28 チェックメイト
モラクスは淡々とした手つきでシャーロットの左の手首を捕まえた。
シャーロットは全力で暴れ、右手でモラクスのがっしりした裸の胸を殴りつけ、引っ掻き、かれの向こうずねや足の甲を蹴りつけたり踏んだりしながら抵抗したが、どう足掻いても魔神の膂力に敵うはずもなかった。
モラクスは鬱陶しそうな顔をしつつも、まるで品評しなければならないものをちょうどいい高さに持ち上げるようにして、ぞんざいにシャーロットの左腕を吊り上げた。
シャーロットは左の脇が裂けるかと思った。
手首の骨は今にも折れそうに軋んでいる。
四年のあいだ、縁のなかった物理的な痛み。
「――痛い!」
シャーロットは叫んだが、囁きに近いような声しか出なかった。
シャーロットは息を吸い込み、金切り声を張り上げた。
ネイサンに少しでも不愉快な思いをさせられればしめたものだとすら思いながら。
「痛い! 痛い!! 離して!」
モラクスは溜息を吐いた。
振り返って、ネイサンに何かを確認している――おそらくは、シャーロットの身体の部位のどこを切り裂くのかということを。
それを察して、そして実際に自分がそういった目に遭うことを身に迫って想像して、シャーロットは全身に鳥肌が立つのを感じた。
胃袋が腹の中で浮き上がったような心地がして、背筋が冷える。
「やめて! モラクス、やめて!」
そう怒鳴りながらも、シャーロットも重々分かっていた――ネイサンがモラクスに示した以上の報酬を示さない限りは、モラクスはシャーロットの言葉を耳に留めるまい。
「腕? 首? 腹?」
モラクスがネイサンにそう尋ねている。
ネイサンは肩を竦めた。
「舌を引っこ抜けと言いたいところだが、それはやめておこう。
アモンがまだだから、念のためだけれど、その子を殺すのはまだ待たないといけない。腕かな」
シャーロットは左腕を吊り上げられているために爪先立ちになりながら、必死になって体重を下に傾けるようにして、モラクスの手から逃れようとした。
ほとんど負け惜しみじみて、シャーロットは叫んだ。
「あなたがそんなことをするなら、私はもう二度と悪夢なんて見たくない!!」
「――――」
ネイサンは、おそらくシャーロットが半狂乱になったがゆえの妄言だと思っただろう――だがモラクスは、すばやい動きでシャーロットを振り向いていた。
ネイサンの指に止まった魔精ですら、シャーロットを見て動きを止めている。
そのはずだ、筋が通って聞こえたはずだ、悪魔なら。
モラクスが牡牛の瞳で瞬きして、まじまじとシャーロットを観察する。
蒼白な顔で頬ばかりが赤くなり、しゃくり上げる寸前の若い女を。
「今、なんだと?」
モラクスが、唖然とした様子で尋ねた。
しかしすぐに、馬鹿げたことを訊いたと自分で判断したのか、首を振る。
「いや、気のせいか――知るはずない」
「モラクス?」
ネイサンが訝しげに呼び掛ける。
モラクスはそれを無視した。
かれは振り返ったが、それはネイサンの指に止まった、全身が水晶で出来たハチドリの魔精と目を合わせるためだった。
位において天地の差がある二人の悪魔が、しかしこのときだけは、示し合わせたように頷き合った。
「まあ、どちらにせよ、知られているなら口を利けないようにしないとまずいからな」
モラクスはつぶやき、そのとたんに口をつぐんだシャーロットを、いよいよ胡乱そうに眺め遣る。
かれが軽く屈みこみ、そしてそのためにシャーロットはようやく踵を床につけることが出来たのだが、そんな彼女に向かってモラクスは囁いた。
「――確かにマルコシアスは、相当お前に入れ込んでいるようだったが、まさかそんなことまでは話すまい? ――私が何を意図しているのか、お前には分かるまい?」
シャーロットは暴れたがために息を切らしており、顔に金髪が掛かっていたが、それでも強気に応じた。
「エムを呼んできて、訊けば? 私と何を話したことがあるか。なんだかんだで七年の付き合いがあるのよ。
エムは絶対に私にまつわることは忘れないわ。山のように色々話してくれるわよ」
モラクスは戸惑ったようだった。
高位の魔神がこんな顔をすることは珍しい。
「お前の知っているマルコシアスは、私の知っているマルコシアスとは違うらしい」
「モラクス」
