後日談 03 旧知
到着した都市は、マルコシアスも知っているこのプロテアス立憲王国の首都、ローディスバーグである。
旧グレートヒルは、マルコシアスの最新の記憶によれば、もはや笑うしかないほどの惨劇の舞台になったはずだが、驚いたことになおも国政の中心としての立ち位置を守っているらしい。
マルコシアスがあまりに怪訝そうにするからか、カールが、これもまた怪訝そうに、
「――もしかして、議事堂爆破テロのことを知ってるの? ひいおばあさまも巻き込まれたって言ってたし、もしかしてマルコもそこにいたの?」
「…………」
「アリス、誰だっけ、最近学校でやったよね――あれを起こした……」
「ネイサン」
「そう、そいつが悪魔を使って議事堂をどかんと爆破したやつ。
――でも、それだけでしょ。別に地形が変わることのほどでもないでしょ」
平然と言われて、マルコシアスは天を仰いだ。
「……ロッテが、そういうことにしていいよって言ったんだろうね、そういう話になってるなら。そうじゃなきゃあの子のことだから、日記くらいには本当のこと書いただろうし。
――ロッテがそれでいいなら、それでいいや」
とはいえ、おのれの頑張りがなければ、ローディスバーグは二度と人間も悪魔も足を踏み入れることの出来ない死の土地になっていたはずである。
――そうは思えど、予想していたよりは面白くない気分にはならなかった。
マルコシアスが神の瞳を撃ったのは、あの夜を明けさせるためだった。
――かれのレディ・ロッテのために。
さて、到着したのはローディスバーグに五つある駅のうち一つ、ヴィッキー・ベン駅である。
人波に揉まれながらプラットホームを抜け、駅前の広場に出たマルコシアスは、二人の主人を後目に、ぐるりと周囲を見渡した。
大通りよりも高く造られ、一面に広がる階段を昇って辿り着く設計の、円形に広がる駅前広場。
転落防止のためだろう胸壁も敷石も、同じ花崗岩のブロックを積み上げられて造られており、年月を物語るなめらかな表面を見せていた。
広場の真ん中には時計が立っている。時刻は一時二十分。
――瞬間、マルコシアスは、自分でも思ってもみなかった事態に遭遇した。
こんなことは初めてだった――鮮やかに、ある冬の日の景色が目の前に立ち昇るように見えたのだ。
灰色の冬、ちらちらと雪の降る冬。
寒そうに身を竦めて行き交う雑踏の人々、時計や胸壁、街灯の上に薄らと積もりつつある雪。
時計が示す時刻は十一時二十分。
片手にはトランクの重み。
小走りに追いついてくる小さなご主人様――
――エム、食べたいものはない? 買ってあげるわ。
マルコシアスは息を吸い込んだ。
意識しないままにつぶやく。
「……この近くに、コーヒーハウスがあった」
「そうなの?」
そう応じたのはアリスだった。
とたん、マルコシアスの前に立ち現れていた幻は溶け消える。
「わたし、珈琲は飲めないわ」
マルコシアスは軽く笑った。
「……あぁ、僕も好きじゃない。
もう二度と飲んでみようとは思わないだろうね」
ここでも、マルコシアスはケルウィックのベイリー家から駅に向かったときと同じの乗り物に乗せられた。
きちんと聞いてみるにバスというらしい。
バスに揺られているあいだ、マルコシアスはまったく悪魔らしからぬことに、あれこれと思い出していた――かれのレディと乗った、路線馬車はもうない。
かれのレディがワッフルを食べた、あのコーヒーハウスはもうない。
ああレディ、可愛いロッテ、誘拐犯の家に上がり込もうとした、図々しくも大胆なロッテ。
一方かれのご主人さまたちは、いよいよ決戦ときが来たとばかりに幼い顔を緊張させている。
正直にいってしまえば、マルコシアスは彼らの依頼はもう捨て置いて、あちこちを散策したい気持ちが大きくなりつつあったのだが、
(……ロッテは怒るだろうな)
