後日談 01 召喚
後日談です。
マルコシアスがロッテの曾孫に手を焼く様子にご興味のある方のために。
存在の根本が腐って捥げようとしているかのような、陰鬱な苦痛。
動こうとしても動けず、周囲を見渡そうとしても何も見えない、暗澹たる長い時間。
あれほど手を掛けてきた領域が奪い取られていくのを感じれば、それは心境として大いに苦痛に感じるだろうという予測に反し、二つの〝真髄〟が致命の一撃を受けたとあって、もはや周囲の様子すら分からない、圧倒的な隔絶。
意識があるのかないのかすらさだかではなく、思い出すのはあの一瞬、おだやかな緑色の独眼が砕け散っていったあの一瞬のこと。
負け戦は避けられただろうという、自負に似た確信ばかりを反芻する。
――その中であってさえ、何度も何度も、自分を呼ぶ声は聞こえてきていた。
手足があったとすれば、その先を遠慮がちに引っ張られるような、それは召喚の呪文の要請を、致命の一撃を受けて毀損された、〈マルコシアス〉の〝真髄〟が感じ取っている証左だった。
あるいは、もう一つの、ただ一人しかその名前を知るはずのない〝真髄〟さえ。
――その名が呼ばれるのだから、呼んでいる召喚者が誰なのかは分かる。
召喚の呪文は遠慮がちに、数年に一度といった頻度で、しかし根気強く唱えられ続ける。
その中には他の誰か、〈マルコシアス〉が致命の一撃を喰らったことを知らない魔術師の召喚も混ざっていたのかも知れないが、それはどうでも良かった。
儚い期待をかけて、未練がましく、ものは試しとばかりに自分を呼ぶ声。
――ああ、ごめんよ、僕のレディ。
かれはつぶやくが、つぶやくための声すらない。
――しばらくはまだ動けそうにないんだよ。
とはいえ、呪文を唱えられるのならばあの子は元気なのだ。
そう思えば悪くないような気もするのだから奇妙なものである。
そうして、疲れ切って何十年を過ごし、やがて召喚の呪文もぱったりと唱えられなくなり。
ようやく起き上がることができ、荒らされに荒らされ、略奪されたかれの領域にがっかりした声を漏らしたかれは、復活がてらに領域をまた奪い返し始めた。
序列でいえば並び立つ順位にいるかれの弟分を領域に招き、「話が違うじゃねえか」という文句を受けつつ、借りを清算するためにもてなしもしたが、それはもう百年近く前、とある魔術師がかれの弟分に約束した報酬のためである。
強制されたわけでもないのに律儀なことだ、と自分でも思うが、そう指摘されるとかれは微笑んだ。
「まあ、僕は誠実で忠実な〈マルコシアス〉だからね」
そして、あくせくと領域の奪還のために働き続けたあるとき。
――名前を呼ばれた。
それがわかった。
召喚だ!
よしきた、と一声叫び、かれは交叉点の魔術師から得る報酬にて、ふたたび力を増すことを期待して、召喚陣の要請に応え――
――立ち上がり、ぐるりと周囲を見渡した。
もくもくと煙が立ち昇る召喚陣の上。
かれが召喚に巻き込んだ精霊たちが、きらめきながら周囲を泳ぎ始める。
かれは咳払いし、いつもの口上を述べ始めた。
「――さて、召喚者、要請者、僕の主人たろうとする魔術師さん。
あんたの望みと報酬を聞こう。
報酬しだいで僕は頷いて、務めを果たすまであんたのしもべに……」
ここまで言って、マルコシアスは思わず口を噤んだ。
――何かがおかしい。
なんだ、この違和感は。
煙が晴れていく。
相対する向かい側の小さな円の上に立つ人影が、それでよく見えるようになった。
――そこに、よぼよぼになった彼女がいることを期待していなかったといえば嘘になる。
奇跡の一つでも起こって、僅かの間でも顔を見ることが出来ればと。
だが、そうでなかったとしてがっかりはしない。
彼女が彼女らしく生き抜いたことはよくわかっている――そしてマルコシアスはその生きざまこそをこよなく好んでいる。
そこにおのれの眼差しがあろうがあるまいが、それは大した問題ではない。
――が。
狼の姿ではなく少年の姿をとったマルコシアスは、激しく目を瞬かせた。
「――え……はあ?」
ここまで驚いたのは、かつて間抜けなレディが〈身代わりの契約〉を結び忘れたのだと気づいたとき以来だ。
召喚陣の上には、確かに人がいる。
だが、どう考えてもおかしい。
――一つに、年齢。
そこにいる人物は何をどう目を凝らしても、せいぜい十歳程度にしか見えない。
これほど幼くして召喚を成功させられる人間がいるはずがないのだ。
