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02 忘れものには気をつけて

 その悪魔はマルコシアスと呼ばれる。


 魔術師が召喚する中でも有名どころ――つまるところが、御せないほど強力ではなく、そして安易に扱われるほど軟弱でもなく、主人が概ね満足する結果を出し、文献や口伝にて名前が残った、そういう類の魔神である。



「――私を家に帰してちょうだい!!」


 マルコシアスは思わず目を見開き、それから悪魔に独特の表情で唇を曲げて微笑んだ。



 ――なんと幸運なことだろう。


 まさかこの小娘一人を家とやらに送り届けるだけで、これまで多くの魔神の手を渡り、その魔神悉くに多大な恩恵を齎してきた、『神の瞳』を得ることが出来ようとは。


 お馬鹿さんが『神の瞳』を手に入れてくれたことに感謝を――と、極めて悪魔らしくないことに、目には見えない何かに感謝を捧げそうになったマルコシアスはしかし、すぐに首を捻ることとなった。


(――ん? そもそも()()()()、お馬鹿さんが『神の瞳』なんかを持ってる?)


 慌てて、もう一度少女の手の中にある首飾りを凝視する。


 ちらつく召喚陣の光が邪魔で、それ以上に銀の性質が魔力を打ち消してしまっていて、見えにくいことこの上ない。


 だがしかし、この距離で見れば分かる――これは本物だ。

 本物の『神の瞳』だ。

 その証拠に、かれが巻き込んだ精霊たちも、肌で分かるほどに震えながら踊っている。


 本物であると分かれば、経緯など知ったことではない。

 少女が立つ召喚陣の小さな円――こちらには、約束の履行を示す文言が記されているのだ。


 少女の願いを叶えたときには、その強制力によって、マルコシアスは報酬である『神の瞳』を手にすることが出来る。


 大抵の魔術師は、その強制力を待たずして、前払いで報酬の一部を支払っておいてくれたりするものだが、今回の場合は完全後払いだろう――



 などと、マルコシアスがつらつらと考えているあいだに、少女は手にした『神の瞳』を下ろしてしまっていた。


 ふっ、と短く息を吐いて人間を真似た前髪を散らしてから、マルコシアスは微笑んで、儀礼的に浅く頭を下げた。



「――なるほど。仰せのとおりに、ご主人さま」



 途端、形容し難い音が轟いた。


 ――無理に喩えるならば、それは巨大な錠を下ろす音、あるいは何かの歯車が回り始める音、あるいは時計の針が動く音だった。



 ――契約成立。



 少女がぎょっとした様子を見せたが、マルコシアスは微かに眉を顰めたのみだった。


 ――この少女、召喚は初めてと見える、と、マルコシアスは内心で論評する。

 まあこの年齢で召喚を弁えていること自体が驚異だが。



 がしゃん、と、今度はマルコシアスの間近で音が鳴った。


 マルコシアスは人間を真似た手を持ち上げて、己の首筋をなぞる。

 ――そこに、どこからともなく現れた首環状の太い枷を確認して、マルコシアスは肩を竦めた。


 これこそが契約のしるし、主従のしるしだった。

 いつもの癖で、マルコシアスは左手を宙に閃かせた――途端、するり、と現れる灰色のストール。


 それを首に巻き付けて、マルコシアスは枷を隠した。



 少女は目を見開いてマルコシアスを見ていたが、そこでわれに返ったのか、ゆっくりと後退って、召喚陣から退出した。


 彼女が輝線を越えるまさにそのとき、記された文字たちはいっそう白く煌めいたが、彼女が召喚陣の外に足を置くと、速やかにその輝きは失せて、ただの白墨の線となった。


 マルコシアスもまた、大股に下がって召喚陣を越えた――かっ、と、燃え上がるように輝く白い文字列――その途端、流れ込んでくる無数の知識。

 人間の文化、人間の文明、人間の風習――どうやら最後にマルコシアスが召喚されてから、人間の暦では三十年程度が経っているらしい。

 この程度の誤差であればこの文言は省略しても良かっただろうに、と思うが、どうやらこの三十年で世相はやや変わったらしかった。

 そして、あれやこれや。


 文字にて記されていた、たくさんの決め事がどっと流れ込んでくる感覚――嫌いではなかった、〝()()()()()()()()対価は受け取っているのだ、それを思えばこの程度は。


