29 決着
大量の血を失って、夏にもかかわらず寒気がひどく、眩暈がしていた。
身を起こしていなければならない、腕を心臓より高く挙げて、と自分に命じるものの、その意識すら霧散していく。
シャーロットは座り込んだままでふらつき、右手を床に突いて耐えようとしたものの、灼けつくような痛みと失血に気が遠くなり始めていた。
(血を止めないと)
ネイサンとモラクスが何かを話している。
モラクスの脚はすぐそばにある。
(ここから逃げないと)
モラクスが体重を右脚と左脚に交互にかけている。
(エムはどこ)
執務室の扉が開く――シャーロットはのろのろとそちらを向いた。
動いて飛び出そうと思うのに、身体の奥に石を詰め込まれたようにすら思えるほど、足が立たない。
扉の向こうにだれかが立っている――その脚は見えるが、目がかすむ。
ネイサンの声で、いくつかの単語が聞こえてきたが、血を失った頭が朦朧としており上手く聞き取れない。
聞き取れた単語は少なかった――アモン、『神の瞳』、この子、ここに。
ややあって、そばにあったモラクスの脚が動いた。かれが執務室の出口に向かっていく。
かすかな気配から、ネイサンもそれに続いて動いているのが分かった。
また、ネイサンの声――もう言葉を聞き取ることは出来なかった。
執務室がぐるぐると回っているようにすら感じられて、シャーロットはついにその場に突っ伏して、気を失っていた。
――誰かに慎重に肩を抱くようにして起こされて、シャーロットは薄く目を開けた。
瞼が膠でくっついたようであり、また上瞼が鉛で出来ているかのように重く感じた。
頭の奥の方が麻痺していて、こびりつくような眠気がある。
「――シャーロット」
囁き声で名前を呼ばれて、シャーロットはぐっと眉間に力を入れた。
目を開けなければならない、という思いはもはや本能じみていた。
「シャーロット」
再度、今度はもう少し大きな声で呼ばれて、シャーロットは目を開けようと奮闘すると同時に唇を開いた。
不明瞭な返答の声を出すと、そばの誰かはあきらかに安堵したようだった。
肩に回された手に力が籠もる。
傷を気遣ってのことだろうが、シャーロットの身体を揺らさないようにして、しかしぎゅうっと右手が握られる。
「良かった……!」
シャーロットはようやく、重い瞼を持ち上げることに成功した。
辺りが眩しく感じ、目を細める。
かすむ視界は不鮮明だったが、そこで至近距離で自分を覗き込んでいるのが誰かは分かった。
「――……アーニー……」
つぶやく。
アーノルドは頷き、シャーロットは思わず握られた右手の指を動かして彼の手をなぞり、そこにいるのが間違いなくアーノルドであって、幻のたぐいではないことを確認していた。
さらに、違和感に気づく――左腕にいつの間にか、裂かれたシャツが巻きつけられている。
そして、目の前にいるアーノルドのシャツの袖は盛大に破かれていた。
「――ありがとう……」
かろうじて囁く。
「でも、どうして……」
かすれた声を押し出す。
眉間に力を入れて、懸命に瞼を開けたままにする。
「何があって……」
アーノルドが顔を上げて、後ろに向かって何かを言う。
シャーロットは震える息を吸い込んだ。
「……死ん――死んじゃったかと思ったわ。あのとき……何があったの?
