02 招かれざる客
スプルーストンの大叔父の家に寄せられてから、シャーロットが得たものは三つある。
一つは、家出決行のために召喚した、マルコシアスという魔神。
もう一つは、例の誘拐騒動のあいだに知り合った少年から教わった、「期待外れを神さまと人に向かって言うのはナンセンス」という考え方。
そして最後の一つが、床を踏む足音への、異様に鋭敏な聴覚である。
なにしろ大叔父は気難しい。
前日の夜にシャーロットが立てたささやかな物音にすら、ねちねちと小言を垂らす。
つまり、大叔父が近付いてくる足音を災厄の前触れとして、いち早く察知する能力を、純然たる危機回避の本能からシャーロットは獲得していたのである。
大叔父が出かけて一時間ほどが過ぎたころ、シャーロットは自室の、決して座り心地がいいとはいえない――居心地よく座るには少し低すぎる――椅子に腰掛け、膝の上に置いた本の上に前屈みになるようにして没頭していたものを、ふと顔を上げて背筋を伸ばした。
何かが聞こえたというと語弊があるが、それは玄関扉が押し開かれる軋みが壁に伝わり、それがあらゆる壁や柱を伝って、かすかにシャーロットの耳や肌に届いた気配、といえなくもなかった。
「……大叔父さま?」
首を傾げる。
まだ大叔父が帰ってくるには早すぎるが、忘れ物を取りに戻ってきたというなら頷ける。
続いてシャーロットはしばらく耳を澄ませたが、特に自分を呼ぶ声もしない。
訝しく思いながらもシャーロットは膝の上の本に目を戻した。
しかし、なんとなく気になって没頭できない。
むっと顔をしかめ、さらにしばらくためらってから、シャーロットは息を吐いて本をデスクの上に置いた。
立ち上がると、その重心の移動を受けて床が軋んだ。
シャーロットは部屋から滑り出て、部屋の扉を開けたままにして廊下を歩いた。
狭い階段を降りて二階へ。
すり切れた絨毯の上を歩き、扉が等間隔に並ぶ埃まみれの廊下を進んで、玄関ホールへと続く大階段がある方へ――
そのとき、シャーロットは誰かの足音を聞いたのだった。
――違和感があった。
大叔父はゆっくりとした、足を引きずるような歩き方をする。
だが、この足音は素早かった。
気のせいだとも思えたが、見知らぬ誰かの足音である気がした。
そしてシャーロットは、今日に来客があるとは聞いていない。
(まあ、大叔父さまがそんな予定を教えてくださるかは別だけど……どっちにしろ、留守中にお客さまがいらっしゃるのも変な話だし)
ぴたりと足を止め、シャーロットはその場に根が生えたように立ち尽くした。
足許で床が呻くように軋んだ。
大階段に続く廊下は、シャーロットが立ち尽くしている廊下から、ひとつ角を折れた先にある。
誰かが足早に、足音を殺してこちらへ近づいて来ている。
だが、老朽化したこの屋敷の床の軋みは誤魔化せない。
床の軋みが近づいてきている、この足音は大叔父ではない!
