04 喰い違い
少年の形をした悪魔がすたすたと歩みを進めてくる。
男は一瞬、それが虚勢である可能性を考慮したものの、動作にためらいは含まなかった。
彼は素早く、牛刀をシャーロット目がけて押し込んだ。
仮に目の前の悪魔がこれに対処しそこねてしまったとしても、〈身代わりの契約〉があるはずなのだから、シャーロット・ベイリーは無傷のままだ。
刃先が抵抗を受けた。
まるで、手にした牛刀の刃先が唐突に磁石に変わり、そしてシャーロット・ベイリーもまた、それと同じ極の磁石になったかのようだった。
互いが決して接することのない抵抗――男は、状況を見るまでもなく歯噛みした。
精霊だ。
悪魔の命令を受けた精霊が、シャーロット・ベイリーを守っている。
最も有効な反撃手段を封じられ、男はすばやく刃を引いた。
銀の短剣を目の前に掲げながら、今度は眼前の悪魔に向かって牛刀を構える。
だがそれが、あくまでも無駄な抵抗になるだろうということは分かっていた。
――悪魔は死なない。
稀ではあるが、いわゆる致命の一撃を受けた悪魔がこの交叉点に留まっていられなくなり、まるで息を引き取るようにして消え去る場面もある――だが、それも決して「死」ではないのだ。
連中は不滅だ。
彼の雇い主は、仮にシャーロット・ベイリーが召喚した悪魔を引き続き使役していた場合――そうだ、彼の雇い主は、シャーロット・ベイリーに魔術の素養があり、過去に悪魔を召喚していたと知っていたのだ――、対処は非常に難しくなるだろうことを、あらかじめ彼に伝えていた。
その危険を鑑みて、この仕事の報酬は目玉が飛び出すような高額に昇っていた。
彼からすれば美味しい話だった――これまでも命の危険がある仕事を請け負ったことはあるが、それでもここまでの高額の報酬を示されたことはなかった。
そして雇い主は同時に、悪魔をこの仕事に遣わさないことを彼が皮肉ると、溜息を吐いて告げた――「きみ、魔神が全部でいくついるか知っているかな。知らないだろうな。七十二だ。わが国は確かに魔術分野での第一線をいく国であり、魔神のほとんどがわが国で召喚されているが、それでも今すぐに魔神を召し出してこの仕事を頼むには無理がある」。
その言い分に、彼は大体のところを悟った。
つまるところ、この強襲計画が失敗したとして、雇い主に大きな不利益は生じないのだ。
この計画は、「成功すれば僥倖」程度のもので、本命の計画は他にあるに違いない。
だがそれでも、その成功率の低い計画を実行に移さずにはいられないほどに、雇い主はシャーロット・ベイリーの身柄の確保を焦っている。
焦りは、最も人間がぼろを出しやすくなる感情の一つだ。
少年の形をした悪魔が、ためらいなく歩を進めてくる。
その輪郭がかすかな燐光を帯びていることに、男は気づいた。
それが精霊の働きによるものなのか、悪魔自身の魔力によるものかは分からない。
「僕は魔神だ」
少年は告げた。
男はまた、雇い主の無味乾燥な声を思い出した――「ミズ・ベイリーが悪魔を召喚していた場合、それが魔神である可能性もあるということは、覚えておいた方がいいだろう」。
雇い主の顔――澄ました老紳士の顔。
神経質そうに膝の上に置かれた、筋の張った手――左手の甲に、僅かに色の濃い痣のある、荒事はすべて金にものを言わせて他にやらせてきたのだろう、手入れの行き届いた手。
「序列は三十五番。僕くらいの魔神になれば、」
少年の形をした悪魔が、人間そっくりの指を一本立てて、それを目の高さにまで上げてみせた。
――抵抗のいとまもなかった。
牛刀の刃が、まるで万力で締め上げられたかのごとく、軋みながらねじり上げられた。
不格好な円を描くようにねじ曲げられた刃の切先は、今や男の方を向いていた。