 流れ込んでくる決め事を、一つ一つ確認していくことは億劫で、マルコシアスは目を閉じてそれをやり過ごした。


 何かが抜けているような気はしたが、マルコシアスはそれを気に留めなかった。


 まあ、子供だし、誤ることもあろう――と。報酬をきちんと払ってくれるならば何も問題はない。



 マルコシアスが召喚陣から出るや、召喚陣はただの白墨の線と化した。


 マルコシアスを照らし出していた微細なきらめきは、ふうっと薄れた。

 だが消えたわけではなかった――当然だ。


 あれらは、マルコシアスが召喚に際してこちらの世界へ巻き込んで連れて来ることとなった精霊たちだ。


 精霊は奇特な存在で、この交叉点(せかい)においても存在に肉体を要しない。


 精霊はどこの世界にもいる――この交叉点(せかい)にも、悪魔の(せかい)にも。


 マルコシアスに巻き込まれた以上、これらの精霊はマルコシアスの配下だ。

 そもそも悪魔の道にいるときから、マルコシアスの領域にいたのだから、半ばはマルコシアスの配下のようなものだった。


 今後、マルコシアスがあちらの世界に戻り、延いてはかれら自身があちらの世界に戻るまで、かれらはマルコシアスの命令を聞くこととなるが、別にどこの世界に居ようが幸福に違いはあるまいといった風情の連中ではあった。


 かれらは風であり火であり水であり香りであり光であり、生気そのものだった。

 そういったもの全てだった。


 召喚された悪魔のあいだにおいては、どれだけ数多くの精霊を引き連れて来ることが出来るかどうかというのが、相手の格を測る一つの基準となっているのだが――


 マルコシアスは顔を顰め、あちこちを見渡して自分が引き連れてきた精霊を確認した。

 幸いにも、目で見て数えることが出来る量は遥かに凌駕していたが、マルコシアスは腕を組む。


(本調子ではなかったかな)


 そんなマルコシアスを後目に、少女はふうっと大きく息を吐き、なぜか遠くに耳を澄ませるような顔をしている。


 精霊を確認するのをやめ、マルコシアスは周囲を見渡して鼻に皺を寄せた。

 そこはひどく埃っぽかった。


 疑似的にとはいえ生き物の姿を取る以上、マルコシアスもその姿でいる限り呼吸をするが、その呼吸がどうにも喉に詰まる。


「ご主人さま、良ければもっといい場所で呼んでいただきたかったものですがね」


 マルコシアスは嫌味と分かるよう、気をつけて口調を選んでそう言ったが、少女は聞いていなかった。


 少女は今は、どうしてかぴったりと部屋の扉に張り付いて耳をつけ、何かに聞き耳を立てている。


 マルコシアスはわざとらしく鼻をつまみ、簡便な貫頭衣から衣服を変えた。

 黒いシャツに羊毛のズボン、革のベルト。

 この程度ならば魔精であっても簡単な魔法だ。



 ――魔法。悪魔の(せかい)の理を、この交叉点(せかい)に持ち込むもの。



 少女は無反応だった。

 マルコシアスの方は見ておらず、一心に扉の向こうに耳を澄ませているようだった。


 ただ、彼女はおざなりに言った。


「マルコシアス、私を家に帰すに当たって最初に、その召喚陣を消しておいてちょうだい」


 マルコシアスは肩を竦めた。

 仰せの通りに。


 まさかこの程度の命令を無視した程度で、少女が命令違反を咎めて契約を解除し、かれから『神の瞳』を得る権利を取り上げてしまうとは思えなかったが、わざわざ報酬を握っている主人と喧嘩をしたがる悪魔はいない。

 報酬の範囲で尽くしてやるのが悪魔の礼儀だ。


 マルコシアスは指を鳴らした。

 この程度の頼みならば魔法を使うまでもなかった。


 かれの指先に、次々に精霊が集まってきた。


 そんなに多くは要らない、というマルコシアスの意図を察してごく少数、その少数の精霊たちが、目にも見える形で柔らかく白く球状に輝き、幻想的な蛍のようにマルコシアスの指を慕う。


