18 名前
「――やあ」
マルコシアスは探るようにつぶやいた。
白いオウムは、オウムそのものの仕草で頭を上下させた。
実際にかれが忠実にオウムを真似ているのだとすれば、かれは腹を立ててはいないようだった――冠羽はおだやかに後頭部に倒れたままになっていた。
「やあ」
オウムも応じた。
マルコシアスは慎重に微笑んだ。
――かれの報酬である『神の瞳』は、シャーロットが持っているはずだ。
このオウムに存在を悟られると面倒なことになる。
このオウムは間違いなく、マルコシアスよりも上位の魔神だ。
「あんた――どこかで会った?」
「会ったにせよ、覚えてはいないね」
マルコシアスは一歩前に出た。
オウムはくろい目でそれを見守った。
「その子、今の僕の主人なんだ。そばに寄ってもいいかな」
「構わないよ」
オウムは頓着なく答え、古い樹皮を思わせる質感の片脚を持ち上げ、本物の鳥のような仕草で頭を掻いた。
その足指の一本たりとも、濡れた砂を纏いつかせていないことに、マルコシアスはもちろん気づいた。
それからオウムは、もう一度頭を上下させた。
冠羽が重たげに揺れる。
マルコシアスはさらに一歩踏み出しながら、曖昧に首を傾げた。
「あんた、その子を誘拐した魔術師に仕えてるの?」
「まさか!」
オウムは笑うような声を出した。
実際、オウムの喉からはオウム独特の、しわがれた声もまた漏れていた。
「僕があれの手に負えるはずないだろう。
きみこそ意外だな、そんなに位は低くないみたいだけど、こんな小さな子に仕えるなんて」
「まあ――」
マルコシアスは肩を竦めた。
「――その子、小さいなりに肝の据わった向こう見ずな無鉄砲だ。
そこそこ気に入り始めた」
「そうか」
オウムは言って、まっくろな目でマルコシアスを見上げた。
古い石のような質感の、欠けのある灰色のくちばしがぎょりぎょりと音を立てた。
「この件に関して、僕に提示されている報酬は破格のものなんだ。
だからちょっときみに物申さねばならないわけだけれど――」
「――そりゃ奇遇だな」
マルコシアスはつぶやいたが、オウムはそれには興味を示さなかった。
ゆすり上げるように翼を軽く持ち上げてから、オウムはあっさりと言った。
「この子のことについては、今は別にいいんだ。僕としても、不憫な同胞を送り返すのに一役買ってくれたことへの感謝がないわけじゃない。
――ただ、後ろで引っ繰り返っている魔術師の身柄をきみに渡せない。そのもっと後ろにいる子供もね」
「……子供?」
マルコシアスはつぶやいたが、頓着している場合でもなかった。
『神の瞳』の存在を察知してしまえば、このオウムが命令違反も上等として、その場でマルコシアスを亡き者にしようとしても不思議ではない。
「亡き者に」というのは、無論のこと言葉の綾ではあるが。
そのため、かれは性急にうなずいた。
両手も挙げてみせた。
「分かった分かった。後ろで引っ繰り返っている間抜けはあんたがどうにでもしな。
僕はそれより上等な腕の、その子の面倒を見られればいいから」
「ご理解いただけて何よりだ」
満足げにそう言って、オウムは翼を広げて、実際のオウムよりも軽やかで優雅な動きで羽ばたき、舞い上がった。
マルコシアスの頭の上をゆっくりと旋回して、浜辺の奥へと向かう。
マルコシアスは用心深くそれを目で追って、かれの白い影が、砂の上で伸びている例の魔術師のそばに降り立つのを見守った。
犬の姿の魔精が、すっかり怯んで砂の上を後退っている。
かれらが何事もなく姿を消してから(魔術師は気絶したまま、宙に吊り上げられるようにして運ばれたようだった)、マルコシアスはようやく、かれの主人が砂に長く突っ込んだままでいると窒息する危険があることに思い至った。
かれは足早にシャーロットに歩み寄り、彼女を引っ張り起こした。
気を失ったままのシャーロットの首が、かくん、と揺れた。
マルコシアスは少し考えた。
――何も、ここで波に濡れ潮風に吹かれながら、シャーロットの目が覚めるのを待つ必要もないだろう。
▷○◁
シャーロットは、ぽかりと目を開けた。
目の前が真っ暗だった。
(私、死んだんだ!)