他の皆さまは? 無事? エムはどこ?」
つっかえながらそう尋ねたシャーロットに、アーノルドが視線を戻した。
顔色が蒼白になっており、彼がうっすらと涙すら浮かべているのを見て、シャーロットは激しく動揺した。
「何があったの――」
そこまで言って、息を引く。
左腕で燃え上がる鮮烈な痛みを意識した――そしてその痛みが、何に起因するものかを一気に思い出した。
「――グレートヒルの魔神は?」
「死んじゃったかと思ったって――おれの台詞だよ」
アーノルドがつぶやいて、息を吸い込んだ。
「やっとここまで来たと思ったら、きみが血まみれでぶっ倒れてんだぜ。おれの気持ち、分かる?」
シャーロットは言葉を探して口を開け閉めしたが、アーノルドはまた後ろを振り返っていて、それを見ていなかった。
すぐにシャーロットに視線を戻して、彼が厳しい口調で言う。
「きみの方で何があったかはだいたい分かる。
――こっちで何があったかだけど、」
シャーロットは視線をさまよわせた。
マントルピースの上に置かれた置時計に目を凝らす――ここでネイサンと話したときに一瞥したときから、およそ半時間ほどしか経っていなかった。
つまり、シャーロットの血液を手に入れたネイサンがここを去ってから、まだそう時間は経っていない。
アーノルドに目を戻して、うながすように頷く。
アーノルドも頷き返して、「ちょっとごめん」と断りを入れると、シャーロットの右腕を引いて、それを自分の肩にかつぐようにした。
そうしてシャーロットを支えて立ち上がる――シャーロットは痛みにかすれた悲鳴を上げたが、さすがにアーノルドにもそれを気遣っている余裕はなかった。
彼が、シャーロットを半ば引きずるようにして向きを変える。
そうしてシャーロットは執務室の扉を目の当たりにした。
扉は開け放たれており、その向こうの控室で、見覚えのあるウェントワース氏が仰向けに、大の字になってひっくり返っているのが見える。
そしてそのかたわらに、退屈そうに魔神ベリトが座り込んでいた。
シャーロットが驚きに身体をこわばらせたのが分かったのか、アーノルドが口早に囁く。
「あの性悪、おれが死んだと思ったのか、それとももう勝ちが確定したからいいやと思ったのか、それは分かんないけど、この場にベリトを残していってくれたんだよ。助かった――ベリトは話が分かる」
大仰な王冠をかぶった小男の姿をした魔神は、軽く肩を竦めた。
「単に私は、その小娘が起きて逃げ出しそうだったら殺せと命令されているだけだからね。どなたさんかがその小娘を連れて行くのを止めろとは言われていない」
「――っていうわけ。
ほんとありがと、ベリト」
ベリトがまた肩を竦める。
シャーロットは小さな声で囁いた。
「ウェントワースさんを気絶させてくれたのは……?」
「それはおれ」
アーノルドは気まずそうに言った。
「ここが分かって押し入ったのはいいんだけど、中にあいつがいてびっくりしちゃって。思わず殴っちゃった」
シャーロットは混乱を鎮めようと、小さく頭を振った。
「ネイサンさまはどこ……?」
「たぶん、最終的な目的地じゃないの? きみの血を取ることには成功したっぽいし」
そう言いながら、アーノルドがちらりと痛ましそうにシャーロットの左腕を見る。
彼女の左腕はだらんと垂れて、シャツで作られた即席の包帯は、早くも真っ赤になっていた。
「マジで間に合って良かったよ。きみ、あとちょっとで死ぬとこだったよ」
シャーロットはそれを聞いていなかった。
呼吸が浅くなっていく。
「エムは? エムはどこにいるの? 私が駄目でも、エムが無事なら――」
「ごめん、それはまだ分からない」
アーノルドは言って、シャーロットを引きずるようにして進み始める。
そうしてベリトのそばを通るときに、彼は足を止めた。
「ベリト、きみのご主人さまはここを出ていくとき、これからどこに行くかとか、そういうこと言ってた?」
ベリトは少し考えた。
そして、にやっと笑った。
「別に会話の内容を誰かに話すなとは言われていないな。
