16 嵐の中心に届けと叫ぶ
「――このっ、卑怯者っ!」
渾身の力で体当たりされ、マルコシアスは転びこそしなかったもののよろめいた。
「はっ?」
マルコシアスの背中に押され、雨が集められた透明な立方体がぱしゃんと弾ける。
唖然とするかれの肩を両手で押さえ、シャーロットは寒さに蒼褪めた顔で、しかし批難と怒りに震えていた。
「最低ね! 魔術師じゃなくても、私たちはお前たちのために悪夢を見るってこと!? 最低ね!」
マルコシアスは舌打ちして、シャーロットの手を払い除け、わざとらしくストールと襟元を直した。
「――ああ、そんな反応をされるだろうと思ったから、話すのに迷ったんだよ。
けど、まあ、あんた一人が何を喚いたって、今さら魔術の文化はなくならないでしょ――安眠なんかのために。
それに、文句を言うなら僕にじゃなくて、あのときに『それでいいよ』って言った連中にしなよ。まあ、みんなもう墓の下だけど」
シャーロットはその場で打ち震えたが、さすがに状況はわきまえていた。
とはいえ呑み込みがたいものはあり、彼女はその場で力強く宣言した。
「この場が片づいたら、いいこと、お前に私が見た中でも選りすぐりの悪夢を話して聞かせるわ!」
「この場が片づくならなんだって」
マルコシアスはつぶやき、続いて現状の問題点を整理しようとして口を開いたが、それよりも早くシャーロットが言っていた。
「――つまりお前は、あの悪魔が召喚されたはずはないって言ってるのね。
あの悪魔本人も、召喚されるなんて思ってもみないから、お前みたいに召喚の流儀には慣れていなくて――呼ばれるはずのない自分が呼ばれて怒ってるのね」
「気の毒なことにね」
マルコシアスは言い添えた。
「報酬を受け取っていないのに、自分の領域でくつろいでいたところを呼ばれるなんて、僕ならごめんだ。――いや、くつろいでいたとは限らないけど」
「それは知ったことじゃないわ」
シャーロットはばっさりとつぶやき、腕を組んだ。
真冬に雨に濡れそぼり、彼女の肩が震えている。
歯の根も合っていない、声が震えている。
外套の袖や裾から、ぽたぽたと滴がしたたっていた。
「つまり、あの悪魔は『回れ右』の仕方を知らないのね」
「だろうね」
相槌を打つマルコシアスをちらりと見てから、シャーロットは息を吸い込んだ。
「――分かった。エム、手伝って」
マルコシアスは人間そっくりの仕草で瞬きし、シャーロットを見た。
「……なにを?」
「もちろん、あの悪魔にお帰りいただくのよ」
ずぶ濡れになった外套の袖をまくり上げながらシャーロットが断言し、マルコシアスが目を見開く。
「あんた、この嵐の中で何するの?」
「嵐に対処しなさいと、私はお前に命令したわよ」
震え声ながらも歯切れよく言って、シャーロットはにっこりと笑った。
寒さに蒼褪め、歯の根が合わないほどに震えながらも、満面の笑みだった。
「でも、大丈夫よ。
さっきも言ったでしょ――先に死んでくれなんて、そんな格好の悪いことは言わないわ」
「――――」
「エム、手伝って。
私を、あの悪魔に声が届く場所まで連れていって」
マルコシアスが否とも応とも答えぬうちに、シャーロットはいくつかの透明な立方体を身体をねじって避け、マルコシアスが囲って庇った空間を抜けた。
途端、突風に身体がよろめくも、シャーロットはひょこひょこと――そうだった、確かご主人さまは足に怪我あった、と、マルコシアスは掠めるように思い出した――走り出す。
いや増す風の勢いと雨の強さに、走っているのかよろめいているのか分からないような速度にはなっていたが――それでも意志は強固だった。
叩きつける白雨から顔を庇い、よろけながらも前に進もうとしている。
濡れて重みを増した髪とドレスが、これでもかとばかりにばたばたと翻る。
今や、雨の強さと風の激しさが相まって、辺り一面に波が打ち寄せているような有様だった。
風音も雨音も波濤の音も混じり合って、一つの大きな轟きになっている。
召喚陣の上の悪魔は混乱から立ち直り、感情を激昂に振り切ったようだった。
この理不尽な仕打ちに対しては妥当な反応ではあったが、しかし。
「お――っと、まずい」
マルコシアスはつぶやき、真剣にこの場からの撤退を一考した。
今ならまだ、かれの足の速さならば、安全な場所まで避難できる。
だが――
「――くそっ」
マルコシアスは悪態をついてシャーロットを追った。
かれの背後で、儚く守られていた空間の境界が崩壊して、大量の水が地面を叩いて泥水を跳ね上げる。
もはや、この向こう見ずな小さなレディの冥福を祈るにやぶさかではない事態となっているが、諦めるには報酬が破格のものなのだ。
それこそ、かれの領域を一気に安定させることが出来るほどに。
(――頑固者め!)
