07 可能性うんぬん
「――いつまでも、『あいつ』とか、『あんたを殺そうとした男』とか言ってるのは具合が悪いね。何か名前をつけよう」
と、マルコシアスが言い出した。
シャーロットはそれに顔を顰め、とても賛成できなかったが――何しろ、自分のせいで命を落とした人を、便宜上とはいえ勝手なあだ名をつけて呼ぶようなものである――、かれは勝手に、あの男を「ベン」と呼び始めてしまった。
「ベンが悪人だったっていう証拠探しの第一歩は、まあ、あんたも分かってるとは思うけど――」
――かくして二人は例の部屋にいる。
遺体が横たわる、あの空き部屋である。
シャーロットは既に真っ青だった。
部屋の扉は倒れたままになっているが、マルコシアスいわく精霊に見張らせて、大叔父を遠ざけるようにしているとのことだった。
埃まみれの応接セットのそばに、シャーロットがカーテンを覆い被せたときのまま、男は――便宜上、ベンと呼ぶが――横たわっている。
シャーロットはいよいよ吐き気を覚えて両手でしっかりと口許を覆った。
彼女の呼吸は浅くなっていたが、だがそれにしても、覚悟していた腐敗臭は一切なかった。
今が冬だということを差し引いて考えても意外なほどで、シャーロットにそれを尋ねる勇気はなかったが、もしかしたら万物に干渉することの出来る精霊は、その辺りのこともなんとか出来るのかも知れなかった。
マルコシアスは呆れたように横目でシャーロットを見て、馬鹿にした様子で進言した。
「ロッテ、自分の部屋に戻ってる? 僕が逐一報告して、あんたの指示を仰ごうか?」
シャーロットは口を押えたままぶんぶんと首を振ったが、今はマルコシアスに噛みつく元気もなかった。
この瞬間の罪悪感に、彼女はマルコシアスからの悪魔の甘言に乗ったことを後悔さえしていた。
マルコシアスは無頓着に肩を竦めた。
「なら、いいけど」
さすがに足が竦むシャーロットを入口の近くに残して、マルコシアスはずかずかと応接セットに――ひいてはベンに近づき、まったく遠慮のない手つきで、無造作にカーテンを引き剥がした。
「ううう……」
呻いたシャーロットに、カーテンを脇に放り投げたマルコシアスが責めるような目を向ける。
「あんた、やる気があるのかないのか、どっち」
シャーロットはますますしっかり口許を押さえつつ、こくこくと頷いた。
ぎゅっと目を瞑っている。
マルコシアスはしばらく、「その頷きはどっちの意味だ?」と思いながら彼女を眺めていたが、ここは自分に都合の良い方へ解釈することにした。
肩を竦めて、目許にかかる前髪をふっ、と吹いてから、マルコシアスは露わになったベンの全身を、つぶさに観察し始めた。
そのころには、恐る恐るといった様子でシャーロットも目を開けていた。
とはいえ、彼女は頭のてっぺんから爪先まで震えていた。
特に手の震えが大きく、マルコシアスの視界の片隅であってもその動きが目につくほどだった。
マルコシアスはくるりとシャーロットの方を向いた。
「あんたさ、もうちょっと目を瞑ってるか、それか後ろを向いてていいよ」
シャーロットは即座に後ろを向こうとしたが、しかしその直前に、震え声で囁くことは忘れなかった。
「――エム、丁寧に。丁寧にね、本当に――」
もしベンに妻子がいたとして、その妻子がこの状況を見たらどんな思いをするだろう、と想像し、シャーロットは胸が潰れるような罪悪感を覚えた。
マルコシアスは鬱陶しそうな顔をしたが、主人の言いつけは守って頷いた。
シャーロットの良心に従うこと、という文言は、口約束ではあれ明確に、二人のあいだの契約に書き加えられていた。
シャーロットは、この状況に完全に背を向けることには抵抗を覚え、結局のところ横を向いた。