(ロッテでも十四歳だったっていうのに……)
――そしてもう一つ。
数がおかしい。
マルコシアスは淡い黄金の目をこすり、目を上げ、もう一度目をこすった。
だが、目の迷いなどではなかった。
――悪魔と相対する円の中では、どう見ても十歳程度と見える二人の人間が、不安と好奇心をいっぱいに湛えて身を寄せ合っていたのである。
「――えーっと、なんの冗談?」
マルコシアスは茫然とつぶやいた。
二人の魔術師が共同で一人の魔神を呼び出すなど、聞いたこともない暴挙だ。
一体誰が報酬を払ってくれるのだ。
二人の人間は、円の中で身を寄せ合って、何かをひそひそと囁き交わしている。
二人とも身形がよく、あまり見かけない服装をしていて、小綺麗だった。
二人揃って金色の髪をしており、片方はそれを短く整え、もう片方はそれを肩の下まで伸ばしてリボンで飾っている。
よく見ると男の子と女の子だ。
男の子の方は、糊のきいた白いシャツに、サスペンダーのついた茶色い半ズボンを穿き、茶色いかっちりした上着を着ている。
女の子の方は、襟にリボンの飾りがついた、糊のきいた白いシャツが、腰のところから桃色のスカートに切り替わっている、風変わりな服装。
二人とも脛までを覆う白い靴下に、男の子は茶色い、女の子は黒くて丸っこい、ぴかぴかの靴を履いている。
マルコシアスは耳を澄ませた。男の子と女の子がひそひそとやり取りしている言葉が、それではっきりと聞こえてくる。
「――狼のかっこじゃないよ」
「でも男の子にもなるって書いてあったでしょ」
「ねえ本当にだいじょうぶかなあ」
「だいじょうぶに決まってるわ」
「でももうだいぶ昔のことなんだぜ」
そのとき、マルコシアスから見れば右側にある窓の外から、耳慣れない大きな音が聞こえてきた。
ぶろろろろ、と響いたその音に、マルコシアスは眉を寄せる。
周りを見渡してみる。
――明らかに子供部屋だ。
部屋の両端にそれぞれ子供用のベッドが置いてあり、ベッドのそばには低いデスク(片方はよく整頓されており、もう片方はたいへん散らかっていて、クレヨンが今しもデスクの上を転がって落下しようとしているところだった)。
窓と反対側の窓際には本棚があり、本が詰められている手前には、子供用の足台が置かれている。
ここは部屋の中央で、本来であれば絨毯が敷いてあるのだろう――丸い形の絨毯が、引き剥がされて扉の方に寄せられている。
ことん、と音を立てて、クレヨンが床に落下した。
マルコシアスはそれをチョークだと思った。
その音が合図だったかのように、二人の幼い人間がマルコシアスを見つめた。
つぶらな瞳、男の子は青い目をしていて、女の子は青みがかった緑色の目をしている。
男の子が口を開いた。
「――ええっと、助けてほしくて呼んだんだ」
「だろうね、大抵の人間はお茶をするために僕を呼んだりしない。
この僕、序列三十五番のマルコシアスを」
思わず噛みつくように返してしまった。
威厳を損なわずにいられるならば、両手で顔を覆って嘆き悲しんでいるところだ。
前回の召喚では、その場の人間の視線を一身に集め、史上類を見ない召喚に堂々と応えたマルコシアスが、まさか子供部屋で召し出されようとは。
「だって助けてくれるって書いてあったんだもの」
女の子の方がそう言った。
マルコシアスは苛立ちのあまり、喉の奥から狼の唸り声を発してしまう。
「魔術師の常識を悪魔の身ながら教えて差し上げますとね、それは報酬しだいなんだよ」
「――――」
男の子と女の子が額を突き合わせ、まじまじと目配せを交わし合う。
女の子の方が、気難しい顔で小さな本を取り出し、それを目の前で開いた。
――その眉間のしわ。
見事な縦線。
「……ん?」
マルコシアスは既視感を覚えて眉を寄せた。
女の子の方は、不機嫌そのものの表情でその本とマルコシアスを見比べ、頬を膨らませている。
「――あなた、マルコシアスでしょう? ひいおばあさまを助けた魔神でしょう?」
「――――」
マルコシアスはたっぷり十秒、沈黙した。
ついで両手を取り出して、数字をあれこれ数えてみる。
(僕が領域でへばっていたのがざっくり百年くらいだとして……――わお)
マルコシアスは目を上げて、女の子をまじまじと観察した。
「――ひいおばあさまとやらの名前を教えてくれるかな、おちびさん?」
「ちびじゃないわよ、そろそろレディよ」