そう思って、何度目かにバスが停まったときに、決然と座席から立ち上がり(、ちょっとよろめき)、よたよたと降りていく二人の子供の後に続く。
バスから降りると、そこは閑静な住宅街だった。
見覚えはない。
かれのレディとともに訪れた、かれのレディを誘拐した男の家は、ここより手狭な敷地に建っていたいた、ような気がする。
そこの記憶は曖昧だ。
見渡してみると、敷石の整った広い車道。
縁石で区切られた歩道。
その両脇に、広々とした芝生に囲まれた邸宅が、それぞれ広い間隔を開けて点々と建っていた。
芝生と道を区切る、瀟洒な鋳鉄の柵。
邸宅によっては芝生だけでなく、灌木や藤棚など、こだわりを以て庭を整えている。
中には、芝生にテーブルを出して、ちょうど庭園でお茶をしている婦人たちの姿もあった。
またある邸宅前では、十をいくつか過ぎた頃と見える子供たちがボールを投げ合っている。
「こっちだよ」
カールに手を引かれ、マルコシアスは歩き出した。
――間もなくして、かれは眉を寄せた。
「……おや?」
かれに忠実に付き従う精霊が、囁くようにこの先で起こっている出来事をかれに伝えたのだった。
が、容易には信じられず、マルコシアスは鹿爪らしく問い質す。
「――ちょっと、本当だろうね?」
「マルコ、だれと喋ってるの?」
カールがぽかんとして尋ね、アリスが目を見開いて喰いついてきた。
「精霊? 精霊なの? まあすてき! わたしにも見える?」
「うるさいな」
正直にいえば、精霊に「姿を見せろ」と命じれば、アリスやカールの目に映るようにしてやることも出来たが、億劫でそれはしたくなかった。
何しろ致命の一撃から復帰したばかりで本調子ではないのだ。
ただため息を吐いて、マルコシアスは行く手に顎をしゃくった。
「……誰だっけ……あんたたちが訪ねてきたやつは、この先かい」
「クリスがひどい目に遭ってるって、精霊さんが言ってるのっ!?」
アリスが飛び上がり、ぱたぱたと走り出した。
カールがマルコシアスに念を送るような眼差しを向けてから、それに続く。
マルコシアスは嘆息してそれに続いた。
かれの少々足早のテンポで、子供たちに追いつくにはじゅうぶんだった。
そうして行き着いたのは、他と同じく広い庭を持つ邸宅の一つだ。
鋳鉄の門は開け放たれており、前庭は一見無人にも見えるが、そうではない。
灌木の茂みがあってその陰に、確かに一人の子供と、もう青年といってもいいような年齢の少年がいた。
そして――
「――おやおやおや!」
マルコシアスは思わず声を上げ、足を速めて二人の幼い主人を追い抜いた。
「奇遇だね! まさかこんなところで会うとは!
会えて嬉しいよ、グラシャ=ラボラス!!」
灌木の茂みにいた魔神、翼を持つ血色の斑点の散る白い犬の姿をした序列二十五番のグラシャ=ラボラスが、呆気に取られて薄青い真円の瞳を見開いた。
「――……は?」
グラシャ=ラボラスの茫然とした声を聞きながら、マルコシアスは以前では考えられなかったほどに愛想よく、かれに向かって手を振っている。
マルコシアスはつい最近まで、五百年前のことを根に持ってグラシャ=ラボラスを大いに嫌っていたのだが、もはやその片鱗もない嬉しげな笑顔である。
つまるところが回数だ。
最後に勝っていればどうでもいいのだ。
グラシャ=ラボラスに前回会ったときのことを気分よく思い出しながら――無論だが、かれのレディの前で過去の醜態を晒されたことは記憶から飛ばしていた――、マルコシアスはにやにやする。
かつての仇敵の凋落した姿ほど面白いものはない。
グラシャ=ラボラスも、こんな現場を見られたとあってはさぞかし気まずく思っていることだろう。
しかも自分に。マルコシアスに。
最後に十の序列の差を覆してかれを領域に叩き落とした、レディ・ロッテの魔神に。
グラシャ=ラボラスが不意打ちに唖然としているうちに、マルコシアスはわざとらしく両手を顔の前に出し、ひーふーみ、とその指を折る。