――われらがご主人さまは、アモンからの知らせがまだだが時間の問題、先に議事堂へ行くとおっしゃっていたね。アモンから知らせが入るまでは、追加で血が必要になる可能性もあるから、念のためにその小娘は殺さずにおく。けれども、失血死に至るまでには片がつくだろうから、このままここに放り込んでおくのがちょうどいい、とね」
「なんて趣味のいい命令かしら」
シャーロットが力なくつぶやいたのを聞いて、アーノルドが唇の端で笑う。
「きみが口も利けないくらいに意気消沈してなくて良かった。
――ありがとう、ベリト」
「かまわないよ」
ベリトはぞんざいに手を振った。
「どのみち私のご主人さまの勝利は確定している。今さらその小娘一匹をどうしたところで、ご主人さまはお怒りにはならないからね」
「それでも、おれにとっては、この子がどこでどうしてるかがとっても大事だからね」
アーノルドはそう言って、床に伸びたウェントワース氏の脚を慎重に避けて、シャーロットを支えながら、控室から外の廊下へ出た。
そこにランフランク中佐がいて、二人を見るや、ものも言わずに彼らの背中を押して急がせようとする。
他にも、軍人とおぼしき人影があちこちに立っており、ランフランク中佐の合図を受けて、彼らが撤退の声を掛け合うのが聞こえてきた。
「申し訳ありません」
シャーロットは半ば以上朦朧としながらつぶやいた。
「本当にごめんなさい――全部を無駄にしてしまいました」
「そうだね」
ランフランク中佐はそっけなく応じたが、その口調に、一種の愛情めいたものがあった。
「われわれが全員で、全部をぶち壊しにしてしまった。
――さて、生きて夜明けを迎えられるかな」
「きみが連れてかれたときだけど、」
アーノルドが、慎重にシャーロットの右腕を担ぎ直しながら言った。
シャーロットの額には、暑さのゆえではない脂汗が滲んでいる。
それを、経験者ゆえの同情で見て、アーノルドはおだやかな早口で続けた。
「きみも分かってたと思うけど、大混乱でさ。ガープが来てただろ。あいつに、おれたちの味方だったあの魔神――」
「ストラス」
ランフランク中佐の助け舟に、アーノルドが会釈する。
「そう、その魔神。そいつが張りついて応戦してくれてたんだけど、そのあいだにきみはモラクスに連れて行かれるし、お役人さんたちは大騒ぎだし、天井は落ちてくるしで、もうこの世の終わりかと思うような」
「天井」
シャーロットは茫然とつぶやく。
機械的に足を前に出していたが、そのときちょうど階段に差し掛かり、彼女はあやうく頭からそこを転がり落ちそうになった。
アーノルドとランフランク中佐に支えられて、なんとか一段目を下りる。
二段目、三段目、新たな段を踏むたびに激痛が走って、左の前腕はもはや腕そのものが痛みとすり替わったようで、痛みが振動のように腕を伝い、肩を震わせ、頭に届いていた。
「だい――大丈夫だったの?」
「オンルがいたからね、咄嗟のことでも押し潰されることは避けられたが」
ランフランク中佐が言って、溜息を吐く。
シャーロットは罪悪感のあまりに吐き気を覚え始めていたが、アーノルドはそれには気づかなかったらしい、淡々と続けている。
「で、なんとかなるかなと思ってたところに、きみを連れてったはずのモラクスが手ぶらで戻ってきて――」
彼が顔を顰めて、じゃっかん声を落とした。
「――そのあとはあっという間だったよ。
ストラスと、中佐の悪魔――オンルだっけ――が、ものの見事にあっさりやられて」
シャーロットは思わず足を止め、そして容赦なくアーノルドにうながされて、また足を踏み出した。
どこか雲を踏んでいるような心地がした。
「ストラスが――ストラスが、致命の一撃を受けたの?」
信じられない気持ちで囁く。
アーノルドが、専門外のことを訊かれたように軽く肩を竦め、ランフランク中佐を窺った。
中佐が硬い顔で頷くのを、シャーロットは茫然と見ていた。
「――オリヴァーさんは無事ですか?」
「無事だよ」
アーノルドが安心させるように言った。
階段を下りきって、迷いのない足取りで進んでいく。
「モラクスが戻ってくるまで、のんびり待ってたわけじゃないからね。
おれたちもさっさと逃げ始めてたし――最後尾には軍人さんたちと、悪魔がいて」
シャーロットは目を閉じた。
そのさまがありありと脳裏に浮かぶようだった。