ネイサンが苛立ったように、ふたたび呼ばわった。
今度はモラクスもそちらを振り返った。
その拍子にまたしても左腕を吊り上げられて、シャーロットは爪先立ちになって痛みに呻いた。
「モラクス、無駄口を叩くな。私が必要としているのは彼女の血だ」
モラクスが肩を竦めて、軽く牡牛の頭を下げる。
立派な角がシャーロットのそばに下りてきて、彼女は息を呑んだ。
「おっしゃる通りに、ご主人さま」
モラクスがそう応じて、勢いよくシャーロットの腕を引っ張り、彼女をネイサンの方へ押し出した。
同時にシャーロットの左手首を捕まえている手を、床から数フィートのところへ下ろしたため、シャーロットはもんどりうって転がって、ネイサンの前で床に倒れ込むような格好になった。
床にしたたかに膝をぶつけたが、つややかな絨毯のおかげで痛みはなかった――
――燃えるように痛んでいるのは、魔神に握られた左手首だ。
「腕でしたね?」
シャーロットのそばに屈みこんだモラクスが冷淡にそう確認して、空いている手で彼女の左腕の袖を破った。
破れた濃翠色の袖が二又になってだらんと垂れる。
白い肌がむき出しになった。
シャーロットは大声を上げた――もはや何を叫んだのかすら、彼女の記憶には残らなかった。
だがネイサンがただ顔を顰め、満足そうな表情は欠片も見せなかったところから推して、命乞いではなかったのだろう。
ついで彼女は呪文を唱えようとした――魔神から力を借り受ける呪文であっても、現に召喚されている序列二十一番のモラクスに対して効果を発揮できるとは思えない。
だが、ふいを突くことは出来るかもしれないと考えたのだ。
とはいえ、これは上手くはいかなかった。
呪文の二言目で、モラクスがためらいなくシャーロットの口を叩いて黙らせたのだ。
目の前に火花が散るような衝撃――唇の端が切れ、ついでに舌を噛んで口の中に血の味が拡がった。
ショックにこわばる舌で歯列をなぞって、歯が折れていないことを確認する。
モラクスからすれば、叩いたというよりも、軽く咎めて触れたというだけの感覚だったのかもしれない。
マルコシアスがふざけてシャーロットの頭を叩くことがあったが、あの仕草にどれだけの注意深さが籠められていたのかということを、このとき初めてシャーロットは実感した。
かれが無頓着に叩いていれば、シャーロットの頭蓋骨は真っ二つに割れていたに違いない。
「――――」
シャーロットは右の手首で唇から滲んだ血をぬぐった。
この数滴の血では魔神の目が覚めないことを心から祈る。
切れた唇が火ぶくれになったかのように痛んだ。
そしてその痛みこそが、彼女にこの悪夢が現実であると教えていた。
ネイサンの指を離れ、全身が水晶で出来たようなハチドリの魔精が、シャーロットの目の前に舞い降りてきた。
絨毯の上に華奢な足で降り立ち、興味津々といった様子でシャーロットを見上げ、小首を傾げる――
モラクスが溜息を吐いて、シャーロットの左手首を捕まえたまま、もう片方の手を彼女の前腕にあてがった。
シャーロットは総毛だち、全身の血の気が引いていくことを自覚し、最後の抵抗のため、がっちりと捕えられた腕を懸命に引っ張った――
――激烈な痛み。
神経という神経が頭脳に向かって痛みを訴え、頭の中がそのことでいっぱいになる。
感覚が爆発したような凄絶な激痛。
痛みを自覚するよりも早く、パニックの波が押し寄せる。
そして逃げようのない――神経という神経、痛みを感じる全ての器官を、その腕から引きずり出して安全なところに放り投げたい――そう思えるほどの、腕が燃え上がったかのような、壮絶な――痛みという現実。
シャーロットが知覚する現実に、痛みという幕が下りたかのようだった。
痛みを通してしか何を認識することも出来ず、これを取り除いてくれるならばなんでもするとすら思え、自分の腕に痛みがなかったという記憶が信じられない――
モラクスの指がなぞった腕が、ぱっくりと裂けて血が溢れている。
その赤色――攻撃的なまでにあざやかな赤色。現実味のない、これほど鮮烈な色があるのかと思えるほどの赤色。
「――――っ!」
――シャーロットは悲鳴を上げた。
今度こそ、なんの意地も矜持もない悲鳴だった。
そんなものを保つには、この痛みはあまりに強すぎる。
