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01 十日後

 陰鬱な雨が降っていた。


 雨粒は辛抱強くたつたつと窓硝子を叩き、曇った硝子であっても内側からも見て取れるだけの筋を作って流れていた。

 窓硝子はすっかり汚れて、桟の辺りは白くなってしまって、かろうじて透明さを保っているのは硝子面の真ん中の、かすかに歪んだ円形に見える部分だけだった。


 空気はすっかり湿気て、寒さはいっそう骨の髄まで忍び込むようだった。


 そのために、その撞球室の暖炉には火が入っていた。

 火はいかにも楽しげにぱちぱちとはぜ、ゆらめく明かりで周囲を温かく照らし出している。


 撞球室は広々としていたが、古さはいかんともしがたかった。


 撞球室の名にたがわず、中央には大きなビリヤード台があったが、長らく使われていないらしく、白い埃よけの布が被せられていた――だが、それもずいぶん昔の話らしい。

 かつて白かったその布は、すっかり黄ばみ、埃のためにに灰色じみて変色し、端が歳月によって引き裂かれたように破れている。


 壁際には古びたソファや椅子、しゃれた脚のついた遊戯盤が置かれていたが、そのそれぞれにも埃が積もっており、そして椅子に座るに当たっては、まずそれが体重に耐えうるか否かを確認しなければならないだろう。


 壁際にはまた、本棚もしつらえてあり、そこに並べられた本は見せかけのものではなく、実際に開いて読むことの出来る書籍だったが、それはその本を手に取って開こうと思う勇気があればこそである。

 本にも例外なく埃が積もっていたのだ。


 が、隙間なくびっしりと本の背表紙が並ぶその書棚に、今は一冊分の空きがあった。


 床には、埃が積もっていなかった――そして、一脚の椅子にも。


 その椅子には、一人の少年が悠然と脚を組んで腰掛けており、書棚から引っ張り出してきたらしき本を、膝の上で尊大に広げていた。


 真新しいブーツを履いており、温かそうな黒ずくめの服装、首には風変わりなストールを巻き、灰色の髪はいささか伸びっ放しのきらいがあった。前髪が目にかかっている。

 年のころは十四か五か、ひょろりと痩せていた。

 本のページを繰る指は、細く、少し骨ばっている。


 かれの名はマルコシアス。

 あるいは別に、本当の名前があったが、それを知る人間はただ一人であってあなたではない。


 そして、十四ほどの年ごろに見えて、実はそこに桁を二つ乗せたほどには、この人間界――「交叉点」と呼ばれることが多いが――と関わり合ってきた。


 かれは人間ではない、立派な悪魔である。

 悪魔の中でも階級の高い、魔神である。



 と、突然、勢いよく扉が開いた。

 勢いはよかったが音を立てないよう配慮されていた。


 マルコシアスはおだやかな仕草で顔を上げ、軽く首を傾げ、淡い金色の目を細めた。


「――やあ、ロッテ」


「エム、お前ね」


 たった今、撞球室に足を踏み入れた、ロッテと呼ばれた少女――シャーロットは、金髪を逆立てんばかりに怒っていた。


 彼女は(よわい)十四、これは裏も表もない、堂々たる十四歳である。

 橄欖石色の瞳を憤懣に光らせて、彼女は足音を忍ばせつつも激しい勢いで、くつろぐ魔神に詰め寄った。


 なお、彼女が呼んだ「エム」の呼称は、単なる愛称であってマルコシアスの本当の名ではない。


「もう十日も経ったわ。ずーっと本ばっかり読んで。

 いつになったら私の命令のために動いてくれるの」


 マルコシアスは欠伸を漏らしてみせた。


「そりゃ、仰せとあらばすぐにでも連れ出して差し上げますけどね、レディ。あんたの大叔父さんを怒らせたら火に油、あんたのお父さんだって、快く学院の学費は出してくれなくなるんじゃないの?