吐き気をこらえるために彼女は唇を固く引き結んだが、シャーロットが目を閉じたことしか分からなかったのか、ランフランク中佐が焦ったように、「眠ってはいけないよ」と、切迫した声を彼女に掛けた。
「かなり出血したんだろう――眠くても、眠ってはいけない」
シャーロットは目を開けた。
舌がこわばって、なかなか言葉を作れなかった。
「アディントン大佐は――?」
「お怪我はされているが、無事だ」
「グレイさん――」
「大丈夫だよ」
アーノルドがはっきりと答え、少しためらってから、遠慮がちに言い添えた。
「きみが親しい人で、死んだ人はいない」
その言い回しのために、死者が出たことは分かった。
シャーロットは自分の心臓が裂けたと思った。
今夜のおのれの行動を顧みて、一体どこでどのように行動していればよかったのか、それを辿り始めたが、血を失って動きが鈍くなった頭では、どこで道を踏み間違えたのかは分からない。
シャーロットは必死に、目の前のことに意識を集中させた。
「どうしてここが……?」
ランフランク中佐が溜息を吐いた。
全ての気力を吐き出してしまうような溜息だった。
「アモンに対処するために魔術師を当たろうとしたときに、グレートヒル中に麾下を走らせただろう?」
シャーロットは息を吸い込む。
「まさか――」
「技術省に、ナベリウスを召喚したことがある方がいてね」
ランフランク中佐は言って、片手で顔をぬぐった。
シャーロットは茫然とつぶやく。
「ナベリウス――序列二十四番、ですね」
ありとあらゆる感情が、ない交ぜになって胸を衝いた。
――序列二十四番。
モラクスが相手であっても善戦できただろう悪魔。
かれがもしも、ストラスと一緒にいれば。
ストラスがガープを完封できただろうことを考えれば、あのとき――垂教省での決定的なあの瞬間の出来事が、変わっていた可能性すらある。
そして、何よりも――
「麾下の頼みに応えて召喚してくださったようだ――報酬をどう用立てしたのかは分からないが、麾下が『神の瞳』の在り処を把握していたから、それかもしれない。
――だが、ともかく、すんでのところでナベリウスが来てくれてね。さすがのかれもアモンを相手にしたくないと譲らず、こればかりはどうしようもなかったから、きみのマルコシアスの援護には当てられなかった。
だから、きみを助ける方に回すしかなくてね――序列二十四番ともなれば精霊も多い。きみを見つけることは出来たが――」
シャーロットは唇を震わせた。
罪悪感と後悔で、心臓と胃が捩れて切れていくようだった。
その罪を告白しようとしているというのに、唇が震えて声が出ない。喉が痙攣する。
ランフランク中佐がうなだれて、「遅かったんだね」と言っている。
だが違う――シャーロットはそれを知っている。
どれだけ自分が馬鹿なことをして、その代償として今後、どれだけの数の命が、人民の自由が失われていくのかを自覚している。
――シャーロットはリンキーズを見捨てるべきだった。
リンキーズを見捨ててさえいれば、ナベリウスが遣わされた可能性があったのだ。
もしそうであったとすれば――モラクスは序列二十一番、序列においてかれに迫るナベリウスが助けに来るあいだまでの時間さえ稼げば、ネイサンの王手には到らなかったかもしれないものを。
――シャーロットのささやかな良心が、すべてを水泡に帰したのだ。
▷○◁
軍省の省舎の外には、人々が密集しているようにシャーロットには思えた。
ガス灯の明かりに照らされて、不安げな、あるいは怒ったような厳しい顔の人々が集まっている。
シャーロットがもう少し注意深く彼らを見る余裕を持っていれば、そこに集まっているのが軍人だけではなく、文官に類される立場の魔術師も多くいることに気づいただろう。
シャーロットたちは省舎の正面玄関に達していた。
大きな扉は開け放たれたままになっており、そこから外がよく見える。
ネイサンが、この省舎を出るときに正面玄関以外を通ったとは思えない。
そのためシャーロットは混乱したが、どうやら外に集まる人波は、ここに到着したばかりであるらしかった。
ネイサンとは、いわばすれ違ったようなタイミングでここに辿り着いたのだろう。