マルコシアスはしゃがみ込んで、まさにかれの見た目の、十四歳の子供そのものの手つきで、胴をねじ切られて事切れたベンの持ち物をあらため始めた。
かれはまず、破れてしまったベンの外套をめくり上げた。
その外套からしたたる程の血液に顔色も変えず、外套の下から、まずは牛刀を持ち運ぶのに使っていたのだろう革製の鞘を取り出した。
革ひもがついていて、肩から牛刀を提げられるようになっていたようだ。
だが今は、鞘の部分も破損して、革ひもも無惨にちぎれてしまっている。
マルコシアスは興味もなさそうにそれを放り投げようとして、はたと思い出した様子で、丁寧にそれをローテーブルの上に置いた。
続いて、ベンの腰に巻きついていたらしき小さなカバン。
らしき、というのは、これもまた無惨に引きちぎれてしまっていたからだ。
原型を留めていないカバンに肩を竦めて、かれは引き裂かれた血まみれのカバンを手に立ち上がった。
そして、事態から半分くらいは顔をそむけていたシャーロットが、視界の隅に見たかれの行動に思わず振り返ってしまったことに、マルコシアスは死体のそばで、堂々と応接セットのソファに腰掛けた。
「エム――」
「うん?」
マルコシアスが顔を上げ、引き裂かれたカバンの中に遠慮なく手を入れながら、シャーロットに悪魔の微笑みを向けた。
「興味があるならそっちに持っていこうか?」
「――――」
シャーロットは棒を呑んだような顔をして、即座にかれから目を逸らした。
マルコシアスは肩を竦め、膝の上で引き裂かれたカバンをひっくり返した。
カバンは血まみれになっていたが、かれの手指には一滴の血も色を移さなかった。
カバンの中から、何枚かが破れた紙幣が滑り落ちてきた。
数えてみると五枚ある。すべて五デオン札で、もちろんのこと血のしみが広がっている。
それらはまとめて金具で留めてあった。
他にも、銀貨が七枚。
マルコシアスはじゃっかん嫌そうな顔をしたが、銀貨を放り出すような真似はしなかった。
この銀貨はメッキであって、かれにとって害になるものではなかったからだ。
銀貨一枚の値は十二シレル――つまり、おおよそ四半デオン。
他に、黒い革の表紙がついた手帳がばさりと膝の上に落ちてきた。
血まみれになってはいるが、ひどく破れているページはない。
マルコシアスはためらいなくその手帳を拾い上げて開いたが、すぐに溜息を吐くことになった。
血のしみの他には、ページはどれも白紙だった。
カバンを膝の上で振る。
もう中は空っぽだった。
ふう、と息を吐いて、マルコシアスはソファの背もたれに体重をかけた。
肘置きに肘を置いて、その手で顎を支える。
「――エム?」
またしても、シャーロットがちらちらとこちらを気にする様子を見せた。
マルコシアスは顎に当てていた手をひらっと振ってみせる。
「もうちょっと待って」
カバンをローテーブルの上に置き、もう一度ベンのそばに膝を突く。
さっきのカバンで所持品は全部らしい。
今度は外套を裏返したり、血まみれになったシャツの胸元をあらためてみたりする。
やがて、マルコシアスは立ち上がった。
そして、実用的な意味でというよりはシャーロットを安心させるために、何もない空中から白いハンカチを引っ張り出し、両手をぬぐってみせる。
かれがそのハンカチをぽい、と投げ捨てると、ハンカチは現れたときと同様、空中のどこかにさっと消えた。
マルコシアスがつかつかと自分のそばに戻ってきたため、シャーロットは安心したような竦んだような、なんとも微妙な表情でかれを迎えた。
マルコシアスは両手をズボンのポケットに突っ込んだ。
「――エム?」
マルコシアスは顔を顰めた。
「ロッテ、悪いニュースなんだけど」
「何も見つからなかったのね、分かったわ」
即座にそう言ったシャーロットに、報酬が懸かったマルコシアスはポケットから手を引っ張り出して、大慌てで言った。