 だからほとぼりが冷めて、あんたに向かって光ってる大叔父さんの目が緩むのを、僕は気長に待ってるんだけど」


 シャーロットは顔を顰めた。


「気長にって、お前ね」


「ロッテ」


 苛立ったように彼女を遮って、マルコシアスは行儀悪くも開いた本のページの上に頬杖をついた。


 伸びっ放しの灰色の前髪の下で、半眼の淡い金色の瞳が呆れたようにシャーロットを見ている。


「リクニス学院の入学はいつ?」


「――九月」


「今はいつかな、レディ?」


「……二月」


「まだ時間はあるね」


 そっけなくそう言って、マルコシアスは再び本に目を落とした。


 シャーロットは十四歳に相応の膨れっ面を披露して、胸元を押さえた。

 衣服の襟の中に滑り込ませるようにして、彼女はそこに大きな銀の首飾りを下げている。


 その銀に包まれた遺物こそが、全悪魔の垂涎の的である『神の瞳』だった。


「お前、あんまり理不尽になまけていると、命令違反で報酬をあげないわよ」


「ほおーぅ?」


 マルコシアスが、面白がるように上目遣いで視線を上げた。

 淡い金色の目が、光源に拠らずに光った。


 かれの周りで、かれの従僕である精霊たちが、そわそわと動き回り始めた。


「ご主人さま、それは無理だ。あんたには召喚陣の強制力が働く」


「――――」


 おっしゃる通り。

 シャーロットはうなだれた。



 ――さて、この二人であるが、シャーロットを主である魔術師、マルコシアスをしもべである悪魔とする主従である。


 マルコシアスはこの交叉点(せかい)に通ずる三叉路の道のうち一つ、悪魔の(せかい)から召喚された。

 かれは、シャーロットが描いた召喚陣をくぐった際にこの交叉点(せかい)での常識を身に着け、シャーロットの命令に従う義務を負っている。


 シャーロットはその報酬として、マルコシアスが務めを果たしたときには、超特級の魔術の品である『神の瞳』をかれに与えると約束しており、これは口約束に留まらない。

 召喚陣の強制力により、シャーロットがマルコシアスの任の履行を認識したときには、この報酬は必ず支払われることになるのだ。


 悪魔が報酬を求めて魔術師のしもべに(くだ)るのには、かれらの熾烈な生存競争を背景とする事情があるのだが、それを知るのも、今やこの交叉点(せかい)にはシャーロットただ一人となっていた。


 そしてシャーロットがマルコシアスに下した命令こそが、「家に帰して」というものだった。



 ――つまるところ、ここは彼女の家ではない。彼女の母方の大叔父の屋敷なのである。

 彼女は国でも有数の難関、魔術教育の世界最高学府であるリクニス専門学院の切符を独力でもぎ取り、そしてもぎ取った直後に、彼女の父の意向によりそれを取り上げられ、この屋敷に身を寄せるよう、理由も告げずに言い渡された。


 目的のためにはいかなる困難をも蹴飛ばし乗り越える気概のあるシャーロットはそれを良しとせず、免許されていない魔術を行使し、マルコシアスを呼び出したのである。


 ここで特にマルコシアスを選んだ理由には、彼女のセンチメンタルなあこがれがあった。



 かつては人間もまた、この交叉点(せかい)に通じる三叉路の一つに棲んでいたとのことだったが、それは昔日の話である。

 今となっては人間は、この交叉点(せかい)の決まりに従う。


 そしてこの交叉点に通ずる(せかい)の一つ、悪魔の道に住まうのが悪魔である。

 悪魔はこの交叉点(せかい)に呼び出されてなお、かれらの(せかい)の決まりを行使することが出来る。


 人間が悪魔の力を借りること――呪文を用いて一時的にかれらの力を借り、あるいは召喚陣と呪文を用いてかれら自身を召喚してしもべとすること――を、魔術という。

 一方、悪魔が行う不可思議な力の行使を魔法という。



 シャーロットはむろん、マルコシアスの悪魔の力を期待してかれを召喚した。

 そもそも彼女の計画では、かれを召喚してすぐに、家出を決行して生家に戻る心算だったのだ。


 それが、不幸極まりない誘拐に遭ったために叶わず、現在に至る。


 シャーロットの「誘拐に遭った」という主張は子供の悪ふざけとして一蹴され(事実、なんの証拠もなんの目撃証言もなかった)、今はマルコシアスの言葉どおり、彼女の大叔父は平時以上に彼女に目を光らせている状態なのである。


