01 召喚
彼女は薄暗い硝子を覗き込んでいた――いや、薄暗いのはあくまでもその硝子窓の外に広がる曇天の早朝であり、硝子そのものではなかったのだが。
しかしながら彼女にとっては、その硝子窓そのものが人生の終着点のようにさえ見えていた。
この部屋は二階にあり、広々とした庭園――実際、庭園と田園との境目などは無いも同然だった――、申し訳程度に境界線を示す古びた石壁、そしてその石壁を覆い尽くさんとするように繁るあらゆる草木、遠目に見える隣家――隣家もまた、壁の一部は蔦に覆われているようだった――、そういったものが、もう少し周囲が明るくなれば見られるはずだった。
とはいえ今は、薄暗い上に霧が出ており、少女の見つめる先にはただの暗澹たる薄暗がり、あるいは彼女自身の姿があるのみだったのだが。
室内には硝子の覆いを被せられたオイルランプが点っており、十分とはいえないまでも明るく、またそのランプは彼女が佇むすぐ傍の小さな――がたついた――テーブルに置かれていたことから、薄汚れた硝子は頼りない鏡のように彼女の姿を反射していた。
十四歳の生真面目で憂鬱そうな顔が、硝子の向こうをじっと見ている。
整えてやれば癖のない長い金髪は、今は寝癖もそのままにところどころ絡まって背中に流されていたが、既に彼女は着替えを済ませていた――濃茶色のモスリンの日用ドレス、ふんわりした袖は七分丈で白いレースで飾られており、腰の後ろで大きなリボンを留めるものだ。
丈は短く足首程度で、裾にはやはり白いレースが縫い付けられている。
橄欖石によく似た明るい緑の眼差しは、今は窓の外のどことも知れぬ場所を睨み据えることに使われていた。
リンキーズ――あの憐れな魔精、七人もの魔神に追い立てられていた鷹――が彼女の顔を見れば、あっと声を上げたに違いない。
彼女こそ、あの銀の首飾りを拾い上げた少女だった。
実際にここで声を上げた者はいなかったが、しかしそのとき、少女は短く息を吸い込み、手を伸ばした。
オイルランプの傍に置かれていた、物々しい銀の首飾り――まさに、それがためにリンキーズが七人もの魔神に追い立てられていたものである――を、彼女は慎重な手付きで持ち上げた。
しゃら、と銀鎖が音を立て、彼女は束の間、その些細な音にも身を竦めたようだった――
――この挙動、ささやかな音にすら身を竦めてしまう動揺は、家出を決行する寸前に特有のものだった。
証拠は部屋の隅にもあった――その部屋は、さして広くもなく、長いあいだ空き部屋になっていたことを窺わせる埃っぽさを持ち、深い色の板木の床は歩けば軋み、窓の傍に置かれている小さなテーブルを除く調度品には悉く白い埃避けの布が掛けられ、壁紙はすっかり黄ばみ、天井から下がる小さなシャンデリアには埃が積もり、長く磨かれなかったシャンデリアは錆びて変色していた。
そんな部屋の隅に、真新しいトランクが開けられたまま置かれているのである。
トランクの中には、少女のものと思しきドレスや寝間着が数着、装丁の立派な分厚い本が数冊、几帳面に畳んだり角を揃えられたりして詰め込まれていた。
実はこのとき彼女は、肝心の現金を詰め込んだ財布を自室に置き忘れているのだが、それはあと十数分で判明する事実である。
窓の外は寒風吹き荒ぶ冬、少女の格好はやや心許ないように見えるが、少女もそれは自覚していたと見える。
開けっ放しのトランクの上には、灰色のウールの外套が、こればかりは几帳面さもなく、無造作に掛けられていた。
オイルランプの傍に、首飾りの他にもう一つ置かれているものがあった。
本だ。
細かい文字が詰め込まれ、図形と図解を多用するその本を、少女は最後の確認と言わんばかりに覗き込み、顔を下げた拍子に頬に掛かった金髪を、鬱陶しそうに耳に掛けた。
首飾りを握り締めたまま、小声で何かをつぶやきつつ、少女が細かい文字を空いている方の手の指先で辿る。
そして振り返って、床を――いや、正確には、床に描かれた召喚陣を見つめた。
――白墨で神経質に描かれた召喚陣は、当然ながら、大枠を見れば二つの円だった。
