33 懸かる命は
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マルコシアスは無意識のうちに鼻と口をてのひらで覆っていた。
かりそめのものとはいえこの身体は呼吸をする。
そしてその呼吸において毒を吸い込めば、それがすなわち致命の一撃になりかねないと判断してのことだった。
だが、とはいえ、
(今のところ、特に何も感じないけど――)
魔神だからか、と判断して振り返る。
そしてかれは、ナベリウスが苦しそうに三つの顔を歪めているのを目の当たりにした。
そしてふと思い出す――アモンが言っていた、『マルコシアス、むしろきみの方が、わが兄弟には立ち向かえるかもしれない――なにしろきみは、まさにその毒に慣れている』。
――『神の瞳』を得てマルコシアスが強くなった、その原理は、この激烈な毒への耐性を身に着けたことによるもの。
頭の隅でそう考えながらも、マルコシアスは考えることもなく、立ち竦むかれの主人の腕を掴んで引っ張っていた。
シャーロットの顔色は、すでにかなり悪い。
顔から血の気が引き、毒気に当たって目が充血しているのが分かる。
――シャーロットとリンキーズのあいだには、〈身代わりの契約〉が結ばれているはずだ。
リンキーズが致命の一撃を受ける以前から、すでにシャーロットに毒の影響が出ている。
それはこの毒が、なにも生き物を殺すことを目的としているものではないことを示している。
性質として、一つ一つ段階を踏むように、生き物の身体を害していくものなのだ――下降の階段を交互に踏むようにして、悪魔と、かれと契約した魔術師が、揃って害されていっている。
――あまりに特殊。あまりに悪意がある。
(他の魔術師も高みの見物はしていられないだろうな)
シャーロットは右手で鼻を口を覆っていたから、マルコシアスが掴んだのは、血まみれのシャツが巻かれた左腕だった。
掴まれた腕の傷につんざくような痛みが走り、シャーロットが悲鳴を上げる。
「おっと失礼」
悪びれなくそう言って、マルコシアスは掴む位置を、左腕の前腕から二の腕に変えた。
「けど、いいかい、レディ。ここから引くよ。ここにいたら、あんたが死んじゃうからね」
「だめ」
くぐもった声でシャーロットが断言した。
その顔がみるみる青白くなっていくのを見て、マルコシアスは覚えのない感情に眉を顰めた。
――胸が痛む。
これは……これはまさに、そうだ、かつてリクニス学院で、シャーロットが大量の銀と瓦礫に押し潰されたまさにそのとき、覚えたものと同じ痛みだ。
『スーはどこだ』
魔神の声が轟いている。
『おまえたちが、スーを、ここに来させないのか』
周囲で、人間たちが次々によろめき、毒の回りが早かった者から膝を突き始めていた。
どう、と、凍った敷石の上に横臥して倒れた人がいる。
アディントン大佐のかすれた声が轟いた――「駄目だ、起こせ、毒は足許から流れている」。
よろめく人々が互いに肩を貸し、支え合って、足許の氷で足を滑らせながらも、恐怖すらもはや感じず、絶望をもってグレートヒルの魔神の巨躯を見上げている。
避けようとした最悪の事態が、今、目の前で実現しようとしていた。
「避難を……」
アディントン大佐が咳き込みながらそう言ったが、それを受けて後退る者はあれ、一目散に逃げ出す者はなかった。
――すでに、走り出すことが難しくなるほどに毒が回っていたということもあり、そして何よりも、これが〈ローディスバーグの死の風〉の再来となるならば、逃げたところで遅かれ早かれ結果は変わらないと分かっていたということもあった。
それらを淡い黄金の双眸で見渡し、マルコシアスは厳しい声でシャーロットに迫った。
「レディ、手遅れだ」
「それでも駄目よ」
かれのレディは、彼女らしい頑なさ、あの傲岸なあやうさをもってそう応じた。
彼女が瞬きする――目が霞みはじめたのだ。