のたうち回りたいほどに痛むのに、身体を動かせば痛みが増すのは分かっている、拷問のような二律背反。
裂けた皮膚から血が溢れる。
溢れた血が筋を作って腕を流れ、肘からぼたぼたと絨毯に落ちる。
つややかな青い色だった絨毯が血を吸い込んで、紫色じみた大きなしみが出来ていく。
執務室に鉄錆の臭いが広がる。
むせ返るような、なまぬるい――肌にまといつくような、その臭い。
モラクスは断固としてシャーロットの手首を離さない。
どくどくと脈打つ血管から吐き出される血を、蟻の群れを眺めるような目で観察している。
全身が水晶で出来たようなハチドリの魔精が、ぱたぱたとはばたいて、シャーロットの腕のそばに滞空した。
まさしくほんもののハチドリが花の蜜を吸うときのように宙に留まって、ハチドリの魔精の細いくちばしがシャーロットの血を掬う。
まさに、その魔精は血を飲んでいた。
――シャーロットは息を呑んだ。
目を見開き、最後に残った冷静さと意地でもって、その魔精を叩き落とそうとする。
だがそれも、モラクスがなだめるように腕を掴んでたやすく阻止した。
シャーロットは叫ぶというより唸るといった方が近い語調で呪詛と罵倒を叫んだが、それに耳を傾ける者はいなかった。
みるみるうちに、硝子の容器に血を注ぎ入れているかのごとく、ハチドリの身体の内側に血液が溜まっていく。
くちばしから吸い上げられた血液が身体の内側に落ち、ほんもののハチドリには有り得べからざることに、空洞になったその全身に溜まっていく。
尾の先に、華奢な脚の内側に、腹の中に、繊細に彫り込まれたような翼の内側に、そして頭部に。
あっという間に、澄みきった透明にきらめいていたハチドリは、したたるほどに鮮烈な色合いの、真っ赤な果物をハチドリの形に彫り込んだような姿に変貌していた。
あまりにも赤くていっそ毒々しい、そのハチドリがかろやかな動きでシャーロットのそばを離れ、自慢げにネイサンのそばへ飛ぶ。
モラクスがシャーロットを離した。
とたん、身体のバランスを崩してシャーロットはその場に倒れ込んだ。
溢れる血は気味が悪いほどになまあたたかい。
右手で探って、左の前腕をぎゅっと掴む。
痛みはいっそう激烈になったが、そうしなければ遅かれ早かれ自分が死ぬということは分かっていた。
鼻腔いっぱいに血の臭いが拡がって、シャーロットは胸が悪くなった。
必死に身体を起こそうとする――ネイサンの足許で這いつくばっていることに屈辱を感じたというよりは、腕を心臓よりも高い位置に上げなければならないという認識があったためだった。
右の肘で絨毯の敷かれた床を探り、震えながら半身を起こす。
濃翠色のワンピースの前身ごろに、べったりと血が付着している。
視線で悪魔をどうにか出来る何かが存在するならば、今のシャーロットの眼差しにはそれがあった。
充血した橄欖石の色の瞳が、熱に浮かされたように、狂ったように、真っ赤に染まったハチドリを追っていた。
――血。血液。
シャーロットの血。
気高きスーの血。
しかし実際には、ハチドリがシャーロットの眼差しを気に留めた様子はなかった。
かれは端正な仕草でネイサンが差し出した指先に止まって、誇らしげにさえずってみせる。
「いい子だ」
ネイサンは微笑んでそう言って、視線を動かした。
溢れる血を右手で押さえて身を震わせ、蒼白になっているシャーロットを見下ろして、彼は静かに冷笑した。
「減らず口もようやく黙った。
――モラクス、ご苦労」
▷○◁
七年前に、シャーロットから破格の報酬としてマルコシアスが譲り受けた『神の瞳』は、今やかれの一部となり、かれの中に根を張っている。
――それが抉り出される感覚、その痛みは筆舌に尽くし難い。
マルコシアスは、久しくなかったことに絶叫していた。
ここまで声を張り上げて痛みを訴えたのは、グラシャ=ラボラスに致命の一撃を喰らったとき――つまりは五百年以上前、それ以来だった。
凄まじい速度でかれの姿が変わっていた――人間の少年、大蛇の尾を持つ狼、カササギ、異様に尾の長いサル。
連続して生き物の姿をとれば、苦痛も消耗も避けられないが、それでもここで手を打たずにいるよりは上等という、後がなくなったがゆえの決断の早さだった。
