05 心根と本能
帰宅してすぐ、ジェファーソン氏は異変に気づいた。
もう既に夕暮れ時だったが、外から見て、どの窓にも明かりが入っているようには見えなかったのだ。
おまけに、いつもならば既にシャーロットがキッチンで食事の支度をととのえている時間だというのに、足早に入ったキッチンには火の気がなく、食事の準備はまったくされていなかった。
嫌な予感がした――もし万が一、姪孫を再び脱走させてしまったということになれば、彼の姪も呆れ果てるだろう。
そして今度こそ、姪の夫――ジェファーソン氏にとっては少ならかぬ借金のある相手――に、この話が伝わるだろう。
そう思うと、胃袋がぎゅっと縮むような心地がした。
ジェファーソン氏は買い込んできたものを床下の食糧庫にしまい込むのも後回しにして、油皿に火を点し、足許を照らすと、リュウマチ持ちに出来る最大の速足で、シャーロットの寝室に指定した部屋に向かった。
とはいえ、彼の足では、大階段を昇ったところで既に速度は落ち、ぜぇぜぇと息切れがしてきたのだが。
階段の手すりに縋るようにして階段を昇り、酸欠ぎみになりながらも、ジェファーソン氏はシャーロットの部屋の前に辿り着いた。
ノックもせずにドアを開け放つ。
ランプには灯が入っておらず、ジェファーソン氏はあわや卒倒しかけたが、そのとき、彼は油皿の明かりにかろうじて見える、ベッドの上の人の形をしたふくらみに気がついた。
ほっと息を漏らしかけたものの、油断は大敵。
シャーロットのことだから、適当なクッションを詰めて自分を誤魔化すことはあるかもしれない。
そう気を引き締めて、ジェファーソン氏は声もかけずに、つかつかとベッドに歩み寄って、その毛布をばさりとめくり上げた。
その音に驚いたのか、ベッドと壁の間の隙間から、ちょろちょろと小さなヤモリが這い出し、あわてたように明かりを避け、部屋の隅に向かって壁を走っていくのが見えた。
めくり上げた毛布の下に、シャーロットは丸くなっていた。
着替えもせず、ベッドの中で膝を抱えていたようだった。
金髪がほつれてシーツの上に広がっている。
油皿の乏しい明かりであっても、彼女が蒼白になっていることが分かった。
ジェファーソン氏は、先ほどまでの剣幕はどこへやら、周章狼狽して一歩下がった。
彼とて鬼ではないのである。
あわてて膝を突き、彼はシャーロットの額に手を当てた。
シャーロットはぎゅっと目を瞑ったが、嫌がる素振りはなかった。
「どうしたね、シャーロット」
出来るかぎり優しい声で、ジェファーソン氏は尋ねた。
彼は若いころに子のないまま妻を亡くし、後添えを娶る気もなく今まで過ごしてきたために、どうにも子供への対処には困るところがあった。
「風邪でも引いたかい」
シャーロットが鼻をすすった。
身じろぎして、彼女が手で身体を支えて、身を起こした。
髪がばらりと肩から頬の横にこぼれた。
「……いいえ」
かすれた声でそう答えて、シャーロットは明かりに目を細めて大叔父を見上げた。
大叔父からは、その表情は奇妙なものに見えた――かたくなに思い詰めたようでいて、それでいて何かを訴えるような顔。
「どうしたね?」
面喰らってもう一度尋ねると、シャーロットはぎゅっと目を瞑った。
彼女の唇が震えた。
「――大叔父さま……」
囁いて、シャーロットが目を開けた。
窺うような顔色になっていた。
真剣に怯えていて、誰かの庇護を必要としている――そういう表情だった。
何かの脅威に、いま彼女は純粋に縮み上がっているのだと、ジェファーソン氏であっても分かった。
「大叔父さま……」
ジェファーソン氏は怯んだ。
それは無意識下に、面倒事はごめんだと思ったがゆえのことだった。
彼にとって、子供はいつも面倒なものだった――うるさくて、行儀が悪くて、見張っていないと大切なものを壊す。
その認識があって、ジェファーソン氏はすばやくシャーロットを黙らせることにした。
なんにせよ、この子は他人の子であって、ジェファーソン氏が守るべき子供ではなかった。
「具合が良くないなら寝ていなさい、シャーロット。何か食べるかね?」
シャーロットは薄く口を開けていた。
橄欖石の色の目が、なおも縋るようにジェファーソン氏を見ていたが、彼はしいて目を逸らした。
やがて、シャーロットは目を伏せた。
深刻に気分が悪そうだった。
「……いいえ。大叔父さま、お食事の支度を忘れていて、ごめんなさい」
「構わないよ」
ジェファーソン氏は、日ごろの彼からすればきわめて寛大な言葉を発した。