「そんなに簡単に分からないでくれ」
「そんなに慌てないでよ」
疲れたように言って、シャーロットは両手で顔を覆った。
「エム、話すなら私の部屋にしない?」
マルコシアスは瞬きした。
「――おっと、失礼」
マルコシアスはきびすを返し、シャーロットがほっと息を漏らしたことに、かれ自身が引きはがしたシーツを、もう一度ベンに掛けてやった。
それからシャーロットを振り返り、マルコシアスは慇懃無礼に頭を下げた。
「ではでは、レディ・ロッテ。お部屋までお供しますよ」
「まず、分かっていることとしては、」
と、少々脚が短すぎる椅子に座って、シャーロットは神妙につぶやいた。
彼女は彼女で、マルコシアスの悪魔の甘言に乗ってしまった以上、良心から罪悪感をぬぐい去ろうと必死だった。
そもそもあの甘言は、自分がマルコシアスに言わせたようなものだという自覚もある。
「彼は――あの人は――ええっと、もういいわ、ベンは、私の名前を知ってたわ」
「あんたがここにいることを知ってるのは、あんたと、あの大叔父さん以外だと、誰がいるの?」
こちらは、脚を短く切られたベッドに無造作に腰掛けたマルコシアスが、精巧に人間を真似た仕草で片手の爪を弾きつつ、そう尋ねた。
「お父さま――お母さま」
「他には?」
「これで全部よ」
マルコシアスが目を上げて、シャーロットを見た。
淡い金色の瞳が瞬いた。
「――ってことは、そのどっちかがベンを差し向けてきたってこと?」
「有り得ないわ!」
シャーロットが大声を上げた。
彼女は自分の腕を抱くようにしながら、半分以上は自分自身に言い聞かせるようにして言い募った。
「お父さまとお母さまよ! あの人――彼、ベンは、私を殺そうとしたのよ! それ、お父さまとお母さまが私を殺そうとしたってことじゃないの!」
「いや、」
マルコシアスは口を開けたが、シャーロットはもはや涙ぐみつつ、さらに言葉を重ねていた。
「お父さまだって――私が憎くて私をこんなところに押しつけたんじゃないわ」
「えーっと、そうだね」
マルコシアスはほとほと面倒そうにそう言って、手を振った。
「そっちは、僕にとってはどうでもいいんだ。
――けど、われらが親愛なるベンの……」
シャーロットが信じられないという顔で目を見開いたので、マルコシアスはそっと言葉を訂正した。
「――あの可哀想なベンの目的が、あんたを殺すことだったかは分からないよ」
シャーロットが訝しげに眉を寄せたので、マルコシアスは苦笑した。
「あんたと僕のあいだでは関係のないことだけれど、普通の魔術師ってものはね、僕らとのあいだに〈身代わりの契約〉を結ぶんだ。だから、ベンからすれば、あんたを痛めつけたとして、それはあんたを傷つけることにはならなかったはずなんだよ」
シャーロットは眉を寄せたままだった。
「どうかしら――あの人、お前が来る前に刃物を出してきたのよ」
「可能性は三つあるね」
マルコシアスは言った。
途端、マルコシアスの前に三つのあぶくが浮かんだ。
一つ一つの大きさは拳ほど、くるくると回りながら浮かぶ、摩訶不思議なあぶくである。
「一つめ、ベンはあんたを殺すつもりだった」
マルコシアスから見て一番左側にあるあぶくが、ぱっと白く輝いた。
「二つめ、刃物は単純にあんたを脅すために出しただけで、別に殺す気はなかった」
真ん中のあぶくが、ぱっと黄色く輝いた。
「三つめ、ベンはあんたが悪魔を召喚してることを、あらかじめ知ってた。だから、別にあんたを斬ろうがどうしようが、構いはしなかった」
最後のあぶくが、ぱっと赤く輝いた。
その三つの輝きを満足そうに眺めて、マルコシアスはあぶくのきらめき越しに、からかうようにシャーロットを見た。
「良かったね、あんたの親があんたを殺そうとしたのは、三つに一つの確率みたいだ」
