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03 悪魔馳せる

 シャーロットは大きく目を見開いていた。


 あまりに現実離れしたように見える光景に、いっそ恐怖すら感じていなかったが、それはあくまでも表面上のことだった。シャーロットの膝から力が抜ける――



 ――その瞬間、現実への力いっぱいの反発が、凄まじい勢いでシャーロットの胸の中で弾けた。



 男が牛刀を手に、すたすたとこちらへ近づいてくる。

 一瞬だけ部屋の中を見渡して、この部屋に出入口が一つだけであることを確認した。


 物慣れたその仕草に、いよいよシャーロットの反発心は燃え上がった。


(お――おかしいでしょう!)


 唐突に大叔父の家に寄せられ、リクニス学院への切符を奪われ、やっとの思いで家出の計画を立ててみれば誘拐され、挙句に今度は――


(なんでよ! もうっ! 帰りたいだけなのに!!)


 現実への憤慨と苛立ちのありったけに、シャーロットは息を吸い込み、



「――エム!!」



 全身全霊で叫んでいた。



 ――こうなった以上はもう確定した事実だが、シャーロットの命が危ない。


 本来ならば魔術師と悪魔は〈身代わりの契約〉を結んでおり、魔術師が受けた傷は全て悪魔に転嫁される。

 だが、シャーロットはマルコシアス召喚の際に、その契約を漏らすという前代未聞のミスを犯した。


 つまり、マルコシアスにはシャーロットを是が非でも守らなければならない動機はない。


 だが一方で、シャーロットがマルコシアスに示した報酬は破格のものだ。


 報酬である『神の瞳』が惜しければ、召喚主の死亡による悪魔の(せかい)への強制送還を避けるべく、マルコシアスは何があってもこの場に駆け付けてくるはずだ。


 マルコシアスは――〈()()()()()()()〝真髄〟は、命令に対しては真面目で、主人の質問には誠実に答え、どんな危険にも対処することで知られているのだ。



 男が、その瞬間、さっと目許を強張らせた。


 彼が、もはや数歩の距離になったシャーロット目がけて、牛刀を振りかざして飛ぶように走り――



 ――目に見えない障壁にぶつかったかのように、勢いよく後ろに弾き飛ばされた。


 シャーロットは迫る白刃に堪えかねて顔を背けていたが、男が尻餅をつく()()()という音に、はっとして顔を上げた。


 そして、驚きに目を丸くしつつも、素早くその場で立ち上がり、再び牛刀を――今度はより慎重に――構える男を見た。



 シャーロットは息を吐いた。

 安堵のあまり、思わずその場にへたり込んだ。


(――精霊だ)


 マルコシアスは悪魔の例に漏れず、かれが召喚されるときに、いわば巻き込んだ形であちらの(せかい)からこちらの交叉点(せかい)へ連れて来ることになった精霊たちを、配下として従えている。


 精霊は万物に宿るものであり、あらゆるものに干渉することが出来るものたちだ。



 配下の精霊が動いたということは、主である悪魔は確実にこちらに注意を向けている。



 男が、素早く周囲に視線を走らせた。

 明らかに、今の現象が魔法――ないしは精霊の働きだったことを察している。


 彼が唇を舐めた。

 何かつぶやいたようだったが聞こえなかった。


 男がシャーロットを見て、牛刀を握り直す――



「――ねえ、きみ」



 このときばかりは、シャーロットにとっては腰を抜かすほどの安堵をもたらす声が聞こえた。


 声そのものは人間にそっくり、まだ少し高い、少年の声だった。



 男が弾かれたように振り返った。

 シャーロットからは、黒々とした男の大きな背中ばかりが見えるようになった。


 彼女は身体を右側に傾けて、男が見ているのと同じ光景を見た。



 扉を失った戸枠に寄りかかるようにして、不機嫌きわまる表情のマルコシアスがそこに立っていた。


 白いシャツに深緑色のズボンという出で立ちで、首にはやはりストールを巻いている。


「せっかくいい気分で本を読んでたっていうのに、僕の主人が僕を呼ぶような事を起こすなんてどういう了見なのさ」



「――――」


 当然だが、男は答えなかった。


 彼が緊張に息を呑むのを、シャーロットはまざまざと感じ取っていた。



 マルコシアスは矯めつ眇めつするように男を上から下まで眺め、それから、面倒そうに戸枠から身体を起こして、倒れた扉を踏んで部屋に入った。


 その足許では、床は軋みもせず、埃のひとつも舞い上がらなかった。



 腕を組み、軽く顎を上げて男を見てから、マルコシアスは首を傾げてシャーロットに視線を移した。


 悪魔に特有の笑みが、鮮やかにその顔を彩った。



「――では、レディ・ロッテ。ご命令を」





▷○◁





「――ご命令を、じゃないわよ! 助けなさい!」


 シャーロットは叫んだ。


 マルコシアスは肩を竦め、「了解」とつぶやく。

 そして、光源に拠らずに煌めく淡い金色の瞳を、牛刀を持った男に向けた。



 男はゆっくりと後退っている。

 理の当然だが、それはシャーロットに後ろ向きににじり寄るようなものだった。


 シャーロットはへたり込んだまま、のけぞるようにして彼我の距離を保とうとした。


 度胸のひとつも見せるならば、ここで後ろから男に飛びついて逆襲するのだろうが、あいにくとシャーロットはそこまで馬鹿ではなかった。

 すぐ目の前にマルコシアスがいるのだ。問題なくこの男を屋敷の外へ放り出せる魔神がいるというのに、わざわざ斬ってくださいと言わんばかりに牛刀の前にわが身を差し出すことはないだろう。



