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17 ずっと昔の約束

 マルコシアスは目を見開いた。


 シャーロットの言葉は、呪文の()()()()だ。

 複数の呪文を抜粋して、片言ではあるものの、懸命に悪魔の言葉をなぞらえているものだ。



 ――この小さなレディは、この幼少さにあって、呪文をただの音の羅列ではなく、それぞれ意味のある単語に分解して覚えていたのだ。



 マルコシアスの小さな主人が、「聞け」という言葉を三回繰り返した。

 そのうちの一回は、緊張のためか声が引っ繰り返っていた。



 悪魔が反応した。

 灰色の煙の表面がざわめいた。


 だがなおも、天候は荒れ続けている。



 シャーロットが、もう一度息を吸い込んだ。


 彼女が続いて、「報酬」という言葉を繰り返した。

 召喚の呪文においては必出の単語であり、意味を理解せずに呪文を諳んじる魔術師であっても、思い当たるだろう一連の音律だ。


 悪魔は理解していない。

 その煙に表情があれば、いっそ訝しそうな顔が見られたかもしれない。


 シャーロットが言葉を変えた。


 「相手」を示す、二人称の単語を繰り返している。続いて、その言葉に否定の言葉を付け足す。

 人間の言葉でいえば、「あなたは違う」といったところか。

 片言であっても意味は拾える。


 シャーロットが、さらに言葉を変えた。


 今度は、二人称の言葉に、「赦免」を表す単語を付け加えて繰り返している。

 この単語は大抵の場合、魔術師から悪魔へ、特別な場合に命令違反を許すとき、その場合を限定するために使われるものだ。

 ――「あなたは許す」と繰り返している。


 恐らく――と、マルコシアスは推し量った。

 ――「謝罪」に相当する単語は、いかなる呪文の中にも例がないはずだ。

 ゆえに、咄嗟に代用したのがこの言い回しだったのだろう。



 ――シャーロットは、この悪魔に許しを乞おうとしている。



 雷鳴と雷光が、徐々に間遠になり、やがて完全に止まった。


 悪魔が寛大な心で現状を許したのではない――かれは面喰らっているのだ。


 その証拠に、なおも海は荒れ、雨と風は叩きつけるように続き、辺り一帯の空気は帯電している。



 雷鳴が止むと同時に、シャーロットが言葉を変えた。

 二人称を表す言葉と、「理解」を表す言葉、そして「言葉」を表す言葉を、さかんに繰り返す。


 そして最後に、「聞け」と、もう一度伝えた。



 ――()()()()()()()()()()()()()()