「やあ、グラシャ=ラボラス、久しぶり。元気になったようで何よりだ。僕も嬉しいよ。
えーっと僕たちが最後に会ってから、ざっと何年だろうね……」
「どうしておまえがここにいる、マルコシアス?」
グラシャ=ラボラスの愕然とした声に、マルコシアスはにやっと笑った。
「ちょっと待てよ、計算が合うぞ。
あんた、これが復帰戦の一戦目だね?」
「――――」
すうっと逸らされる薄青い目。
マルコシアスはますますにやける。
「はっ、はーん。あんた、僕に領域に叩き落とされてから今まで、魔術師に呼んでもらえなかったんだな? 僕に負けてから。僕にひどい目に遭わされてから。
ああ、あわれなイタチの格好のあんた、可愛くてなかなか好きだったぜ」
グラシャ=ラボラスが喉の奥で唸り声を上げる。
その被毛にばちばちと稲妻が絡み、四人分の悲鳴が上がったが、マルコシアスはそれに気づきもしなかった。
「はあはあ、さもありなん、さもありなん……。
グラシャ=ラボラス、これは親切心だけどさ、売り出し方を変えた方がいいんじゃない? 僕らが戦争で楽しい思いを出来たのは、もう二百年くらい前の時代なんだぜ……」
その場にいる四人の人間は、突如として始まった魔神どうしのやりとりに、目を点にして視線を仲良く往復させていた。
アリスはカールにしがみつき、見るからに異様なグラシャ=ラボラスの風体に竦み上がっているが、一方で好奇心も隠し切れず、目を見開いてマルコシアスとグラシャ=ラボラスを見比べている。
「僕は優秀で有能な護衛として有名だけど、あんたは違うからな。
あんたさ、人間を食べることしか能がないと、今どきの魔術師は呼んでくれないよ」
――これは事実である。
悪魔を加害に使用することは最も重い罪であり、些細な加害が認められるだけで、魔術師はカルドン監獄送りとなる。
マルコシアスはそれを知っていた。
耳許で元気の良い少女の声が囀っているかのごとく。
そしてマルコシアスの読みは当たっている。
グラシャ=ラボラスは、序列二十五番の強力な魔神だ。
だが、かれが活躍できたかもしれない最後の時代は、マルコシアスに敗北したことで幕を閉じてしまった。
今は、いわば兵器としてしか役に立たない魔神として、忌避の憂き目に遭っていたとして不思議ではない。
グラシャ=ラボラスも、そうなっていてはさぞかし困っていることだろう。
特に今は――致命の一撃から復帰したばかりで、是が非でも魔術師からの報酬で力を取り戻したいだろう今は。
「だまれ」
グラシャ=ラボラスが唸り声を上げる。
マルコシアスはしたり顔で、かれのすぐ後ろにいる、もう青年に近い年齢に達している少年に指を向けた。
「あんた、呼び出す魔神は考えなよ。グラシャ=ラボラスが暇しているかもしれないと思って目をつけたのは褒めてやるけどね。自分で御せない悪魔は危ないぞ、知らないのか?」
少年は茫然としている。
これがモーガスだろう。
マルコシアスにはどうでもいいが。
ついでに、グラシャ=ラボラスにびびり上がって尻餅をついている少年があわれなクリストファーだろうが、これもどうでもいい。
モーガスとしても、従弟をいじめている最中に、乱入してきた悪魔に説教を喰らうことは予定になかったのだろう。
無言のまま、ぱちくりと瞬きを繰り返している。
マルコシアスはグラシャ=ラボラスに目を戻した。
かれは首の後ろの被毛を逆立てて怒りをあらわにしている。
「引き受ける仕事は選びなよ、グラシャ=ラボラス。子供に使われて子供を脅すあんたなんて、僕も見たくなかったよ」
そう言って、わざとらしくも目許を押さえる。
ちなみにこれは嘘である。
だれがどんな仕事をしていようがどうでもいい。
なんならその貴賎もわからないのが悪魔というものだ。
グラシャ=ラボラスは雷鳴のような声を上げた。
相当気まずいらしい、かれの声が普段よりも高い。
「こちらも同じだ、マルコシアス。子供に使われているのはお互いさまだろうが」