決められたある一点で正確に接する、大小二つの円――小さな円を囲む文字は、これも正確に綴られた、守護と約束の履行を表す文字だった。
同じ文字で、しかし異なった――より重要でより膨大な内容を取り決める文字が、大きな円を囲んでびっしりと描かれている。
召喚する対象によっては、大きな円の中に更に同心円を描いたり、あるいは菱形を描いたりしなければならないものだが、今回の少女の目的の対象に、それは不要だった。
文字――文字である。これが非常に重要なのだった。
この場合の文字は、人間が日常に使うアルファベットとは全く別のものだった。
五つの表意文字と無数の表向文字、そして記号から成る。
この〝交叉点〟において、交叉点を覗き込む他の道に意味を伝えるためのものであったのだ。
「交叉点」――あらゆる文献は、常にこの世界をそう喩えてきた。
この世界は三つの道が交わる交叉点そのものである、と。
三つの道とはすなわち三つの世界、人の世界、悪魔の世界、そして神の世界である。
しかしながら三つの道のうち一つ、人間の道――人間の世界については、今となってはがら空きであることに疑いの余地はないが。
また神の世界についても、賢明なる悪魔たちの証言によれば、現在も変わらず神のものであると断言は出来ないようであったが。
――三つの道において、それぞれの種類のものは自由に生きており、肉体の縛りもなく闊達に在るが、しかしながらこの世界、この交叉点においては、存在に際し肉体が求められる。
かつては人間もまた、肉体の縛りなく自由に生き、この交叉点においてのみ肉体を纏っていたが、あるとき――有史以前のあるときに、人間はこの交叉点からの抜け出し方を忘れてしまった。
以来、人間はこの交叉点に腰を据え、ここを開拓してきた。
そして人間は、忘れてしまった他の道、他の世界を覗き込み――そこから客人をしもべとして招いて、彼らの力を使うようになった。
――それを魔術という。
魔術とは、異界ともいえるところの、この交叉点から覗く他の道――その住人、主に悪魔であるが、それらの力を借り受けることを言う。
呪文を用いてかれらの力、かれらの魔法のみを借り受けることもあり、あるいは召喚陣と呪文を用いてかれらそのものをこちら側に召喚し、報酬を示して主従の契約を交わし、その報酬の範囲においてかれらを使役することもあった。
――ある一定の場合において、召喚陣は極めて簡便なものとすることも出来るのだが、それは今、この金髪の少女が行おうとしていることとは直接の関連はない。
そして、魔術において重要なものが、この文字だった。
この文字は、悪魔の道、悪魔の世界に言葉を届けるためのものである。
つまるところが悪魔の言葉のための文字である。
長い長い時間を掛けて、魔術師たちは、悪魔の言葉を学んできた――そしてその音律は、幸いにも、人間の舌によっても正確になぞらえることが出来るものであった。
だが召喚において、複数の了解事項を長々と読み上げることは現実的ではなかった。
人間であっても契約書を使う。
そのために文字が必要になった。
人間が使うアルファベットにおいては表現できない言葉を表すための文字が。
悪魔にも意味のあるものとして見える文字が五つ発見された。
そしてその文字に、如何なる手を加えれば、更なる別の意味を持たせられるのか――それが研究され、無数の表向文字が発見された。
そして記号で、文字列に文脈を与える手法が開発された。
それらは、確立されたものの、煩雑で難解な手法だった――ゆえに今日においても、魔術師の数は非常に限られている。
そして魔術師であっても、場合ごとに必要になる呪文や召喚陣を丸暗記している者は少なくなく、悪魔の言葉の意味を理解しているものとなると、いっそう貴重だった。
――だが、それこそが召喚陣の理論である。
少女は、なにゆえにこの交叉点に目を持たぬ悪魔にこの召喚陣が見えるのか、また、なぜこの召喚陣の存在を知らせる合図の呪文の声がかれらに届くのかは知らなかった。
