら、私と同じように大叔父さまも誘拐されるかも知れないわ」
マルコシアスは肩を竦めて請け合った。
「精霊に守らせよう。それこそ悪魔が乗り込んでこない限り、あんたの大叔父さんの安全は保障できるよ」
シャーロットはほっと息を漏らした。
それから、考え込む様子で口許に手をあてがう。
「――家出がお父さまに知られるのは問題だけれど……」
深刻そうにそうつぶやくシャーロットに、マルコシアスはわれ知らず安堵していた。
――リクニスへの入学は、さすがに、シャーロットの父の許しがなければ叶わないことだ。
つまり今、シャーロットが父の機嫌を気にしたということは、彼女はまだまだ――無意識にではあれ――リクニスへの入学を諦めていないということ。
報酬を得られる目はまだまだあるぞ。
そう思い、うっかり自分が上機嫌に鼻唄まで漏らしそうになっていることに気づいて、慌ててマルコシアスは自重した。
ベンの件があってから、ご主人さまの機嫌の波は大きい。
下手なことをして刺激したくはない。
――機嫌がいいときに鼻唄を漏らす癖は、いつごろ身に着いたのだったか――と、マルコシアスはふと考え込み、そして思い当たった。
――あのときだ。あの主人から、そばにいるときは人間に見えるようにしろと命令されて、そして人間らしい仕草のひとつとして教わったのだ。
あの主人は確か、何かから逃げていて、そのわりには暢気に紙に文字を書きつけて過ごしていた。
マルコシアスは咳払いし、言った。
「――さすがに、殺されそうになって逃げてきたっていえば、あんたのお父さんだって許してくれるんじゃない? 証拠を出せって言われたときには、あんたは嫌かもしれないけど、われらが可哀想なベンが動かぬ証拠になるわけだし」
シャーロットは束の間、石のような無表情でマルコシアスを見た。
それを見て、マルコシアスは彼女の心が、完全にこの提案をはねのける方向へ動いたことを感じ取った。
シャーロットはあの男の死体を表に出したがっていない。
「……あの人が私を殺そうとしたって、誰に分かるのよ」
シャーロットは低い声で言った。
「証人もいないわ――それに、こっちには悪魔がいたのよ。警察だって、一方的な殺人だったと思うわ」
マルコシアスは肩を竦めた。
そして、だめで元々、といった気持ちになって提案した。
「じゃ、僕が人間の振りをして証言しようか」
「上手くいくもんですか」
「駄目かな」
呟いて、マルコシアスは顎を撫でる。
「いつだったか、何だったかな――僕が昔の主人のことを喋ったら、あっという間に大騒ぎになって、同じ話を何度もせがまれたこともあるんだけど。ああいう風にはならないものかな」
「――――」
シャーロットが目を見開いた。
彼女が弾かれたようにベッドから立ち上がり、マルコシアスを指差した。
その指先がかすかに震えている。
シャーロットの頬が赤くなった。
「お前……お前……」
マルコシアスは困惑に瞬きして、眉を寄せた。
「……どうかした?」
シャーロットは息を吸い込んだ。
一瞬、彼女が何かを言おうとした――だがすぐに、その言葉を呑み込んだようだった。
震える唇を引き結んで数秒、ようやく、シャーロットは囁くように言った。
「……お前のその、お馬鹿な計画は上手くいかないでしょうけど、構わないわ」
ゆっくりと息を吐いて、シャーロットは橄欖石の瞳を細めて微笑んだ。
「――私の良心に付き合ってくれてありがとう、エム。いろいろ尽力してくれて。
引き続きお願いね。――一緒に家出しましょう」
▷○◁
人に関わるようになって数千年とはいえ、特に人の社会に関心のない悪魔と、まだたった十四歳の少女がひねり出した案である。
穴はいくらでもあった――そもそも、シャーロットが出くわした二つの災難が、まったく関連性のないものであった可能性。
ベンこそが主犯であって、その主犯なき今、全ての手掛かりが失われている可能性。
他にも、かれらの考えが及んでいない可能性は枚挙にいとまがない。
そもそもこの計画――計画と呼ぶことが出来るしろものかどうかも悩ましいところだったが――は、不確定要素の多い囮作戦のようなものだった。
シャーロットからすれば、ベンの行動の手掛かりを掴むために、自分へ災難が降ってくるのを待ち望まねばならない、奇妙なものだ。
だが、シャーロットからすれば、訳も分からないまま二度も災難に巻き込まれ、三度目がいつ目の前に現れるかという怯え――そして呻き続ける良識から逃れるには、この方向に進むしかなかった。