「ちびじゃないか、レディを名乗るには色々と足りないね。
――で、ひいおばあさんの名前は?」
女の子は男の子と目を見交わし、平然と答えた。
「シャーロット・ベイリー」
マルコシアスは瞬きひとつせず固まった。
「――――」
「わたしはアリス、こっちはカールよ。わたしたち双子なの」
「――――」
「ひいおばあさまは、あなたはとっても親切な魔神だって書いてるのに、変ね」
マルコシアスは思わず額を押さえた。
「ちょっと待って。それ、ロッテ――レディ・シャーロットの手記だか日記だかなの?」
「そうよ。あちこちの博物館がこれをほしがってるんだけど、おじいさまは絶対におゆずりにならないの」
「おお、そんな価値のあるロッテの日記に、きみたちがジャムの汚れをつけていないことを祈るばかり」
マルコシアスは早口にそう言ってから、額を押さえた。
――血の繋がりがあることに驚きはあれど、目の前の子供たちはかれのレディではない。
さほど拘泥はしないこととした。
「――で、どうして僕を呼んだの? 普通の魔術師は、真っ先にそれを告げるものだけど」
男の子が、じゃっかん哀れっぽくマルコシアスを見つめた。
「モーガスがひどいことをするんだ」
「モーガスって誰だろうね」
根気強いマルコシアスの質問に、今度は女の子が応じた。
「友だちのいとこよ」
「友達の従兄がきみたちに、なんの関係があるのかな?」
もはやあやすような声を出すマルコシアスに、男の子と女の子がここぞとばかりに言い立てる。
なお、まだマルコシアスは契約に応じてはおらず、宙ぶらりんの状態である。
この状態の悪魔と長々とやり取りするなど、はっきり言って正気の沙汰ではないが、
(まあ、ロッテの血だろうなあ……)
「モーガスってね、今はもう十七歳になってるんだよ。お兄さんだよ」
「それなのにわたしたちのお友だちをいじめるの。そのお友だちっていうのはクリストファーね。十一歳よ。わたしたちより一つ上で、初等学校が同じなの」
「モーガスはクリスのいとこなんだ」
「今は学校は夏休みよ。だからクリストファーはモーガスに会いに行かなきゃいけないの。モーガス、普段は学校にいるから」
「あ、初等学校じゃないよ。モーガス、今年から学校に入って――ええっと、なんていうんだっけ……」
「寄宿舎。寄宿舎にいるの」
「モーガス、学校での自慢話ばっかりなんだ。それで、クリスをいじめるんだ。ひどいこと言って」
「――――」
マルコシアスは額を押さえた。
「――つまり、なにかな?
もしかしてきみたち、僕に喧嘩の仲裁をさせるつもりなの?」
「ちゅう……?」
「つまり、そいつらの喧嘩をなんとかさせるつもりなの?」
二人の幼子がこっくりと頷くのを見て、マルコシアスは大声を上げた。
「お断りだよ! なんだよ、それ!
ロッテから頼まれるならともかく、僕はきみたちのことなんか知らないぞ!」
これが、かつて序列七番アモンともやり合った魔神に対する仕打ちか、と、マルコシアスは怒りに打ち震える。
が、どうやらそれは感じなかったらしい、女の子と男の子はまたぱちくりと目を瞬いて、顔を見合わせる。
そしてマルコシアスに視線を戻し、そっくりな仕草で首を傾げた。
「やってくれるはずよ」
「ああ、そうかいそうかい」
マルコシアスはいかにも悪魔らしい笑みに唇を曲げた。
「じゃあ、報酬をご提示いただけるんでしょうね?」
「…………」
「…………」
二人が顔を見合わせ、女の子がまた、シャーロットの手記であるらしい小さな本をぱらぱらとめくる。
そして、声をひそめてやり取りを始めた。
「……報酬って、つまりお代のことよね?」
「……書いてないよ、そんなの」
「……とっても親切で信じられるってことだけだわ」
そのひそひそ話を拾って、マルコシアスは悦に入る。
親切で信じられる、いかにもレディ・ロッテのエムにふさわしい表現だ。
だが、あいにくと、マルコシアスが親切に振る舞い、得た信頼に応じようとするのは、かれのレディ・ロッテただ一人に対してのみ。
腕を組んでマルコシアスが待つこと十数秒、二人の幼子がかれに向き直る。
そして、おずおずと言った。
「――何がほしいの?」
「おいおい、僕が欲しがるようなものを提示して忠誠心を買うのはそっちの仕事だぜ?」
マルコシアスは鼻で笑ってそう応じたが、
「でも……モーガス、クリストファーをいじめるのに悪魔を呼んじゃうのよ」
