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25 窮鼠猫を噛む

 今夜は真面目な役人にとって幸運な夜とはいえず、このときばかりは世界は不正直者や不真面目者にほほえんで、真面目な正直者につばを吐いたことになる。


 午後七時まで仕事に励んでいた真面目で責任感のある役人たちからみれば、今日この日に仮病を使った不正直者、五時になると同時に去っていた不真面目者、そして今日という日に真正の体調不良に愛された幸せ者は、それだけで人生の勝者だった。



 午後七時を回ったころから、彼らは徐々に周囲の様子がおかしいことに気がついた。


 そのうちに軍人が武器を構えて乗り込んできて(このあたりのことについては、経験した役人がどの省に所属していたかにより、事態は少しずつ違う)、軍省参考役ネイサンのご高配とやらについて話し始めた。

 さらにそこに別の軍人が乗り込んできて、役人たちは銃弾飛び交う白兵戦を、あえぎながら頭をかばって生き延びることになった。


 このあたりのことを真面目に語るならば、このあとの人生において、酒精なくして眠りに就くことが出来なくなった者もいるほどのトラウマを生み出した、凄惨な現場に触れねばならなくなる。

 だがそこからはいったん目を逸らして、この状況であっても人間性とともにユーモアを保った少数の人間に着目したい。

 その少人数の中に属するうちでは大多数の役人が、「もう残業はしないからな!」と叫び、彼らはこののちにそれを実践することになるのだが、それはまた別の話である。


 この白兵戦の結果についても、各省において少しずつ違う――ある省舎においては、後から乗り込んできた軍人たちが勝利して、怯え切った、あるいは怒り心頭に発した、あるいは混乱のあまりじゃっかん言動が幼くなった役人たちに事態を説明した。

 そして、グレートヒルから脱出することは事実上不可能であるということを、少々親切すぎるくらいに分かりやすく説明し(その説明の最中に、とうとう気絶した者も少なからずいた)、それでも出来る限りグレートヒルの外縁へ向かうよう助言した。


 あるいはある省舎では、最初に入ってきた軍人側が防衛戦を制し、今も役人たちは省舎の中から動くことが出来ず、血溜まりの臭いが充満する床に座らされ、黒光りする銃を目で追いながら、まんじりともせずに夜明けを待っていた(あるいは、この悪夢から目が覚めることをけなげに期待し続けていた)。


 また別の省舎では役人たちが、始まってもいない(ように見える)ネイサンの反乱を、突如として乗り込んで来た軍人たちに説明され、半信半疑ながら書類を片づけ、のろのろとグレートヒルの外縁に向かって歩いていた。



