30 この夜を見よ
アディントン大佐は、よどみなく避難の指示を飛ばし続けていた。
この省舎は、議事堂のすぐそばに位置しているのだ。
角をひとつ曲がり、司法省の省舎の前に出れば、もうそこが議事堂という位置。
〈ローディスバーグの死の風〉が再来してしまえば、ここはものの数秒で死の毒の海になる。
彼の上官とはいっこうに連絡がとれず、最悪の事態も考えておかねばならない局面となっていることもあり、さすがの大佐も疲労を隠し切れてはいなかった。
軍人たちは問題なく彼の指示に従おうとしていたが、意外にもその指示に難色を示していたのは文官たちだった。
ここへ来るまでに、もはや機密も何もないと、おおむねの事情――すなわち、ネイサンが悪魔の力にて国の掌握を図っており、そのためにグレートヒルの地下に眠る魔神を利用しようとしていること――を聞かされていたこともあり、彼らは避難に懐疑的だった。
彼らが、シャーロットはとは違って、グレートヒルの魔神の序列を、他の魔神とさほど変わらないと思い込んでいたことも、その懐疑的な考えに拍車をかけていた。
軍人たちは、呼び集めてきた魔術師である文官たちに囲まれて、あれやこれやと質問を受け続けていた。
いわく、「今からでもネイサンを止められないのか」、「万が一魔神が復活したとして、こちらも魔神を複数召喚していれば、対処できないことはないのではないか」。
アディントン大佐は説明に苦慮した。
〈ローディスバーグの死の風〉について触れるかどうかを悩んだが、悩んでいる時間もないことは確かだった。
そして実際にその時間を彼に与えず、顔色を失ったシャーロット・ベイリーが、あきらかに議事堂を目指して邁進しようとしているのが目に入った。
さらに驚いたことには、三つの頭を持つ悪魔――たしかナベリウスと呼ばれていた、と、アディントン大佐はめっぽう悪魔に詳しくはない頭の中で考えた――までが、それにしぶしぶといった様子でついて行っている。
「――――」
アディントン大佐は三秒のうちに、この事態が彼の統括を超えたことを認めた。
敗戦においては、被害を最小限にとどめるためにすばやく撤退していくことが重要だったが――この敗戦はどうだろう。
ひとたび魔神が目覚めたのちは、ネイサンの合図ひとつで〈ローディスバーグの死の風〉が再来するという局面においては、もはや被害の大小を議論できる場合になかった。
今や彼らが譲るまいとしているのは、奪われようとして反発しているのは、人間の善性であり、良心であり、自由だった。
そして敗戦が決定づけられた今となっては、善性、良心、自由よりも命をとるかどうかは、各人の判断に任せられていた。
アディントン大佐としても、彼の敬愛するチャールズ・グレースならば、こんなときに何を措いても命を選ぶべきだと考えることは承知していた――命さえあれば、人生の終わらないうちは、かならず夜明けを臨むことが出来ると考えるのが、チャールズ・グレースの美点の一つだったから。
だが、今やシャーロット・ベイリーが、弱々しい足取りながらも決然とした表情で、議事堂めざして歩いているのである。
この瞬間にアディントン大佐は肚を決めた。
彼は周囲を見渡して、誰にともなく宣言した。
「――さて、私は議事堂へ向かう」
ランフランク中佐は今しも、文官からの舌鋒鋭い尋問めいた質問に襲われているところだったが、これが耳に入って仰天した。
彼は上官を振り向いた。
「大佐?」
「思えば、めいめい身の振り方は好きにしていいんだ。私の階級も今夜までだ――ネイサンのくそやろうが勝って明日を迎えるのなら、明日から俺は逆賊となるし、万が一にもわれわれの勝利で朝陽を飾ることができるなら、俺は大佐に甘んじているつもりはないからな。
俺の命令にそむこうがどうしようが、その指揮系統は今夜かぎりだ」
「確かに」と誰かが言って、そばの同僚に頭を叩かれた。
