14 秘密
シャーロットの癇癪を、マルコシアスは受け容れた。
とはいえそれは、いざとなったら足の速さに任せてこの場を離れられるからだということは、シャーロットであっても十分に分かった。
〈身代わりの契約〉がないのだから、足手まといになるシャーロットを連れて移動する必要はもうない。
ならば危機的状況になったときに逃げ出す猶予がかれにはある。
ゆえに、その猶予ぎりぎりまでは、報酬である『神の瞳』も狙ってみようという、極めて打算的な悪魔の考えがそこにあることは、シャーロットにもよく分かっていた。
――マルコシアスが望みなしと判断してシャーロットを見捨てるのが早いか、あの悪魔がこの場を去るのが早いか。
何らの手掛かりのない状況で、あの悪魔を可及的速やかに、「回れ右」させなければならない。
▷○◁
「あの魔術師が使えないから、なんとかしてあの悪魔を正気に戻してやらなきゃならない」
嵐の中で怒鳴るようにして、マルコシアスが言った。
シャーロットはちらりと脇を見た。
離れたところで、犬の姿の魔精が戸惑った様子でぐるぐると周っている。
そのそばに、完全に気絶したらしい魔術師が倒れていた。
吹き飛ばされたときの打ちどころが悪かったのだろう。
どのみち彼が起きていたとしても、契約を結んでいない悪魔をどうこうするのは魔術師の領分外のことだ。
だが、とはいえ。
「エム、あの人を逃がしちゃ駄目よ」
シャーロットはマルコシアスの肘の辺りを掴み、言った。
「あの人が本当に私を誘拐したんなら、身代金なんて出ないことをちゃんと説明して、責任を持って私を元いた場所に帰してもらわなくちゃならないわ。
もっと交渉できるようなら、そのままケルウィックまで送ってもらいましょう」
「あんた、本当に図太いね」
マルコシアスはもはや感嘆する思いだった。
「それより目の前のことに集中したらどう?」
百ヤードあまり離れた召喚陣の上では、灰色の煙の姿をした悪魔が、その姿をさかんにねじり、揺らがせ、いよいよ本格的に暴れ出そうとしていた。
この聞かん坊の悪魔は、いくら癇癪を起こして訴えても、いっこうに自分の領域に戻れないことを、ようやく察したらしい――爆発するような怒りに身悶えしている。
マルコシアスとしては、その悪魔が召喚陣の上から身動きがとれないことに対して、感謝の念を抱かざるを得なかった――もしもかれが自由にこの世を闊歩していれば、腹立ち紛れの一撃で、あっさりとマルコシアスは致命の一撃を負っていたに違いない。
周囲の空気が、ぴりぴりと電気を帯びていた。
少し身動きするだけで、ぱちぱちと肌の上で静電気が弾ける。
そこに吹きつける強雨も重なって、シャーロットはじゃっかん涙目になっていた。
風の音、雨の音、波濤の音、爆裂音。
海辺はこの世の終わりのように荒れ狂っている。
「――正気に戻すも何も、契約が結ばれていないんだから、去りたければ去るだけの話でしょう。そうしないってことは、あの悪魔には何か悪いたくらみがあるのよ」
風に浚われる声を張り上げたシャーロットに、マルコシアスは唸り声を上げた。
「それは――」
マルコシアスが上手い言い訳を考えつくよりも早く、シャーロットが荒療治を口に出してしまっていた。
「ううん、それよりも、エム――あの悪魔の名前に心当たりがある? フォルカロルかしら――でも、文献にあるのと姿が違うわね。
お前に心当たりがあるなら、私がもう一度あの悪魔を召喚してもいいわ。あの人と契約を結んでいないなら、あの悪魔だって頷くかも知れない。頷かないなら頷かないで、今度はきっちりかれを送り返せばいいわ」
まずい方向へ話が転がったことを察して、マルコシアスはこめかみを掻いた。
「あー――」
「エム?」
シャーロットが、マルコシアスに向き直った。
怪訝そうに眉を寄せている――なおも涙目なのは、さかんに弾ける静電気のためか、あるいは足の傷が痛むがゆえか。
「エム、あれは魔神、そうよね?」
マルコシアスは渋々ながら頷いた。
――あれが魔精だと言い張るのは無理がある。
「そうだね」
「お前より格上?」
マルコシアスはためらった。
それを見抜いたように、シャーロットは言い添えた。
「お前より格下なら、このままお前が特攻してくれてもいいと思うんだけれど」