「おお、正論だ。珍しい」
ちなみに双方、最後に会ったときも二人ともが子供に仕えていたわけだが、そのことに言及することはなかった。
理由は単純で、グラシャ=ラボラスはあのときの双方の主人のことを、マルコシアスはあのときのグラシャ=ラボラスの主人のことを、綺麗に忘れ切っていたためである。
グラシャ=ラボラスは相当頭にきたのか、矢継ぎ早に言っている。
「マルコシアス、おまえも領域に叩き落とされたともっぱらの噂だっただろうが。さぞかし無様な負けっぷり、この目でみられなかったのが残念だ――」
「ああ、残念ながら、グラシャ=ラボラス。僕は負けたわけじゃない」
胸を張ってそう言って、マルコシアスは腕を組んだ。
「いいことを教えてあげるとすると、あんたが領域に転落してすぐ、僕も引き籠もる羽目になった――残念ながら」
「いい気味だ」
「まあ同時に、モラクスやらストラスやらガープやらベリトも一緒に引き籠もることになったんだから、仕方ない」
「……は?」
「あ、その噂は聞いてない? それとも僕の引き籠もりっぷりが、他の連中の倍だったから噂になったのか?」
グラシャ=ラボラスが押し黙った。
こればかりは下手を打って余計なことを口走るのを恐れたのだとわかる。
マルコシアスは得意になって微笑んだ。
「いやあ、お祭り騒ぎだったんだぜ。あんたもいたら重宝したのに。
アモンとやり合うわ、もっとすごいやつとやり合うわ、まああれは大変な夜だった」
「……なにを言っている?」
グラシャ=ラボラスの困惑を華麗に無視して、マルコシアスはアリスとカールを振り返った。
二人とも目が点になっている。
そんな二人に、マルコシアスは簡潔に告げた。
「――きみたち、適当な家にお邪魔して、電話を借りな」
「……え?」
ぱちぱち、と瞬きして、カールがつぶやく。
マルコシアスは首を捻った。
「あれ、違うの? 僕のレディならそうすると思うんだけど。そこのやつがそこのやつを、わが懐かしのグラシャ=ラボラスを使って怪我させたんだろう。
通報しなよ。そこのやつ、捕まるよ」
尻餅をついていたクリストファーが、ようやっとよろよろと身を起こしつつ、「悪魔が法律を喋ってる……」と、茫然としてつぶやいた。
一方焦ったのがモーガスである。
彼とて馬鹿ではなく、せいぜいが相手を脅す程度にしか悪魔は使っていなかっただろうが(序列二十五番が泣いてるぜ、とマルコシアスは思う)、通報されればリクニス学院は退学間違いなしとはわかっていたのだろう、上擦った声で叫んだ。
「――っ、駄目だ! だめだめ、止めろ!」
そしてグラシャ=ラボラスは、不幸にも、認識が戦争時代で止まったままの悪魔だった。
膨れ上がるように爆発する空気から、危ういところで小さな二人の主人を両腕にそれぞれぶら下げて、ひとっ飛びでそれを躱す。
本調子ではないまがいものの身体が軋むように痛んだが、それは顔には出さなかった。
人間にはありえないほど高くに飛んでから着地し、マルコシアスは左手にぶら下げたカールに尋ねる。
「僕への報酬の品は無事だろうね?」
「あ、無事です……」
カールは涙目である。
一方アリスはきらきら目を輝かせており、これはロッテの血が濃いぞ、とマルコシアスは思う。
一瞬にして、整えられていた芝生はひっくり返って泥が露出し、一部はいかなる原理かぬかるんでしまっている。
灌木も半分が吹き飛ぶ惨状に、まず誰よりもモーガスが苦悶の表情を浮かべていた。
『だから、自分がちゃんと命令できない悪魔は呼んじゃだめなのよ』
声が聞こえた気がしたが、これはアリスの声ではない。
それに誰にも聞こえていない。
マルコシアスは微笑んで、アリスとカールを無頓着にぽいっとその場に放り投げた。
ぎゃっ、と小さく悲鳴を上げる二人には一瞥もくれず、マルコシアスは前に進み出た。