早とちりな彼女の頭の中にそんな声が鳴り響いたが、怪我をした足はなおもずきずきと痛んでいる。
死んでまで痛みがあるはずがない。
寒さに手足がかじかんでいた。
目を凝らすと、遠くに星明りが見えた。
その星明りを切り取って、松の梢が影になって見えている。
「――――」
シャーロットは数秒のあいだ、茫然として瞬きを繰り返した。
そんな彼女の視界に、ひょい、とマルコシアスの顔が現れた。
下を向いて彼女を覗き込んでいる都合上、かれの長い前髪が垂れていた。
暗い中にあっても、不思議とはっきりとその目鼻立ちを捉えることが出来る。
「――あ、起きたの」
のんきな声をかけられて、シャーロットはぱち、と瞬きし――
――がばっ、と、勢いよく身体を起こした。
あやうく彼女の頭突きを喰らいそうになったマルコシアスが、わざとらしい驚きに目を瞠って、すばやく身体を引いた。
そしてまじまじと彼女を眺めると、顎を撫でた。
「元気そうだね。何よりだ」
「エム! どうなったの!?」
詰め寄るシャーロットを、まあまあと宥めるように両手を突き出して落ち着かせながら、マルコシアスは真面目くさって答えた。
「もちろん、わが兄弟は無事に帰ったよ。ロッテ、あんたの機転のおかげだね」
「違うっ」
シャーロットは叫んだ。
「誘拐犯! あの魔術師さんが誘拐犯だったんじゃないの!?
彼はどこ!? 私を連れて帰ってもらわなきゃ!」
マルコシアスは腕を組んで、しみじみと頷いた。
「――あんた、本当に、――その目的に向かって邁進する、向こう見ずで無鉄砲なところ、いいと思うよ」
「皮肉は要らないから!」
「褒めてるっていうのに。
――で、ええと、あの魔術師だっけ?」
少し不貞腐れたようにそう言って、マルコシアスは肩を竦めた。
「逃げられたね」
「逃げた?」
シャーロットは茫然と尋ね返し、橄欖石の色の瞳を瞠って、まじまじとマルコシアスを観察した。
「逃げた……?」
「逃げたね」
マルコシアスは繰り返し、あっさりと言った。
「なにしろ、僕は気絶したあんたを守らなくちゃならなかったから」
「〈身代わりの契約〉はないんだから!
気を利かせて、私を放ってあっちの確保に動きなさいよ!」
魂の叫びを上げるシャーロットに、マルコシアスは珍獣を見る目を向けた。
「そういうこと、よく言うね」
シャーロットはその場にぺたんと座り直し、身体の前に手を突いてがっくりとうなだれた。
「もう……もう……どうして……」
「まあ、そう気を落とさずに」
マルコシアスは軽やかに言って、少し移動して、シャーロットの隣で彼女に肩を並べて地面に座った。
おだやかな風が吹き、松林はざわざわと幾千幾万の枝を揺らしている。
「それより、明るくなったら僕に汽車の駅か、乗合馬車の駅か、あるいは電話を探すように命令しなよ。
誘拐されたんだって言えば、あんたのお父さんもさすがに、あんたを心配して手許に戻してくれるんじゃない?」
シャーロットは顔を上げた。
乾いた砂が、ぱらぱらとその髪から落ちた。
片手を持ち上げてゆっくりと髪を梳きつつ、シャーロットは徐々に表情を明るくする。
「――そうね……そうね、そうよ!」
主人の機嫌が回復したことを確認して、マルコシアスはやれやれと息を吐いた。
シャーロットは手櫛で髪を梳いて、おおむねの砂埃を落とし終わった上で、過ぎ去った災難を思って溜息を吐いた。
「まったく、なんで私なんかを誘拐したのかしら。スプルーストンって、今はもうお金持ちがいるような町じゃないのよ。身代金だって高が知れているでしょうに、こんな大騒ぎまで起こして」
マルコシアスは肩を竦めた。
オウムの姿をした魔神のことを少し考えたが、まあいいかと思い直す。
シャーロットを家に送り届けさえすれば、かれは晴れて『神の瞳』を手にして自由の身だ。
そのあとのことは関係あるまい。
「まあ、あんたが小綺麗な恰好をしてたからじゃない?」
シャーロットは無言で、夜陰の中で自分の格好を見下ろした。