そしてためらってから、おずおずとシャーロットの小さな頭にたなごころを載せ、曖昧にそれを上下させて、彼女の頭を撫でた。
「お腹が空いたら言いなさい。おやすみ」
シャーロットは言葉に詰まったようだった。
何かを言おうとして、しかしそれを喉につかえた塊に塞がれたかのようだった。
ジェファーソン氏はきびすを返した。
油皿の上で灯りが踊り、部屋に投げかけられた曖昧な影がはかなく揺れ動いた。
ジェファーソン氏が部屋を出るときになって、ようやくシャーロットは囁いた。
「……――おやすみなさい、大叔父さま」
シャーロットはみじめな気持ちだった。
毛布の下の真っ暗闇で目を見開き、じっとりと厭な汗をかきながら、罪悪感と自己嫌悪に吐きそうになっていた。
目を閉じると、まぶたの裏にあの男の今際の際の顔が浮かぶ。
マルコシアスはヤモリの姿で、ちょろちょろと部屋の中を走り回っているようだった。
幾度か、かれがシャーロットに話しかけようとする気配があったが、毛布を頭から被ったシャーロットはそれを無視していた。
マルコシアスはもしかしたら、あの部屋で倒れたままになっているあの男を、どんな風にして隠しているのかを話そうとしたのかもしれない。
だが、その話を聞こうとした途端、シャーロットは窒息するような息苦しさを覚えた。
倫理的にも道義的にも、シャーロットはすぐさま、あの男のことを人に話し、届けるべきところにこの事実を届け、何が起こったのか、包み隠さずに何もかも打ち明けるべきだった。
だがそれを、ぶんぶんと頭の中を飛び回るあらゆる考えが引き留めていた。
車輪まで黒く塗られ、金の塗料で警察の印章を染め抜かれた、警察の馬車がひっきりなしに脳裏をよぎった。
警官は大抵、黒くて鍔のない帽子を被り、肩章のついた黒いジャケットを着ている。
――もっとも、シャーロットが想像したのはローディスバーグ近辺を取り締まる首都警察の格好であり、スプルーストンを含む西部の田舎においては、巡査隊が警察機能を果たしている。
その機能は首都警察に比べて大幅に劣るものだった。
だが、それを彼女は知らず、知らないことはいっそ幸運だった。
機能だけではなく法治意識も、首都警察に比べて劣るのが地方の巡査隊である。
捕縛されたが最後、何を訴えても聞き入れられず、そのまま劣悪な環境の牢に送り込まれ、しかもそのまま存在を忘れられてしまうことも珍しくないのが、巡査隊の真に恐ろしいところだった。
シャーロットは警察を思い浮かべ、自らが彼らの前に出頭する場面を、少ない人生経験で培われた想像力で思い描き、そして付随するあらゆる問題を一気に直視していた。
――警官はこれをどう思うだろう。
悪魔のしたことは主人のしたこと、シャーロットは相当な責めを負うことになるだろう。
もちろんそれは正当なことだが、あの男がシャーロットを殺そうとしたということを、どうやって証明すればいいのだろう。
何しろ目撃者もいないのに。
――もう絶対にリクニス学院へ入学は出来ないだろう。
第一、入学の資格がない。
悪魔に対して人間は非力と分かっていたはずなのに、あのときマルコシアスを止められたのは自分だけだったのに、シャーロットにはそれが出来なかった。
そんな人間が魔術を学んで何になる。
魔術師が守るべき最低限の倫理は、人命に対する威嚇として悪魔の力を用いないことだ。
これは憲法に明記されている。歴史に残る七十年前の「ローディスバーグの死の風」の席巻のあと、憲法が一部書き改められたのだ。
なお、余談になるが、「ローディスバーグの死の風」とは疫病を指す。
そのため、この改憲と直接の関連性はないはずだが、憲法が改められたのは、この、蔓延した時期は短くとも爆発的な被害をもたらした疫病が根絶された直後だった。
――だが、そうだ、シャーロットとて、他人の命と自分の命を天秤にかければ、自分の命を採ると即答する程度にはわが身が可愛い。
この先に獲得すべき輝かしい道があるならばなおのこと。
しかしそれはあくまで、どちらかが犠牲になるほかに道がない場合においてのことだ。
今日のことをいえば、ほかにも道があったことは明瞭だった。
そのことがいっそうシャーロットの心臓を縮み上がらせ、刺すような痛みをもたらしていた。
――あれが仮に、相手がマルコシアスを追い詰めるだけの何かの手段を持っていて、やむにやまれずの行動だったならともかく、あんなに簡単に。
――お父さまやお母さまはどう思うだろう。
免許もなしに悪魔を召喚した娘が、ついに人まで殺したとあっては。
悪くすればお父さまやお母さまにも累が及んでしまうだろう――お父さまは銀行をクビになるかもしれない!