頭で判断するよりも早く、シャーロットはちょうど自分の左手にあった部屋の扉に駆け寄り、焦るあまりにドアノブから手を滑らせながら、なんとか真鍮のドアノブをひねり、勢いよく部屋の中へ飛び込み、ドアを乱暴に押して閉めた。
部屋の中には、白い埃避けの布を被せられた背の高い調度品――何かの棚だろうか、布を被った状態では分からない――が、所狭しと詰め込まれている。
無秩序に置かれたそれらの間に、シャーロットは扉を注視したまま、後退るようにして身体をねじ込んでいき、身をひそめようとした。
窓にはことごとく、歳月によって裂けてぼろ布と化したカーテンが引かれており、差し込む光は断片的で、昼間とは思えないほど部屋の中は暗い。
――ふと、つい先日も、似たようなことがあったと思い出した。
あれは古い、打ち棄てられた学校の中だった。
誘拐されたシャーロットが一息ついていたところに足音が聞こえ、彼女をたいそう震え上がらせたものである。
結局それは、身よりのない痩せた少年――アーノルドであって、シャーロットは盛大な空振りを演じたに留まったのだが。
そのときのことを思い出してふと微笑んでから、シャーロットは真顔になった。
正直にいえば、彼女の脳裏に、「これは過剰な反応では?」と冷静に訴えてくる声もあった。
聞こえたと思った足音は空耳かもしれず、あるいはマルコシアスのものかもしれず、あるいは客人のものかもしれず、あるいは珍しく足早に歩いてきた大叔父のものかもしれない。
だが、直近で誘拐という憂き目に遭っていた彼女の記憶こそが、シャーロットに身を隠させていた。
(――まあこれが、エムの足音だったら絶好のからかいの種を与えてしまうことになるけれど)
そう思って仏頂面を見せたシャーロットだったが、本音をいえばその可能性はあまり考慮していなかった。
誘拐から生還し、この屋敷に戻されてからの十日あまり、マルコシアスは撞球室に籠もってばかりだ。どうやらチェスの指南書を読み漁っているらしい。
シャーロットは、彼女の胸までの高さのある調度品――埃避けの布を被せられているためにしかとは分からなかったが、どうやら戸棚であるようだった――の後ろに回り込み、鼻と口を手で覆って息をひそめ(というのも、まともに息をしたが最後、分厚く積もった埃を吸い込んで窒息しそうだったのだ)、その調度品の裏でしゃがみ込み、影から顔だけを出して、扉の方を窺った。
ぎぃ、ばたん、と、恐らくはこの部屋の隣室だろう扉が、ゆっくりと開かれて、それから――誰かが部屋の中に入って、その中を調べるくらいの時間はある間を置いて――閉じる音が聞こえた。
――シャーロットは大きく目を見開いた。
唐突に、心臓が激しく脈打ち始めた。
――確実に誰かがいる。
誰かがいて、恐らくはシャーロットが乱暴に閉めた扉の音が聞こえたのだろう――その音を立てた人間を捜している。
息が上がろうとするのを、必死にシャーロットは堪えた。
懸命に自分に言い聞かせる――大丈夫、大丈夫、こんなのは、召喚されて怒り狂った名無しの悪魔を前にすることに比べれば、なんということはない。
シャーロットは鼻と口を覆う右手の前腕を、左手で思いっ切りつねった。
少なくともこれで、多少は冷静でいられる気がした。
胸の中で心臓が宙返りしている。その音が耳の奥で反響していた。
気づけば指が細かく震えている。
いつの間にかシャーロットは、あの真夜中の学校で祈ったときと同じように祈っていた。
――どうか素通りして、この部屋に入ってこないで、廊下にいるのが誰であっても。
部屋のすぐ外で、古びた床が軋んだ。
シャーロットは思わずぎゅっと目を瞑り、しかしすぐに、視界が塞がれる恐怖に屈して目を見開いた。
息は止めていた。
はたして、ゆっくりと、扉が開いた。
シャーロットに最初に見えたのは、黒い革靴の爪先だった。
ドアノブをひねった誰かが、その爪先で蹴って、扉を全開にしたのだ。
古い蝶番が軋み、扉はぎこちない動きで大きく開いた。
しばらく、なんの動きもなかった。
シャーロットは凍りついたように動けなかった。
あの革靴は大叔父のものではない。
客人は扉を蹴って開けたりしない。
もしあれがマルコシアスであれば、この距離にいるのだ、召喚主であるシャーロットにはそれと分かるはずだ――あれはマルコシアスではない。
ややあって、扉を蹴り開けた誰かが、ゆっくりと部屋の中に足を踏み入れた。
戸棚の影に頭を引っ込め、シャーロットはばくばくと脈打つ心臓をかかえて身を縮めたが、すぐに自分の致命的なミスは既に犯されているのだと悟った。
――この部屋に分厚く積もった埃に、シャーロットの足跡が残っているはずだ。
――それが今日ついた足跡とは限らないじゃない?