そしてまた、そのことに理由があるはずだということにすら――世の殆どの魔術師と同じように――思い至ってはいなかった。
それを知っている者はごく少数に限られ、そしてその悉くが既に死に絶えていたのである。
この少女は、この数日中に、その理由を知る希少な一人となる――だがそれも、今の彼女には知る由もないことだった。
少女は神経質な目で、彼女自身が白墨で床に描いた召喚陣を、最後の確認のために点検しているところだった。
――先にいってしまえば、この少女は、ある重要な要素を見落としていた。
彼女が今このときにそれに気づいていれば、恐らく彼女の人生は大きく変わっていたことだろうが、彼女はその見落としに気づかぬまま、ぱたん、と本を閉じた。
彼女は窓際を離れ、その本をトランクに詰め込んだ。
そして召喚陣に外側から近付き、召喚陣の最も大切な部分である“シジル”――悪魔ごとに固有の印章、つまるところそれは悪魔の名前を表す確立された文字の組み合わせを印章の形に落とし込んだものだったが――を、跪いてもう一度確認した。
彼女はその悪魔の名前をつぶやき、そして無意識の独り言を漏らした。
「トンプソンの証言の悪魔……」
それから彼女は立ち上がり、ドレスの膝辺りを払いながら、もう一度、召喚陣のうち大きな円を囲む文字列を確認していった――
主従の契約のための文言、言葉の変換のための文言(これがあるからこそ、召喚された悪魔は人に分かる言葉を話すのだ)、悪魔に人間の常識と世相を予め刷り込むための文言(これがあるからこそ、久方ぶりに召喚された悪魔であっても、馬車や汽車に仰天したりしないのだ)、幾つかの、より強力な強制力を持つ呪文を定める文言(〈退去の呪文〉が最も重要とされてきた。悪魔がふと気まぐれで悪事を働こうとしたとき、一声で悪魔を任意の場所から引き離す呪文である)、二度目の召喚があった場合には、この契約の決め事を引き継ぐよう定める文言、
――幾つかの文言を確認した彼女は、小さく首を傾げた。
やはり、何かが足りない気がしたのだ。
だがそのとき、彼女の耳が遠くの床が軋む音を捉えた。
(大叔父さまが目を覚ましたんだ!)
彼女は慌てて、最後のその、非常に重要なものとなるはずだった数秒の思考を放棄した。
彼女は召喚陣のうち、小さな方の円にそそくさと入り、胸の前で銀の首飾りをぎゅっと握り締めた。
その数秒を、彼女は有意義な思考ではなく、無意味な自己正当化の言い訳を胸中で並べるために使った。
彼女は息を吸い込んだ。
最後に口の中で小さく確認してから、彼女は口を開け、決められた言葉を――この召喚陣を、相手の悪魔に認識させるための最後の引き金となる呪文、かれらの言葉での呼びかけを――慎重に、はっきりと口に出した。
――変化は顕著だった。
白墨で描かれた召喚陣が銀色に輝き、綴られた文字全てが白いほどに透明に煌めいた。
召喚陣のうち大きな円の中に、どこからともなく、たちまちのうちに煙が凝った。
煙は濃灰色を呈している。
少女がはっと息を呑み、喜色満面にして爪先立ちになり――すぐに、煙を嫌って顔を背けた。
煙の中に影が立ち上がった。
それは四つ足の生き物が、一時的に後肢で立ち上がったがゆえの丈高さであった。
見上げるほど巨大な影で、それは天井に頭をぶつけんばかりだった。
少女が一瞬、しまった、という顔をした――彼女はシャンデリアの位置を考慮していなかったのだ。
召喚されたものにぶつかったシャンデリアが激しく揺れ、ぎぃぎぃと軋んだが、錆びついているがために、立てた音は非常に微かなものに収まった。
煙の中で、そのものの前肢が床を踏んだ。
かちっ、と、長い爪が板木の床を叩く音が聞こえた。
不機嫌な唸り声が長く続いた――どうやら、召喚直後に頭をぶつけたことがお気に召さなかったと見える。
召喚陣の中から煙が薄れていった――ただ、微細なきらめきが夥しい数で召喚陣の上に漂った。
喩えるならばそれは、召喚陣が真上から陽光に照射されていて、その光に無数の埃が舞うのが見えるような、そういう光景だった。
召喚陣の上にいたのは黒い毛並みを持つ狼だった。