状況の理解が進まないがゆえの混乱した声が、ここにまで聞こえてきている。
玄関広間に堂々と立つキッシンジャー像のそばには、退屈そうな魔神が立っていた。
誰が見ても、かれが悪魔だということは分かるだろう奇抜な姿だった。
猟犬、軍用犬、愛玩用の可愛らしい犬、それら三種類の犬の首を持ち、カラスの脚と尾を備え、そしてこれからダンスパーティに出席するのだと言われても信じるほどの、華美な装飾のほどこされた明るい緑色の燕尾服を身に纏っている。
身の丈は優に六フィートを超えており、腕を組んで、三つの犬の頭であちこちを見回している。
――序列二十四番ナベリウスの、最もよく知られた姿だ。
シャーロットがかれをかすむ視界に捉えると同時に、外が騒がしくなった。
どよめき、呻き、祈りの声、そういったものがあぶくのように上がっては弾ける。
ランフランク中佐がはっとした様子で、シャーロットとアーノルドのそばを離れて走り出した。
彼の上官であるアディントン大佐のそばまで走り、何事かをせわしなく尋ねている。
アーノルドが足を止めたがために、彼に縋って歩いていたシャーロットも足を止めた。
そのまま彼女が座り込もうとする気配を察して、アーノルドがようやく彼女を床の上に座らせてやる。
人混みが割れたのが見えた。
ランフランク中佐が絶句し、ついで絶望のために顔を歪めたのが明かりに浮かんではっきりと見え、シャーロットはその所以を悟った。
床に手を突き、立ち上がろうとする。
アーノルドが驚いた様子でそれを支え、シャーロットの意思を尊重して、ゆっくりと彼女の右腕を支えてシャーロットをひっぱり立たせた。
立ち上がったその瞬間からシャーロットはよろめいていたが、それでも人波を割って姿を現した悪魔が見えたとき、きちんと二本の脚で立っていることは出来た。
悪魔は二人連れだった。
一人は、褪せた赤い色の身体の馬に乗った、ライオンの頭を持つ男性の姿をした悪魔。
かれが、見るからに疲弊しきった様子で、ライオンの頭をうなだれさせ、四肢すべてを引きずるような覚束ない足取りで、よろよろと軍省の省舎に入ってくる。
そしてもう一人は――
「――エム」
シャーロットは声を出した。
ナベリウスが召喚されたと知ってから、彼女が初めて出した声だった。
声がかすれたので、シャーロットは小さく咳払いした。
そして、もう一度呼ばわった。
「エム!」
伸びすぎた灰色の髪の、十四歳の少年の姿の悪魔が顔を上げた。
かれがゆっくりと、苦労した様子で微笑を浮かべ、腹這いになってぐったりと乗っていた、連れの悪魔の馬の背中から滑り降りた。
――そして、信じられないことに、着地に失敗してその場にしりもちをついた。
「いてっ」と声を上げ、マルコシアスがそばの悪魔――つまりは、オリアス――の脚に縋って立ち上がる。
そして、いかにも無理を押しているという様子で、右手を挙げた。
「――やあ、レディ」
シャーロットは息を止めていた。
多少の距離があっても、マルコシアスの左の鎖骨のあたりに、あきらかに自然ではない穴が開いていることは見てとれるところだったのだ。
シャーロットが目で見た情報を咀嚼し、現実を呑み込み、そしてあえぐように息を吸い込んで右手で顔を覆うころには、マルコシアスは足を引きずりながらも、ゆっくりとシャーロットの目の前まで歩み寄っていた。
マルコシアスはマルコシアスで、シャーロットの左腕に目を落として、苦笑の風を見せている。
「――お互い手酷くやられたね」
マルコシアスがゆっくりと言った。
シャーロットはただ頷いた。
マルコシアスが右手を伸ばし、シャーロットの左手を取って持ち上げる。
シャーロットよりもアーノルドが息を呑んだ。
シャーロットも痛みに息を詰めたが、マルコシアスはそれには気づかなかったらしい。
淡い黄金の瞳を瞬かせて、疲れたように微笑んで、シャーロットの左腕に落としていた視線を持ち上げる。
「ストラスはどこ? 治してもらいな」
シャーロットは息を吸い込み、首を振った。
意味がとれなかった様子できょとんと首を傾げるマルコシアスを見て、かすれてくぐもった声で、やっとの思いで告げる。
「――いないの。いないのよ。
モラクスが――」