と、シャーロットは思わず、心の中で侵入者と思しき相手に言い立てていた。
――昨日かも知れないし、一昨日かも知れない。気にすることはないんじゃないかしら?
だが、どうやら、この部屋に足を踏み入れたその何者かは、薄暗い中であってもその足跡を発見し、大いに気に掛けることに決めたらしかった。
ぎっ、と、短く、床が軋んだ。
シャーロットはきつく目を閉じた。
この部屋にいては袋小路だ。
一か八かだ、やるしかない。
床が軋む音に混じって、ごと、ごと、と、重い革靴が床を踏むとき特有の靴音が近づいてきた。
シャーロットは耳を澄ませ、今にも口から飛び出しそうなほどに脈打つ心臓を必死に宥めながら耐え、待ち、ついに間近に靴音が迫り――
――立ち上がると同時に、埃よけの布を目の前の戸棚から引き剥がし、跳ね上げるようにして目の前にいるその男――そうだ、男だった――の、顔面めがけて覆い被せた。
戸棚に体当たりしてそれを倒せるならばその方が良かったが、どうにもこの戸棚を倒す自信はなかったのだ。
男もこの不意打ちには驚いたのか、あるいはもうもうと舞い上がった埃が目に入ったのか、たたらを踏んで後退った。
布自体は軽く手で払われ、ばさりと音を立てて床に落ちたものの、一瞬ではあれ意表を突くことには成功した。
もはや一秒たりとも考えず、シャーロットはその脇を走り抜け、咄嗟にだろうか伸ばされた男の手を、半ばは勢いあまってその場で滑ったことが幸いして躱し、開け放されたままになっていた扉から、弾丸の勢いで廊下に走り出た。
男の手は、翻るように靡いた金髪を掠めるに留まった。
勢いがつき過ぎ、向かい側の壁にぶつかる。
その壁を押して、シャーロットはがむしゃらになって、正面玄関に通ずる大階段の方を目がけて走り出した。
慌てるあまりに膝が笑う。
あれは誰だ、そしてこの事態は何事だ!
悪態をつく声があって、すぐに背後から男が追い掛けてくる。
もはや足音を隠すこともしていない――シャーロットの軽い靴音に、男が立てる重厚な靴音が被さるあわただしい二重奏。
振り返っては駄目だと頭で分かってはいても、彼我の距離を知らない恐怖には勝てなかった。
シャーロットは振り返った。
そしてそこに、慣れた仕草で素早く走り、あと数秒とかからずに自分を捕まえるだろう男を見た。
シャーロットの目に映った男は真っ黒だった――上着も黒、ズボンも黒。表情や顔立ちまでは見られなかった。
シャーロットは悲鳴を上げ、このまま廊下を走ったところで捕まるのは時間の問題だと悟り、急転換して右手に見えたドアに体当たりした。
そうして部屋の中に転がり込むと、間髪入れずに両手でドアを押して閉め、天啓のように目に映った、鍵穴に差しっぱなしになっていた鍵をねじり、内側から施錠する。
そのときばかりは、「おお、神よ」という言葉が脳裏から湧き上がった。
鍵は錆びついていなかったのだ。
かちゃん、と、頼もしい音がした。
後ろから走ってきた男が、ドアの前で足を止めたのが分かった。
ドアと床の隙間からかすかに光が差し込んでいたが、それが男の影に遮られていた。
シャーロットはそろそろと鍵を鍵穴から抜き取って手の中に握り込み、鍵穴に顔を近づけて、廊下の様子を窺い知ろうとした。
男の黒い影が、落ち着かない様子でうろうろと歩き回っているのが、かろうじて見えた。
そして、声が聞こえた。
低い、くぐもった声だった。
「――シャーロット? シャーロット・ベイリー?」
シャーロットは震えたが、同時に怪訝に思いもした。
どうしてこの人は私の名前を知っている?