ただし、ただの狼ではない。
巨大な翼を広げており、ゆらゆらと揺らされている尾はそれそのものが大蛇だった。
狼が欠伸をするように口を開け、その拍子にその口内から炎が溢れ出した。
少女は動揺しなかった。
文献でこの姿を予期していたということもあったが、それよりも大きな要因としては、彼女は煙たいのを嫌って目を細め、半ば以上瞼を閉じていたのである。
彼女は心持ち大きな声で、次の言葉を発した。
つまり、相手に人間の姿を取るよう要求したのだ。
これは一種のお決まりの流れだった。
狼は肩を竦めるような仕草をした。
一瞬後、狼の姿はくるりと裏返り、そして異なる面を見せるが如くに変化し、そこには少年が立っていた。
年のころは少女と変わりない十四か十五程度とみえ、ひょろりと痩せている。
目許が隠れるような無頓着に伸ばされた灰色の髪を備えており、生成りの貫頭衣を身に着けていて、裸足だった。
かれは前髪の奥から、矯めつ眇めつするように少女を眺めていた。
そしてわざとらしく頭を擦り、溜息を吐いた。
微細なきらめきは、なおも少年を照らし出すかの如くに漂っている。
少女も、今や完全に煙が消え去ったことを認め(どこに消え去ったのかは不明だった。何しろこの部屋は閉め切られていたのだ)、少年――悪魔に向き直っていた。
少年が、軽く両手を広げた――が、その指先たりとも、輝く召喚陣の上から出ることは出来ないものだった――、そして言った。
召喚陣の上に立った今はもう、その言葉は人間のものとして聞こえるようになっていた。
「――さて、召喚者、要請者、僕の主人たろうとする魔術師さん。
僕に頭をぶつけさせたことは不快だが、これは約束事だ。あんたの望みと報酬を聞こう。
あんたの髪かな、声かな、あるいは爪かな。
報酬しだいで僕は頷いて、務めを果たすまであんたのしもべになろう」
少女は一瞬、気まずそうな顔をした。
シャンデリアの位置を考慮しなかったことを、彼女も人並みに申し訳なく思っていたのである。
だがすぐに、その表情を呑み込んで、少女は決然と背筋を伸ばした。
彼女はぎゅっと銀の首飾りを抱き締め、そして足を踏ん張り、はっきりと言った。
「――魔神マルコシアス、お前が務めを果たしたときにはこれを、」
少女が、銀の首飾りを突き付けるようにした。
召喚陣の光を受けて、銀がつやつやと照るように煌めいた。
少女の動作も、召喚陣の線を越えぬよう、細心の注意が払われていた。
召喚陣の主である少女は、自由にこの輝く線を越えることが出来るのだが、このとき、報酬を大きな円の内側に持っていってしまえば、悪魔はそれを奪い取ることが出来るようになってしまう。
少年の形をした悪魔は、大きな円陣の中でわざとらしくも背伸びをして、その品物をよく見ようとする風情を見せた。
――そして凍りついた。
目を見開き、ぽかんとして、差し出されたその品物を凝視している。
少年の姿を照らす微細なきらめきが、その悪魔の仰天を感じ取ったかの如くにさざめいた。
少年の様子を見て、少女は微笑んだ。
橄欖石の瞳は召喚陣の光を受け、きらきらと煌めいている。
勝気な笑みに笑窪が浮かぶ。
そして彼女は高らかに告げた。
「この、『神の瞳』を差し上げるわ」
魔神はまじまじとその歴史的な遺物を眺め、そして呆れた様子で首を振った。
「なんとなんと、まさかお目に掛かれる品とはね。
この三百年余り、これほど価値のある報酬を差し出す主はいなかった――認めよう。
これほどのものを示されては、僕はあんたのしもべとなるより他ないが、では、」
悪魔は少女を見遣った。
微細なきらめきを映して光る、その瞳の色は淡い金色だった。
「――では、乳臭いご主人さま、あんたの望みはなんだろう?」
少女は胸を張った。
溌剌とした怒りでその若い眉間に皺が寄った。
彼女は断言した。
「乳臭いとは失礼ね。私はもう立派なレディなの。
――魔神マルコシアス、命令よ――」
彼女は息を吸い込んだ。
燃えるような反抗心を橄欖石の瞳に光らせて、彼女は命令を下した。
「――私を家に帰してちょうだい!!」