「お前は、もういいわ――領域に帰ってかまわない」
「ロッテ、いい子だから、ビフロンスのやつの加護の水を持っておいで」
マルコシアスは宥めすかすようにしてそう言っていた。
ライオンの頭を持つ序列四十三番サブナックが、ついに耐えかねたうめきを上げて、姿を薄れさせて領域へ撤退した。
魔精が次々にそれに続いていく。
リンキーズが苦痛のうめき声を上げて、それでも撤退はせず、アーノルドの脚を登ってみずから彼に抱えられながら、咳き込んで叫んだ。
「ご主人、早いとこここから逃げてくれるならありがたいんだけど!」
「ロッテ、ロッテ」
マルコシアスは息を詰めるかれの主人に向かって、これほどのものを示したことはない親切をもって呼びかけた。
「いいから、ビフロンスのやつの水を持っておいで。あんたを安全に匿ってあげる」
「だめよ」
「あんたが気になる人間も、この際は僕の温情だ、一緒に連れてってあげるから。この人間を連れていけばいい?」
この人間、と言ってかれが示したのはアーノルドで、アーノルドは何の話かまったく分かっていなかっただろう。
ただ、彼は既に足許がふらついていた――生まれてこのかた、健康的な生活を送っていたことはないのだ。
それが毒への耐性に響いている。
シャーロットは胸が張り裂けるかと思った。
唇を噛んで、彼女ははっきりと言った。
「彼を守ってくれるなら嬉しいけど、エム、私は駄目よ」
軍人たちが駆け出してきて、手巾で口許を覆いながら、シャーロットや他の魔術師たちをうながして、その場から下がらせようとし始めた。
シャーロットは彼らの顔を見た――恐怖を浮かべている顔、絶望した顔、――そして何よりも、この先を思って落涙している者。
騒然とした人波の中を見る――周章狼狽したグレイ、すでに膝を突きそうになっている。真っ青になっているオリヴァーが、こちらを見て、何かを言おうとしている。
そして何より、そばにいるアーノルド――痩せて、強靭さと同時に繊細さも感じさせる彼。毒を吸い込み、いよいよ弱ろうとしているのが分かる。
シャーロットは息を吸い込もうとして、自重した。
「エム、お前はいいわ――もう、報酬以上のことはしてもらった。領域に帰って」
自分でも信じられないことに、マルコシアスは二の足を踏んだ。
「ロッテ――」
「私は駄目なの。私のせいなの。私が――」
シャーロットは続けるべき言葉を見失って、一秒のあいだ口籠った。
「もっと早く死んでいれば」、「リンキーズを見捨てていれば」。
だが、何を言っても所詮は自己満足の自責の言葉にしかならないことは分かっていた。
息を止めてから、彼女は言い切った。
「責任のある人間は、最後まで残るものなのよ」
貴婦人の姿のグレモリーが、ふうっと目の前の空間に息を吹きかけるような仕草をした。
それで澄んだ風がはるか背後から呼び込まれ、一時的に目の前が晴れる。
だがそうやって確保された新鮮な空気も、すぐに押し寄せる毒に呑み込まれつつあった。
「時間を稼ぐよう悪魔たちに伝えろ!」
アディントン大佐が叫んでいる。
魔術師のうち、まだ意識のあった者たちが、それらの命令を彼らの悪魔に伝えた。
悪魔としても、致命の一撃になりかねない毒が迫っている状況で否やはなかった。
豪風が呼ばれ、毒を押し返そうとする。
つかの間の新鮮な空気に、人間たちが息を継ぐように深呼吸して、肺の中の空気を入れ替える。
だがすぐに、なおもじわじわと、毒がふたたび辺りを侵食し始める。
「もう一度同じことが出来るか――」
「もう無理です、悪魔も何人か逃げました――こっちだって気絶した連中がいます、同じ火力はもうとても――」
「そもそも、寝惚けたあの魔神に向かってありったけの攻撃を仕掛けて、この事態なんですよ。
あいつが正気なら、とてもじゃないけど攻撃なんて、仕掛ける前に潰されて終わりです――」
「スーザン・ベイリーの呪文を、もう一度再現できるやつは――」
