13 先に死んでくれなんて
「あんた、〈身代わりの契約〉を結び忘れたんだね」
悪魔の微笑が自分を覗き込み、嬉しげな声がそう告げるのを、シャーロットは聞いた。
(――ああ、もう……)
ぎゅっと目を瞑る。
ついに露見してしまった。
彼女のあまりに重大な、ささやかなミスが、最も露見してはまずい当人に露見してしまった。
〈身代わりの契約〉が働かないならば、マルコシアスがシャーロットを守る理由はない。
無論、『神の瞳』は、報酬としては破格のものだ。
ゆえに、マルコシアスを従え続けることは可能だろう。
だが極論を言ってしまえば、マルコシアスはもう、シャーロットの手足が飛ぼうが気にしないようになってしまったのだ。
この状況において、それは文字通り、あまりに致命的な事態だ。
(もう、なんで……)
思わず両手で顔を覆う。
雷鳴が轟いているのか、それともこれは雨音か風音か、あるいは耳鳴りがしているのか、それすらもう分からない。
心臓が狂ったように激しく打つ。
がんがんと頭が痛むほどの焦燥――
――そして、それら全てを押し退けるように湧き上がってきた、猛烈な苛立ち。
(――なんで、今に限って……!)
分かっている、分かっているのだ、〈身代わりの契約〉を結び忘れたのは彼女自身の落ち度だ。
だが、分かっていてなお、ここへ至って、これまで積もり積もった理不尽に対する憤懣が、ついに弾けて喉元にまでせり上がりつつあった。
――そもそも、どうしてこれまで努力し続けて勝ち取ったリクニス学院への切符を、一方的に奪われなければならないのだ。
しかも何の説明もなく。
「また今度な」ですって?
あの試験に合格することがどれだけ難しいことか、お父さまはちっとも分かっていらっしゃらない!
暢気な手紙の数々――彼女を子供と馬鹿にしたような文面!
自分は少しも事情を説明しないくせに!
――その上、どうして大叔父はあんなに嫌な人で、しかも埃っぽい屋敷に住んでいるのだ。
大叔父が優しくて、清潔な場所に住んでいれば、シャーロットもなんとか憤懣を呑み下して、次の試験に再び合格しようと考えられたかも知れないのに!
――加えて、なぜ誘拐されなければならなかったのだ。
誘拐さえなければ、彼女は今ごろケルウィックへ向かう汽車の中だった。
一大決心をして魔神を召喚したというのに、なぜこんな、普段ならば見舞われないような不幸に、わざわざ今に限って、見舞われなければならないのだ!
――そして、〈身代わりの契約〉を漏らしたこと。
不注意のなせるわざだ、分かっている。
だが、彼女が落ち着いた状態で召喚陣を描いたならば、漏らしたはずのない契約だ。
何しろリクニス学院に入学許可を貰うほどには、魔術の基礎について勉強してきたのだから。
もちろん本職の魔術師や、現役のリクニス学院の学生に比べてしまえば浅い知識だが、それでも魔術の基本中の基本である契約を漏らすなど、本来ならば有り得ないミスだ。
――そしてとどめ。
今この状況。
どうしてここへきて、本職の魔術師らしいあの男が、通常ならば考えられない召喚のミスをする?
せめてまともに召喚に成功していれば、マルコシアスに命じてさっさとこの町を逃げ出すことも出来ていたのに!
――不幸と不運!
どうしてそんなものに、長年の夢を阻まれ続けねばならないのか。
「期待外れを神さまと人に向かって言うのはナンセンス」、そうだろう、だが、どうしても受け容れがたいこともある。
事ここへ至って、シャーロットの中で爆発したのは、彼女の目的を阻み続ける物事の連鎖への、純然たる憤りであった。
――人間には、切迫した状況で浮き彫りになる、最も強い願望というものがある。
それは、自己の生命であったり財産であったり名声であったり、あるいは親しい人の無事であったり――
そして今この瞬間、シャーロットのその、最も本性に近い願望が露わになろうとしていた。
▷○◁
マルコシアスにとっては意外極まることに、シャーロットにうろたえた様子はなかった。
〈身代わりの契約〉を漏らしたことを指摘した直後、ぎゅっと目を瞑ってしまったので、さぞかし周章狼狽する様を見られるだろうと思ったのだが。
見開かれたシャーロットの橄欖石の瞳、そこにあったのは狼狽でも恐怖でも悲嘆でもなかった。
燃え上がるほどの苛立ちだった。
「――ええ、そうよ」
シャーロットが言った。
声が甲高くなっている。
顎を突き出し、いっそ尊大とさえいえる態度で、シャーロットが堂々と認めた。
「おっしゃる通り。〈身代わりの契約〉を漏らしたわ。
――それで? そこに跪いて、寛大な主人に当たったことを感謝でもしたらどう?」
マルコシアスは瞬きした。
シャーロットの反応が予想と懸け離れていたがあまりに、咄嗟に言葉が出なかったのだ。
「――え?」
「良かったわね、エム。お前、私のために痛い思いをしなくて済むんじゃない。嬉しいでしょ?