 そしてこのとき、建物の外にいた役人たちを、今のところは今夜最大のものだろうといえる不幸が襲っていた。


 少し遅れて、建物の中にいた役人たちも同じものに襲われることになるのだが、不幸というのはやってくる一瞬前までは、足音をひそめているものである。





▷○◁





 ワタリガラスの頭の男性の姿をしたアモンは、空中の一点、垂教省の前の通りの真上七十フィートの高処に、堂々と立っていた。


 なまあたたかい風が吹き抜けて、かれの貫頭衣の裾をぱたぱたとはためかせている。

 頭上では雲が流れ、きらめく星が顔を出しては隠れてを繰り返す。


 眼下のグレートヒルにはガス灯の明かりがあふれており、アモンは思わず述懐した。


「スーがいたときには、ここはただの丘だったんだぜ」


 突然、かれを呑み込むようにして、鈍色の巨大な鐘が出現した。


 アモンはその内側におり、周囲には、まるでつい今しがた鐘が鳴った直後であるかのように、鐘の轟音の残響が漂っている。


 鐘はいましも打ち鳴らされた瞬間で大きく揺れ、大きな(ぜつ)がアモンを打ち据えようとするかのように間近に迫り――


「びびらせたいなら本物を持ってきな」


 アモンは窘めるようにそちらに指を向けた。

 とたん、ぱっ、と、霞のように鐘が吹き散らされて消え失せる。


 アモンがもう少し格下の魔神に詳しければ、それがダンタリオンの幻影だと当たりをつけられただろうが、アモンにとってはとるに足りない魔法の一つでしかなかった。


 そして、鐘の幻影を盾にして、アモンに迫っていた魔神が一人。


 かれが、目の前で吹き散らされた幻影に目を丸くしている。


「おお、なんということ!」


 しかしアモンとしても、「きみだったのか」とほぞを噛む気持ちだった。


 相手の魔神は黄金のたてがみをなびかせるライオンの頭を持ち、燃えるような赤い身体の馬にまたがった姿、魔神の中でも悪名高いこの姿だけは見間違えない。


「オリアス、きみか! マルコシアスは指揮が上手いじゃないか」


 オリアスが破れかぶれになってライオンの口と馬の口、双方から火球を吐き出した。


 それについては、軽く手を振るだけで掻き消して、しかしアモンは、空中で宙返りをして逃げ出すオリアスを追うことはなかった。



 ――オリアスに特有の魔法として、よくよく揶揄されて言われるところの、「情けを乞う」というものがある。

 具体的には、目の前にいる敵をきわめて短い時間だけ、きわめて確かに懐柔して、おのれへの攻撃をためらわせるというものである。


 この魔法のために、オリアスは七十二の魔神の中でただの五人しかいない、致命の一撃を経験したことがない魔神に名を連ねている。



 逃げ出すオリアスを隠すように、ふたたび幻影――今度は大きなクジラが(もっとも、アモンはクジラを見たことがなかったため、ただの大きな何かとしか認識しなかったが)、馬鹿馬鹿しいほど大きなひれで空中を叩き、身をくねらせて夜空を泳いで巨大なあぎとを開き、アモンを呑み込もうとする。


 その巨大なクジラを見たのは、むろんアモンだけではなく、グレートヒルで建物の外にいた全員だった。


 そのため、広大なグレートヒルのあちこちで悲鳴が上がることになったが、アモンはもちろんそれを気にかけるなどという無駄なことはしなかった。


 かれがぞんざいに手を振る――クジラが弾け飛び、ご丁寧にも(と、アモンは思った。マルコシアスは素直に、「やるじゃん」と思ったことに)、クジラの臓物をかたどった幻影が、辺り一面に雨霰と降り注ぎ始める。

 筋肉のすじ、巨大な心臓と肺、絡み合ったグロテスクな色合いの消化器系が、ちりぢりになりながら眼下の建物と道に降り注ぎ、砕けた骨の欠片が粉塵となって漂い、べとつく血の雨が降るところまで、実に写実的だった。


 グレートヒルから上がる悲鳴はより切羽詰まったものになったが、この場にそれを気にする魔神はいなかった。



 さすがのアモンも、降り注ぐ幻影の雨には高揚したらしく、うきうきした眼差しを周囲に配った。


 そしてそんなかれに向かって、()()()()()、膨大な数の石のかたまりが()()()()()いく。


 アモンは当然のように手を振った――その幻を処理するためだ。


 だが一秒後、はたと気づいた様子で宙返りして六フィートほど上空に舞い上がる。

 そしてワタリガラスのくちばしを開けて笑った。


「今度はきみか、マルコシアス!」


 これは幻ではなかった。


 眼下を一瞥する。

 アモンが一網打尽に砕き切った道の、その石材が即席の弾丸になっているようだった。


 アモンの足許一フィートのところで、それらの石の弾丸がぴたりと止まり、ばらばらと下に落ちていった。


 無数の石のつぶてが硬い地面の残骸を叩く不協和音が、耳を聾するほどに響き渡る。



 マルコシアスはこのとき、アモンから距離を取って空中に立っていたが、痛烈な舌打ちとともに、即席の部下とした他の魔神に向かって、無理難題を押しつけ続けていた。


「ちっ、やっぱり騙されないか。

 ほら、ダンタリオン、オリアス、きびきびやれってば」



 アモンが、マルコシアスを振り返ろうとして身体の向きを変える――その目の前に、全く何の前触れもなく、巨大な鏡が立ち塞がった。


 装飾が施された銀色の縁を持つ、汚れひとつない澄んだ鏡――大きさはアモンの全身を映して余りあるほど。


 アモンは一瞬、いかにもびっくりしたというように目を見開き、それに相対して、鏡の中のアモンはにやっと笑った。


 アモンが愉快そうに溜息を吐く。


「芸がないぞ。これはだれの魔法かな?」


 そして、その鏡に向かってごくごく軽い仕草で魔法を撃ち、


「芸がないのはどっちかな」


 かん高い音を立て、鏡が木端微塵に砕け散る――その最後の瞬間に、鏡の中から、先ほどアモンが撃ったものと全く同じ魔法が返された。


 その魔法がアモンのワタリガラスの瞳に映り込んできらっと光り、


「だからさ、」


 アモンが面倒そうに片手を持ち上げ、その魔法を文字通り()()()()