鈍い銀色の刀身に、男は自分の歪んだ鏡像を見た。
――序列三十五番。
男は、ここまで位の高い魔神とこの距離で相対したことはなかった。
これまでに魔神を見たことがあるのは片手に収まる程度の機会で、そして魔神と相対したときには即座に逃げを打つことで、この稼業で生きながらえてきたのだ。
「頭の上にとんでもない量の銀が降ってくるか、それとも銀の刃で刺されるか、銀の弾丸で撃たれるか――そこまでのことがない限り、大した害は受けないよ」
少年が軽く手を振った。
誰かに真横から殴られたかのようだった――牛刀が掌から引き剥がされ、吹き飛んで、応接セットのそばまで転がった。
埃まみれの絨毯に落ちた牛刀は、ほとんど物音を立てなかった。
転がった牛刀は、いびつな「6」の形で静止した。
男の後ろでは、そろそろとシャーロット・ベイリーが立ち上がろうとしている。
満面に安堵を浮かべ、彼女が口を開いた。
何を言おうとしているのだろう、と、男はかすかに疑問に思ったが、少女を振り返ることはしなかった。
眼前には子供の格好をした悪魔が迫っており、背伸びして手を伸ばして、男が掲げた銀の短剣に指先を近づけていた。
まるで、この程度の銀であれば無害に等しいのだということを、論より証拠とばかりに示そうとしているかのように。
男が起死回生を懸けて振るうには、銀のおもちゃはあまりにも頼りなかった。
男は賢明な、少なくとも彼の自尊心を多少は守るに足る決断をした。
すなわち銀の短剣を下ろし、肩を竦めたのだ。
――みっともなく足掻くことはせず、どうにでもしろ、と言うように。
▷○◁
シャーロットは口を開けた。
「よくやったわ」と言うつもりだった。
男は完全に諦めた様子だった――つまり、屋敷から放り出すことはもう容易だろうと分かったのだ。
「――よく」
苦い味がした。
声を出すために開いた口の中に、なまあたたかい滴が飛び込んできたのだ。
苦い――鉄のような味の。
シャーロットは瞬きした。
視界に異変が起こった。
いや、それは視界の異変ではなかった――目の前の男に起こった異変だった。
しかしそれを、シャーロットは咄嗟に理解できなかったのだ。
男の腰の辺りが、不自然なまでにぎゅっと細くなった。
まるで、無理にコルセットで締め上げたかのようだった。
ぼたぼたぼたっ、と、重い滴がいくつも絨毯に落ちる音がして、男の足許にどす黒いしみが広がっていった。
また、シャーロットは瞬きした。
男が、どこかからか大量のインクをこぼしたのだと思った。
ぎゅっと細くなった腰はいっそ優美なほどで、頑強な身体が突如として女性的な曲線を得たために、違和感すら覚えるほどの光景だった。
続いて、ほとんど間髪を入れず、男の足が――爪先が――絨毯をこするようにしてこちらを向いた。
つまり、後ろを向いたのだ。
その革靴の爪先が、先ほどとは違う――てらてらと光っている。
立ち上がりながらも、シャーロットはぽかんとしていた。
なんの曲芸かしら、と、彼女はぼんやりとそれを訝しんだほどだった。
男の手から銀の短剣が滑り落ちた。
それを、マルコシアスが部屋の向こうへ蹴った。
埃まみれの絨毯の上を勢いよく滑り、短剣は応接セットの少し向こうの、窓際の壁にぶつかって止まった。
こん、と、妙に現実味のある硬い音が響く。
シャーロットは瞬きを繰り返した。
また、なまあたたかい滴が飛んできた。
今度はそれは頬に当たった。
頬に当たって、ゆっくりと垂れる――粘性の液体。
無意識のうちにシャーロットは手を上げて、その滴をぬぐおうとした。
滴の垂れるその感覚はむずがゆいほどだった。
頬をぬぐった指先に、シャーロットは視線を落とした。
彼女の指先は赤く汚れていた。
ねばつく赤い液体――これは――これはまるで――