――で、それがなに? それがなくとも私はお前の主人よ」
シャーロットは堂々と足を投げ出し、痛いほどに降りしきる雨の中で、歯を喰いしばって怪我をした足を包む白い靴下を脱いだ。
そしてそのまま、その靴下で怪我をぎゅっと縛る。
このときばかりは痛みに彼女も涙ぐんだが、しかし断じて折れてはいなかった。
シャーロットがよろよろとその場に膝立ちになり、脱げた靴を掴んで、その靴に無理やり足を押し込む(靴下を包帯代わりに使ったがために、その部分が靴の寸法よりやや大きくなっていたのだ)。
相当傷が痛んだのか、シャーロットは小さく悲鳴を上げたが、しかしすぐに顔を上げて、ふらつきながらもその場に立ち上がった。
砂まみれになった髪とドレスが暴風に翻る。
小さなレディは敢然と嵐の中に立っていた。
釣られて立ち上がりながらも、マルコシアスは虚を突かれた気分だった。
〈身代わりの契約〉を漏らされたことも初めてであり、当然ながら、こうして堂々と開き直られることも初めてだった。
「えーっと……」
「エム。命令したわよ。あの悪魔をなんとかなさい」
憤然と命じられて、マルコシアスは思わず両手で顔を覆った。
「ロッテ。あんたが〈身代わりの契約〉を結んでいないなら、僕にはあんたを守る義理はない」
「私が何を報酬にしたか忘れたの?」
シャーロットは高飛車に言い放った。
「これを逃したら二度と手に入らないわよ」
「手に入らないとしても」
マルコシアスも言い募った。
断続的な爆裂音に、人間を模して作ったかれのうなじの毛が逆立つ。
「ここで死ぬような目に遭うよりはマシだ」
「お前は悪魔だから死んだりしないでしょう」
シャーロットは正論を述べ、それからふと、雨の中で輝くようににっこりと笑った。
「エム、さっきも言ったでしょう――懸かる命は私のもの一つよ。
私がここにいたことを、誰かの幸運にしたいのは私のわがままよ。
だからもちろん、私が懸ける以上のものを懸けろだなんて、そんな理不尽なことは言わないわ」
シャーロットは胸に手を当てた。
暴風に濡れそぼった金髪が翻る。
叩きつける雨に目を細め、しかしシャーロットは微塵も迷わず断言していた。
「先に死んでくれなんて、そんな格好の悪いことは言わないわ。
お前が痛い思いをする前に、必ず私が先に死んであげるから、信じてついて来なさい」
マルコシアスはぽかんと口を開けた。
「――は?」
半端に手を上げて、シャーロットを指差す。
「あんた、それは……」
そこまで言って、しかしマルコシアスは続く言葉を呑み込んだ。
マルコシアスは悪魔だ。
相手の真髄を――思惑であるとか上辺であるとか、そういったものではない本質を――ある程度は掴む目を持っている。
――この瞬間に、マルコシアスはシャーロットの本質を見た。
この状況で浮き彫りになった、彼女の強烈な自我を見た。
目的のためならば手段を厭わない、生き延びるためならば死んでもいいというような、矛盾を抱えるまでに激烈な自我を目の当たりにした。
折れぬ曲がらぬ自我。
己が決めた道のみを美徳として歩いて行こうとする、何ものにも譲らぬ願望。
彼女自身の意思を折ろう曲げようとしてくるものに対する、強烈な反発心――
――それがなくば、魔神を召喚してまで家に帰り、掴んだ切符を何が何でもものにしようとは思うまい。
「――あんた、正気?」
笑いが込み上げてくる。
単に目的を達するためならば――家に帰り、望み通り掴んだ切符をものにすることだけを考えるならば、シャーロットは今この場に背を向けて、マルコシアスに命じてここを離れるべきだ。
だがそれをしない――何が何でもこの状況をなんとかしろと言う――我侭なまでに筋を通したがり、そしてそのために懸ける命は己のもの一つ――その、頑ななまでに自分自身に対して潔癖でいようとする心根。
望まない生き方をするくらいならば、そこで息を止めてしまう方を選ぶというような――愚直なまでに融通の利かない、そしてその上でなお前へ前へと動こうとする、背反すら抱えながらも足掻こうとする、彼女独特の本能。
濡れねずみの、寒さに震えるこの小さなレディは、長年の夢を他所から折られるくらいならば死んだ方がいいと断言したのだ。
自分の良心に背を向けるくらいならば命も惜しくないと宣言したのだ。
雷光が断続的にシャーロットを照らし出し、彼女は昂然と背筋を伸ばして、この世の全てを撥ね付けるような目をしている。
「もちろん正気よ」
言い切って、シャーロットは胸を張った。
「たとえ正気じゃなかったとしても、エム、これがお前の今の主人よ」