後日談 02 汽車
アリスとカールは、「じゃあ、モーガスのうちにクリスを助けに行こう!」と、今にも家を飛び出しそうな風情を見せたが、マルコシアスは了承しなかった。
「きみたちがぽんこつなことをしでかしたせいで手間がかかる。――ちょっと世の中を見てからじゃないと、僕はどこにも行かないよ」
というわけである。
精霊に探らせることも考えたが、まずは自分の目で見ておきたい。
マルコシアスは――ただでさえ〝真髄〟が、それも二つとも――致命の一撃を受けた後である、精力ありあまっているとはいえず、連続して生き物の姿をとることに辟易しながらも、いったんは猫の姿になった。
灰色の小猫の姿をとったマルコシアスに、アリスが嬉しそうな歓声を上げて手を伸ばしてきたが、その手は素気なく躱し、子供部屋の窓から外に出る。
――世の中は変わっていた。
蒸気自動車がしっかり実用化され、道路を爆音を立てながら行き来している。
電話は今や各家庭にあった。
何やら雑音混じりの音を流す小さな箱に、人間が熱心に耳を傾けている――人間の会話を拾うに、どうやらラジオというらしい。
大きな建物の一室を覗いてみると、そこでは風変わりな一つの機械を一人の音が叩いており、叩いているのは一つ一つにアルファベットが振られた小さなキーで、がしゃんがしゃんと音を立てるその機械が、着々と文章が記された紙を吐き出していた。
これも、人間たちの会話を聞いて推測するに、タイプライターというらしい。
なんてこった、と首を振り、マルコシアスは元来た子供部屋に戻った。
子供部屋では、アリスとカールがそれぞれのベッドに腰掛けて、何やら言い争っている。
にゃあ、と窓際で鳴いてみると、とたんに口論は打ち止めになり、アリスがぱっと立ち上がって両手を握り合わせた。
「ああ、マルコシアス! ちゃんと戻って来てくれたのね!」
「――信じられない」
マルコシアスは部屋の中にすたりと降り立ち、痛みに呻きつつ、元の少年の姿に戻った。
しばらくはもう姿は変えないぞ、と心に決めつつ、腕を組む。
「きみたち、本当に魔術についても悪魔についても知らないんだな」
嫌味たっぷりにそう言ってから、首を振る。
「――まあ、大体わかった。もう出発していいよ。ロッテは財布を忘れたことがあるから気をつけて」
もちろんよ! と元気よく答え、男の子が小さなリュックを、女の子がポシェットを持ち上げる。
男の子の方が、大事そうにシャーロットの手記をリュックに入れた。
それを見守りながら、マルコシアスは首を傾げた。
「――それで、ここはどこなの」
「わたしたちのおうちよ!」
「それはわかってるんだってば。――地名を訊いてるんだよ」
「ケルウィック」
「ほう、わがレディの故郷だ」
「もちろんそうよ。ここはひいおばあさまが住んでいらしたところだもの」
「ほう」
マルコシアスは周囲を見渡した。
「初めて会ったとき、ロッテが帰りたがってた家か」
「来たことはないの?」
「ないね」
言いながら、マルコシアスはカールが子供部屋の扉を開けるのを見守る。
「ロッテも僕を呼びたかっただろうが、残念ながらこっちは調子が悪くてね」
カールが廊下に顔を突き出し、左右を見渡して、「誰もいないよ、行こう!」と合図する。
アリスがこっそりと囁いてきた。
「今日はね、おとうさまとおかあさまはゴドウィンのおじさまたちとお食事で、おじいさまは一日図書館にお籠もりをされる日なの。
だからお外に行こうとしたら、ばあやに絶対に口やかましく言われちゃうわ」
「ばあやとやらに何か言いつけておかなかった、きみたちの計画性には頭が下がるよ」
マルコシアスの皮肉に、アリスは大真面目な顔で応じた。
「あら、そんなに褒めなくていいのよ」
子供部屋を出て廊下を進み、大階段を降りる。
階段の踊り場に、大きな肖像画が掛けられていた。
マルコシアスは瞬きして、その肖像画を見上げる。
かれは悪魔だから、通常は絵画になど興味は惹かれないが、――これは。
――家族の肖像だ。
椅子に女性が腰掛け、その膝の上にまだ小さな子供。
椅子の背凭れに手を置いて、男性が立っている構図。
男性は金茶色の髪、瞳は青灰色に塗られ、画家が美意識を振り絞って底上げしたような、透き通るような美貌の持ち主として描かれている。