「三つに一つあるだけで大問題よ」
シャーロットは辛辣に言って、両手を握り合わせた。
不機嫌そうな顔だったが、そのじつ不安に思っていることは、指がかすかに震えていることから見て取ることが出来た――人間であれば。
マルコシアスはその不安を感知しなかった。
シャーロットはむかっとして、唇を噛んでから尋ねた。
「ねえ、お前たちに親はいないの?」
マルコシアスは、警戒ぎみに目を細めた。
だがすぐに、その程度のことであれば話してもよいだろうと判断したのか、三つのあぶくに目を落としながら、事も無げに応じた。
「いないね。僕らは死なないし生まれない。気づいたらそこにいた、それだけだよ。あんたたちの言う、『親』の概念を理解するのには時間がかかった――懐かしいね」
「――ああ、そう」
ぐったりとデスクに肘を突いて額を押さえ、シャーロットはつぶやいた。
だがすぐに身体を起こすと、マルコシアスに向き直る。
「ちょっと待って――」
「別に、用事がなきゃどこにも行ったりしないけど」
「――ただの前置きよ、考えを整理させてと言ってるの。
……お前、覚えてる? 彼――ベン、お前に『動くな』と言ったでしょう」
「…………」
マルコシアスは腕を組み、考え込む様子をみせた。
シャーロットはそれを五秒のあいだ見守ったが、そこで時間の無駄だと判断した。
「覚えてないのね、まあいいわ、彼はとにかくそう言ったのよ」
「そうだね、言ったってことにしよう」
神妙に頷くマルコシアスを睨んでから、シャーロットは勢い込んで言葉を続けた。
「私を殺したいなら、さっさと私を刺したと思わない? それでお前が消え失せればしめたものじゃない」
マルコシアスはしばらく考えたようだった。
ややあって、かれから見て一番左側に浮かんでいた、白く輝くあぶくが、ぱちんと弾けて消えていった。
「――そうだね。じゃ、ベンがあんたを殺そうとしていたっていうのはなしで。
でも、とはいえ、」
素早く言葉を継ぎ、マルコシアスは念を押すように言った。
「別に殺人だけが悪いことじゃないでしょ。ベンが悪人だった可能性はまだある」
シャーロットは息を吸い込んだ。
「……本当に、お父さまとお母さまが、彼に私がここにいるって伝えたと思う?」
「どうだろうね」
素気なくつぶやき、マルコシアスは肩を竦める。
「『お父さまとお母さま』かも知れないし、『お父さまかお母さま』かも知れない」
そこでしばし口をつぐんで、マルコシアスは言った。
「――いや、違うな。うっかりしてた。
あんた、最近は誘拐もされたんだっけ?」
マルコシアスがぱっと手を振ると、浮かんでいた二つのあぶくが弾けて消えた。
マルコシアスは脚を組んで、興味深そうにシャーロットを観察した。
シャーロットはそわそわと鼻の頭を掻いた。
「ええ、そうね」
「えーっと、そうすると、」
マルコシアスはつぶやいて、立ち上がった。
音もなくベッドの前を行ったり来たりしてから、マルコシアスは立ち止まり、椅子に座ったままのシャーロットを見下ろした。
シャーロットもマルコシアスを見上げた。
「偶然、あんたの人生の受難が一斉に列を作っただけのことかな? それとも関係のある出来事なのかな?」
マルコシアスが真面目くさってつぶやき、シャーロットは思わず笑ってしまった。
「どっちの可能性もあるけれど、エム。ベンが私を殺さず誘拐するつもりだったとしたら、ちょっとは筋が通らない?」
マルコシアスは、またベッドに腰掛けた。
「いいね、それでいこう。誘拐の目的しだいでは、ベンは大悪人だよ」
シャーロットは喉の奥であいまいな声を出して、マルコシアスから目を逸らした。
それを見て肩を竦め、マルコシアスはひょいっと指を上げた。