 ゆっくりと、風が弱くなっていった。


 マルコシアスは目を丸くしている。

 ――悪魔が、徐々に徐々に落ち着きを取り戻していっている。



 確かに、見知らぬ土地に放り出されたときに、よく知る母国語であれば、片言であっても耳にすれば嬉しいものではあるけれど。



 ――だが、それもここまでだ。

 悪魔の怒りは解けていない。


 さながら、背中の毛を逆立てる猫が相手の言動を窺っているかのような、そんな危うさがある。


 シャーロットが気に障ることを言ってしまえば、そのままべちゃりと彼女を潰すことなど、この悪魔には造作もないことだろう。


 ――マルコシアスはわれ知らず息を止めている。



 後ろにいるかれの様子が見えるはずもなく、シャーロットは更に数歩、前へ進んだ。


 彼女が、濡れた金髪をかき上げ、寒さと緊張に震える唇で、無理やりに笑みを浮かべた。

 怯えてはいなかった。


「――はじめまして。呼ばれても期待外れだったでしょう、ごめんなさい」


 召喚陣の上で、灰色の煙が激しく渦を巻いている。

 叩きつける雨の勢いは衰えない。


「あなたをここに呼んだのは私じゃないのよ。でも話がしたいの」


 雨の勢いは衰えない。

 一度は弱くなった風が、また強まりはじめていた。


 シャーロットがよろめき、負けじとばかりに声を張り上げる。

 金色の髪が激しくその頬を叩く。


「聞いてほしいの! あなたは――、もうっ」


 強まる風に苛立ったように叫び、シャーロットがもう一度、悪魔の言葉で「聞け」と繰り返す。


 続いて息を吸い込み、「われわれ」を表す言葉、否定を表す言葉、そして「権利」を示す言葉を一息に叫んだ。



 ――()()()()()()()()()、そう言っている。



 再び、ゆっくりと風が弱まった。

 そして、今度は目に見える変化があった。


 シャーロットが小さく悲鳴を上げた。



 ――ぎょろり、と、灰色の煙のまんなかに大きな金色の目が開き、瞬きもせずにシャーロットを眺めていたのだ。





▷○◁





「――――」


 シャーロットもさすがに肝を潰したのか、嵐の中で出現した巨大な目玉を見つめて、言葉を失って絶句している。


 その絶句が四秒に及んで、マルコシアスはじゃっかんの苛立ちを覚えたものの、かれが尻を叩くよりも早く、シャーロットは衝撃から立ち直った。


 彼女が、口の中でもごもごと何かを言った――マルコシアスには、「素敵な()()()ね」と聞こえたが定かではない。


 それから短く息を吸い込み、シャーロットは今度は人の言葉で繰り返した。


「――私たちにはあなたを呼ぶ権利はなかったし、あなたにはそれに応える義務はないのよ」


 巨大な目玉は瞬きもしなかった。

 煙が激しく渦巻いたが、その目玉は動かなかった。


 そしてやがて、はじめて、その魔神の声がこの交叉点(せかい)の空気を震わせた。


 地鳴りのような声だった。



『――権利?』



 そう言って、そしてはじめてその目玉が動いた。

 混乱したように揺れたのだ。


 口にしたと思った言葉が未知の言語に変化していればさもありなん、シャーロットは頷く。


「そう、権利。

 ――私は、」


 言って、シャーロットは背筋を伸ばした。

 弱まった風にドレスがなびいている。


「顔を合わせて冷静に話せば数秒で済むことを言うために、わざわざあなたに話しかけたのよ。

 あなた――名前は訊かないわ、あなた――あなたには、報酬は支払われない。

 私たちのあいだの決め事では、あなたのように他の場所から呼ばれるひとは、報酬に納得してはじめて手を貸してくれるものなの。

 ――()()()()()()()()()()()()()()


 灰色の煙が激しく渦巻く。

 巨大な金色の目は微動だにしなかった。


 そして長い時間が過ぎ――息を呑むシャーロットに、再びあの、地鳴りのような声が告げた。



『――()()



「――え?」


 シャーロットは息を止めた。


 魔神の金色の目は、嵐の中でさえ煌々と輝いている。


『――違う。()()()()()()()()()()()()()


 シャーロットは短く息を吐いた。


 彼女が微笑む横顔を、斜め後ろからマルコシアスが見ていた。


 彼女は、十四歳とは思えない落ち着きをもって応じた。


「そうね、そうね。戻れるわ。あなたが望めば」


『ここは違う、ここは違う』


「ええ、もちろん。ここへ呼ばれたことが、あなたに悪い影響を与えなければいいんだけど」


 魔神はしばし沈黙した。


 雨脚が急速に弱まり、低く垂れ込めた空の雲が薄れ始めていた。


 ややあって、魔神は答えた。

 シャーロットには意味の分からない言葉だった。



『悪くなるのはわたしではない』



「――――?」


 シャーロットは眉を寄せ、それから恐る恐るといった風につぶやいた。


「あなたが、あなたをここに呼んだ人間を許してくれるといいのだけれど。もう十分に怯えたでしょうから」


『違う、違う』


 頑是なくそう繰り返したあとで、魔神はつぶやいた。

 地鳴りのような凄まじいその声の底流に、確かに疲労が窺えた。


 シャーロットからすれば、それは泣き疲れたあとの声のように聞こえた。


『――ここではない、ここではない』


「そうね、そうね」


 シャーロットは、人間が生来持つ、ある種の母性本能を感じさせる声音でそう応じた。


「あなたには、ここにいる義務なんて少しもないのよ。戻れるわ、今すぐに」


 渦巻いていた煙が、力なくその場に堆積し、召喚陣の上に押し広がり始めた。


 魔神は本当の意味で泣き疲れたようだった。

 もはや身動きをするのも億劫なのかもしれない。


 そしてここへ至って、困り切っているようにも見えた。



『わたしは――わたしは知らない。

 ここへ来た道を知らない』



 シャーロットが言葉に詰まった。


 だが彼女が何を言うよりも早く、彼女の隣に進み出たマルコシアスが、きわめて気楽な様子で声をかけていた。


「やあ、兄弟。それに関しては僕がお役に立てると思うよ」


 軽くシャーロットの肩を叩いて彼女を下がらせ、マルコシアスはポケットに手を突っ込んで立ち、身体を傾げさせた。


 平然として見えたが、その淡い黄金の目の奥に注意深さが光るのをシャーロットは見ていた。



 灰色の煙が、また再びざわめき始めた。


 まるで、疲れ切って身体を伸ばした猫が、再び背中の毛を逆立てるかのようだった。マルコシアスは悪魔の微笑を浮かべる。


「まあ落ち着きなよ、相棒。あんたは帰りたい、僕は帰ってほしい、きわめて単純な利害の一致じゃないか?

 あんたが最初から落ち着いて、僕の話を聞いてくれていれば、こんな大騒ぎにはならなかったんだが。

 あんたをここまで落ち着かせた、僕の主人に礼を言ってくれ。僕はあとで言うことにするよ」


 煙はざわめくばかり、巨大な金の目は微動だにせずマルコシアスを注視するばかりだった。


 マルコシアスは肩を竦める。


「言いたくない? いいよ、じゃあさっそく帰ってもらうとしよう。

 ――簡単な話だ。思うに、兄弟、あんたは多分、身体があるということを理解していないだろう――あんたが窮屈な箱に詰め込まれていると思ってくれ――これからあんたは、僕の合図で後ろを向く――後ろを向くと同時に、あんたはその身体から抜け出す――構えることはない、フィネスタからモータスが飛び出すときをイメージしてくれ」