茶色い日用ドレスは砂にまみれ、すっかり白くなってしまった。
「……うーん、そうだったのかもね」
いちおうは納得したらしく、シャーロットは顔を上げた。
「じゃあ、早くお父さまに連絡を取らなきゃね。
今、夜のどのあたり? もうすぐ夜明けかしら?」
「何を言ってるの、まだ日が暮れたばっかりだよ」
嘆息して、マルコシアスはシャーロットの背中を叩いた。
同時に、何の前触れもなく、ぼっ、と二人の前で炎が起こった。
薪も何もない焚火といったところか、言うまでもなく精霊の働きである。
ゆっくりと伝わる温かさに、覚えずシャーロットの表情が緩む。
「僕があんたに、ここでの快適な野宿を約束しよう。どうせこの町の連中じゃ、あんたを泊めてはくれないだろうしね」
「町!」
シャーロットが過敏に反応し、立ち上がろうとして足の怪我の痛みに呻いて涙目になった。
マルコシアスは瞬きする。
「町がどうかした?」
「町よ! 無事かしら――かなり大きな嵐になっていたでしょう」
マルコシアスは息を吐いた。
かれの耳許で、風になった精霊が、かれの望む報告を囁いた。
かれは溜息と共に言った。
「――大丈夫だよ。ひどいことにはなってない」
シャーロットはしばし、マルコシアスの言葉を推し量るような目でかれを見ていた。
その橄欖石の瞳に炎の明かりがちらつく。
マルコシアスは、悪魔に出来る最大限に誠実な目でそれに応じた。
ややあって、シャーロットは大きく息を吐いて、へなへなと元の場所に力を抜いて座り込んだ。
「良かった……」
「そうだね、何よりだ」
気持ちの籠もらない相槌を打って、マルコシアスは横目でシャーロットを窺った。
シャーロットは本気で安堵したらしく、しばらく目を閉じていた。
しばらくしてぱっと目を開けると、彼女はマルコシアスの顔を覗き込んだ。
端から見れば、同い年の少年と少女が家出して、焚火を前にしているように見えたかもしれない。
炎の明かりを切り取る二人の影が、背後に長く伸びていた。
「そういえば――」
マルコシアスは首を傾げ、その拍子にずれたストールを直して、首の鉄色の枷を隠した。
かれは伸びっ放しの灰色の前髪の下から、注意深くシャーロットを見つめた。
「なんだろう、レディ・ロッテ」
シャーロットは控えめに微笑んだ。
「この質問が失礼に当たらなければいいんだけど。
命令じゃないわ、ただの好奇心からの質問よ」
マルコシアスは首を傾げた。
「なに?」
「エム、お前――本当の〝真髄〟の名前はなんていうの?」
マルコシアスは目を瞠ったが、誠実な〈マルコシアス〉の〝真髄〟のゆえに、意識するよりも早くつぶやいていた。
「……失礼ではないけど……」
何しろ、悪魔の〝真髄〟のことを知る人間はもういない――目の前にいる小さなレディを除いては。
この問いは、発せられることすら想定されていないものなのだ。
マルコシアスは目を細めた。
「――あんた、分かってるとは思うけど、仮に僕の名前を僕らの文字で上手く書けるようになったって、それで僕を――本当の僕を――召喚したら、さっきの二の舞になるんだからね。
僕が召喚を承服しているのは、〈マルコシアス〉の〝真髄〟だけだ」
「分かってるわよ」
シャーロットは笑い出した。
焚火の明かりが、その幼い顔にくっきりとした橙色の陰影を生み出していた。
何千何万という松の枝が風に揺れる。
微かに聞こえる波の音。
「私にも慎みはあるわ、呼んだりしないわよ。ただの好奇心よ」
「――――」
マルコシアスは思案に首を傾げた。
――仮にシャーロットがかれの本当の真髄を召喚したとして、かれに一切の害はなかった。
好きに暴れて帰るだけのことだ。
それに――
――『先に死んでくれなんて、そんな格好の悪いことは言わないわ』。
マルコシアスは肩を竦め、身体を傾けてシャーロットの耳許に唇を寄せた。
そして、他には誰一人として知ることのない、かれの名前を耳打ちした。