「わざわざあんたを誘拐するんだから、指示を出したのはあんたの親ではありえないと思わない? よく分からないけど、あんた、あんたの親が『帰っておいで』って言えば、万歳三唱で帰るでしょ?」
「もちろん」
力を籠めて頷き、シャーロットは両手を合わせた。
「お前の言うとおりよ――お父さまもお母さまも、わざわざ私を誘拐しようとする必要なんてないわ」
「ってことは、ベンにあんたの居場所を教えたのは、別のやつだね」
マルコシアスはつぶやき、顎を撫でた。
「あんたの大叔父さん……?」
「そんなはずないでしょ」
シャーロットが呆れた声を出した。
「もし大叔父さまがベンに私の誘拐をお願いしていたんだったら、大叔父さまは、私が無事でいるのを見てびっくりしたはずでしょう」
マルコシアスは肩を竦めた。
「あいにく、僕はあんたの大叔父さんの顔面の動きに、関心を持ったことはない」
「でしょうね」
シャーロットはつぶやき、腕を組んだ。
「ということは、お父さまたち以外にも、私がここにいることを知ってる人がいる……」
マルコシアスは両手を身体の後ろに突いて、体重をそちらに掛けた。
古いベッドは、しかし軋みもしなかった。
――召喚陣から得た知識によれば、誘拐というものは大抵、身代金目的でされることが多いらしい。
だが、シャーロットのこれまでの口ぶりからするに、彼女は大富豪の娘というわけではない。
他に誘拐の憂き目を招く要因としては、怨恨……
「あんた、誰かの恨みを買ったりした?」
マルコシアスは尋ねた。
シャーロットは神妙に頷いた。
「その心当たりを、今、一生懸命振り返って考えてたところなの。でも、別に心当たりはないわ。妬みを買った覚えならあるけれど」
「妬み?」
シャーロットは真面目に首肯した。
「リクニス学院の入学許可を取ったのよ。妬みなら余るほど買ってると思うわ」
マルコシアスは顎を撫でた。
「あんたがリクニスの入学許可を取ったことを知ってるのは誰?」
シャーロットは指折り数え始めた。
「お父さま――お母さま――初等学校のダンとソフィーとケイト、マッキンソン先生、ミラー先生、シュビット学長――」
そこで言葉を切り、シャーロットはむしろ申し訳なさそうに続ける。
「――別に口止めなんてしなかったし、その人たちから他の人たちに広まった可能性も、全然あるわ」
マルコシアスは淡い黄金の瞳でシャーロットを見つめた。
「あんたは嫌がるだろうけど、僕がそいつらを訪ねていって、あんたを誘拐しようとしたか訊いてあげようか?」
「待ちなさい」
シャーロットは慌てて言って、指を立てた。
「よく考えれば、ありえないわ」
マルコシアスが首を傾げたので、シャーロットは息を吸い込む。
「私がリクニスの入学許可を取ったので、誰かが私を誘拐して、妬みを晴らそうとしたとしましょう。――その人は、私がここにいることを知ってたわけでしょ? つまり、お父さまが――」
ここまで言って、シャーロットは顔を顰めた。立てた指をしまい込みながら、彼女はいかにも不承不承といった様子で言葉を続ける。
「――私をここに閉じ込めて、私から、リクニスへの入学を取り上げようとしていることも、自然と知ることになっていたわけでしょう……」
マルコシアスは自然と微笑んだ。
――シャーロットの口調を聞けば、彼女がリクニスへの入学に――ひいては、そこでの学びを経て得る自分の人生に――未練を山ほどかかえていることは察することが出来る。
良心との板挟みになってはいるが、自分の望む人生を邁進しようとする、彼女の強固きわまる意志は未だに顕在だった。
「つまり、自分が何をしなくても、私の夢が――」
シャーロットは、何かが折れるような仕草をとってみせた。
「――折られそうになってることは分かるはずじゃない? その上で犯罪までして恨みを晴らそうなんて、そんなことをする馬鹿はなかなかいないわ」