女性の方は金色の髪を結い上げており、瞳は橄欖石の色に塗られ、生真面目な表情。
大きな青い尖晶石の首飾りを下げている。
「――これ、ロッテ?」
マルコシアスがつぶやくと、カールとアリスが振り返った。
カールが、「早く行こうよぅ」と哀れっぽい声を上げる一方で、アリスは訳知り顔で頷く。
「ええ、そうよ。ひいおじいさまと、ひいおばあさまと、おじいさまよ」
「――見たことあるぞ……」
悪魔には有り得べからざることに、マルコシアスはそうつぶやいた。
本来であれば、人間になど然程の関心は示さず、一仕事終えればすぐに忘れ去るはずの悪魔が。
「……ロッテのこれ、僕があげたやつだな。元を辿ればストラスが作ったのが気に喰わないが、まあいいだろう。
――こっちのやつ……ああ、そうか、レディがご執心の“アーニー”か」
アリスはきょとんとしたようだったが、意味のわからないことに執心する心根はないらしい。
「行きましょ」とマルコシアスを促して、ぴょんぴょんと階段を駆け下りていった。
邸宅の外に出ると、自動車の音はいっそう大きく耳についた。
人が跨って一心不乱に足許のペダルを漕ぐ乗り物を見て、マルコシアスは「あれは?」と。
「自転車だよ。知らないの?」
カールが応じ、マルコシアスは冷ややかに淡い黄金の瞳を細めた。
「今の僕のご主人さまたちが、全く怠慢にも召喚陣をきちんと描いてくれなかったせいでね」
その語調に、機嫌を斜めにした悪魔の危険性を正確に聞き取って、カールが「ごめんなさい……」と小さくつぶやいた。
二人の子供がマルコシアスを挟み、かん高い声であれこれと喋りつつ、乗合馬車――だと、マルコシアスは思った――の駅までかれを連れていく。
ややあってそこに到着したものは、しかし、マルコシアスの予想を裏切っていた。
全長二十フィート程度、四輪の上に風変わりな馬車の車体に見える箱が乗っている。
箱は鮮やかな緑色に塗られており、でかでかと「全ての人のためのパルソン」と描かれている。
車内というべき、箱の内部に当たる席はもういっぱいになっているようだが、その外側にも座席は設けられており、そこならば空きがあった。
馬車であれば御者が座る座席は前方にあり、そこは小さな二輪で支えられている。
御者がベレー帽を脱ぎ、「三人?」と尋ねる。アリスが元気よく返答してポシェットから硬貨を取り出して御者に渡し、ややもたつきながらも座席に登っていった。
カールがそれに続き、最後にマルコシアスが、なんとも自分を間抜けに感じながらも座席に収まる。
「――はあ、世の中も変わったねぇ」
膝に頬杖を突きながらつぶやく。
乗合自動車が動き出す。
二人が賑わう町並みのあちこちを指差して、いちいちマルコシアスに説明する。
「あれはよく行くパン屋さん。ビスケットが美味しいの」だの、「わたしたちが好きな帽子屋さん。行儀よくしていると飴をくれるの」だの、「お父さまがお勤めの銀行」だの、「あそこにてっぺんが見えているのが博物館。ひいおばあさまの手記を売ってくださいって、おじいさまにしつこく言っているの」だの。
「ほう、ロッテはそんなに有名人になったの。――いや、なるか……」
「そりゃそうだよ」
カールが床に届かない足をぶらぶらさせながら言う。
「魔術師の……なんだっけ。文字。あの六つめ? だっけ。それを見つけたのがひいおばあさまだもん」
「――――」
マルコシアスは数秒のあいだ絶句した。
一瞬、本当に瞬きの間だけ、「なんだよ、召喚陣とシジルを省略して僕を召し出したことで有名になったんじゃないのかよ」と思いこそしたが、それはそれとして――
「――そりゃすごい」
「ベイリー家の唯一のウリだよ」
「ひいおじいさまが学校を建てたことを忘れてるわよ」
「おじいさまが言ってたよ。えーっと、なんていうんだっけ。悪魔の印――」
「シジル」
「そう、それ。それがいくつか、ひいおばあさまのおかげで簡単になったんだって。
きみのもそうだよ、マルコシアス」
マルコシアスはゆっくりと瞬きした。
「――それはそれは」
――繰り返し繰り返し、〈マルコシアス〉のシジルを描く彼女を想像する。
想像というのが正しいのかと疑うほどに鮮明に。
そしてやがて、シジルを描く煩雑さに癇癪を起こし、「文字がもう一つあればいいんでしょ!」と叫ぶ彼女を想像する。