――どちらにせよ、いつまでも黙っていることは出来ない――いくらこの屋敷の使われていない部屋とはいえ、いくらなんでも、異変に気づけば大叔父もあの部屋に足を向けるはずだ。
異変とはたとえば――倒れたドアであったり、――腐敗臭であったり。
――そう、もちろん黙っていることは出来ない。人が一人、命を落としたのだ。
あの部屋で孤独に横たわっているのは物ではない、人なのだ。
届けなければ――打ち明けなければ――今すぐにでも!
大叔父さまはどんな顔をなさるだろう?
保身と自責が交互に頭の中で鳴り響き、保身は自己嫌悪を、自責は恐慌をもたらしていた。
シャーロットの中で、頑ななまでに自分自身に対して潔癖でいようとする心根――望まない生き方をするくらいならば、そこで息を止めてしまう方を選ぶほどの、愚直なまでに融通の利かない心根と、そしてその上でなお前へ前へと動こうと、背反すら抱えながらも足掻こうとする彼女独特の本能が、もだえるような葛藤を戦い始めていた。
だが、そんな中にあっても――いや、その中にあってこそか――時おり、思い出したように、閃く疑問が脳裏をかすめる瞬間があった。
大海原で溺れる者が藁くず一つに縋るにも等しいはかない望みを懸けて、シャーロットはその疑問にしがみつくようになっていた。
――そもそもどうして彼は、私の名前を知っていたのかしら?
▷○◁
翌朝早く、シャーロットがもぞもぞと起き出して、しわくちゃになっていたワンピースを着替えた。
そしてそのまま、ふらふらと部屋の外へ出て行くのを、ヤモリの姿のマルコシアスは黙って見送った。
いつもと変わりない行動だったからだ――玄関先から、ミルクが満たされたブリキ缶を回収するのは彼女の役目なのだ。
とはいえ、マルコシアスはいらいらしながら、ヤモリのしっぽを動かした。
あの死体を匿っておくのはいいが、いつまで匿えばいいのか。
それを話したいのにシャーロットはいっこうに話を聞こうとしない。
彼女がこの部屋に戻ってきたら、今度こそつかまえてその辺りの期限を明確にしなくては。
――そう思い、マルコシアスはヤモリの姿でデスクの上をちょろちょろと歩き回りながら、シャーロットが戻ってくるのを待った。
小さな生き物に姿を変えるのは面白い。
一つ一つの物がそびえ立つように大きく見えるのは嫌いではなかった。
音もなくうろちょろするマルコシアスのしっぽの付け根には、鉄色の小さな枷が巻きついている。
契約解消までは絶対に消えない、悪魔と魔術師の契約の印だ。
マルコシアスはデスクからその隣の本棚へ飛び移った。
シャーロットはまだ戻ってこない。
だが、すぐに戻るはずだ。
彼女は膝の上で本を開いている時間の長さに異様な情熱を傾けている。
いつも、ブリキ缶を回収しだいすぐに戻ってくる。
そのうちマルコシアスは、ぴたりと動きを止めた。
本物のヤモリには有り得ない淡い金色の目が、小さな部屋の入口をじっと見つめている。
シャーロットはまだ戻ってこない。
部屋の中は徐々に明るくなっていた。
曇った明かり取りの窓が、それでも外気の明るさを伝えているのだ。
曇った硝子をくぐり抜けて差し込む明かりは白っぽく、まるでこの小さな部屋が、淡く色づいた重さのない水に徐々に沈んでいくようでもあった。
――シャーロットはまだ戻らない。
彼女の大叔父が、彼女に何かの用を言いつけたのかもしれない、と、マルコシアスは慎重に考えた。
あの老人は、突拍子もない用事でかれの主人を呼びつけることがあった。
――シャーロットは戻らない。