「一人いましたが、さっき死にました」
絶望が蔓延していく。
その場から下がることを逡巡したのはシャーロットとマルコシアス、そしてアーノルドと、彼に抱えられるリンキーズだけで、軍人たちを含め、他の者は潮が引くように後方へ撤退していた。
いかな軍人といえど、この場で二の足を踏む愚か者にかかずらっておのれの命を危険に晒すような真似はしない。
だがそのとき、誘導のために一度は下がっていた後方から、またも進み出て来る人がいた。
「下がって――下がって、さあ」
ランフランク中佐がシャーロットのすぐそばにまで来て、ふらつくアーノルドに手を貸しながら、シャーロットの肩を押して後ろにうながす。
シャーロットは中佐を見上げて声を震わせた。
「中佐――私のせいです」
「個人で責任を負おうとするほどおこがましいことはない」
中佐は厳しい声で言って、シャーロットを容赦なく下がらせた。
「とにかく下がって――きみがこの事態を招いた責任を取りたいのだとしてもだ、きみが死ねば大佐が責任を感じる。私の上官にそのような思いをさせることは許さないよ」
シャーロットはよろめきながら数歩を下がった。
マルコシアスは、存在しないはずの心臓が激しく脈打つような気持ちでそれを見守った。
「ああ、レディ――」
シャーロットは咳き込み、顔を上げたときにはいよいよ蒼白になりながら、しかしその橄欖石の瞳は、まだ何一つとして折れてはいなかった。
折れないスイセン、砕けない硝子細工――まさに。
「まだ――まだなんとかなるかも」
シャーロットは咳き込むのを堪えたかすれ声でそう言った。
声音は囁き声程度のものだった。
「私たち、そうとは知らずに虎のしっぽを踏んだんです――かれが言ったように、スーザン・ベイリーの陣営の者なら、かれを傷つけようとするはずがないということを失念していました」
オリヴァーが、この状況にあってなお人波を掻き分けて前に出てきて、シャーロットの頭を弱々しく叩き、後ろに引っ張ろうとした。
「ベイリー、ほら、何してる――俺がノーマに、彼女の級友が死んだって伝える羽目になるだろ。やめてくれよ――行くぞ」
シャーロットは小さく頭を振った。
「いいえ――いいえ」
答えながらも、シャーロットの瞳の奥で、いつものあの光がきらめいた。
――ずる賢いレディの、常軌を逸したまねもしてしまう――おのれの望んだ人生以外は願い下げ、おのれの望んだその人生のためならば、自分自身すら賭け事のチップにしてしまうほどの、度外れた頑固さ。
『スー! スーはどこ!』
耳を聾する魔神の絶叫が轟いている。
確かにそれを聞いて、シャーロットは血の気の失せた顔で、寸分のためらいもなく、次の賭けへのチップを提示しようとしていた。
「かれ――かれは、ずっと、私の曾祖母を呼んでいます。
かれらが血のつながりをどこまで理解してくれるか分かりませんが、私がそばまで寄って話せば、少なくとも人の言葉は理解してくれていますもの、多少は時間も稼げるかも」
「この馬鹿者が!」
ランフランク中佐が怒号を上げた。
「それでどうする。まず、きみがこの毒の中で、生きてあの魔神のそばまで辿り着ける可能性を、われわれはどれほど低く見積もるべきか、理解できないのか?
そしてよしんば、あの狂った魔神がきみの話を聞いたとして――」
『スー!』
轟く絶叫に、マルコシアスは無意識に身を竦めていた。
かれが身をよじって胸を掻き毟りたくなるほどには、魔神の絶叫には哀切が籠もっていた。
リンキーズが、抱えられていたアーノルドの腕から地面に飛び降りた。
アーノルドがいよいよふらつき始めたからだった。
シャーロットもそれに気づいて、アーノルドの腕を取って、彼を少しでも魔神から離れる方向へ押し遣ろうとする。
「――それで、どうする。七十年経って、もうスーザン・ベイリーがこの世にいないことを知って、あの魔神がますます暴れるのを、指をくわえて見物するつもりか?