彼女は、見落としたいくつかの可能性には気づきつつもそれを吟味することは放棄し、まっすぐ前だけを見据えることにした。
前だけを見ることにかけて、彼女の右に出る者は少なかろう。
取り組む事態の大小にかかわらず、彼女には天性の意志の強さがあった。
一度こうと決めたなら振り向かないのは、シャーロットの性質の一つでもあった。
その性質に押されるがまま、特段の緊張感もなく、シャーロットはすばやく最低限の準備を整えた。
家出の準備は二度目である、慣れたものだ。
しかし、家のあるじから厳重に隠し通した上でベンの簡便な葬儀を執り行ったあと、さあこのまま出発しようかと言い出しかねないマルコシアスに対して、シャーロットは強硬に朝の出発を主張した。
というのも、この時間に乗合馬車の駅に行ったところで、当然ながら馬車はない。
この寒空で、一晩中馬車を待つことは、悪魔の守護があるとはいえさすがに避けたい。
それらを聞いて、マルコシアスは肩を竦めた。
お好きにどうぞ。
かくして二度目の家出は、まだ夜も明けきらぬ早朝に実行された。
薄黄色のワンピースの上から外套を羽織ったシャーロットはまたも、本を詰め込んだトランクの重みによろよろしていたが、今度ばかりはマルコシアスが折れた。
つまり、この不安定な足どりが家出に支障を来しかねないと認めたのだ。
うんざりした溜息を吐きつつも、マルコシアスが片手に軽々とトランクを持ち、シャーロットはポシェットだけを肩から斜めに掛けて、意気揚々と出発することとなった。
とはいえ、屋敷を出る瞬間に、彼女がぴったりとマルコシアスにくっついていたのは、とりもなおさず例の誘拐が、彼女の心に傷を残した名残であった。
「誰もいない? 誰もいない?」
「いないってば、うるさいな」
「本当に誰もいない? お前、今度こそ私を誘拐させたりしちゃ駄目よ」
「分かってるよ、手でもつなごうか?」
ひそひそと言い合いながら、マルコシアスは右手にトランクを、左手にシャーロットの手を掴んで、堂々と屋敷を出た。
引っ張られるシャーロットは大叔父に見つかることをまだ警戒しており、顔を伏せがちだった。
彼女は、ひらひら揺れるマルコシアスの首許を隠すストールを見て、同じようなストールを頭から被っていればよかった、と、ぼんやりと考えていた。
端から見れば、仲の良い同年の少年と少女が、こっそりと忍んで家を出ているように見えたかも知れない――少年の顰め面に目を瞑れば。
息も白くなる夜明けの薄闇の中で、ずんずん進む悪魔に手を取られ、シャーロットは難なく大叔父の屋敷から道へ出た。
舗装もされていない、乾いた土の均された地面の上を、徐々にしらじらと明るくなっていく空を見上げ、吐いた白い息が空中に溶けていくのを見守る。
冷え切った空気は静まり返っていたが、ある一瞬に雄鶏が甲高く朝を告げ、それを合図にしたように、次々に家々の煙突から炊事の煙がたなびき始める――
いざ乗合馬車の駅に着いてからも、マルコシアスのうんざりした溜息は留まるところを知らなかった。
シャーロットが、「お前をどうしよう」と言い出したがゆえである。
「僕がなに」
トランクを地面に置きつつ尋ねると、シャーロットは大きな橄欖石の色の目を瞠って、「だって」とつぶやく。
寒さに、彼女は細かく震えていた。
駅の端っこの、今にも崩れそうな花壇にちょこんと腰掛けつつ、シャーロットは真顔で続ける。
「お前、まるっきり人に見えるんだもの。このままじゃ、私、お前と私の分の切符を買うことになっちゃうわ。そんなに手持ちはないのよ、節約したいわ」
マルコシアスは両手で髪を掻き上げ、淡い金色の目を閉じて、深々と息を吐いた。
そして目を開けると、出来る限りきちんと皮肉の響きが聞こえるように気をつけつつ、言った。
「なるほどなるほど。つまり僕は走ってあんたを追いかければいいわけだ?」
「そうできるならね」
シャーロットはけろっとして言った。
マルコシアスは半ば本気で、周囲がもう少し寒くなればいいのにと思った。
寒さは無論のこと、かれには害を及ぼさないが、シャーロットはいかにも寒そうに身を縮めているのである。
金色の長い髪が、マフラーのように襟元でくるくると巻いていた。
「いちいち疲れるよ。――いったん、僕の領域に戻っていようか?」