徐々にシャーロットの呼吸が速くなった。
心臓がばくばくと脈打ち始める。
何が起こっているのか、理解を拒否する彼女の頭にも現実が突きつけられ始めた。
声を出そうとしたが息が詰まる。
いつの間にか周囲には、むせ返るほどに濃い、鉄錆の臭いが立ち込めていた。
「――え」
目を上げたシャーロットは、その瞬間、男の胴がねじれるのを見た。
先ほど、彼の爪先がこちらを向いたときと同じように――いつの間にか唸るように響き始めたシャーロットの耳鳴りさえ貫いて、べきべきと凄まじい音を立てながら――、男の胴がまるで布を縒るかのようにしてねじれ、新たな赤い滴を、おびただしい量で零しながら――
――男の顔がこちらを見た。
シャーロットの喉が凍った。
男の顔に生気はなく、元より青白かった頬は、今や土気色に変じていた。
口が開き、そこからだらんと舌が垂れている。
その舌が赤黒く内出血を起こしている。
落ちくぼんでいた目は飛び出し、今も息があるかのようにシャーロットを直視していた。
しかしもう生きているはずがない――その目に光はなく、眼窩の下には、滝のように流れた血涙が跡を残している――
シャーロットの喉が痙攣し、その痙攣は喉に留まらず全身に伝播した。
背筋を戦慄が駆け抜け、全身の肌が粟立つ。
一歩後退り、足から力が抜けてその場に座り込む。
全身が震える。
先ほど、この男と扉一枚を挟んで対峙していたときの比ではない。
喉が震える。
無秩序な声が出る。
出てしまえば止めようがなかった。
シャーロットは悲鳴を上げた。
「――ロッテ?」
マルコシアスが、驚いたようにシャーロットを見た。
かれが、無頓着に左手を振った。
途端、既に力を失っていた男の身体が吹き飛んだ。
鈍い音を立てて、その身体が応接セットのローテーブルに激突し、有り得ない方向に手足を曲げた状態で、彼は床の上に伏臥した。
真っ黒な髪がばらりと床に広がっている――
――これがとどめだった。
つい数秒前まで生きていた人間の、尊厳をもって扱われるべき身体が、その最低限の労わりすらもなく床に放り投げられた、これがとどめだった。
色のない冷たい波が、その遺体からまっすぐに自分に向かってくるような感覚さえあった。
シャーロットは身ぶるいした。
われ知らず、彼女の悲鳴には嗚咽が混じった。
「あ、あ――」
シャーロットの悲鳴が意味を得た。
両手で顔を覆って、彼女は叫んだ。
「――エム! なんてことを!!」
マルコシアスはぽかんとした。
かれは本気で、主人の言動の意味を取りかねたのだ。
「は?」
「なんてことを――こんな――」
シャーロットは吐き気を覚えて口許を覆った。
埃の臭いと血の臭いで、胸がむかついた。
「どうして――」
「どうして?」
マルコシアスが、シャーロットの言葉をおうむ返しにし、目を丸くした。
かれが軽く両手を広げた。
まるで舞台役者のように。
「どうしてって、決まってるでしょ。あんたを殺そうとしたからだ」
「こんな――」
シャーロットの目に涙が浮かんだ。
悲しかったからでも、良心の呵責のゆえでもなかった。
純然たる恐慌のゆえだった。
「こんな酷い――」
「ひどい?」
マルコシアスが訊き返した。
かれは茫然とした様子でしばしシャーロットを眺めたあと、大股に彼女に歩み寄った。
血を含んだ絨毯を踏んだかれの足許で、じゅわりと血の滴が滲むのが見え、シャーロットはいよいよ嘔吐感を催した。
「こいつがあの刃物であんたを殺そうとしたのは、じゃ、酷いことじゃなかったの?」
マルコシアスはそう言って、かれからすれば精一杯に寄り添った仕草を示した。
すなわち、シャーロットの目の前にしゃがみ込んで、彼女の頬に飛んだ血の跡をぬぐったのだ。
「ロッテ、どうしたの? びっくりしたの?