「芸がないってば」


 掻き消える鏡の幻影――その後ろから、ふたたび赤い馬に跨った姿のオリアスが、響くはずのない蹄鉄の音も高らかに参戦した。


 ライオンの頭を持つ男性の両手に、かれの身体ほどの長さのある大剣が握られており、その刀身はごうごうと燃えている。


 大剣を振り被り、オリアスがその刀身をアモンの脳天めがけて振り下ろし――


「ああ、きみ」


 アモンは片手でその刀身を掴んだ。

 てのひらが燃え上がったが、気にする様子もない。


 そして、まるで子供の悪ふざけを窘める大人のように、ひょいっとその大剣をオリアスから取り上げてしまい、刀身をべきべきと三つに曲げると、いともたやすく、わきにぽいっと放り投げる。


 燃え盛る大剣が落ちていき、やがてどこかの省舎の屋根を大破させ、中から悲鳴が轟いた。


「今すぐきみを領域に叩き落としてやりたいのに、面と向かうとなんだか主人の命令で禁止されているように思えるの、気持ちが悪いし不便だね」


 アモンは燃え上がった片手を振り、これみよがしに息を吹きかけている。


 オリアスはすばやく、がくんと空中に沈むようにしてその場を離れ、アモンは周囲を見渡した。


「そこにいたのか、マルコシアス!」


 マルコシアスはコウモリの翼をはためかせて浮かんでいたが、不機嫌そのものの態度で腕を組んでいた。


「ほんと、僕のレディの味方は僕以外は役に立たない。

 ――僕を捜してたの、アモン? じゃあ、ついておいで」


 言うや否や、マルコシアスは翼をたたんで急降下した。

 はた目からは落下したように見えただろう。


 だがすぐに翼を広げ、くるっと宙返りを決めてから、一目散に垂教省から離れる方向へと飛び始める。


 アモンがやれやれと肩を竦め、それに続こうとしたのか、目の前にある階段を下るように、ぶらりと片足を出し――


 空中で身をよじって振り返り、マルコシアスがまっすぐにアモンを指差した。


 アモンの足許が炎を上げて爆発し、目に見えない床が抜けたかのように、アモンが二フィートほど宙を落ちて、「おっと」と言わんばかりに軽く体勢を崩す。


 そのあいだに、オリアスとダンタリオンもまた、マルコシアスに続いて猛然と空中を走り始めていた。


 アモンがにやりと笑って、それこそ獲物を追うように嬉しそうに、勢いをつけて宙に身を躍らせる。

 三人の魔神とは比較にならない速度で、アモンが宙を突進した。


 マルコシアスが追跡開始を察知して軽く振り返り、またも空中で身をよじって、いわば後ろ向きになって宙を吹き飛んでいくような格好になりながらも、右手をまっすぐにアモンに向けた。


 いつものように、子供がたわむれに銃の形を真似るような手振りで。



 銀色の光線が走った。

 断続的に三本。


 白熱した光線が、アモンに向かって瞬きのあいだに迫る――



 最初の光線を、アモンは笑いながらてのひらでいなした。


 アモンのてのひらで真っ二つに切り裂かれた光線があらぬ方向へねじ曲がり、そばの省舎の尖塔を轟音とともにへし折り、あるいは省舎に付属の立派な建物の窓を叩き割り、窓枠を溶かしていく。