 何から何が飛び出すって? と、シャーロットは思わず口を挟みそうになったが、自重した。


 マルコシアスはしばらく、じっと巨大な金色の目を見ていた。



 今や雨は上がり、風は微風となり、荒れ狂っていた波濤は凪いでいた。

 雨に浸された万物を、薄らいでいく雲の向こう側から、太陽が弱々しく照らし出そうとしていた。


 その薄い光の中で、マルコシアスと()()()の魔神は、悪魔どうしにしか分からない、なんらかの目配せを交わしたようだった。



 マルコシアスが片手を挙げようとした。



 そのとき、シャーロットは辛抱しきれずに割り込んだ。


「――待って! 最後に、あなたの名前がどうして知られたのか教えて!」


 マルコシアスが手を止め、最初にシャーロットを、それから名無しの魔神を見た。

 「ああ、そうだった」と言わんばかりの表情だった。


 悪魔の身体であるはずの灰色の煙が、眠たげに揺れた。


 巨大な(まなこ)は閉じようとしていた――瞼のない目にあって、それは瞳の消失を意味していた。


 声は切れ切れになっていた。

 かれが急速に、この場にいること自体を億劫に思い始めたかのようだった。



『教えた――わたしが教えた――()()()()()()()()()()()()()()と言われた――』



 シャーロットは息を呑んだ。

 切れ切れに掠れた地鳴りのようなその魔神の声に、紛うかたなき親愛を感じ取ったがゆえだった。


「それは――」



 しかし、マルコシアスはそれらの感情を感知しなかった――あるいは、徹底的に無関心であるようだった。


 かれは上品に微笑んで、丁寧に切り捨てた。


「その言いつけをずっと守っていたってわけかい。忠実でけっこう。

 でも、()()()()だよ」


 そう言って、マルコシアスは息を吸った。

 今度こそかれが片手を持ち上げた。



 シャーロットも口をつぐんだが、かつて――どのくらい昔のことなのかは分からないが――()()()であるはずの悪魔の名前を突き止めた魔術師がいるに違いないということは、彼女の脳裏どころか心臓に焼きついた。



 マルコシアスの、少し骨ばった指が、おだやかになった空気を撫でて動いた。


「いいかい、兄弟。せーの、であんたは後ろを向くんだ。

 後ろを向くと同時に、あんたはフィネスタから飛び出すモータスになる。

 気づいたときには懐かしのわが家にいるさ、心配しなくていい。

 ――いくよ――」


 周囲の空気がざわめいた。


 この名無しの悪魔に巻き込まれてこの交叉点(せかい)へと連れられて来た精霊たちが、帰還のきざしを感じ取っているのだ。


 寄り集まり、悪魔のそばを幾重にも取り囲む精霊たちの数の膨大なこと――マルコシアスは舌を巻く思いだった。



 名無しの悪魔の目はもう見えていなかった。

 しかしかれは、億劫そうにマルコシアスの指先に注目していた。


 それを把握した上で、マルコシアスは声を出した。



「お先にお帰りなさいませ、だ。

 ――せーのっ!」



 マルコシアスは手を振り下ろした。



 ――その瞬間、凄まじい風と波が翻った。


 まるで、去っていく魔神がこれまで存在した空間を、あわてて何かで埋めようとしているかのよう――空気がその空間めがけて殺到し、激しくぶつかり合ったかのようだった。


 召喚陣の上から、煙の形の魔神がすばやく掻き消える。


 召喚陣を描く線が輝きを失うと同時に、突風が海辺を撫でるように駆け抜けた。


 その強さは瞬間的なものではあったものの、先刻までの嵐を上回った。

 踏ん張り損ねたシャーロットが真後ろに、倒れ込むように吹き飛ばされる。


 波が高く翻り、辺りに雨のように潮水が降り注いだ。



 マルコシアスは腕で顔を庇った。


 かれの衣服とストールが激しくはためいたが、しかしそれだけだった。



 かれが顔を上げたとき、海辺は何事もなかったかのようなおだやかさを取り戻していた。


 ただし、鳥たちは賢明にもとっくに逃げ出していたのか、見上げても空に鳥の影はなく、鳴き声もしない。


 人声も、ここまでは届いていなかった。



 静かな波音だけが響く、抜けるような静寂(しじま)を取り戻した浜辺――



 マルコシアスはゆっくりと息を吐き出し、掌で額をぬぐうと(そうしてから、その仕草がいかにも人間らしかったことに気づき、かれは苦笑した)、かれの主人を捜して振り返った。



 幸いにも、シャーロットはそう派手に吹き飛ばされたわけではなかった。


 マルコシアスから十歩程度の距離の砂浜の上で、ただし打ちどころが悪かったのかなんなのか、今度ばかりは完全に気を失った様子で、砂まみれになって転がっている。



 マルコシアスは瞬きして真顔になると、慎重な動きでシャーロットの方を向いた。


 とはいえ、彼女に向き直ったのではなかった。



 ぐったりと倒れたシャーロットの前で、綺麗な白い羽毛を持った大きなオウムが、あきらかにかれが魔神であると分かる眼差しでマルコシアスを見つめて、尊大に胸を張っていたのだ。























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