逃げを打つためにあらゆる姿に形を変え、もはやかれの姿がかすんで見えるほどだったが、しかしアモンの頑強な手は、揺るがずマルコシアスの一点、『神の瞳』と結びついているその一点を握って逃がさない。
マルコシアスからすれば、暴れ狂ったその時間は、相当に長かったように思われた。
これに匹敵する時間として感じたことがあるのは、グラシャ=ラボラスに致命の一撃を与えられたあと、著しく毀損された〈マルコシアス〉の〝真髄〟に引きずられ、半身が動かない暗澹たる思いでおのれの領域が略奪されていくのを見ていた、あの百年近くの間だけだった。
だが実際にはほんの数秒だった。
アモンはすっかりマルコシアスの相手に飽きた様子で、手早く、残酷に、無慈悲に、マルコシアスから『神の瞳』を引きずり出した。
まるで地中深くに根を張った植物を力任せに引き抜くようにして、アモンは迷いのない力づくで、マルコシアスから『神の瞳』を――このグレートヒルの地下で眠る魔神の瞳を奪い取った。
とうとうマルコシアスの絶叫も途絶えた。
かれは偶然にも、人間の少年の姿をとった瞬間に『神の瞳』を抉り出されていた。
マルコシアスは激しくあえぎ、姿を変えることをやめて淡い黄金色の目を見開き、たった今おのれから引きずり出された至宝を見つめていた。
かれの、左の肩にあたる部分がごっそりと抉れて見えている――だがかれは人間ではないから、その傷から血が溢れるようなことはなかった。
ただ、身体に開いた穴は不自然に暗く見えている。
マルコシアスの左腕がだらんと垂れた。
かりそめの身体ではあっても、この身体は〝真髄〟の損傷を忠実に反映する。
そして何よりも、『神の瞳』を失ったことそのものが、マルコシアスに物理的なショックを与えていた。
身体の一部にぽっかりと穴が開いて、そこを風が撫でていくのが感じられるような喪失感。
アモンは右手で抉り出した『神の瞳』を、マルコシアスの目の前で矯めつ眇めつした。
こぶし大の、おだやかな緑色に輝く至宝。
それをてのひらの上で転がし、満足したように頷く。
「うん――うん。なるほど、確かに。これはわが兄弟の瞳に相違ない」
「――――」
マルコシアスは息を詰め、瓦礫をずるずると背中で滑るようにして、その場に座り込んだ。
万策尽きて、とうとう力尽きたように。
少なくともアモンからはそう見えた。
濃翠色のシャツを着た痩せっぽちの少年が、半身から力が抜け、半ば倒れ込むようにしてその場に座り込んでいる。
アモンは礼儀正しく鼻を鳴らし、マルコシアスを一瞥した。
「序列――三十五番だっけ? それにしては頑張ったよ、きみ。
でも、ここまでだったね」
「……そうかもね」
マルコシアスはかすれた声で認めた。
かれの淡い黄金色の双眸が、痛みをこらえて細められている。
「でも、まだ僕のレディは無事だぞ――僕はここにいる」
アモンは愛想よく微笑んだ。
手許の『神の瞳』に視線を戻して、かれは歌うように。
「秒読みしようか? あとどれくらいできみがきみの領域に戻されるか?
それとも僕が手ずから叩き落とす方がお気に召すかな?」
マルコシアスは息を吸い込む。
それだけでかなり身体が痛んだ。
全身がきしんで悲鳴を上げているかのようだった。
「あの子は大丈夫――」
つぶやく。
「――僕の十四歳の相棒だ」
不変は罪だが、変わらないがゆえに価値があるものもあるのだ。
「ごめん、何を言っているのか分からないや」
冷淡にそう言って、アモンはさらに、『神の瞳』に意図せぬ傷をつけてはいないかと点検するように、注意深くそれをてのひらの上で回転させた。
『神の瞳』に纏いつく、マルコシアスの肉片――とはいえ、それはまさにかりそめのものであって、どちらかといえば〝真髄〟の欠片という方が近い性質のものだったが――を、ぞんざいな手つきで払っていく。
そしてそれを終えると、アモンは慎重な手つきで、両手で包み込むように、『神の瞳』を丁寧にてのひらの中に閉じ込めた。
その仕草ひとつひとつから、その秘宝になんの害も及ぼすまいとしていることは明白だった。
それからアモンは、もはや半ば以上の興味を失ったようなワタリガラスの黒い瞳で、足許にくずおれたマルコシアスを見下ろした。
――それよりも十数秒早く、マルコシアスはアモンの向こう側を見ていた。
伸びっ放しの灰色の髪の下で、淡い黄金の双眸がせわしなく瞬きし、痛みを堪えて思索を巡らせている。