ここにいることは知られているのだ、答えても損はなかろう――と、シャーロットは口を開いた。
唇が震えて、声を出そうとしてもつかえた。
軽く咳払いしてから、彼女はかろうじて言った。
「……ど――どなたでしょう?」
「ああ、驚かせたね」
と、扉の向こうの彼は言った。
驚くほどおだやかな声音だった。
シャーロットはそろそろと扉から離れて後退り始めた。
周囲を見渡す。
そこは、思ったよりも広い部屋だった。
扉を正面にするシャーロットからみて、右側に広く部屋が広がっている。
昔は応接間として使われていたのかもしれない――大きな張り出し窓がいくつも開き、カーテンが床に落ちてしまっているものもあり、室内は先ほどの部屋に比べて明るい。
曇った窓硝子には亀裂が入っているものまであった。
天井からは古い錆びついたシャンデリアが下がり、足許にはもうもうと埃を巻き上げる絨毯が敷かれたままになっている。
部屋の中央にはローテーブルとチンツ張りのソファの応接セット――もちろん埃を被っている。
壁際には書棚が造りつけられており、シャーロットからみて右手の奥には暖炉があり、飾り立てられたマントルピースの前には、広々としたソファと鋲を打った安楽椅子が、ゆとりを持って置かれている。
柱時計もあったが、それはとうの昔に、三時五分の位置で針を止めていた。
シャーロットは頭のてっぺんから爪先まで震えながら、再度問い掛けた。
先ほどよりは大きな声が出た。
「どなたでしょう?」
「きみの大叔父さんを訪ねてきたんだ」
おだやかにそう言われて、シャーロットは戸惑った。
――スプルーストンの人たちでさえ、彼女とジェファーソン氏の続柄を知らない。
恐らくは祖父と孫と思われているだろう。
それを、彼は正確に「大叔父」と言った。
(……本当に、大叔父さまを訪ねてきただけの人?)
面喰らってシャーロットは考えた。
仮にそうだとすれば、この無礼な行いの数々が大叔父に知られると面倒なことになるだろう。
だが、ほんのわずかな警戒心が、彼女が扉に駆け寄って鍵を開けることを押し留めていた。
――客人にしては、彼の振る舞いはあまりにも不自然だ。
だいいち、客人が勝手に屋敷に入って来るはずがない。
それに、どうしてシャーロットの名前を知っているのかの説明がつかない。
シャーロットがここにいることを知っているのは、大叔父と父母だけのはずなのだ。
大叔父が、シャーロットの存在を客人に知らせるだろうか――むしろ彼ならば、「客がいるあいだは出てくるな」と言い含めて、彼女を部屋に閉じ込めそうなものだが。
シャーロットの警戒心を扉越しにも感じ取ったかのように、廊下で男は軽い笑い声を立てた。
「本当に驚かせてしまったみたいだね。いやね、大叔父さんからは、先に家に入っておくようにと言われていたのだけれど、姪孫さんがいらっしゃることを思い出して、ついからかいたくなってね」
シャーロットは震えながらも口を開いた。
「……誰から、私がここにいるとお聞きされたんですか?」
「――――」
扉の向こうで、男がしばし押し黙った。
シャーロットは更に一歩後退った。
もわ、と、足許から埃が巻き上がった。
窓硝子の亀裂から、ひゅうひゅうと音を立てて、風が吹き込んでいる。
ややあって、男が低い声でつぶやいた。
「――ってことは、やっぱりあんたがシャーロット・ベイリーってことね」
「――――?」
シャーロットは咄嗟に声が出なかった。
直後、ばんっ、と、凄まじい音がした。
目に映った光景の意味を、シャーロットはしばし理解できなかった――扉が開いている。
正確には、蝶番が外れてこちら側に倒れてきた。
鍵を掛けたはずなのに、どうして扉が開いているんだろう――という、違和感にも似た疑問が走る一瞬――
扉が絨毯を叩き、もうもうと埃が上がり、その向こうの男の姿をしばし霞ませた。
男が扉を蹴りつけて壊したのだ、と理解した瞬間、シャーロットの指から力が抜け、この部屋の鍵がぽとりと彼女の足許に落ちた。
しかしそれは何も、扉が強引に突破されたゆえではなかった。
男が、どう見ても穏当ではない、剥き出しの牛刀を右手に構えていたからだった。