「なんと」
マルコシアスがいよいよ苦笑した。
「僕の弟分も、とうとう領域に脱落か。さぞかし僕を恨んでるだろうね、怖い怖い」
いつもの軽口だったが、口調があきらかにゆっくりとしていて、声も小さく弱々しい。
マルコシアスは、握ったままのシャーロットの左手指に添える手を軽く揺らした。
「それで? だれがあんたにこんなことをしたの?」
シャーロットは痛みのために口ごもった。
アーノルドがためらいがちにマルコシアスの右手を押さえて、かれがシャーロットの傷ついた腕を揺らさないようにする。
シャーロットは息を吐いて、答えた。
「――直接したのは、モラクスね」
「モラクスか」
マルコシアスが頷き、かれもまた息を吐く。
疲労の溜まった息だった。
「なるほどね。あいつが嫌いになりそうだ」
そして、ますます持て余すかのような苦笑で、真面目にシャーロットと目を合わせた。
「――ということは、あんたは駄目だったわけだ」
シャーロットは唇を噛んでから、ようやっと応じた。
「……お前も駄目だったみたいね」
「序列一桁とやり合ったことはなかったんだけど、すごいね。
――ああ、そうだ。ロッテ、こいつを召喚したのは誰?」
振り返って、疲労困憊したオリアスを示し、マルコシアスが首を傾げる。
シャーロットが記憶を探って口ごもると、かれはいつもよりは精彩を欠いた顔で、それでもにっこりと微笑んでみせた。
「僕からの感謝を伝えてくれ。そいつからの召喚には、僕は喜んで応えよう。
こいつが味方にいなかったら詰んでたよ――あのワタリガラス、あんたからの報酬の品を僕から取り上げるだけじゃ飽き足らず、僕に致命の一撃を入れようとしてきたからね」
シャーロットは重い瞼で瞬きした。
「……よく無事で……」
「今の僕が無事に見えるなら、ロッテ。今すぐ医者に行った方がいいよ」
すげなくそう返しつつも、マルコシアスは唇の端でにやっとした。
「さすがのアモンも、こいつのお得意の魔法には逆らえなかったらしいからね。綺麗なボールにされたこいつを元に戻して、あいつの前からおさらばしたってわけ。
いやほんと、僕が手出しできないような魔法でなくて良かった」
息を継いで。
「まあ、お察しだと思うけど、フォカロルと、だれだっけ、あぁそうそう、ハーゲンティとダンタリオン。連中は全滅だよ。恨みを買っただろうから気が重いよ」
シャーロットは右手で顔を覆った。
顔を上げて、省舎の入口を見る。
そこからすでにアディントン大佐が足早にこちらへ足を進めていた。
負傷しているということだったが、それを窺わせない身のこなし――ただし、軍服のあちこちに血が飛んでいた。
「ミズ・ベイリー――」
「――申し訳ありません」
シャーロットは吐き出すようにつぶやいた。
声が震えて、立っていられなくなりそうだった。
「申し訳ありません――ネイサンさまがどちらも手に入れました。私の血も、『神の瞳』も」
アディントン大佐が足を止め、くるりと後ろを振り返る。
シャーロットが覚悟した叱責も呵責も何もなかった。
彼が麾下に向かって大声で命令を下し始める。
グレートヒルからの脱出は現状不可能だが、出来る限り議事堂から離れるよう――
シャーロットは目の奥に絶望的な熱を感じながら、ひたすらに気まずげな苦笑を浮かべるマルコシアスに視線を移した。
かれもシャーロットを見ていた。
シャーロットはかろうじて微笑んだ。
責めるような言葉にも、叱責を籠めることは出来なかった。
ただ魔術師にはあるまじき親愛を籠めて、彼女は小さく言っていた。
「お前……お前、いざというときは私に始末をつけてくれるって、それが、私が十四のときからの約束事でしょう? 本当に駄目ね」
マルコシアスは、いかにも悪魔らしく、悪びれずに肩を竦めた。
「僕だって、ピンチになったら助けに来てくれって言ったじゃないか、相棒。
助けに来るどころか、まさかあんたもこんなにぼろぼろになっているとはね」
シャーロットは鼻をすすったが、涙は出なかった。
どこかで感情が落とし穴に落ちていったかのように、胸のうちに湧き上がる感情が稀薄になっていた。
「――馬鹿な悪魔ね」
いつものように、シャーロットはつぶやいた。