周囲から、出来るわけがないと言われてもそれを相手にせず、おのれが決めた道を突き進むかれのレディを――
「おお……」
呟く。
「ロッテはよほど僕に会いたかったらしい」
アリスがカールに何か囁き、カールが「確かに」と返す。
そして二人が揃ってマルコシアスを見上げた。
「きみの名前、目立つよね」
「好きに呼びな。大抵の主人はそうする」
「ひいおばあさまは何て呼んでたの?」
「教えない。教えたところでその名前はきみたちが呼んでいいものじゃない」
カールとアリスがまたひそひそと言葉を交わし、ややあって力強く頷いた。
「わかった。――じゃあ、マルコ。マルコって呼ぶよ」
「ほんとさ」
マルコシアスは独り言つ。
「僕を単純な名前でしか呼べないの、ロッテの呪いか何かかな」
乗合自動車で駅まで到着すると、駅は大変な人混みだった。
日傘を差した婦人や、かっちりした服装の紳士が駅前に屯している。
切符を買うのは二人の幼い主人に任せ、マルコシアスは駅の、大きな硝子のドームを内側から見上げていた。
「――切符買えたよ! 行こう!」
元気のいいカールの声に視線を下に戻す。
そのそばではアリスも誇らしげにしていて、「わたしがちゃんと誤魔化したから、子供に見えても切符を売ってもらえたのよ」と言っている。
「――子供に見えても、って。子供だろ」
つぶやいて、マルコシアスは促される方へ足を進めた。
駅のプラットホーム。
石炭の燃える匂いが染みついた広い空間も、人でごった返している。
アリスとカールは、切符に記された数字と合致するプラットホームを探すために行ったり来たりし、付き合わされるマルコシアスはうんざりした。
ようやくお目当ての汽車を見つけたときには発車時刻が迫っており、閉まりかけた扉の間に滑り込む羽目になる。
切符は二等客車のもので、空いているコンパートメントに落ち着き、二人の子供はさも大仕事を終えたかのように、ふう、と額を拭っている。
「どうなることかと思ったわ」
「それは僕も」
マルコシアスはうんざりしながら窓際に座り、かん高い汽笛の音とともにプラットホームを滑り出した汽車が、町中の光景を疾走していく様を見守っていた。
その様子を見て、アリスがふと思いついたように尋ねる。
「――ひいおばあさまとも、こうして汽車でどこかへ行ったりしたの?」
「ああ……」
マルコシアスはつぶやくように応じた。
「――田舎町から首都に出るために、汽車に乗ったことはあったな。あのときはこういう小部屋じゃなくて……」
「あら、三等客車だったの」
「きみのひいおばあさんは、家出の最中だったからね。僕の分の切符が買えないと言われたから、僕はあの子の腕輪に化けていた」
アリスとカールは、「ふうん」という顔。
――悪魔が思い出話をすることなど、まず有り得ないはずだという常識が、この二人にはまだない。
悪魔がかつての主人を、こうまで鮮明に覚えていることなど有り得ない、有り得たとしてそれは、そのかつての主人にとって厄災にしかならなかったはずだという常識が。
「じゃあ、男の子の格好で汽車に乗ったことはないのね」
「あることはあるが、あのときはロッテの言いつけで、別の人間を守っていた」
「ひいおばあさまとはないのね」
アリスは言って、何やら気の毒そうにマルコシアスを見た。
「ひいおばあさまはあなたのことをたくさん書いているけれど、あなたと経験したことはあんまり多くないのね」
マルコシアスは苦笑した。
アリスに対する苦笑ではなくて、自然と出てくる応答への苦笑、悪魔としてあるまじきおのれの返答への苦笑だった。
「そうかもね。――ただ、経験させてやれたことは多かっただろうなと思っている」
カールが「なにそれ」とつぶやき、アリスはきょとんとしたような顔で、まじまじとマルコシアスを見つめ――ややあって、少女に独特の一種の感性で、何かに気づいたようだった。
まあ、と小さくつぶやいて、ときめいた瞳でマルコシアスを熱心に眺め始めたが、それに気づく程度にすら、マルコシアスは彼女に関心を寄せてはいなかった。
続くと思いますが、続きがいつになるかわからないので、
毎度のごとくで申し訳ありませんが、
いったん完結マークをつけます。