「――――」
マルコシアスは少し考えたが、すぐに、人間の考えを理解するのは無理だという結論にいたった。
かれは肩を竦めた。
「あんたがそう言うなら。――ただ、そうすると、困ったことに、僕らは手掛かりの全部を失くすわけだけどね」
シャーロットは唇を曲げた。
マルコシアスは軽く両手を広げてみせる。
「あんた、他に心当たりは?」
「…………」
シャーロットはしばらく黙り込んでいたが、そのうちに口を開き、ゆっくりと言い出した。
「……逆かも知れない」
「逆?」
首を傾げるマルコシアスを、見るともなしに見つめながら、シャーロットは考えつつ言葉を作った。
「つまり――私を誘拐する動機のある人が、私がここにいることを突き止めたんじゃなくて」
シャーロットはてのひらをひっくり返して、「逆」を示すような仕草をしてみせる。
「私がここに来てから、誰かが私を誘拐する動機が出来た」
マルコシアスは瞬きした。
「ほう」
つぶやいて、頷く。
「ほう。まあ、確かに、あんたが元いたところで、特に誘拐されるほどのことをしたんじゃないっていうなら、その方が確かに自然かもしれないね。
――ところであんた、ここに来てから、何か他人の恨みを買うようなことをしたの?」
シャーロットは息を吸い込み、なんともいえない表情をみせた。
誰かが楽しみにとっておいたケーキを、それと知らずに自分が食べてしまっていたことが分かったときに、人はこういう顔をするかもしれない。
「……う――恨みというか」
「うん?」
マルコシアスは瞬きする。
その淡い黄金の瞳から目を逸らして、シャーロットはつぶやいた。
「えーっと、お前への報酬の品だけど」
「うん」
マルコシアスは無邪気に頷いた。
シャーロットは目を閉じて、またすぐに開いた。
知らず、懺悔の面持ちになっていた。
「実は、拾ったの」
「はっ?」
マルコシアスが眉を寄せる。
「拾った? あれを? あんな貴重なものを?」
「そうなの」
シャーロットは生真面目に頷き、両手の指先をそれぞれ合わせた。
マルコシアスの目は見られなかった。
「信じられないと思うけれど、本当なの。ある日、庭先に、目の前に、ぽとっと落ちてきたの」
マルコシアスは人間の仕草を丁寧に真似てみせた。
つまり、驚きを示すために激しく瞬きしたのだ。
それから、かれは不機嫌に顔を顰めた。
「――つまり?」
「つまり……」
シャーロットは言いよどみ、胸に垂れる金髪をくるくると指に巻きつけてから、精一杯誠実にマルコシアスの目を見た。
「……落とし主が捜しているかも知れないわ。
――その、これの価値に見合った必死さで」
マルコシアスは無言でシャーロットを眺めていた。
シャーロットとしても、現状が綱渡りであることは承知していた。
報酬は、悪魔が魔術師に協力する上で不可欠のもの――その動機そのものだ。
自分に正当な権利のないものを報酬として、いわば悪魔を騙して契約を結んだのだと判断されれば、それすなわち、悪魔に格好の復讐の機会を与えることになってしまう。
そこで、シャーロットは背筋を伸ばした。
内心では盛大に慌てていたが、それが表に出ないように努めた。
「エム、落ち着いてね。まず第一に、これの今の所在は行方不明の扱いのはずなの。えーっと、お前はそのとき、この交叉点にいたのかしら――昔は、オーヴェナー朝がこれの所有権を主張していた時代もあったでしょう。今は、そういうことはないの」
マルコシアスは瞬きもせず、端的に言った。
「僕は落ち着いてるけど」
「つまり、」
勢い込んでシャーロットは続けた。
「どこの誰も、今のところこれの所有権を主張してないのよ――少なくとも大っぴらには。誰のものでもないなら、私のものにしてもいいでしょう?