かれが気分よくこの場を脱することが出来るのは、二つの場合に限られる――すなわち、シャーロットがマルコシアスに報酬を前払いし、「これまでありがとう、もういいわよ」と告げてくれる場合――これは有り得ない。レディ・ロッテはそんなことをしない。
そしてもう一つの場合が、この哀れな聞かん坊の悪魔を、なんとかして回れ右させた場合だ。
「死なないって言っても、僕だってこの〝真髄〟が致命の一撃を喰らったら、しばらくは召喚に応えることも出来なくなる――他の連中の後塵を拝すなんてごめんだよ!」
思わず怒鳴ると、この暴風雨の中で奇跡的に声が届いたのか、シャーロットが怒鳴り返してきた。
「しばらくって、それ、どのくらいなの!?」
「ざっと百年くらい!」
「まあ、安心した!」
シャーロットはずば抜けた胆力を見せた。
堂々とおどけてみせたのだ。
「百年もしたら私は死んでるもの。お礼参りは警戒しなくて良さそうね!」
マルコシアスは盛大に舌打ちし、吹きつける雨の中を泳ぐようにして、大股でシャーロットに追い着いた。
風の中でよろめく濡れねずみの主人の肩に片手を置いて、もう片方の手を上から下へ大きく振る。
竦み上がった精霊たちではなく、かれ自身の魔力が働いた。
ケーキに包丁を入れて、そのまま包丁をずらしたときのように、シャーロットの目の前に、切り分けられたように明瞭に、雨の銀幕が途切れた道が現れた。
シャーロットの橄欖石の瞳が大きく見開かれた。
なおも叩きつけるように風が吹き、彼女の髪やドレスが、てんでめちゃくちゃな方向にはためき続けている。
息も苦しく、シャーロットはあえいでいたが、彼女は小さく頷いて満足を示した。
マルコシアスは顔を顰める。
「そんなに長くはもたないよ。
――さあ、ご主人さま、先に立ってくださるんでしたね?」
「もちろんよ」
一切怯まずにシャーロットは断言し、怪我を庇うひょこひょことした動きで、ためらうことなく雨の途切れた道を進み始めた。
その先に、なおも召喚陣の上で渦を巻く灰色の煙の姿をした、名なしのはずの悪魔がいる。
「ついて来なさい、エム。
おかしいところがないか、聞いていてほしいのよ」
「――うん?」
マルコシアスは眉を寄せた。
「……“聞いて”?」
雷雨は衰えを知らず、ごうごうと唸りを上げていた。
そのただなか、淡く白く光る召喚陣の上で、灰色の煙が渦を巻き、伸び上がり、縮み込み、さかんに怒りの声を上げている。
かれに従う精霊たちが、その怒りを外に伝えようと、ますます海を荒れさせている。
波打ち際では海がぼこぼこと白く沸き立ち、きらきら輝く塩の結晶が、凄まじい雨に打たれてあっという間に溶け消えていく繰り返しを見せていた。
空は低く落ち込んだようだった――垂れ込めた黒雲が、手を伸ばせば届くのではないかと錯覚できるほどに、空を低く見せていた。
ようやく、その悪魔との距離が六十フィートほどに縮まっていた。
そして、もうそれ以上は距離の縮めようがなかった。
空気が感電したように粟立っている。
髪は逆立ち、身じろぎの度に鮮烈に肌が痛む。
風も雨も、悪魔を守るようにその周囲で局所的に激しくなっている――これ以上はとても進めない。
シャーロットは宣言どおり、マルコシアスの先に立つ格好で、暴風に押されながらもじりじりとそこまで進んだが、そこへきてとうとう、風に抗えなくなった様子で足を止めた。
そのまま後ろに倒れ込みそうになった彼女の背中を、マルコシアスが支える。
支えるといえば聞こえはいいが、じゃっかん、手に負えない魔神に対して、自分の主人を盾にしているようにも見えなくもない。
「――ロッテ、何か考えがあると思っていいかな?