 リクニス学院とて無償で全ての学徒に門戸を開いているのではない。

 シャーロットの目的を考えれば、彼女の父の機嫌を損ねないことは最低限に守るべき一線であった。


 つまり、「ほとぼりが冷めるのを待て」というマルコシアスの言葉は正しい。


 正しいのだが――



「――そろそろ大叔父さまに呼びつけられそうだから、戻るわ」


 入ってきたときの威勢の良さはどこへやら、しょんぼりとうなだれてシャーロットはつぶやき、癖になっている注意をマルコシアスに向けた。


「大叔父さまに見つからないようにね」


「うん」


 マルコシアスは本に目を落とし、あいまいな生返事でそれに答えた。


 シャーロットは溜息を吐き、ゆっくりと、足を引きずるようにして撞球室から出ていった。


 彼女が扉を閉め切らないうちに、「シャーロット! シャーロット・ベイリー!」とけたたましく彼女を呼ぶ、老いた声が甲高く廊下の空気を伝ってきた。

 廊下に出たシャーロットは、見るからに嫌そうに顔を顰めた――例の家出未遂からこちら、大叔父はことあるごとに彼女を呼びつけて、雑用を言いつけるようになっている。



 シャーロットが一日も早い帰宅にこだわる理由の一つに、ここではとても勉学に励めない――ということがあった。


 リクニス専門学院は、入学試験の合否発表から実際の入学までに一年近い空白を設けている。

 この空白はとりもなおさず、入学許可を得てから入学までのあいだに、よりいっそう自己研鑽に励むためのものなのだ。


 つまり、このままこの町――スプルーストンでのらくらと過ごしていては、たとえリクニスに入学できたにせよ、最初から同輩たちに大きな差をつけられて学院生活を始めることになってしまうのだ。


 実際をいえば、十四歳でリクニス学院への入学許可を得ることこそが異例中の異例であり、それはシャーロットの類稀なる才覚の一つの証左であったが、裏を返せばシャーロットの前には、まだ読んでいない書籍や論文が、他の同輩に比べてうずたかく積み上げられているようなもの、ともいえた。


 ゆえにシャーロットが焦るのもある意味では当然だったが、こちらも当然ながら、マルコシアスはその事情は察知していなかった。

 かれは耳に突き刺さるような老人の大声に眉を寄せたのみで、ちらりとも顔を上げずに読書に没頭していた。



 たつたつと雨粒が曇った窓硝子を叩いている。



 そこに別の、硬質な音が混じったような気がして、マルコシアスはふと顔を上げた。


 それはたとえば、鳥のくちばしが窓硝子に軽く触れたような、そんな音だった。

 あるいは雨粒の中に小さな氷が混じっていたか。


 マルコシアスは撞球室にいくつか並ぶ古風な窓を、順番に目で追っていった。


 その外側には、陰気な雨の銀幕が広がるばかりで、何の影もなかった。


 もし仮に、だれかが窓の外から曇った硝子を通してマルコシアスを見ていれば、さも暖かそうに照らされた部屋の中で、神妙そうに生真面目な顔をするかれの表情が見えたはずである。



 瞬きし、首を傾げ、それからマルコシアスは本から片手を離した。


 その指を、手品の前触れのように軽く振る。


 目に見える変化は何もなかったが、マルコシアスはその指先にふわふわと集まる精霊たちに、小声で端的に命令を下していた。



「――いちおう、ロッテの様子を見ておいて」





▷○◁





 シャーロットの大叔父、ジャック・ジェファーソンの一日の流れはおおむねこんなところである。


 夜明け前に起床し、三十オンスのブリキ缶を玄関前に出す。そして書斎に移動して、しばらくぼんやりとして過ごす。

 彼が沈思からわれに返るころには、勤勉な牛乳配達員(ミルクマン)がこの辺りを馬車で巡り終え、彼らの大きなブリキ缶から、ジェファーソン氏が玄関先に出しておいたブリキ缶に、なみなみとミルクを注ぎ終えている。