「そういうことがあったときに、きみがなんとかしてくれたことがあるって、ひいおばあさまが書いてるんだもの」
「――――」
マルコシアスはぽかんと口を開けた。
「――は? そいつ……そのモーガスってやつ、なに? 魔術師なの?」
「の、卵よ」
と、女の子。
「リクニス学院っていうところに、今年入学したばっかりよ」
「――なんてこった」
マルコシアスはつぶやいた。
「聞き覚えがあるぞ。僕のレディの後輩じゃないか。なんてことを」
大きく息を吐く。
「そういうことは、早く言いなよ」
今度は息を吸い込んで。
「色々と不満はあるが、僕のレディが怒りそうだ。
正直に言うと僕自身は欠片も興味が湧かないんだが、困ったことにあの子は僕の一部だからね。
――手は貸そう」
やった! と小さな二人の歓声が上がるのを手で制して。
「だけど、報酬はいただかないことには」
女の子が、真面目な顔でポケットからビスケットを取り出した。
端が欠けている。
「これでいいかしら?」
「いいわけないだろ」
マルコシアスは顔を引き攣らせて即答し、女の子がもう片方の手に持つ、小さな本を示した。
「それ。それをちょうだい。ロッテの手記を」
「おじいさまに怒られる……」
男の子がつぶやいたが、女の子はそれをつゆほどにも気に掛けなかった。
「ひいおばあさまのお友だちよ。いいに決まってるわ」
いささか心配になるほどの猪突猛進さでそう決めつけ、女の子は顎を上げた。
男の子がそれを見て、「おじいさまには、アリスが怒られるんだよ」と、こそっと責任を押しつける。
そして、二人が同時に頷いた。
「この手記をあげる」
――途端、形容し難い音が轟いた。
無理に喩えるならば、それは巨大な錠を下ろす音、あるいは何かの歯車が回り始める音、あるいは時計の針が動く音。
――契約成立。
頸に枷がかかるのを感じ、マルコシアスは召喚陣から足を踏み出す。
召喚陣からどっと知識が流れ込んで来る感覚があり――
(ん、あれ? おかしいな?)
首をひねりつつ、右手を空中に伸ばして、何もないそこから淡い色合いのストールを引き出し、さっと首に巻きつける。
服装は最後に彼女に仕えたときと同じ、濃翠色のシャツと黒いトラウザーという格好にしておいた。
手品のように変わった魔神の格好に、前代未聞、二人の主人は歓声を上げたが――
「――ねえ、ちょっと」
マルコシアスは、そろそろ本当にその場にがっくりと膝を突きそうになっていた。
――おかしい。
あまりにもおかしい。
流れ込んだ知識は、それこそかれが以前の主人に仕えたときに伝わってきたものと大差ないものだ。
人間の技術の進歩、人間のあいだに起きる大事件が、この百年のあいだ、歩みを止めていたということなどあっただろうか。
――あるわけがない。
「つかぬことを伺うんですがね、小さなご主人さま方?
――僕を呼んだ召喚陣は、いったいぜんたい、どうやって描いたものなんだ?」
「どうやって、って」
と、女の子――アリス。
彼女は、たった今マルコシアスが報酬として指定したばかりの、シャーロット・ベイリーの手記を掲げ、その一頁を開いていた。
「ここにあるのを写したのよ。ひいおばあさまがあなたを呼んだ召喚陣よ」
「…………」
マルコシアスは茫然と口を開け、
「……なんてこった……」
両手で頭をかかえた。
「きみたち、本当にロッテの曾孫? なんて馬鹿なんだ……」
「え?」
と、男の子――カール。
マルコシアスは顔を上げて、嘆きの声を上げた。
「じゃあ、僕の頭にあるのは、ロッテが最初に僕を呼んだ、百年近く前の知識だけじゃないか……」
おまけと言ってはなんだが、〈身代わりの契約〉も結ばれていないということだ。
「なんてこった……」
魔術のまの字も知らない子供だと、こういうことをしでかしかねない。
「なんで召喚陣を描き留めたりしたの、ロッテ」
マルコシアスは、もはや永久に答えを得られない問いを投げて、眉間を押さえた。
「あんたならそらで、何回だって僕を呼べただろうにさ……」
そしてマルコシアスは、応じることさえ出来れば何度でも、かれのレディの願いに頷いただろうに。
かれのレディもまた、マルコシアスが求めさえすれば、かれのために髪を切り、一年の半分を声を失くして過ごすことに、なんの異存もなかっただろうに。
後日談始動! したものの、
続くかどうかはやる気次第!!
ということでいったん完結マークをつけます。
更新があればぜひご贔屓に!!