嫌々ながら、マルコシアスは口を開いた。
「……僕より格上だね、たぶん」
「だったら三十四のうちのだれかよ」
シャーロットが至極当然のようにそう言ったが、マルコシアスはそっと訂正した。
「三十三だよ、それを言うなら。一人は僕と全く〈同格〉なんだから」
「三十三ね、良かった。でも、三十三も召喚の呪文を唱えていられないわ」
シャーロットはそう言ったものの、真剣にそれを検討している風だった。
――そばで爆裂の音が弾ける。
暴風とは別に、弾けた空気がシャーロットの頬を叩く。
それに身を竦めながらも、シャーロットは口早につぶやいていた。
「こちらの交叉点にいないなら、そもそも呪文だけで召喚するのは不可能だし、もしこちら側にいるんだとしても、もう他の魔術師と契約してるなら応答するはずがないわ。
順番に〈召喚〉を唱えていけば、少なくとも契約のための接触は可能になるけれど――」
マルコシアスは頭を抱えた。
――ここへきて、かれの、〈マルコシアス〉の〝真髄〟の、生真面目で誠実な性質が祟った。
「ロッテ、駄目だよ。無駄になる」
「――どうして?」
シャーロットがマルコシアスの肘を掴んだ手を引いて、かれを自分に向き直らせた。
金髪が風に激しくはためき、彼女の顔を叩いている。
「エム、さっきからお前、妙なことを言うのね――」
十四歳とは思えない注意深さで、シャーロットがマルコシアスの言葉を汲み上げ始めた。
「あの悪魔を可哀想と言ったり。
――私からすると、あの悪魔は本当に悪意の塊のように見えるんだけど、お前からするとそうじゃないのね?」
「――――」
マルコシアスは顎に手をあてがった。
枷を隠すストールが強風に半ばほどけて、鞭のようにしなって翻る。
あらためて状況を俯瞰して、マルコシアスは溜息を吐いた。
嵐の中とは思えないほどゆっくりと額を押さえて、かれは不明瞭な声でつぶやく。
「……僕は、あんたたち人間が僕たち悪魔を召喚するようになった、まさにそのときからあんたたちと関わり合ってきているけれど」
覚えているのは、石造りの神殿を遠くに望む荒野の景色だ。
数百の悪魔がそこに並び、今ではもう見られなくなった、灰色のトーガを纏った人間たちの、たどたどしい悪魔の言葉に耳を傾けている――
「正直に言って、こんな事態は初めてだ」
それは本音だった。
今日に至るまで、こんな事態が起こった前例をかれは知らない。
「エム?」
シャーロットが呼んだ。
雨に濡れそぼり、大きく目を見開いて、荒れ狂う嵐の中でマルコシアスを見つめている。
「エム、何か伏せていることがあるでしょう――この状況にちっとも関係がないと言うならそれも構わないけれど、でもそうじゃないなら話してちょうだい」
でないと、と言葉を継いで、シャーロットは真剣に言った。
「私、死んでもお前への報酬は手放さないわよ」
「――――」
マルコシアスは、更に少し考えた。
――それは、かれとかれの同胞が、魔術というものが確立されてからこちら、示し合わせて隠し通してきたことだった。
人間のうち、このことを知っている者はもういない――あの荒野に並び立っていた人間たちは、もうとうの昔に死に絶えたのだ。
だが、そう――こんな事態は初めてなのだ。
正直に言ってしまえば、この状況に始末をつける方法を、マルコシアスであっても明瞭に思いついているわけではない。
――召喚陣の上で怒りに身悶えし、苛立ちと困惑のあまりに、指向性も何もない魔法を暴発させ続けている悪魔。
あの同胞を哀れに思わないと言えば嘘になる。
出来れば、お前はここに背を向けるだけで元いた場所に帰ることが出来るのだよ、と伝えてやりたいが、先方の混乱具合からしてそれは難しい。
そもそも傍に寄れる状況ではない。
マルコシアスが内心で目を疑ったことに、悪魔の怒りに焼かれて、海が煮え立ち始めていた。
もうもうと上がる湯気が強風に吹き散らされ、沸騰した海の水は塩の塊に変じていっている。
手詰まりだ。
マルコシアスには、あの悪魔を宥める知恵はない。
だが、シャーロットにはあるかも知れない。
彼女に事情を話せば。話して理解を得られれば。
それに――、仮にこの秘匿され続けた事実を話したとして――それがなんだ?