 ジェファーソン氏は大儀そうに玄関先に出て、屈んでブリキ缶を持ち上げて、キッチンに向かう。

 その昔は食堂も使われていたのだが、今では食堂はすっかり埃に埋もれてしまっているのだ。

 そのため彼は、キッチンで料理のみをこなし、書斎で食事を済ませるようになっていた。

 ジェファーソン氏はミルクをコップに注ぎ、溜息を吐いて書斎に戻ると、パンとチーズの冷たい朝食を摂る。

 そのあと彼は年代物の安楽椅子に腰掛けて、つらつらと昔日のことを考えながら過ごす。

 昼ごろには外に出て、周囲を散策するついでに、当面必要になる食材などを買い求めるために、スプルーストンの片隅に開かれる(いち)へと出かけていく。

 そして夕方ごろに戻ってきて、温かいスープやシチューなどをこしらえて夕食にする。


 シャーロットがやって来てから、ジェファーソン氏の一日の流れは少しずつ変化した。


 それはたとえば、牛乳配達員がブリキ缶にミルクを満たしたあとにそれを回収する役目がシャーロットのものになったということ(例の家出未遂のときには、この任務を遂行しなかったことがシャーロットの不在を大叔父に知らせる結果となっていたのだ)。

 食事の支度がシャーロットの担当になったということ。

 キッチンの片隅が片づけられて、そこでシャーロットが食事を摂るようになったこと。

 出かけている間にシャーロットが逃亡しては一大事と、出かける頻度を変え、可能な限り屋敷に留まるようになったということ。出かけるときには必ず、シャーロットに何がしかの用事を言いつけておき、シャーロットが屋敷を抜け出さないよう気を配るようになったということだった。


 そして例の誘拐事件以降は、ジェファーソン氏が在宅しているときであっても、彼はシャーロットにこまごまとした用事を言いつけるようになっているというわけだった。



 そしてその日、ジェファーソン氏は時代遅れの格好に、毛羽立った茶色い外套を着込み、これまた毛羽立った深緑色の中折れ帽子を被って、外出の支度をととのえた。

 日用の買い出しのためである。


 彼はシャーロットを呼びつけ、くどくどと、彼女がもはやその文句を暗唱できるようになるのではないかと思えるほどには繰り返し繰り返し、「二度と言いつけに背いて脱走しようなどとは思わないよう」と言い含めた。


 シャーロットは神妙にそれを拝聴したものの、内心は苛立ちに煮えくり返っていた。


 とはいえ数年後には、彼女もこのときの大叔父の声音を思い出しては、そこに疲労を感じ取る程度には成長して、彼もまた、金銭的な借りという弱みを握られたシャーロットの父からの、「娘を預かってほしい」という頼み事に、安穏として定型的な日常を壊され、相当に疲弊していたのだろうと察することになるのだが。

 とはいえ現在、十四歳のシャーロットに、その考えに至る精神的な余裕はまだなかった。



 ようやく大叔父が玄関扉をくぐり抜け、寒そうに身を竦めながら庭を抜けていくのを見守って、シャーロットは大きく溜息を吐いて重たい玄関扉を閉めた。


 昼前ではあっても、明かり取りの窓さえ汚れて曇っている玄関ホールは薄暗い。

 そして火の気もないために、真冬の空気の冷たさそのままに冷え切っていた。


 シャーロットは寒さに身ぶるいして、両手の指先に()()()と息を吹きかけて両手指を握り合わせると、足早に自分にあてがわれた部屋へ戻った。


 大叔父に呼びつけられないことが保障されている時間は、生家から持ち込んだ本を読むことが彼女の唯一の楽しみになっていた。



 シャーロットは玄関ホールから去った。



 この長閑な田舎にあって、もちろん玄関扉に錠は下ろさなかった。



















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