そのうちに、マルコシアスも何かがおかしいと気づいた――シャーロットの大叔父が、いぶかしげにシャーロットを呼びながら、部屋の扉を開けたのだ。
彼はもちろんマルコシアスには気づかなかったが、マルコシアスの方は事態の異変に気づいた。
――この老人がシャーロットに何かを言いつけたのであれば、シャーロットを捜しているわけがない。
まあ、シャーロットが言いつけられたから仕事から逃げ出したということはあるかもしれないが。
マルコシアスはデスクの上をちょろちょろと往復し、それから精霊を呼び出して、命じた――「僕の主人がどこにいるか捜して」。
精霊があわただしく動いて、そして数秒後、かれに応答する声のない声が聞こえてきた――「この屋敷の外の……」。
「外!?」
仰天して、マルコシアスは思わず叫んだ。
「間抜けなレディめ、一人で家出か?」
もしそうなっては一大事だ。
マルコシアスの助力なく、彼女が一人で家で帰ってしまった場合、マルコシアスが役目を果たしたとはいえないとして、『神の瞳』が取り上げられてしまう可能性が高い。
あるいはもっと悪いことに、シャーロットがそもそも家に帰るという目的を失った場合も、仕事をなくしたマルコシアスは契約を解除され、かれの領域に戻されてしまいかねない――
この、「もっと悪い場合」を、マルコシアスがなぜ思い浮かべたのかは、かれ自身にも分からなかった。
思い浮かべた直後には失笑した。
なぜなら――まさかそんなことがあるわけがない。
レディ・ロッテが、あの、目的のためならば手段を厭わない、生き延びるためならば死んでもいいというような、矛盾を抱えるまでに激烈な自我を持つご主人さまが。
折れぬ曲がらぬ自我――己が決めた道のみを美徳として歩いて行こうとする、何ものにも譲らぬ願望――彼女自身の意思を折ろう曲げようとしてくるものに対する、強烈な反発心――それらを、マルコシアスは目の当たりにして知っている。
その彼女が、今さら心を変えて、こんな場所に引き籠もることを良しとするはずがない。
不変は罪だが、あの心根は終生変わるまい――それでいい。
なんとはなしにそう思って、しかし直後、マルコシアスはひゅっと息を呑んだ。
「……おーっと、まずい……」
シャーロットは確かに、長年の夢を他所から折られるくらいならば死んだ方がいいと断言するほどの頑固者だ。
だが同時に、自分の良心に背を向けるくらいならば命も惜しくないと宣言するようなお人好しだ。
その、矛盾をかかえた、いっそ脆いほどに激烈な心根が、この事態にあってどう動いたか。
――マルコシアスには道理が理解できないが、空き部屋で事切れているあの男が、なんらかの良心の呵責を彼女に引き起こしたとすれば?
自分の行く手にあるものは、良心以外はすべて撥ね退けて突き進もうとする頑固者――その良心と自分の行く道を、何が何でも一致させようとする潔癖さを持つお人好し。
もし仮に、空き部屋で事切れているあの男の存在が、盛大に彼女の良心を刺激し、彼女の行く道にとって乗り越えられない障害になっていたとすれば?
「まずい、まずい、『神の瞳』が逃げる」
つぶやいて、マルコシアスはあわただしくデスクから駆け下りると、扉と床のあいだの隙間を素早くくぐり抜けた。
ややあって、その古い屋敷から、首許にストールを巻いた灰色の髪の少年が、すっ飛ぶような勢いで走り出していった。
これを目撃したのは散歩中の、近所に住まうミセス・ケレットだけだったが、この老婦人は首を傾げ、ジェファーソンさんのお宅には二人めのお孫さんがいらっしゃったのかしら、と、のどかに考えるばかりだった。