それを聞いて、この――世間的には才女に類されるだろう――向こう見ずで図太い小さなレディが解決策を思いつけばしめたもの。
そして、この小うるさいおちびさんが大騒ぎするようならば、――それであっても――実害はない。
誰が、こんな小さな女の子の言うことを真に受けるものか。
そして仮に真に受けたとして――何が出来る?
魔術は人間にとっても便利なものだ。
今さら誰が、もう魔術は使わないでおきましょうなどと言い出す?
それにもっと言ってしまえば、本当にまずいと判断すれば、マルコシアス自身でシャーロットの息の根を止めることすら可能なのだ。
報酬は取り逃がすことになるが、まずいことになって同胞たちから追い回されることになるよりはマシだ。
〈身代わりの契約〉がない以上は、マルコシアスがシャーロットを殺害したとして、受ける罰則などありはしない。
契約を交わした主人であるシャーロットの絶命と同時に、悪魔の道に送還されるだけのことだ。
「――エム?」
シャーロットが、マルコシアスの腕を引いた。
マルコシアスはゆっくりと息を吐き、おざなりに片手を振った。
ぼわ、と空気が唸るような音がして、マルコシアスを中心として、直径十数フィート程度の空間が、猛威を揮う暴風から守られた。
目には見えないドームが存在するかのように、その空間を風が避けていく。
びょうびょうと響く風の音は、まさしく捻じ曲げられる風の軌道の悲鳴だった。
そして、同じその空間において、降る雨が次々に立方体の塊になって、空中で静止していった――透明な、無数の立方体がふわりと浮かぶその光景の幻想的なこと。
シャーロットがぽかんと目を見開いて、周囲を見渡して口を開ける。
彼女がこわごわと指を上げて、一つの立方体に指で触れた――途端、ぱしゃん、と弾けて水を溢れさせる立方体。
感嘆の声がシャーロットの唇から漏れた。
「――あんたと僕とで、この状況の見方はかなり違うと思うんだけど……」
なおも少し迷いながら、マルコシアスは曖昧な声を押し出した。
シャーロットがマルコシアスに目を戻し、ほとんどかれを責めるかのような声音で、きっぱりと言った。
「まあ、何を迷ってるのよ。役に立つことなら早く話してしまいなさい。命令よ」
▷○◁
「――これを知ってる人間は、僕の知る限りではもう一人もいないんだけど」
仏頂面でマルコシアスはつぶやいた。
まだ少しためらっている風もあり、状況が状況であるだけに、シャーロットとしてはその顔をひっぱたきたい思いに駆られる。
今も、暴風と強雨はこの世の終わりのように荒れ狂っているのだ。
「ええ、ええ、なに? もう少し大きな声を出しなさい、聞こえづらいわ」
マルコシアスの方へ物理的に耳を寄せつつ、いらいらと先を急かすと、マルコシアスは神経質な手つきで、半ばほどけたストールを首に巻き直した。
僅かに覗いていた鉄の色合いの枷が、それで完全に見えなくなる。
マルコシアスは眉を寄せ、シャーロットの首の辺りをじっと見つめて、豪雨の音に紛れそうな低い声でつぶやいた。
「――あの気の毒な悪魔は、召喚されるべき悪魔の中にはいないはずなんだ」
「…………?」
シャーロットが眉を寄せた。
雷鳴が轟く数秒間。
青白い雷光がシャーロットの顔を照らし出し、彼女の頬が透けるほどに白く目に映る。
「……どういうこと? 名前が忘れられているはずだって、そういうこと?」
「いや、違う」
マルコシアスはストールの端を指先でもてあそぶような仕草をした。
「そもそも――……いや、いい、あんたはどうせ、自分で納得しないと動いてくれなさそうだから、全部話す」
「手短にね」
シャーロットは周囲を窺いながら釘を刺したが、マルコシアスは聞いていなかった。
どこかの一点を見つめて、最後の覚悟を決めたらしいマルコシアスが、低い声でつぶやいた。
「……僕の名前は〈マルコシアス〉じゃない」