アディントン大佐はまた、ぐるりと周囲を見渡す。
「文官の皆さまにおかれても、事態はご存じのとおり――今夜がこの国の分岐点だ。
めいめいお好きにふるまわれることをお勧めしよう――グレートヒルの外縁にいた方が生き残る算段はつくだろうが、あの馬糞にも劣るくそやろうのネイサンに、直接もの申したいという人間を止める権利はわれわれにはあるまい」
文官たちが顔を見合わせる。
ウィリアム・グレイが、シャーロットが群衆を抜けて議事堂に足を向けたことに気づいた様子で、あっと声を上げてそれを追った。
いく人かがさらにそれを追ったが、アディントン大佐としては、その魔術師連中の関心が、ネイサンうんぬん革命うんぬんだけではなく、まれに見る魔神をその目で確認したいという探求心に割かれているのではないかという疑いを、どうにもぬぐい切れなかった。
ランフランク中佐が金髪をかき上げ、溜息を吐いた。
そして、アディントン大佐と目を合わせて、こんなときであってもいたずらっぽく目配せした。
「大佐。もし明日われわれが逆賊となっていなかったらそのときは、大佐は准将に手を挙げるおつもりでしょうか」
「さてな」
アディントン大佐は笑った。
「早めに恩給を頂戴して、楽隠居するのも悪くはない」
「では楽隠居の前に、ぜひとも私を大佐に推挙していただきたい」
ランフランク中佐はそう言って、身体の向きを変えた。
「議事堂までお供しますよ」
ナベリウスは当然ながら不機嫌だった。
とはいえかれの主人である技術省の役人は、わけもわからぬながらにも賢明に、「現在のグレートヒルの混乱の平定にあたって、ネイサンと敵対する者を助けること」という命令を下していた。
となれば、面と向かってシャーロットに頼まれれば、命令違反とならない屁理屈をこねるわけにもいかなかった。
「アモンは嫌だぜ」
と、軍用犬の顔が言った。
かれらは、おもにシャーロットが疲弊しきっているためだったが、非常にゆっくりとしか進めず、今はまだ軍省の省舎の正面の道にいた。
「アモンがこっちに向かってきたら、俺はさっさととんずらするからな」
「別にいいよ」
マルコシアスはそっけなく言った。
ふらふら進む主人に手を貸してはいたものの、かなりの疲れが窺える仕草になっていた。
「アモンのご主人さまが目を覚まさせようとしているのは、アモンよりはやばい相手だぜ。そっちからはとんずらせず、僕のレディを守ってくれよ、ナベリウス。僕はさっさと逃げるから」
「んなわけあるかよ」
軍用犬の顔がそう言って、
「敬語を使えよ、序列三十五番」
と、猟犬の顔が言って、
「どうせ逃げるなら、もう今から逃げておけば?」
続いて、愛玩用の可愛らしい犬の顔面がそう言った。
マルコシアスは平然と応じた。
「そうだよ、僕は三十五番のマルコシアスだ。最近、あんたと似たり寄ったりの序列のグラシャ=ラボラスを領域に叩き落としたのは僕なんだけど、その話聞きたい?」
愛玩用の可愛らしい犬の顔面が笑った。
「ほぉーう、大胆なほらを吹くねぇ」
「ほらじゃないわよ」
シャーロットが、息をあえがせながらも割り込んだ。
「私もその場にいたもの」
「おお、ロッテ」
マルコシアスが嬉しそうににっこりした。
「僕の名誉を守ってくれるなんて。
――あと、ナベリウス、僕はすぐに逃げ出すわけにはいかないんだよね。この子の見物をするのが今回の僕への報酬だから」
「ほう!」
ナベリウスの猟犬の顔がせせら笑った。
「どうにもあんたの犠牲と釣り合っていない報酬のような気がするがね」
「おあいにくさま、それは僕が判断することだ」
シャーロットのもう一方の隣にはアーノルドが、今にも彼女がばったりと倒れるのではないかと案じるような顔で寄り添っていて、その彼の足許に、跛行をひくリンキーズがよろめきながらまといついている。
ナベリウスの愛玩用の犬の顔面が、じゃっかんの驚きをもってマルコシアスを眺めると同時に、ぐるりとそれと同じ方向を向いた軍用犬の顔が、つっけんどんに言った。