「うわっ、やばい!」


 マルコシアスは思わず叫んだ。


 凄まじい音を立てて、省舎の尖塔が砕けながら折れ、粉塵を巻き上げてそばの別の建物を巻き込み、倒壊していくのが目に入る。


「人間が怪我してたら、ロッテが牢屋行きだ!」


「今、それを気にしているときですか!」


 ダンタリオンが覚えず絶叫で突っ込んだが、マルコシアスは生真面目だった。


「僕のレディからすれば、いつだって」


 二つめの光線が、あっさりとアモンのてのひらに握り潰される。


 そして三つめの光線が、「せーの」という気の抜けた掛け声とともに、ものの見事に撃ち返された。


 これに肝をつぶしたのは、ダンタリオンとオリアスである。

 両者ともにマルコシアスに序列で及ばず、ゆえにマルコシアスの魔法を喰らえばただでは済まない。


「おっと!」


 マルコシアスもそれをわきまえ、撃ち返されたかれ自身の魔法を待ち構え、足蹴にするように無人の道路に蹴り落とす。


 爆音とともに敷石が弾け飛び、ついでに街灯がいくつか折れたが、マルコシアスからすれば気にすることでもなかった。



 アモンはにこにこと笑っている。

 マルコシアス以上に荒事を好む性質であることがよく伝わってくる、心からの笑顔だった。



 かれがわざとらしく息を吸い込み、頬をふくらませ――



 ふうっ、と吐き出した息が、先ほどのマルコシアスの魔法の比でなく強烈な、白熱した輝線になって吐き出された。


 夜陰に目もくらむような眩しさで、まるで太陽光線の一閃を切り取ってきたかのよう。


 マルコシアスは息を呑む間も惜しんで翼をはためかせ、急旋回して輝線を避けた。


 輝線がマルコシアスをかすめ、マルコシアスには区別のつかない省舎のうち一つにぶつかり、もはや省舎などないがごときにそれを貫通し、夜空のかなたへ向かって長々と尾を引いて飛んでいった。

 とはいえ実際に夜空のかなたへ辿り着いたわけではなく、アモン自身がグレートヒルを囲った魔法にぶつかり、華々しい火花を散らして消えたのだが。


 それに遅れること七秒で、アモンの魔法の貫通を受けた省舎に開いた穴が、じわじわと広がり――それはさながら、氷が徐々に溶けていくかのような光景だった――やがてその穴の円周が省舎の横幅を超えたために、見事に省舎が崩れ落ちた。


 轟音と粉塵、地響き。


 マルコシアスは息を切らせながらも青くなった。


「おい、今のはあんたの魔法だったって、僕のレディの前で証言してくれよ、アモン。

 じゃないと僕が怒られるし、もっと悪くすりゃロッテが牢屋行きになるからね」


 そう言いながらも、悲鳴が聞こえてこなかったこともあり、奇跡的にあの馬鹿でかい建物は無人だったのでは、という期待もつのらせる。


 マルコシアスを追うアモンが、身をよじって大笑いし始めた。


「面白いこと言うね、きみ。――大丈夫、ジュダスがそのへんの……なんだっけ、ええっと、そうそう、法律。法律も変えてくれるよ」


 マルコシアスは顔を顰め、そんな自分に驚いた。


「いや、僕のレディが嫌がりそうなんだよね、それ」


 崩れ落ちた省舎の上を、一瞬で飛び過ぎる。


 省舎の残骸はぷすぷすと黒煙を上げていたが、火事になる気配はなかった。

 とはいえ、これさいわいとばかりにマルコシアスは、大量の水をその上に撒き散らしておいた。


 黒煙が絶えると同時に、その瓦礫がかなり高温になっていたらしく、“焼石に水”を実演する騒々しい音が上がり、もうもうと白煙が立ち昇る。


 その白煙を煙幕代わりにして、マルコシアスは息つく暇を見つけようとした。

 とはいえ上手くいかないだろうということは、九割九分で分かっていた。



 アモンがふたたび、ふうっ、と息を吐き出した。



 ――太陽の欠片のような輝線がまっすぐに迫ってくる。


 マルコシアスはすばやく旋回し――そして悪態をついた。

 輝線が急角度のひらめきを見せて、過たずマルコシアスを追ったのだ。


「げ……」


 速度を上げる。

 アモンが笑いながら見ている。


 マルコシアスもさすがに、輝線を避けることに必死になった。


 輝線が迫る――かわす――危ういところで翼をかすめた輝線に、ちりりとした痛みが走る――やり過ごしたかと安堵しかけ――しかしすぐに、輝線が見事に一回転して戻ってきた。