「本当に馬鹿な悪魔ね。――でも、顔を見られて嬉しいわ」
マルコシアスは微笑んだ。
およそ悪魔には似つかわしくない表情で。
「間抜けなレディだな。喜んでくれて何よりだ。
――僕も、あんたが生きててほっとしたよ」
そこで息を吸い込み、マルコシアスがシャーロットの足許を見渡すような仕草をする。
シャーロットの胸が、引き攣れたように痛んだ。
「ところで、あんたがやられたってことは、あの生意気な雑魚は――」
「――――」
シャーロットの沈黙に何を感じ取ったのか、いかなる懺悔を聞き取ったのか、マルコシアスが顔を上げた。
かれが驚いたように目を丸くし、そしてなんともいえない、言葉にも尽くせない表情で、かれの主人を見つめて微笑んだ。
「――ああ、レディ」
右手を伸ばして、マルコシアスはシャーロットの頬に触れた。
近い距離で、淡い黄金の瞳と橄欖石の瞳が見合わされた。
「本当にお馬鹿なレディ。
まさかあんたの慈悲が、そんなところにまで及ぶとは」
「――――」
シャーロットは押し黙っている。
唇を噛んで、致死量に迫る後悔のありったけに震えている。
「そんな顔をしないで、かわいいロッテ」
マルコシアスが囁いて、苦笑した。
まさに子供を見るような、忍耐づよい瞳で。
かれは小声で続けた。
そばとは言えないが近くにいる、ナベリウスに聞き咎められることを避けた様子で。
「これは、なるほど、僕にも責任があるな。
あんたを僕の客人にしたときに、あんなに張り切って素敵なところばっかりを見せたせいだな」
シャーロットは右手で顔を覆って、肩を震わせた。
「……本当に馬鹿だった」
「あいつにとっては、そうとも言えないさ。
――レディ、あいつを呼べる?」
シャーロットはためらったものの、てのひらから顔を上げて、小声で〈傍寄せ〉を唱えた。
とたん、呪文の強制力をもって、シャーロットの足許に、きらめく霞をともなった、子犬の姿のリンキーズが現れた。
さすがというべきか、〝真髄〟の損傷こそ癒えていないだろうが、姿をまともなものに仕立て直すことはしている。
かれは呼び出されたことが分かるなり、半狂乱で叫び始めた。
「――違う! 僕は悪くない!
戻っていいって言われたんだ、契約違反じゃない!!」
アーノルドがかれを宥めようとするよりも早く、マルコシアスが喉の奥で小さく笑って、爪先で子犬をつついた。
「分かってるよ。
――リンキーズ、僕のレディに礼を言いな。守ってもらったんだろ?」
シャーロットの記憶にあるかぎり、マルコシアスが面と向かってリンキーズの名を呼んだのは、これが初めてのことだった。
リンキーズはぽかんとし、それから恐る恐るマルコシアスを見上げ、そしてかれの主人を見上げた。
かれの全身が、暴力の名残にか震えていたが、リンキーズは絞り出すようにつぶやいていた。
「……どうも、ご主人」
シャーロットは泣きそうになった。
「いいのよ、って、言ってあげられたら良かったんだけど」
シャーロットはまったく無意識に、マルコシアスの肩に額を預けていた。
「――それを言うには、私には権利が足りないみたい」
「そうかもね」
マルコシアスは悪魔らしいかろやかさで認め、それからシャーロットの肩を叩いて、自分の肩から彼女の顔を上げさせた。
ちらりとナベリウスを見て、かれの三つの頭が、一つは人混みの方を、一つは天井を、もう一つはキッシンジャー像を熱心に観察していることを見て取ってから、シャーロットに視線を戻す。
「――ロッテ。僕の考えが当たってるとすると、今にも僕の元ご主人さまは、この地下でおねんねしているわれらが同胞を叩き起こそうとすると思うんだけど――」
シャーロットは呼吸が詰まるのを感じた。
ネイサンがシャーロットの血液を手に入れてからは半時間足らず、マルコシアスがここにいるということは――
「お前……」
シャーロットはつぶやいた。
「お前、『神の瞳』は、いつ奪られたの」
マルコシアスは少し考える様子を見せた。
ちら、と、ぐったりしたオリアスを振り返り、いつもよりもぎこちない仕草で肩を竦める。
「――たぶん、そんなに経ってない。こいつも僕も、けっこう死に物狂いでここまで来たからね。
経ってるとして十分くらいかな」