「――っていうか、アモンよりやばいやつって、どういうことだよ」
「つまり、私たちが名前を知るはずのないだれかさんよ」
シャーロットが、失血のために回らなくなった頭でそう応じ、ナベリウスが耳を疑い、三対の目を見開く。
それと同時に、とうとうかれらに追い着いた、軍人に先立ってかれらを追いかけていた集団の先頭が、よろめくシャーロットの肩を叩いた。
「ベイリー!」
シャーロットは振り返り、その拍子に後ろに倒れかけ、危ういところでアーノルドに支えられた。
どもりながら礼を言って、シャーロットは振り返った先にいた人の名前を囁く。
「オリヴァーさん……」
「おい、大丈夫か」
さすがに、オリヴァーもこの一連の騒動に巻き込まれたことを怒ることを忘れ、目を丸くしていた。
「思った以上にぼろぼろになってるじゃないか」
彼の頬にすり傷を、手の甲にも傷を認めて、シャーロットは心がぐらつくのを感じた。
「本当に申し訳ありません……」
「いや、俺は、ストラスがいるあいだは大丈夫だったけど」
オリヴァーが言って、その彼のわきからグレイが飛び出し、しきりにシャーロットを気遣い始める。
「今からでも戻ったらどうだね……」
「いや、もう駄目だと思う」
マルコシアスが唐突に言った。
その場の全員、後から追ってきた役人の一団すらもが、かれをまじまじと見た。
マルコシアスは肩を竦め、ナベリウスの軍用犬の顔面の瞳と目を合わせた。
そしてかれらは揃って、議事堂があるはずの方向を見つめた。
――人間のものとは違う悪魔の聴覚が、かれらの、いわば母国語によって今まさに綴られ始めた、長い長い呪文のはじまりを聞き取っていた。
「残念ながら、もう始まってるね」
▷○◁
暑気をはらんだ夏の夜風が、ゆっくりと吹き渡って芝生をそよがせていた。
そこはまさに、シャーロットがチャールズ・グレース首相と初めて会った、あの芝生だった。
さざめく芝生が、潮騒に似た音をかすかに立てている。
ジュダス・ネイサンはそこに立ち、かれらの言葉を使って呼びかける相手が、地下で身じろぎしたことを感じ取っていた。
さらに呪文を続ける――かつて、七十年の昔、スーザン・ベイリーがまさにこの丘の上で、頸に剣を突きつけられながら編んだ呪文、それを打ち消す呪文を。
グレートヒルの魔神は、その絶大な魔力のほぼ全てを、かれの身体――実在するはずのない、架空の身体――を、実在するものとして定義する、スーザン・ベイリーの呪文に吸い取られ続けている。
その呪文を打ち消す言葉を、このうえなく注意深く並べていく。
一方、スーザン・ベイリーが『神の瞳』こそを魔神の本体とした、その呪文は打ち消さない。
ネイサンとグレートヒルの魔神のあいだに、〈身代わりの契約〉は存在しないのだ。
ならばそれに代わる悪魔の弱みを握らなければ、到底悪魔の手綱をとることは出来ない。
――グレートヒルの魔神は、史上はじめての、殺せる悪魔だ。
その心臓、その息の根、その急所となるものは、『神の瞳』をおいて他にはない。
打ち消す呪文と維持すべき呪文、長年かけて解明してきた、その歳月の結晶ともいえる言葉。
それを並べながら、ネイサンは、さながら戴冠式に臨む国王が王笏と宝珠を両手に持つようにして、右手に『神の瞳』を掲げ、そして左手に、全身が真っ赤な水晶で出来たかのごときハチドリの姿の魔精を止まらせていた。
ネイサンがつむぐ呪文が、いわば正解を引き当てているのかどうか――気高きスーの呪文を真に打ち消すに足るものかどうかは、このときになってみなければ分からなかった。
だが、ネイサンには絶対の自信があった。
彼が覚えていたのは、ついにこの目的が結実する瞬間――それを迎えるにふさわしい、心地よい緊張だけだった。
そして、それを裏付けるように、かれを呼ぶ、かれに最も近い言葉を聞き取って、この地下では魔神が身じろぎし始めていた。