かりにも時代を跨いで戦場で活躍してきた魔神だ、これほどの痛みを受けたことはそうそうないが、それでも万事休すという目に遭ったことならば何度もある。
そして何よりも意外だったのは、『神の瞳』を失って覚えているのが、身体の一部に穴が開いたような喪失感――それだけだということだった。
(てっきり、もっと――力が抜けるとか、支えがなくなるとか、そういうもんだと思ってたけど――)
『神の瞳』は、史上ふたつ、存在する。
歴史に現れたひとつめの『神の瞳』をマルコシアスが得ていたのであれば、それを奪われればまさしく、覚えたのは予測していた無力感だっただろう。
だが、マルコシアスが得ていた『神の瞳』は違う。
グレートヒルの地下で眠る魔神、神とまで称せられた魔神の瞳そのもの。
そしてマルコシアスが力を得た原理は――
(あの偉い人間がロッテに話していたところによると――)
――その瞳から〈ローディスバーグの死の風〉を巻き起こした、くだんの毒を少しずつ〝真髄〟に取り込むこととなり、知らず知らずのうちにそれを克服できるようになっていたからに他ならない。
(だから、)
得た力の一部は、マルコシアスのものになっているはずだ。
『神の瞳』を得て、マルコシアスは急速に力を増した――つまり、毒を得た直後に爆発的に力を増した。
そしてそれからも、徐々に力がつき続けていたはずだ。
マルコシアスの感覚と、あのとき首相がシャーロットに話したことを突き合わせて考えれば、おそらく――
(――僕の魔法にもくだんの毒が影響してたんだ。だから威力が増した。
その毒の源だった『神の瞳』を取られたからには、確かに僕は弱くなったんだろうが――そのあとじわじわ強くなった分の力は、たぶん今も僕のもの)
――少なくとも、万全の状態であれば、マルコシアスは以前の、シャーロットと初めて会ったころよりはいくばくかは強くなっているはずだ。
しかし、今このときばかりはそうともいえない。
かれは弱っている。
〈マルコシアス〉の〝真髄〟は、アモンの一撃でかなり傷ついている。
少なくともあと一撃でも見舞われれば、それが致命の一撃となることに疑いはない。
だがそれでも、予測していた脱力感、虚無感は襲ってきていない。
――まだ、かろうじて動くことは出来る。
てのひらの上の『神の瞳』を矯めつ眇めつしているアモンを、ちらりと見上げる。
(奪い返すのは――さすがに無理かな)
マルコシアスでは、それこそハエを叩き潰すかのように叩きのめされても不思議はない。
(ロッテには怒られてもいいや。
あの子のことだから、僕さえ無事ならがっかりはしないだろ)
アモンの向こうへ視線を戻す。
先ほどアモンがかれを放り投げたのは――
――アモンがマルコシアスに視線を向けたのは、そのときだった。
「さて――」
まるで、その声が何かの号砲だったかのようだった。
マルコシアスが姿を変えた。
あっという間に、かれはしなやかなスナネコに形を変え、連続して生き物の姿を取り続けたことによる痛みと消耗に悲鳴じみた呻きを漏らしながらも、脱兎のごとくに駆け出していた。
アモンがそれを黙って見送り、むしろ溜息を吐きながらスナネコの姿を目で追って振り向いたのは、単に余裕があったためだ――この場を掃討してしまえば、マルコシアスにとどめを刺すことも容易いという。
だが、今度こそマルコシアスの場数の経験がものを言った。
まっすぐに瓦礫のあいだを突っ走ったスナネコが、アモンの予想外の場所で急転換して向きを変えた。
そして、スナネコにあるまじき、まろぶような足取りで、ただし、まるでどこかへ落ちていくようながむしゃらな速度で、瓦礫の中の一点に、文字通り頭から突っ込んだ。
このときマルコシアスが恐れていたのは、アモンの魔法がどれだけ強力なものだったかということだった。
普通ならば、ある意味で恐れるまでもなく諦めるべきだ――序列七番のアモンがかけた魔法に対して、序列三十五番のマルコシアスが手出しできるはずはない。
だが、魔法を受けたのは〈オリアス〉だ。
かれに特有の魔法が、かれに魔法をかけるアモンの意気を挫いていたことを心から祈り、マルコシアスはスナネコの鼻先を、瓦礫に埋もれるように転がった、赤い宝玉と化したオリアスに近づけた。