シャーロットは自分の心臓の鼓動の音を聞いていた。
どこか遠くで太鼓が鳴っているように聞こえる、その音の連続。
「――だったら、そうね」
アディントン大佐の命令の声は続いている。
それに対して、ここに集められた格好になった魔術師たちが、何かをしきりに言い立てる声も聞こえている。
「確かに、そろそろ、ネイサンさまとアモンが合流するわね」
「アモンってやつが、きみを追いかけてここまで来ることはないの?」
アーノルドが割り込んで尋ねた。
尋ねられたマルコシアスは、主人であるシャーロットを通さないその質問にやや驚いたようだったが、淡い黄金の瞳を彼に移して、端的に応じた。
「ないね。アモンがいくらお馬鹿でも、今さら僕を追いかけ回したりするのは時間の無駄だって分かるでしょ」
「つまり、アモンはまっすぐネイサンさまと合流するだろうってことね」
シャーロットはつぶやいた。
どことなく茫然としたような、現実感に欠けた感覚があった。
ふと思い出した――まだ小さいころに、祖母が死んだと告げられたときも同じだった。
聞いた言葉は理解できるというのに、その理解が、「そんなはずはない」という感情に遮られるのだ。
それと同じ――
「逃げようよぉ」
リンキーズが情けない声を上げた。
シャーロットの足許に頭をすりつけている。
アーノルドが屈みこんでその頭を撫でてやりながら、容赦なく現実を指摘した。
「逃げるったって、グレートヒルから出られないんだから」
「――逃げる、ねぇ」
マルコシアスがふと思案した様子で息を吸い込み、かれが小声で、口早で言い始めた。
「ロッテ。たぶんあんたは嫌がるだろうし、絶対に断るだろうし、この提案を受けるようなら、僕の好きなあんたはいなくなるんだろうな、っていうところまで分かるんだけど、念のためにひとつ提案させてくれ」
シャーロットは小さく微笑んだ。
「何を提案されるのかは大体分かるけれど、念のため言ってみて。なに?」
マルコシアスは頷いて、真顔で言った。
冗談の欠片もない声音だった。
だが、最後の一言だけにはいたずらっ気が滲んだ。
「ビフロンスのやつの加護の水を持っておいで。僕が、あんただけは無事でいられるところに連れていってあげるよ。
――予想どおり?」
小首を傾げられ、シャーロットは小さく笑う。
「予想どおりよ。
それでたぶん、お前は返事も予想しているんでしょうけれど――」
マルコシアスは顔を顰めたが、嫌がる様子ではなかった。
「まあね」
シャーロットは息を吸い込み、心を籠めてマルコシアスの右手を、自分の右手で握った。
「――ありがとう、エム。お前にそうまで言ってもらえて、本当に嬉しいわ。
でも、だめよ。お前が気に入ってくれた私は、絶対にその提案には乗らない」
マルコシアスは大きく息を吐いた。
「だろうね、予想どおり。
まあ、あんたがこの提案に乗ったら乗ったで、僕はさぞかしがっかりしたんだろうが――」
ちら、と、かれがナベリウスを見遣る。
ナベリウスは三つの顔それぞれで、のんびりと欠伸を漏らしたところだった。
「いよいよ万事休すって感じだけど」
つぶやいて、マルコシアスは右手で髪をかき上げた。
「――逃げ出すわけにはいかないってことは、あんたはまだなんとかしたいわけだ」
「“私は”ね」
主語に力点を置いてそう言って、シャーロットはそばの悪魔の顔を覗き込んだ。
「気づいてるでしょうけど、『神の瞳』を取られちゃったんだから、もうお前を悪魔の道まで追いかけるような真似は、アモンもしないと思うわ。
お前はもう、さっさと逃げられるのよ」
マルコシアスは笑い声を上げた。
「おやおや、レディ、悪魔との契約の第一の原則を忘れるとは」
シャーロットが瞬きする。
マルコシアスは悪魔の笑みでそれを眺めた。
「僕は報酬はきっちり頂くよ。
――さあ、レディ・ロッテ、あんたの望む人生のために頑張ってくれ。僕はあんたが十四歳のときのままの心根であがく様子を見物するよ。
ついでに、危なくなったら遠慮なく逃げ出すさ――ご存じのとおり、僕は自分が一番で、」
マルコシアスは億劫そうに右手を持ち上げて、その指先でシャーロットの額をつついた。
「もう、あんたとは一蓮托生じゃないもんでね」