ネイサンは呪文を途切れさせずに微笑み、水晶のハチドリをうながした。
それに応じて、かれが赤く染まったくちばしを大きく開く――
――そのくちばしから、まるで小さな噴水のように、血液が溢れてしたたった。
言うまでもない、シャーロット・ベイリーの血液だ。
ネイサンはその血を『神の瞳』に受けた。
おだやかな緑色の輝きが、どろりとした鮮血をかぶって束の間うすれ――
――さながら小さな心臓のように、『神の瞳』が脈打った。
かれを封印したスーザン・ベイリーの血を継ぐ者の血液を受け、そしてネイサンがとうとうと紡ぐ呪文に従って、まるで花がほころぶように、こぶし大の大きさに閉じ込められていたその本質が、ゆっくりとほどけて広がり始める。
ネイサンは顔を上げた。
彼は呪文をつむぎ続けながら、少し離れたところに立つアモンを見た。
ワタリガラスの頭を持つ魔神がネイサンの視線に気づき、ワタリガラスの顔面には本来ありえない、満面の笑みを浮かべて頷いてみせる。
ネイサンは微笑んだ。
小さな地震のように、〈神の丘〉全体が震えている。
議事堂の全体がきしみを上げる音が聞こえてくる。
中に人が残っているのかどうか、ネイサンは気にもかけていなかった――もしも中に誰かが残っていたのだとすれば、その連中の命運は、所詮ここまでだったのだから。
どこかの窓が割れるかん高い音が、ガス灯に照らされる夜陰を貫く。
七十年の歴史を持つ議事堂を、最後にとくと眺めてから、ネイサンは最後の言葉を口にした。
「 」
それは名前――アモンがかれに教えた名前、スーザン・ベイリーが親しみを籠めて友人と呼んだ名前、――今まさに眠りから醒めようとしている、神とも呼ばれた魔神の名前だった。
議事堂の真下から、永くその地下に封印されていた神が頭をもたげようとする。
ネイサンの足許が激しく揺れるが、アモンがすばやくかれを守り、足場を固定し続けている。
だが、ネイサンの足許を除く一面の地面に、一瞬のうちに蜘蛛の巣状の亀裂が走っていた。
地鳴りめいた凄絶な音が、さながらこちらに近づいてくるかのように、徐々に大きくなって轟く。
議事堂が、ついに真下からの衝撃に耐えかね、柱と壁が粉砕されて崩れる轟音とともに倒壊した。
石材が津波のように周囲に流れ、それら全てがネイサンとアモンを避けて、硬質な怒濤のごとくに芝生をえぐって粉塵と土埃を巻き上げ、地面を揺らす。
そしてそれ以上の重量となる膨大な瓦礫が、地下に空いた巨大な穴を埋めるかのごとくに、真下へ転がり落ちていった。
夜空をかすませる粉塵が宙に漂い――
――大きな、身の丈六十フィートにも及ぶ巨人の腕だと言われれば納得するような、それほど大きな腕が、倒壊した議事堂の中から伸びた。
形は人のものに似ていた――その腕はなかば透き通った深緑の色をしていて、まるで硝子の中に水を張ったかのような、たゆたうような色の加減で光っている。
その腕が、周囲を薙ぎ払うようにして乱暴に振り回された。
振り回されるうちに、腕は大きくなり小さくなり、形を変えながら廃墟と化した議事堂の上でてのひらをさまよわせる。
ネイサンは会心の笑みを浮かべ、気高きスーの血を吸い込んで肥大化したようにも見える、人の頭部よりまだなお大きな球形の、真の形を取り戻した『神の瞳』を、両手で頭上に掲げた。
巨大なてのひらが、あたかもそれに気づいたようだった。
大きなそのてのひらが、指先で空気を探るようにしながら、ゆっくりとネイサンに近づく。
「――ああ、どれほどこのときを待ったか」
抑えようもなく独り言ち、ネイサンは掲げた『神の瞳』を、慎重に――ゆっくりと、落ち着いた仕草で――、目の前に迫った、その巨きなてのひらの上へ、瞳の本来の持ち主へ、うやうやしく返戻した。
▷○◁
「残念ながら、もう始まってるね」
マルコシアスがそう言った、まさにそのとき、シャーロットたちは軍省の省舎前の道の曲がり角に達し、その先に議事堂を仰ぐ場所にいた。