あいつ、僕が思っていたより混乱してるし怒ってるようだけど」
シャーロットの肩口から顔を覗かせて、用心深い口調でマルコシアスが尋ねる。
シャーロットは答えなかった――彼女はうつむいて、ここではないどこかを見ているような、何かに没頭するような目をしていた。
唇が動いているが声は出ていない。
頭の中の何かを諳んじようとしているような――
「ロッテ?」
訝しんでマルコシアスが呼ばわる。
そのとき、シャーロットが顔を上げた。
怯えもない、恐慌もない、ただ、まるで口頭試問において解答を述べるときのような緊張感だけのある、懸命な表情で。
息を吸い込み、口を開き、暴風の中でもはっきりと通る声で、シャーロットが呪文を唱え始めた。
▷○◁
未知の魔神に向かって歩みを進めるあいだ、シャーロットは怯え切っていた。
天候をここまで荒れさせる悪魔など、文献を通じても数えるほどしか例がない。
しかもこの悪魔は、召喚陣の上にあってこの異常を撒き散らしているのである。
ふと気が向いた瞬間に、シャーロットなどはやわらかいバターの塊のようにべちゃりと潰されることは目に見えている。
風が、ドレスを引きちぎらんばかりに吹き荒れていた。
マルコシアスは彼女の後ろにいる――かれのために叩きつける雨粒からは守られていたが、それだけだった。
上空では夥しい雷光が閃き、雷鳴は地面を揺らすかの如くに耐えず鳴り響いている。
シャーロットは頭のてっぺんから爪先まで震えている。
波が砕ける大音響、そしてその間を縫って響き渡る、魔神の絶叫――
――召喚陣の上にいる悪魔は、本人の意向に関わらず、人の言葉を話すはずだ。
しかしながら、この悪魔の絶叫に、言葉を聞き取ることは不可能だった。
恐怖で真っ白になっていた頭に、ふと疑問がよぎる。
(どうして――)
怒りの言葉の一つや二つは出てきそうなものではあるが。
――そう思ったとき、荒れ狂う風に息が詰まるようなその一瞬に、シャーロットはあの瞬間のことを思い出した――あの瞬間。
リクニス学院に入学はできますよね? と縋るように尋ねて返された、「また今度な」という返答を聞いた、あの瞬間。
声も出ず、茫然と、ただ周囲が真っ暗になっていくのを感じたような、あの瞬間――
――この悪魔からすれば、状況はもっと悪かろう。
唐突に、全く知らない場所に強制的に呼び出されたのだ。
その困惑と憤激はいかほどのものか、シャーロットの想像に余る。
(……それは、まあ、言葉も出ないわね)
足を止める。
シャーロットの背中をマルコシアスが支える。
雷鳴が悲鳴に聞こえ始めた。
恐怖はすみやかに、六十フィート先にいるこの悪魔への同情へと翻りつつあった。
帰り道が分からず、大声で泣き喚いている子供のような――
(……どうして――)
どうして、あの魔術師はこの悪魔の名前を知っていたのだろう。
マルコシアスの言葉が本当ならば、知り得るはずのない名前を。
(もしかして、あなたは誰かに自分の名前を教えたのかな)
ぼんやりとシャーロットは考えた。
(その人ではない人が自分を呼び出したから、それでそんなに怒っているのかな)
風の隙間を見つけるように息をする。
(もしそうだとしたら――)
――私はその人がうらやましい――
私は、本当をいえば――
(あなたたちに、昔のことを話してほしい――)
シャーロットはゆっくりと息を吐き出した。
うつむいて、思い出す――ランプの明かりを頼りに夜な夜な覗き込んでいた文献の文字、むさぼるように読んだ文章の数々、何度も復唱した呪文――
(分かる、大丈夫――)
同じだった。
リクニス学院の、明るい陽光が射し込む大広間で、顔に皺の寄った試験官の目尻の辺りを見つめながら、問われた魔術に対応する呪文を答えていたときと――
シャーロットは顔を上げた。
緊張が喉元を、心地よく締めつけていた。
大きく息を吸い込み、シャーロットは呪文を――正確には、呪文というにも相応しくない、急ごしらえの呼び掛けの言葉を――、届けとばかりに叫び始めた。