「嘘だろ!」


 マルコシアスはわめき、やみくもな方向に飛んだ。


 六十フィートを半秒かからずに飛んだかれはその瞬間、分厚い硝子を突き破って、どこかの建物の内側に転がりこんでいた。


 反対側の壁にぶつかりそうになり、あわててその壁を足裏で受け、壁に立つような格好をとる。


 踏みつけた壁に、『原理原則、凡事徹底』『離席は半時間まで』と書かれた紙が貼ってあり、マルコシアスはまさにその紙に靴跡をつける形になっていた。


 というのも、すぐにかれは足裏に力を籠めて弾みをつけ、硝子の破片が散らばる前方の床に向かって飛び込んだからだった。


 張り紙は無残にぐちゃりと曲がり、はらはらと床に落ちようとして――


 ――窓から飛び込んできた輝線に焼かれ、塵も残さず消え去った。


 壁に大穴が開き、しかしまるで、抵抗のない柔らかいクリームにナイフを入れたかのように静かだった。


 輝線は、壁を突き破ったというよりも、壁を()()()いったのだ。


 間もなく、壁に開いた直径四フィートの穴の縁が、どろどろと溶け始めた。



 マルコシアスは受け身をとって床を転がり、大慌てで翼をしまい込みながら立ち上がり、その穴の方を油断なく見据えながら後退った。


 輝線がどこで方向転換をして戻ってくるとも知れず、ついでにいえば新手が撃たれる可能性もあり、もっとついでにいえばアモン本人が乗り込んでくる可能性もある――



 ――輝線が壁をつらぬいて戻ってきた。


 同時に突風が吹き込み、窓硝子が一斉に割れ砕けた。



 耳を聾するかん高い大音響、迫る白熱した輝線、マルコシアスはためらいなく、おのれの足許に向かって魔法を撃った。


 どかん! と冗談のような音がして、足許が崩れ去る――もちろん、マルコシアスも階下へ落ちる。

 瓦礫を霞に変えながら、体勢を崩すこともなく着地して、そのまま廊下を走り出す。


 ぱっと見たところ辺りは無人で、マルコシアスは大いにほっとした。


 疾駆しながら、窓を通して外を見る。

 空中にたたずむアモンの脚が見える――



 ――天井を突き破り、白熱した輝線が降ってきた。



 マルコシアスは垂直に降り注ぐ輝線を、あやういところでのけぞって躱し、輝線が音もなく床を貫通して階下へ通っていくと同時に、背中にコウモリの翼を出現させて、狭い廊下の中ではばたいた。


 案の定、すぐさま足許の床が溶けていく――


「ああ、くそっ」


 建物の中では不利だった。


 どこからアモンの攻撃がくるか分からず、対応が遅れる。

 障害物があっても、無数の精霊を従えるアモンの目を逃れるには至らず、まさに百害あって一利なし。


 欲を言えば、アモンから離れた場所で建物から脱出したかったが――


「やむなし!」


 思わず叫んで、手近な壁を吹き飛ばす。

 アモンのようにスマートにはいかなかった――壁は轟音を上げて崩れ落ち、不格好なアーチ状の形の穴が開いた。


 秒を惜しんでマルコシアスがその穴から空中に飛び出す――



 とたん、待ち構えていたアモンが、マルコシアスの首を掴んで宙吊りにした。



「はい、チェックメイトだ。

 マルコシアス、わが兄弟の目玉を返してくれるなら、別に必要以上にいじめたりしないよ」


 マルコシアスは両手でアモンの手を掴み、その強靭な指から逃れようともがいた。


 マルコシアスの両手の指に、炎に近い性質の稲妻が踊るが、アモンは一向に気にしない。

 両脚で思い切りアモンの胸板を蹴りつけるが、アモンは眉をひそめたのみ。


 マルコシアスの精霊たちが、一挙にそばに集まってきて、主人であるマルコシアスの周りを飛び回っている。



 ハーゲンティはこの状況で、たやすく致命の一撃を喰らった。

 だが、マルコシアスは序列でかれを上回り、今は『神の瞳』も所有している。


 ――その差があった。



 マルコシアスが必死になってアモンの指をこじ開ける。


 かれの努力がわずかとはいえ奏功したことに、アモンがかすかに驚いたように目を見開く。



 マルコシアスはアモンの指とおのれの頸とのあいだに、わずかに十分の一インチほどの隙間を作ることに成功し、



「――来い!!」



 その瞬間、アモンの背中で爆風が白く渦を巻き、序列四十一番の魔神フォカロルの、軍艦すらも転覆させる威力の魔法が爆発した。



「――おっ」


 さすがのアモンも、不意を突かれて魔法に巻き込まれた。


 マルコシアスを捕らえる手が緩む。


 燐光を放つ魔法の渦に呑まれ、一瞬とはいえアモンの姿が見えなくなった。



 咳き込みながらアモンから離れ、マルコシアスがにやりと笑う。


「予想外だろ?