――そして、議事堂が倒壊するさまを目の当たりにした。
シャーロットの目からは、巨大な議事堂が突如として膨れ上がり、弾け飛んだように見えた。
距離があってさえ、弾け飛んだ議事堂から、小さな石材が足許に飛んできたほどだった。
轟音――地面が揺れる衝撃。
悲鳴が上がり、シャーロットがその場にしりもちをつく。
視界を占める惨劇を茫然と眺める。
轟音も衝撃も身に迫って感じられるのに現実感の薄い――その光景。
議事堂が崩れ、穴に落ち込むように潰れ、そして周囲に瓦礫が拡がり、積み上がって粉塵が漂う――
「議事堂が!!」
誰かが叫んだ。
だが、その驚愕も長くは続かない。
茫然とする間もあらばこそ、倒壊した議事堂の、小山のように積み上がる瓦礫の上をさまよう、深緑の幽鬼じみた巨大な腕を、シャーロットたちもまた目の当たりにしていた。
祈りの言葉を囁く声が、複数聞こえた。
「こりゃあ――」
ナベリウスの三つの口が異口同音に口走る。
リンキーズが震えながら、シャーロットにしがみつくようにして小さくなった。
「嘘だろ、あの性悪が成功したの?」
アーノルドが唖然としてつぶやき、シャーロットを助け起こして、驚きと恐怖が半々といった声音で囁いた。
「マジかよ……おれの聞き間違いじゃなければ、あのワタリガラス――」
――どこからか、呻くような低い声が聞こえてきた。
無数の老若男女が囁き合っているかのような、肌が粟立つような声。
「――あの性悪の行く末に関心があるとかなんとか言ってなかった?」
シャーロットは息を止めていたが、助け起こされるがままに立ち上がり、半ばアーノルドにもたれるような格好になりながらも、あえぐように応じた。
「そうね――だから、協力してるんじゃないの?」
「いや――え?」
アーノルドが、そのときリンキーズを見下ろした。
「けど、リンキーズ、きみが言ってた――」
そばの役人たちが、一斉に正気に戻ったように、囁き声や叫び声を交わし始めた。
あんな魔神は聞いたことがない、そう言っている。
「――悪魔が関心を持つってことは、そいつに不幸を期待するってことなんだろ?」
シャーロットは瞬きし、アーノルドを振り返った。
彼の、茫然としたような青灰色の瞳を見た。
だが、彼女には何を考える暇もなかった。
木端微塵になった、議事堂の膨大な残骸を踏みしだき、そのとき巨人が立ち上がった。
身の丈はおよそ三十フィートにも迫る。
姿かたちは人に似ていた。
その、肌というべき深緑の、たゆたう水のようなゆらめきを見せていた表皮が、徐々に揺らめきを失って、いわば実体を得るかのように確固たる輪郭を得ていく。
深い緑色のなめらかな肌、それを覆う灰色の濃霧が、どこからともなく立ち昇って渦を巻き始めている。
濃霧をまとい、議事堂を蹴散らす巨大な脚、天高く掲げられた二本の腕――
――そして、その顔貌。
のっぺりとして目鼻すら確かではなく、ただ何かを叫ぶようにぽっかりと開いた穴に見える口と、瞳――
顔貌のほぼ中央を占めてきらめく、その深緑の独眼。
この七十年のあいだ、『神の瞳』と呼ばれ、あらゆる魔神の垂涎の的となっていた秘宝が、今や命を得て、ひさかたぶりのこの世を見渡す巨人の頭部で輝いている。
「――やあ」
アモンが言った。
かれはネイサンと並んで、巨人の足許に立っていた。
議事堂の膨大な瓦礫も、かれら二人を避けて流れ、まるでこの状況とはそぐわぬ泰然とした態度で、ネイサンとアモンの主従は巨大な魔神を見上げている。
「ひさしぶりだねぇ、わが友」
巨大な魔神は、ゆっくりと――非常にゆっくりと、その三十フィートの高処から、この夜を見渡した。
その頭上の空が低く垂れ込め、熟れすぎて毒と化した果実のような紫色を呈して輝き始めている。
キノープス暦九五八年八月十六日、この未明、グレートヒルの地下に七十余年に亘って眠っていた魔神は復活した。