後日談 04 伝言
マルコシアスは、ゆっくりと柔らかな土の上を歩いている。
傾きかけた夏の陽光が、木々の枝の下から射し込む、からりと乾いた雰囲気の、広い墓地。
かれの首に枷はない。
契約の履行を確認し、解放されているのである。
だからこそマルコシアスの両手には、今、シャーロット・ベイリーの手記があった。
マルコシアスはのんびりと歩きながら、面白そうにその手記を開き、頁をめくっている。
前を見てはいないが、目の前に隆起した木の根があろうがつまずかず、墓石にぶつかることもない。
――契約は終了したとはいえ、この交叉点にいるあいだは、マルコシアスには召喚陣の影響がある。
ゆえに理解できる、その手記の文字。
「――ふーん、ふーん……」
つぶやく。
「何回も僕を呼んでたくせに、そのことは書いてないんだな、強がっちゃって」
手記には日常の他愛もないことが記されている。
恐らくはあの夜、マルコシアスが最後に彼女に会ったあの夜から間もない日から始まっている手記。
最初の頁にはケルウィックへ帰宅したことが記されている。
はじめのうちは、医者に言われて経過観察のためにつけていた日記だったのかもしれない――体調面の記載が多い。
吐き気。眼球の痛み。喉の痛み。声が出にくい。左腕が動かない。慢性的な頭痛。
やがてそこに、日常の様子が混じり始める。
リンキーズが憎まれ口を叩く。アーノルドが会いに来てくれた。
アディントン大佐がお見舞いに来てくれた。
オリヴァーが夫婦で会いに来てくれた、ノーマと会うのは本当に久しぶり――
頁が進む。
『尖晶石を加工できないか相談中』
『アーニーはまったく素直じゃない。見ていて腹が立つ』
『グレイさんがお見舞いに来てくれたのに、アーニーは来てくれない』
『軍省を辞められそう。まあそうでしょうね』
『学芸員の働き口を探さなきゃ』
『アーニーが素直になるまでの日数を数えておけば良かった』
『裁判になりそう。あいつなら面白がりそうね』
『罰金がまずい。本当にまずい。思っていたより高い。アーニーが耳を疑った顔のまま動かなかった』
『なんとかなりそう』
『グレイさんがご病気。お見舞いにいく』
『母校で授業。どの程度なら学生さんは理解してくれるでしょう』
『体調があんまりよくないと思っていたら、子供が出来てたみたい。ちょっと実験、リンキーズを呼んでみると、見たことがないほどずっと吐いていた。こちらは楽。しばらく我慢してと言ってみると、ずっとクンクン唸っていた』
『二度と出産なんてしない。あんなに痛いなんて聞いてない』
『子供はかわいい。恩人ふたりの名前をとった。ただ手がかかる。本当によく泣く。何が気に入らないのかわからない』
『シジルを描くの、飽きてきた。これは六つ目の表意文字があればいいのでは……。
ノリーくんに笑われる。絶対に見返す』
ぱらぱらと頁をめくる。
一行一行、すべてに、かれの眼差しのないところで生き切った彼女の人生がある。
そして見事なまでに、かれに言及する言葉がない。
「おお、レディ。そんなに、僕があんたとずっと一緒にいるのを疑ってなかったの」
つぶやく。
感心するが、しかしさすがに腹立たしくもなりかけたところで、ふと目に入る。
『首席宰相賞とゴルト勲章受章。光栄だけれど、そのあとの会談は困った。
口がすべった、珈琲嫌いの友達については話す予定がなかったのに』
『どうでしょうね、怒ってるかな。名前を二つ呼んだことで、もしかしたらむかついてるかもしれない。謝りたいんだけど、どうでしょうね』
「――――」
マルコシアスは足を止めた。
かれのしもべである精霊が、ふよふよと目の前に漂ってきたのを邪険に払う。
「ああ……」
つぶやく。
「ああ、僕のロッテ」
手記を閉じて、また歩き始める。
契約が終了したあとに、カールから聞いたその場所。
――ほっそりと伸びた木の下に、黒い墓石がふたつ、仲良く並んでいる。
マルコシアスはその前に屈み込んだ。
左側に、『シャーロット・ベイリー 九三七―一〇一九』。
右側に、『アーノルド・ベイリー 不詳―一〇二一』
手を伸ばして、ふたつの墓石から軽く埃を払った。
しばらく眺めていたが、特に何か、彼女の気配があるというわけでもない。