マルコシアスはポケットに手を突っ込んで、おざなりにつぶやいた。
――召喚された悪魔といえど、主人の許しがあれば一時的に悪魔の道に戻ることも出来る。
だが、それを許す主人はまずいないと思ってよい。
呪文さえ唱えれば悪魔はそばに戻ってくるが、そもそも悪魔に用があって召喚しているのだ。
いとまを与える主人は稀だ。
シャーロットもその例に漏れず、彼女は顔を顰めた。
「それはちょっと。――お前、鳥か何かになってついて来られる?」
存外に真面目にそう尋ねられて、マルコシアスは渋面を作った。
生き物の姿で連続して形を変えることは、悪魔にとっては苦痛と消耗につながることであり、避けたかった。
かれはあいまいに唸ったあと、妥協案を示すために指を一本立てた。
「あんたの首飾りか何かに化けようか。そうしたらそばにいられるよ」
シャーロットは懐疑的な顔をした。
彼女はマルコシアスでの報酬である『神の瞳』を首から下げている。
召喚陣の縛りにより、マルコシアスが務めを果たしたとシャーロットが認めるまで、かれは報酬を得ることはできないが、それでも報酬のそばにおめおめと悪魔を近寄らせるのは、魔術師ならば本能的に避けようとすることだった。
何しろ相手は悪魔である。甘言虚言で報酬を得てきた例ならば枚挙にいとまがない。
そして別の観点からいえば、それは、同年代の少年に見えるマルコシアスに対する、彼女の少女としてのまっとうな警戒心でもあった。
――が、マルコシアスは前者について察したのみで、後者については察することがなかった。
人ではないので当然である。
マルコシアスは息を吐き、花壇に座ったシャーロットの前で膝を突いた。
黒ずくめの暖かそうな格好で、その姿はどこからどう見ても人間の子供にしか見えないものだったが、吐いた息が白く流れることはなかった。
「面倒なご主人だな」
そうは言ったものの、マルコシアスの声音は本気で腹を立てている風には聞こえなかった。
マルコシアスは手を上げて、膝の上にきちんと置かれたシャーロットの左手を取って、その手首に指を回した。
マルコシアスの指は、シャーロットの細い手首をやすやすと一周した。
「じゃあ、手をつないでいようか。あんたの腕輪に化けるよ、それでいいだろ」
シャーロットは素直に感心した顔を見せた。
マルコシアスに握られた自分の手首に目を落とし、それから目を上げると、気の利いた提案に驚いたように言う。
「なるほど、素敵な提案ね。それでいきましょう」
マルコシアスは頷き、すばやく姿を変えた。
シャーロットの目からはマルコシアスの身体が唐突に硝子細工に変じて溶け、そして彼女の手首を握った指に向かって瞬きのあいだに収斂したように見えた。
はっとしたときには、彼女の左手首に、鉄の色合いと風合いを持つ、幅の広い古風な腕輪が嵌まっていた。
この色合いと風合いは、マルコシアスの首の枷と同じものだ――そう思いつつ、シャーロットは手首を上げて、その腕輪を矯めつ眇めつする。
そうしてから慌てて周囲を見渡したのは、仮に一連の流れが誰かに見られてしまっていると、なかなか状況を誤魔化すのに苦労するだろう――と思って焦ったためだった。
魔術師は珍しい存在で、大抵の魔術師はローディスバーグやケルウィック、エデュクスベリーに住む。
こんな小さな町で悪魔が姿を変えるのを見た人は、まずそれが悪魔だということも閃かずに大騒ぎするだろう。
さいわいにも、周囲を見渡しても人っ子一人いなかった。
明らむ空の下で、シャーロットは軽く肩を竦め、「田舎もこういうときはいいものね」と言おうとして、自重した。
マルコシアスが器物に姿を変えてしまった以上、何かをつぶやけばそれが全て独り言になることに気づいたためだった。
――とはいえ、好奇心は抑えられず、シャーロットは腕輪をつんつんとつついてみた。
この姿であっても、マルコシアスに感覚が残っているのかが気になったのだ。
返事は、腕輪全体が凍るほど冷たくなったことだった。
マルコシアスに感覚が残っていることをたちまち承知して、シャーロットは慌てて手を膝の上に戻した。
右手で地面の上のトランクを引っ張り寄せながら、「ごめんなさいごめんなさい」と口の中でつぶやく。
しばらくしてマルコシアスも機嫌を直したのか、腕輪の冷たさは和らいだ。
シャーロットはほうっと息を吐いて、寒さにかじかむ指先に息を吹きかけつつ、乗合馬車を一日千秋の思いで待ち始めた。