それとも奇跡的にあの魔神を宥められたとして――それでどうする。召喚主のスーザン・ベイリーでさえ持て余した魔神なんだぞ。召喚主ですらないきみに御せるのか。
奇跡的に御せたとして、どうするんだ――あの魔神は、悪魔の道に帰してめでたしめでたしと、そう簡単にいくような部類ではなくなっているんだぞ! きみの方がよく理解しているはずだろう!!」
ランフランク中佐が激昂して怒鳴る。
オリヴァーが、途方に暮れた顔に、わずかな期待を昇らせた――軍人の気迫に押されて、シャーロットがこの場からの撤退に頷くことを期待しているのだと分かる。
だが、マルコシアスには分かっている。
レディ・ロッテはそんな人間ではない。
「もちろん、成功の可能性なんてないに等しいものですが、」
ふらつき始めながらも毅然として、シャーロットはきっぱりと言っていた。
「私一人が行かなくて打つ手がないままなのと、私が行って失敗して打つ手が尽きるので、何か変わることがありますか。
懸かる命は私だけのものです。どのみち死ぬだろう私だけのものです。
――もうこの上は、私が手を出そうと出すまいと、事態がいい方向に変わりこそすれ、悪い方へ変わることなんて絶対にありません」
ランフランク中佐とオリヴァーが、同時に苛立ちのうめき声を上げた。
リンキーズがあえいでいる。
アーノルドはいよいよ意識が混濁してきており、おそらくはシャーロットの言葉も聞き取れてはおるまい。
「お願いします、アーニーを連れて行ってください。これは私のわがままですもの。
――今さらですけれど、どうせなら、私がここにいたことが、誰かの幸運になったらいいと思うだけの」
「――――」
そしてマルコシアスは、その場に凝然と立って、目を見開いてかれのレディを見つめていた。
「――あぁ」
かれは、この言葉を聞いたことがある――かれにとってはつい最近、そして人間にとってはもうずいぶん前のことになるはずの、七年前、ベイシャーにおいて。
「ああ、レディ」
ベイシャーに名無しの悪魔が召喚されたとき、すぐさまその場を離れようとしたマルコシアスを引き止めて、シャーロットは今と同じことを言った――
――それを、彼女も意識していただろうか。
いや、しているまい。
毒の瘴気は徐々に濃度を増している。
記憶を手繰って言葉を反復するような、そんな余裕はシャーロットにもあるまい。
不変は罪、そのはずだけれど。
けれど、変わらないがゆえに価値があるものものある。
今このとき、シャーロットは、彼女の心根が――十四歳の、あの最も無鉄砲で考え無しだったときと、全く変わりのないものであることを、完膚なきまでに証明したのだ。
▷○◁
マルコシアスは手を伸ばして、シャーロットの右手を握った。
シャーロットの橄欖石の色の瞳が瞬きして、かれを見て、強情に細められる。
「エム、お前はもう領域に戻っていいのよ。
――お前が私を守ってくれようとするのは本当に嬉しいんだけど、私は行けないわ。
お前のその提案に頷くような私にはがっかりするって、お前もさっき自分で言ってたでしょう」
マルコシアスは肩を竦めた。
シャーロットにとっては見慣れた、あの仕草で。
「――そうだね、レディ」
耳許でアモンの声がする――『なにしろきみは、まさにその毒に慣れている』。
――自分で分かっていたはずだ、と、マルコシアスは他人事のように思う。
――そうでなければどうして、グレートヒルの魔神のあの絶叫に、他の悪魔が一切読み取ることのなかった情動を、かれだけが受け取ったはずがあろう。
それは、グレートヒルの魔神を絶叫させた情動、それと似て非なる情動を、すでにマルコシアスが理解して、かれの中に持っていたからに他ならないはずだ。
目の前にいる、かれのレディ。
かれがこよなく好んだその心根、あの傲岸なあやうさを、シャーロットが今このときでさえ堅持して、運命を許容してなお人生を選び取る、そのあがきを止めないならば。
かつて海辺で、焚火を前に並んで座っていたときに、かれの本当の名前を彼女に教えさせたもの。
おのれの領域に招いてまで、目の前から失せることを防いだもの。
他の魔術師に仕えていてなお、彼女の顔を見るために足を運ばせたもの。
歴史上にも例を見ない傲岸不遜な召喚に応じさせたもの。
そして今このときでさえ、この場から去ることをためらわせているもの。
かれの掌中の珠。
いや――もうそう言い表すことも適切ではないかもしれない。
頬杖を突いて彼女の人生を見物できれば、それは楽しいだろうと思っていた。
だからこそ、彼女を気に入っているのは、かれがいてこそ。
だが、もうそれすら望まなくなっていたならば。
ならば――ならば、それは、もう、
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