「陣を消せ」


 マルコシアスの端的な命令を受けて、精霊たちが素早く姿を変えた。


 小指ほどの大きさのつむじ風となった精霊が床で踊り、たちまちのうちに白墨の線を掻き消していく。


「――それは精霊?」


 唐突に、命令以外の言葉を初めて少女が発した。


 少女はこちらを振り返って、橄欖石の色の目を見開いて床で踊る小さなつむじ風を見つめていた。


 ――召喚が初めてならば精霊を見るのも初めてだろう、そう思い、マルコシアスは面倒そうに頷いた。


「そうだね」


「すごい……」


 少女がうっとりとつぶやいたので、マルコシアスは溜息を吐いた。


「家に帰るんじゃないのかい。あんたの家の番地を教えなよ」


 少女は精霊からマルコシアスに目を戻し、むすっと唇を曲げた。

 そして、小声でつぶやいた。


「……そう単純な話じゃないのよ」


 そう言いながらも、はたと思い出したように、少女はマルコシアスに向き直った。


「――今はいつ?」


 マルコシアスはまたも溜息を吐いた。


 お馴染みの確認ね、魔術師っていうのはどうも自分の召喚陣の精度を確かめたがるものだ、知識の刷り込みが上手くいったかを確認したいわけだ。


「キノープス暦九五二年」


「ここは?」


 マルコシアスは苛立ちを籠めて答えた。


「プロテアス立憲王国。――王さまが飾り物だって話もしましょうかね? それとも今の首相の話でも? それかもっと昔の、ローディスバーグの死の風の話?」


 少女は質問をやめなかった。


「国の名前じゃないわよ、ここは?」


「スプルーストン。首都から西に、山を越え谷を越え七十リーグ以上。田舎だね」


「そうなのよ」


 なぜか言下に同意された。

 むしろ恨みが籠もっている口調だった。


 マルコシアスは怪訝に瞬きしたが、興味を惹かれたわけではなかった。


「この国の大きさも先刻承知だよ。あんた、地図もなしに僕にあんたを家に連れ帰れって言うの?」


 少女は眉間に皺を寄せた。


「家の場所が分からないわけじゃないのよ。ただ色々と――障害が――」


「そうなの。どうやって帰るのさ。汽車かい、馬車かい、――おっと、最近では蒸気自動車なんてあるんだね、それかい?」


「蒸気自動車なんて流行らないわよ。お隣のメーキンさんは持ってらしたけど」


 マルコシアスは窓に目を転じた。


「お隣さんってあれ? あの遠くの蔦屋敷?」


「違うわよ」


 少女の声に力が籠もった。


「ここじゃないわよ。私の家よ。これから帰る家のお隣よ」


「ああ、そっちか。――で、その家っていうのはどこにあるのさ」


 少女は口籠った。


「ケルウィック――」


 マルコシアスの知識には、今回の召喚陣から得たもののみならず、その前回の召喚陣から得た知識にも、更にその前の召喚陣から得た知識にも、その名前はあった。


「ふうん。随分東だね」


 人間の愚鈍な足では歩けない距離だ。

 ではこの少女は、単純な迷子というわけではないらしい。


 少女は言い訳するように囁いた。


「汽車に乗れば大丈夫なのよ。私そうやってここまで来たもの」


「へえ、汽車ねぇ――」


 言いながら、マルコシアスは少女の全身を観察し、それから開け放しにされたトランクにも目を遣った。


 召喚陣の知識によれば、汽車というのは利用に対価の要るものだが、はたして。


「――ねえ、お前、トンプソンを覚えている? ジョージ・トンプソン」


 不意に少女がそんなことを尋ねてきたが、マルコシアスは顔を顰めただけだった。

 実際、その名前を聞いて、咄嗟の心当たりは何もなかった。


 代わりに、マルコシアスは言った。


「――汽車を使うなら、あんた、さぞ賢明だろう僕のご主人さま。

 あんたの金はどこに仕舞ってあるの?」


 なぜかがっくりとうなだれていた少女が、その言葉を聞いて、がばと顔を上げた。


 さああっとその顔が蒼褪めた。


「あっ、お財布……」



 どうやら、どこかにそれを置き忘れてきたらしい。


 人間の表情を窺うことが不得手なマルコシアスにも、そのことはよくよく分かる表情だった。

























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