――今、真正面からグラシャ=ラボラスとやり合った場合、マルコシアスに勝ち目はない。
二人のあいだの序列の差は、それほど甘いものではない。
かつてマルコシアスがかれを降したのは、『神の瞳』を得ていたからこその快挙なのだ。
『神の瞳』はマルコシアスの力を増したが、だが今のマルコシアスは、致命の一撃――それも、二つの〝真髄〟が受けた致命の一撃から復帰したばかりで、万全とは程遠い体調なのだ。
だが。
「――グラシャ=ラボラス、やめてくれ」
マルコシアスはおだやかに告げた。
「頼むよ、グラシャ=ラボラス。
僕にあんたを、もういちど領域に叩き落とすような真似をさせないでくれ」
歩いていく――その足許、ぬかるみが露出した足許でさえ、精霊が厳重に守ってマルコシアスのかりそめの靴には泥よごれすらつかない。
「僕にやられたときのことを覚えているかい?」
「ああ、忘れてやれればよかったんだが」
グラシャ=ラボラスが歯を剥き出す。
「たかが百年足らずで、私の気が収まるとは思うまいな」
「あんたが僕のレディを狙ったからだ」
悪びれなくそう言って、マルコシアスは足を止めた。
「種明かししよう、グラシャ=ラボラス。
――あのときの僕には『神の瞳』があった」
すかさず襲い掛かって来ようとするかれを掌で留めて。
「だけど、もうない。もうどこにもない、悪いね」
――『神の瞳を撃て』。
「なんだと――」
気色ばむグラシャ=ラボラスを、マルコシアスは鼻で笑う。
「あんたは本当に面白い夜を見逃したね。『神の瞳』は僕が砕いてしまった。
フラウロスあたりなら見ていたから、覚えているかもしれない。
――ねえ、グラシャ=ラボラス。僕には確かにもう『神の瞳』はないけれど、あれを持ったことがないときほどもう弱くはない」
きっぱりとそう告げて、マルコシアスは人差し指を持ち上げる。
「僕がわかるか、グラシャ=ラボラス。
僕は序列三十五番、護衛の任を仕損じたことはないマルコシアス、過去には『神の瞳』の持ち主だった、レディ・ロッテの鉄の翼だ。
――だから正直に言って、復帰したてほやほやで、ぜんぜん調子が出ないあんたを、もういちど領域に叩き返すことも出来る」
息を吐く。
「――けど、頼むよ、そんなことはさせないで」
「――――」
グラシャ=ラボラスが、初めて敵意以外の感情に息を吸い込んだ。
――未知のものへの、本能的な警戒だった。
「マルコシアス?」
「頼む。――あんたは、あのとき僕が仕えていたレディを覚えているはずだ。髪の色も目の色も、どんな子だったかも忘れていても、あのときあそこに、僕のご主人様がいたことを覚えているはずだ」
「……は?」
「あの子はここにはもういない。あの子は死んでしまった。
グラシャ=ラボラス、あんたはあの子と同じ部屋にいたことのある、僕があの子のためにどれだけ頑張ったかを知っている、もう数少ない生き証人なんだ。
――そんなあんたをこの交叉点から遠ざけるような真似を、僕にさせないでくれ」
グラシャ=ラボラスの真円の瞳が揺れる。
動揺ではなく困惑に。
何を言われているのか全くわからない、突然に空を形作る緑色のチーズについて話されたかのような、不可解の感情に。
「……何を言っている?」
「わからなくていいんだ」
マルコシアスは言った。
「それが普通だ。それが正常だ。
僕が言っているこのことを理解できる同胞を、僕は僕自身を含めて二人しか知らない。もう一人はもういない。
だからグラシャ=ラボラス、理解しなくていい。ただ聞いてくれ」
マルコシアスは片手を胸に当てる。
「僕はあんたを領域に叩き返すことが出来る。格下の僕に、二度もそんな憂き目に遭わされたと後世に吹聴されたいのか? 僕はするね。確実にする」
「…………」
「それが嫌なら自分で引っ込め、グラシャ=ラボラス。
報酬もどうせ大したことはないんだろう」
告げて、胸に当てていた片手を、真っ直ぐにグラシャ=ラボラスに向かって伸ばす。