「……まあ、そりゃそうか」
つぶやく。風が吹く。
そういえばあいつは、本当にレディの身体を食べちゃったんだろうか、などと思う。
そしてふと思いついて、墓石の前にしゃがみ込み、地面に軽く触れた。
それからぱちんと指を鳴らす。
ほろ、と土を割って、するすると緑色の茎が伸びた。
優雅な形の葉が伸びて、白いつぼみがふくらみ、やがて季節外れの白いスイセンが、透き通るほどに可憐に咲く。
魔神エムは微笑んで、かれの主人の墓前に、正式な姿勢で跪いた。
「――レディ・ロッテ。どうぞごゆっくりとお休みください。
いつでもあなたをお守りしましょう、――親愛なるご主人様」
▷○◁
こんこん、と窓を叩くと、当然ながらアリスとカールは驚いた。
目を見開いたあと、先を争うように駆けてきて、慌てながら窓を開ける。
「どうしたの、なにか忘れもの?」
カールが真顔で尋ねるのを相手にせず、マルコシアスは窓から子供部屋に滑り込んで、窓枠に腰掛けて脚を組んだ。
そして、もったいぶってシャーロット・ベイリーの手記を片手で掲げる。
「きみたち、これは僕のものだ」
「そうね」
アリスが頷く。
「だって、あげたもの」
「それがわかっているなら、けっこう」
気取ってそう言い、マルコシアスはその手記を、アリスとカールへ差し出した。
「ってことで、預けておく」
「え?」
双子が声を揃え、ぱちくりと目を瞬かせる。
マルコシアスは顔を顰めた。
「僕の家にはね、それを持って帰ることができないんだよ。わかるかな、お馬鹿さん。
――ということで預けておく。僕が求めたときには必ず、僕の手許に返すように。
きみたちじゃなくても――きみたちの子孫であってもだ。何しろ僕は長生きだから」
カールが手を伸ばして、おずおずと手記を受け取った。
マルコシアスは心配になって付け加える。
「頼むから、ジャムのしみをつけたりしないでくれよ」
「しないわよ!」
アリスが噛みついてくるのをあしらい、マルコシアスは微笑む。
――かつて何人もの人間を魅了してきた、甘いばかりの悪魔の微笑、その奥に、確かな温かみのある表情で。
「――まあ、ロッテの縁戚なら、呼んでくれれば僕だって、多少の便宜を図ってあげよう。
ロッテと気の合いそうなやつならね」
マルコシアスはもういちど、階段の踊り場に立って、かれのロッテの肖像画を見上げている。
そのそばで、アリスはじゃっかん浮足立ち、カールは半べそをかいていた。
「ねーえー、そろそろさすがに見つかるよぉ」
「僕の知ったことじゃないね」
マルコシアスがぼそりとつぶやいた、そのとき。
じりりりり、と、呼び鈴が鳴った。
アリスとカールが飛び上がる。
直後、アリスが脱兎の勢いで階段を駆け下り、玄関扉に飛びついた。
よいしょ、とばかりにその扉を開けたアリスが、わざとらしいまでに明るい声を出す。
「おっ――おじいさま! お帰りなさい!」
そう言って、足りるはずのない身長を補おうとぴょんぴょん飛び跳ねて、階段の踊り場に立つマルコシアスを見せまいとするアリス。
カールがマルコシアスの手を掴み、「見つかるから! 見つかるから、もう帰って!」と、声をひそめて哀願の声を上げる。
悪魔への哀願は簡単にしない方がいいと教えてやるべきだろうか。
――マルコシアスは黄金の瞳を瞬かせ、今しも玄関扉の向こうに立つ、上品な老紳士を見つめていた。
学者然とした丸い帽子、夏だというのにきちんと上着まで身に着けた格好、手にしたステッキ。
特に何も考えないまま、マルコシアスはゆっくりと階段を降り始めた。
カールが後ろで苦悶の声を上げたが知ったことではない。
軽い歩調で階段を降りて、かれは老人に歩み寄る。
アリスが泡を喰って言い訳じみた声を上げ始めたが、手を振ってそれを黙らせた。
瞬きして、まじまじと老人を見上げる。
十四歳程度の少年の姿のマルコシアスより、上背のあるそのしわだらけの顔を。
老人が、さすがに不審げに眉を寄せた。
眼鏡をかけている。
その眼鏡の奥から、橄欖石の色の瞳が、じっくりとマルコシアスを見た。
不意に老人の表情が変わった。
まずは訝しげに動き――何かを閃いたように、はっと両目が見開かれ――それから、まさかそんなはずは、と言わんばかりの驚きへ。