 シャーロットからは見えなかったが、男の顔は強張っていた。


 人間と悪魔が敵同士として相対したとき、人間側に軍配が上がるのは稀な場合だ。

 悪魔といっても階級の低い魔精であれば、悪魔に共通の弱点である銀を使って対処できないこともなかったが、魔神と呼ばれる階級であればなおのこと対処は難しい。


 男は目を細め、目の前にいるマルコシアスが魔精か魔神かを推し量った。


 彼がマルコシアスの名を聞いていれば、即座にかれが魔神であると分かったのだが――何しろ、〈マルコシアス〉は有名な魔神の一人である――、シャーロットがかれを愛称でしか呼んでいなかったことが、男にとっての不幸だった。


 男は横目で振り返り、シャーロットの影を視界に入れ、彼女がまだそこにへたり込んでいることを確認した。


 シャーロットがマルコシアスの主人だということは明らかであり、悪魔のもう一つの弱点が、召喚主そのものだった。

 〈身代わりの契約〉のために、主人が受けた傷は悪魔に跳ね返る。


 そのために、対悪魔の対処においては、召喚主を押さえるのは最も有効な手段とされていた。


 男は唇を舐め、ためらいなく牛刀を後ろに向かって振った。



 大抵の人間が一生経験しないであろう、牛刀の切先が自分に向かって飛んでくるという事態に、シャーロットは凍りついた。



 ぴた、とシャーロットの鼻先で牛刀を止めて、男は注意深く、目の前の少年の姿をした悪魔を観察した。


 かれは全く動揺していなかった――珍しいことだった。

 多くの悪魔は、目の前で主人が痛い目に遭わされそうになると、それが撥ね返るわが身を憂えて悲壮な顔をするか、あるいはただただ嫌そうな顔をする。


 灰色の髪の悪魔はそのどちらでもなかった。平然として男を見ていた。


「――動くな」


 男はつぶやいた。



(……あっ、まずい)


 男の後ろで、シャーロットはあわてて立ち上がろうとした。


 この男には知る由もないが、シャーロットとマルコシアスの間には、〈身代わりの契約〉は結ばれていない。

 それを盾に取ろうとして斬られては堪ったものではない。


 シャーロットの身じろぎを察し、男が振り返った。


 そのときはじめて、シャーロットはまともに男の顔を見た。


 あごまで伸ばされた波打つ黒い髪、青白い、こけた頬に薄い唇。

 彫りの深い顔立ちで、目は落ちくぼんだように見える。深い緑色の目をしていた。


 その目にはまったく情けがなかった。


「動くなと言ったろう」


 シャーロットは凍りついた。

 誘拐されたことはあったが、凶器を手にして脅迫されたことはなかった。



「――悪いね、僕のご主人さまは向こう見ずでね」


 マルコシアスがつぶやいた。

 かれは苦笑していた。


 かれの淡い金色の目がシャーロットを見ていた。


「大丈夫だよ、ロッテ」


 男が牛刀を持つ手に力を籠めた。


 シャーロットは恐怖心からわれに返り、「早くなんとかして」という意思表示を、精いっぱい瞳に籠めてマルコシアスに視線を送り始めた。



 右手で牛刀を構えたまま、男が左手で懐を探った。


 その手で目当てのものを引き出したとき、彼の左手にはもう一つの、小さな短剣が握られていた。

 本当に小さい――実用に耐えうるとは思えない――飾りのように小さな頼りない短剣だった。


 色は目が覚めるような銀色。

 周囲の色合いを映しとって、滴るような銀色につややかに煌めく。


 マルコシアスがはじめて顔を顰めた。

 かれが一歩下がったのを見て、シャーロットは大いに慌てた。


「ちょっと――」


「げぇ、それ、銀じゃないか」


 マルコシアスは嫌そうにつぶやいた。


 男が左手に握った、その高価なおもちゃの短剣を前に突き出すと、かれは目の前に汚物を出されたかのように顔を逸らし、心底疎ましそうに手を振った。


「しかも純銀だろう、嫌な臭いがする」


 シャーロットははらはらしながら胸元を押さえた。


 銀は悪魔の弱点だ。

 だからこそ、『神の瞳』も銀の首飾りに封じ込められているのだ――そうでなければ今ごろ、『神の瞳』の存在を察知した悪魔たちが、血で血を洗う争奪戦を繰り広げることになっていたはずだ。


「そうだ」


 男は慎重に応じた。

 彼がまた、牛刀を持つ手に力を入れ直すのを、シャーロットはわずか数インチの先に見た。


「お前が――」



「ところがどっこい、残念でした」



 男の言葉を遮って、マルコシアスが悪魔の微笑を浮かべた。


 それに動揺したのか、牛刀を握る男の手が揺れて、危ういところで牛刀の切先がシャーロットの鼻先をかすめた。


 彼女は全力でのけぞった。


 マルコシアスが笑っている。


 まるで、手首を切り落としたように見せかけた手品師が、何事もなかったかのようにその手を再び出すときのような――種明かしをするときに特有の楽しげないたずらっぽさと、人には有り得ない無邪気な残忍さで。



「きみ、僕が魔精かもしれないと思ったんだろう?」



 悪魔に独特の笑顔のまま、マルコシアスが一歩前に踏み出した。



「確かに魔精なら、純銀にはまず近づきたがらない。

 精霊に対処させてもいいけれど、ここはひとつ、きみの誤解を解いておこう」



















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