二人の魔神が睨み合って、数秒。
やがてゆっくりとグラシャ=ラボラスの姿が薄れ、消えていく。
――マルコシアスの虚勢だけでは、グラシャ=ラボラスもそれを信じることはなかっただろうが、しかし。
マルコシアスの本心からの、そしてグラシャ=ラボラスには決して理解することの出来ない、その必要もないある種の感情が、その未知への警戒が、かれに無傷で領域に戻ることを選ばせていた。
▷○◁
そのあとの悲喜こもごものモーガス少年への処遇や、クリストファー少年への救済は、マルコシアスの関心を一切引かないことだったから、かれはのんびりと芝生を歩いてかれの今の主人を待った。
二人の幼いご主人さまは、慌ただしくモーガス少年の両親へモーガス少年の悪事をまくし立てたあと、「マルコ! マルコ!」と連呼して、マルコシアスめがけて走ってくる。
マルコシアスはそちらに目を向けて、首を傾げた。
「……泥遊びでもした?」
「なんてこというの! これ、マルコがわたしたちをぽいってしたときに、泥んこに嵌まっちゃったのよ!」
アリスが憤然と腕を振り回す。
まじまじと見れば見るほど、二人はしっかり泥に嵌まった汚れまみれだ。
「ああ、そう」
淡々と頷くマルコシアスに、カールが「怒られるよぉ」と涙目でつぶやき、アリスがマルコシアスの手を引っ張った。
「信じられない! ひいおばあさまのことも、あんなふうにぽいっとしたりしたの?」
「ロッテは……」
マルコシアスはつぶやく。
微笑む。
「放っておいても泥に嵌まるような子だから……」
「そんなことより」
カールが悲劇的な表情で言う。
「はやく帰らないと、怒られるよ」
アリスも真顔になった。
「あら、そうね。ほんとそう」
かくして帰りの列車において、泥まみれのアリスとカールがいかに居心地の悪い思いをしたのか、それはマルコシアスの関知するところではなかった。
かれはただ淡々と、幼いご主人さま二人に付き従うのみである。
ケルウィックに帰り着いたときには既に夕方近くなっており、幼い二人が「まずいまずい」と蒼褪めるのを後目に、マルコシアスがため息まじりに、彼らの「ばあや」の注意を逸らしてやって、彼らを浴室に放り込む。
どうやら先にアリスが身体を洗って着替えたらしく、まだ浴室内で水音がしているうちに、アリスがひょっこりと廊下で待っていたマルコシアスのそばに寄ってきた。
マルコシアスはそのとき、廊下の壁についた傷のひとつひとつを観察しているところだった。
この屋敷の形そのものから、ここで暮らしたかれのレディを彫り出そうとしているかのごとく。
とことことマルコシアスの隣に寄ってきたアリスが、つんつん、とマルコシアスの裾を引く。
マルコシアスは淡い黄金の瞳を彼女に向けた。
「なにかな、ちびさん」
アリスはきらめく瞳でマルコシアスを見上げている。
そして、世界で最たる秘密に触れるかのように声をひそめた。
「ねえ、マルコ。
あなた――」
尋ねる言葉は素直だった。
好奇心に彩られたその声には、まだ、「そんなことはあるはずがない」という常識も、知識もない。
そしてアリス自身は、これから成長して、あらゆる常識を身に着けていく中で、しかし確固として、このときのことを覚えていた。
幼い自分が見上げた悪魔。
深緑のシャツのしわ。
かれが両手をトラウザーのポケットに突っ込んで、無造作に立っていた立ち姿。
その、伸びすぎた灰色の髪の下の、感情の窺えない淡い黄金の双眸。
尋ねたおのれの幼い声。
成長してからであれば、口に昇らせなかっただろうその言葉。
「あなた、ひいおばあさまのこと、好きだったの?」
そしてマルコシアスが鼻で笑った、かすかな声。
返答。
確たる返答。
「まさか」
魔神の返答は明瞭だった。
即答の否定だった。
その悪魔は、事も無げに応じていた。
「愛しているよ」
「好き」も「だった」も間違っている。
かれは彼女を「愛して」「いる」。