それに、誰かが――もしくは、どこかの国が――これを非公式に所有しているのなら、いいこと、これをどこかに移動させるときには大行列を作って護送するはずよ。こんな田舎の家の庭先にぽとっと落ちてくるはずないでしょう?
もっというと、取り返すのだって私を誘拐する必要なんてないわ、ただこの辺りの家のドアを順番に叩いて、身分を名乗って、拾いものを出せと迫るだけでいいんだもの」
マルコシアスは脚を組んだ。
シャーロットは思わず立ち上がっていた。
「だから、いい、この『神の瞳』は今のところ、正当に私のものなの。少なくとも謗りを受ける覚えはないわ。
召喚陣の縛りもあるし、お前が役目を果たせば、私はこれをちゃんとお前に渡すわ。分かった?」
言い切ったシャーロットをしばらく眺めやって、マルコシアスは組んでいた脚を解いた。
「――それが全部なんじゃない?」
シャーロットは瞬きした。
「え?」
「だから、あんたの言ったこと」
マルコシアスはそう言って、広げた膝に肘を突いた。
そうして両手を軽く握り合わせて、首を傾げる。
「ベンが、あるいはベンにあんたの誘拐を頼んだ誰かが、そいつを不当に持っていた――もしくは、正当に所有していた誰かから盗んだ。で、途中で何かがあって、あんたの鼻先にそれを落とした。ベンは慌ててそれを盗み返しにやって来て、僕に返り討ちにされた。
これでいいんじゃないの? ベンは悪人だった、あんたは悪いことはしていない」
「――――」
シャーロットは黙り込んだ。
マルコシアスは溜息を吐いた。
「何かご不満かな、レディ・ロッテ」
シャーロットはしばらく、椅子の周りをぐるぐると歩き回って考えを整理した。
彼女の足許で、古い床板はぎしぎしと軋んだ。
やがて足を止めて、シャーロットはマルコシアスを振り返った。
かれは微動だにしておらず、灰色の前髪の下から、静かにシャーロットを眺めていた。
シャーロットは息を吸い込み、言った。
「証拠がないわ。ベンが、『神の瞳』を取り返しに来たっていう証拠。
それにもっといえば、ベンが自分からすすんでここに来たのか、それとも脅されて無理やり来たのか、それも分からないわ」
マルコシアスは瞬きした。
かれの唇が、悪魔に独特の表情でかすかに歪んだ。
「なるほど」
そう言って、マルコシアスは明らかに、シャーロットの次の言葉を待つ風情を見せた。
シャーロットは深呼吸した。
「まずはベンがここに来たのが、彼が正当な権利を持っていない『神の瞳』のためだったと証明しなきゃいけないわ。
それから、ベンがここにすすんで来たのであって、誰かに強制されていたことじゃないって証明すること。
あと――」
シャーロットは顔を顰めた。
十数日前の、ベイシャーでの一件を思い出したがゆえだった。
「――仮にベイシャーまで私を誘拐していった人たちが、ベンの仲間だったとすると、もし三度目があるとすれば、悪魔が私を誘拐しようとするかも知れないから。
そのときはお前に守ってもらわなくちゃならない――」
シャーロットは注意深くマルコシアスを見て、かれが彼女の言葉を呑み込んだのを確認した。
マルコシアスは肩を竦めた。
シャーロットは少しためらい、しかしすぐに息を吸い込んでそのためらいを呑み下すと、告げた。
「――三つ全部が命令よ、エム」
マルコシアスは梁に頭をぶつけないようにしつつも、音もなく立ち上がり、小さく頭を下げた。
顔を上げて、かれは承服した。
「仰せのとおりに、レディ・ロッテ」