彼が震える手で眼鏡を外した。
もう片方の手で眉間を揉む。
「……おお、これはこれは」
老人がつぶやいた。
「なんと。まあ。
違ったのなら申し訳ない――あなたは、『エム』では?」
マルコシアスは満足げに、にっこりと微笑んだ。
「なるほど、あんたはロッテの子供だ。本当なら僕が子守りをしているはずだったんだ」
「母から、どれだけあなたのことを聞いたでしょう」
老人が、きらきらと目を輝かせてマルコシアスの顔を覗き込んだ。
「なるほど、なるほど――聞いていたままだ」
「それは何よりだ」
マルコシアスは頷いて、首を傾げて老人を矯めつ眇めつした。
「あんた、名前はなんていうの?」
「チャールズ」
老人は応じた。
「チャールズ・エム・ベイリーです」
マルコシアスはにやりと微笑む。
「なるほど。僕のロッテは、子供に悪魔の名前をつけてはいけないと知らなかったみたいだね」
チャールズが杖をついたまま、ふらふらとよろめくように玄関を入り、マルコシアスの腕を掴んだ。
「立ち話では味気ない。どうぞ、どうぞ」
「どうせすぐに帰るよ」
マルコシアスは笑い声を上げた。
「わからないかい、今の僕には枷がかかってないんだぜ」
「母はいつもあなたのことを、悪賢く、皮肉屋で、ものぐさで、いじわるで、誰より優しいと言っておりましてな」
腕を引かれるままに踵を返しながら、マルコシアスは今度こそ爆笑した。
「なんて言いようだ」
アリスとカールが目を見開いて見守るなか、チャールズはゆっくりとマルコシアスを伴って応接室に入った。
かれにソファを勧め、自身も差し向かいのソファに腰掛ける。
きらきらと輝く、この世の奇跡を見るような眼差しでマルコシアスを見つめ、チャールズはしきりに目許を拭っている。
「母がいたら――どれほど喜んだでしょうな」
「まあ、仕方ないね。それも覚悟のうえだったし」
マルコシアスは無造作に応じて、首を傾げる。
「あの子は寂しがっていた?」
「私の見る限りでは、さほど。ただ残念がっておりました」
「だろうね、同じだ」
静かに言って、マルコシアスは自分の膝の上に置いた手に視線を落とす。
「――あの子がいないのは残念だが、あの子はいなくなったわけじゃない。
僕はあの子の一部で、あの子は僕の一部だ」
「あなたがつらい思いをしていることを、ずっと考えていたようでした」
そう言われて、マルコシアスはつと目を上げた。
そろそろこの交叉点にはいとまを告げるつもりだったが、しかし、その前に。
「あんた、見るからに老い先は短そうだね」
少年の姿をした悪魔の、いかにもあけすけな物言いに、チャールズ・エムは噴き出すように笑った。
笑いじわの刻まれた、その目許。
「そうかもしれませんな」
マルコシアスは軽く身を乗り出す。
「ちょっと伝言を頼みたいんだけど、いいかな?」
「伝言、ですか?」
チャールズが訝しそうに目を瞬かせる。
マルコシアスは頷いた。
「僕には未来永劫有り得ないことだけど、あんたたちは死ぬんだろう――死んだあとの世界なんてものがあるかもしれないんだろ?
じゃあ、そこに行ったあとに、僕のロッテに伝言を頼みたい」
チャールズは小さな笑い声を立てた。
それから少し咳き込んで、頷く。
「面白いことをおっしゃるな。なんなりと」
「――――」
マルコシアスは息を吸い込む。
――知っていたのだ。
知っていて、わかっていたに違いないのだ、かれの可愛いロッテは。
だが知っていても、わかっていても、どうしても最後の疑念を払うことは出来なかった。
そうわかる。
だからこそ。
今であってもなお、かれは、毎夜が彼女のために明けると思うのだ。
「『あんたの』――」
マルコシアスは目を細める。
いつか伝わるだろう言葉を、言葉に尽くせないほどの慈悲を以て、形作る。
「『あんたの、珈琲嫌いの友人は、あんたを誇りこそすれ、腹を立てたことなんてなかったよ』、――って」
だからつらいことなど何もなかった。
「あんたもそうわかっていたはずだ、――僕の可愛い間抜けなレディ」
後日談いったん完結!
もう少し長めのプロットの後日談案も頭の中にあったり……。
もし気が向かれましたら、
本編最終話「歴史的事実」を読み返すと面白いかもしれません。