あいつに殺されてたら、あんた、えーっと、どこだっけ、そう、リクニス学院にも入学できなくなるところだったよ」
シャーロットの唇が震えた。
彼女がわずかに身を引いて、自分の手から離れようとしていることをマルコシアスは感じ取った。
かれは察しよく手を下ろした。
シャーロットの橄欖石の瞳と、マルコシアスの淡い黄金の瞳が、至近距離で互いを映した。
「こ――殺すのは、違うわ。違うわ、あの人を死なせるなんて」
痙攣するような小声で、シャーロットは囁いた。
激しく瞳が震えていた。
「殺す」という単語を口に出したとき、彼女の心臓は縮み上がった。
マルコシアスが瞬きした。
かれは一度、事切れた男を振り返り、それから訝しげにシャーロットに視線を戻した。
「……知り合いだったの? だったら悪いことしたね」
「ちが――違うわ」
シャーロットは囁いた。
とうとう彼女が涙を零しはじめたが、どうやら自覚はないらしかった。
マルコシアスの目から見ても、彼女は茫然としているようだった。
「違うの?」
マルコシアスは、辛抱強ささえ感じさせる声音でそう言った。
かれは眉を顰めた。
「だったら、何がひどいの」
「こんなことまで……」
シャーロットの声が震えた。嗚咽のためだった。
「こんなことまですることなかったわ――彼は……あの人は、もうすっかり……諦めていたのに」
「あんた、何を言ってるの?」
マルコシアスは匙を投げた。
その場に座り込んで、かれは盛大に両手を広げた。
「あいつ、あんたを殺そうとしたんだよ。それは分かってる?」
「分かってる……」
シャーロットの声はいよいよ震え、言葉として聞き取るのが難しいほどだった。
「でも……違うわ、こんなの……こんなの、取り返しがつかない――」
マルコシアスはいっそう困惑してシャーロットの顔を覗き込んだが、彼女はもうマルコシアスの顔を見なかった。
彼女は血の気の失せた顔で、事切れた男を見つめていた。
頬は蒼白になっていた。
「取り返しがつかないわ……彼がどうしてここに来たのか――自分からすすんで来たのか、嫌々来たのかも――もう分からないわ……お子さんだっているのかもしれない……」
「ねえ、それ、あんたに関係あるの?」
シャーロットはうつむいた。
金髪が垂れて、その顔をマルコシアスの目から隠した。
だが、くぐもった声ははっきりと聞こえた。
「……お前なら、彼を死なせずにここから放り出せたわ。そのことは、私にこの上なく関係がある」
「…………?」
首を傾げるマルコシアスには一瞥もくれず、シャーロットは震えながら立ち上がった。
そのまま、よろよろと部屋の中を歩いた彼女が、床に落ちたカーテンを拾い上げたので、マルコシアスは一瞬、彼女がそれを自分に投げつけるのかと訝った。
だが違った。
ためらったあと、シャーロットはゆっくりと引き返し、絨毯に今もなお血を広げている、あの男のそばに戻った。
震える手で、シャーロットはカーテンを振って、埃を払った。
それから慎重に、男の遺体にその布を掛けた。
すすり泣きながら、シャーロットがその場に膝を突くのを、マルコシアスはぽかんとして見守っていた。
シャーロットがいくつかの言葉を囁いたが、マルコシアスの耳には聞き取ることが出来なかった。
いよいよ混乱し、ぽかんとするマルコシアスの視線の先で、シャーロットはよろめきながら立ち上がった。
そして、吐き気を堪える蒼白な顔のまま、部屋を横切って扉に向かった。
扉の前で彼女は立ち止まり、くるりとマルコシアスを振り返った。
だが視線は、マルコシアスをかすめた他の一点を見つめていた。
「――彼を、ちゃんと……ちゃんと埋葬しないといけないわ。大叔父さまに――大叔父さまに、お話ししないと。どうしましょう――。
――それまで彼に、何事も起こらないようにしておいて」
釈然としないまま、マルコシアスは頷いた。
シャーロットの様子が尋常でないために、今ならどんな些細な命令違反であっても、それが契約破棄に繋がりかねない――つまるところ、『神の瞳』を得る好機を失いかねない――のではないかと、かれは案じたのである。
シャーロットが、蹴り倒された扉を踏み越えて廊下に出た。
訳が分からず、マルコシアスはそれを見送った。
――しばらくして、離れたところで、彼女がとうとう嘔吐する物音が聞こえてきた。