 あんたより場数は踏んでるもんでね、そう簡単にやられたりはしないさ」





▷○◁





 低い囁き声が聞こえていた。


 囁き声は大きくなり小さくなり、まるでぶーんと唸っているようで、言葉としては聞き取れない。



 だが、ともかくもその声があって、シャーロットの意識は浮上した。


「――――」



 シャーロットは目を開けた。


 とたん、明るすぎるほどの明かりが目に飛び込んできて、またぎゅっと目をつむる。



 そうしながらも、いったんは目を開けられたという事実に、まずは安堵していた。


 少なくとも失血死はしていない。

 身体に痛むところもなく、彼女はますますほっとした。



 囁き声は続いている。

 小さくなり大きくなり、時おりそこに上品な笑い声が混じる。


 聞き覚えのある――()()()耳に馴染んでいる声。



 しかしながら頭が働かない。


 記憶が混乱し、頭の中ではただひたすらに、こめかみに押し当てられた震える銃口、あの一瞬が延々と繰り返されている。



 その繰り返される記憶の合間を縫って、彼女は、周りにいた人たちがどうなったのかを考えた。


 そして間を置かず、ここはどこだという疑問に辿り着いた。


 ふたたび彼女は、今度は明かりを警戒して、慎重に目を開けた。


 そうして初めて、自分がつやのある紺色の絨毯の上に倒れていることに気づいた。


 ――少なくともここは、先ほどまでいた垂教省の広間ではない。

 そして地下牢でもなければ、そのほか予想していたどこでもない。



「――そろそろアモンに合図するから……」


 囁き声が、ようやく言葉としての意味を成して聞こえ始めた。


「……議事堂の周りに友人たちがいたら、そろそろ離れるように伝えてくれないか」


 そして同時に、これが誰の声かということも、はっきりと分かるようになった。

 ――ネイサンだ。



 シャーロットの心臓が、肋骨の中で狂ったように脈打ち始めた。


 手足の先がすうっと冷え、頭の芯が鈍く痛む。

 背筋に震えるような悪寒が走った。


 ――ついにネイサンの手に落ちてしまった。



 シャーロットは呼吸が震えないよう、必死になって息を殺した。


 横たわったまま、忙しく視線を走らせて周囲の様子を窺おうとする。

 彼女は横臥の姿勢になっていたが、運悪く身体を丸めている格好になっていて、見えるものは役に立たない自分の濃翠色の、ほこりまみれのワンピースと、加えてめいっぱい視線を頭の上に向ければ、彫刻の施されたオーク材の板だけだった。



 ネイサンではない誰かの声、聞き覚えはあるが誰の声かは咄嗟に分からない声が、ネイサンに応じるようにして言った。


「承知しました」


「じゃあ行って」


 頬の下で、かすかな振動。

 誰かが歩いている――扉が開く、かちゃりという小さな音――そして扉が閉まる音。



 シャーロットは静かに息を殺し、身じろぎもしないよう、必死に震えをこらえていた。


 どこかで、小さく硬質な音がする。



 無意識のうちに、シャーロットは脳裏で助けを求めていた。


 今が正確にどのような状況なのかは分からなかったが、助けを求めるならば相手は一人、


(……エム!)



 ――『絞首台の縄より早く、僕があんたに始末をつけよう』



 シャーロットにとって、今ほどマルコシアスを恋しく思ったときはなかった。

 かれは約束した――何かあれば、必ず始末をつけてやろうと。


 それを、何よりも必要としているのが今だった。

 それなのにかれは離れた場所にいて、今は絶望的なまでに序列の差のある相手に挑んでいる。



 恐怖と絶望のあまり涙が目の奥を刺したが、シャーロットはそれを呑み込んだ。


 シャーロットは泣かない――少なくとも、()()()()()()は。かれが好んだ心根は。



 そうして数秒のあいだじっとしていて、やがてシャーロットの短気な面が出た。


 ここで大人しく、状況も分からないまま気絶している振りを続けて機を待つよりも、いっそ顔を上げてしまおうと考え始めたのだ。



 息を止め、覚悟を決めて、シャーロットは勢いよく身体を起こした。


 すかさず立ち上がる準備をしながら、眩暈をこらえて周囲を見渡す。

 ――そして、ここがどこであるのかを理解した。



 ここは軍省の省舎、ネイサンの執務室だ。


















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